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侏儒の言葉



 『侏儒しゅじゅの言葉』は、芥川龍之介の随筆、警句集、大正12年から芥川が自殺をする昭和2年にかけて書かれたもの。

 タイトルの侏儒とは、①こびと。②見識のない人の蔑称。③昔中国でこびとを俳優にしたことから俳優、役者をさす。

芥川は、自嘲的に主に②の意味で用い、自らの様々な思想の変化を示すという内容から、③の意味合も含ませている。


 オレの連載中の『シーとピンク色のテロリスト』にも、侏儒を侏儒(こびと)として登場させているが、まさにオレにとっては、「小さきものたち」であり「トウトキモノタチ」。


 「侏儒の言葉」は必しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、──しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。


 という「侏儒の言葉の序」に始まり、「眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。(昭和改元の第二日)」という「或夜の感想」で終わる。


 ヘラクレス星群の光が地球へ達するのに3万6千年かかる。宇宙はそれだけ大きい。宇宙から観ると太陽ですら燐火(りんか)(墓地などで自然に燃える青白い炎)に過ぎない。ましてや地球はもっとちっぽけな存在でしかない。しかし、地球上で起こっている出来事と遠い銀河で起こっている出来事になんら変るところはない。ひょっとすると、明滅する星は人が(またた)きをするように感情を表わしているのかもしれない。

 道徳は良心を造るが、いまだかつて良心が道徳を造ったことは一度もない。


 侏儒は祈ります。

 どうか私を一粒の米がないほど貧乏にはしてくださいますな。また熊掌(ゆうしょう)(熊の手を食材に使った珍奇料理のひとつ時間と高度な技術を必要とする)に飽きるような富豪にしないでください。天秤の両端である神と悪魔、美と醜には中庸の態度を取らなければなりません。そうでなければ如何なる幸福も得ることはできません。

 軍人は小児(しょうに)(子供)です。喇叭(らっぱ)や軍歌に鼓舞されて何も考えず欣然(きんぜん)と敵に当ります。

 正義は武器に似ています。武器はお金次第で味方にも敵にもなります。同様に正義も理屈次第で敵にも味方にも買われます。

 古典の作者が幸福なのはすでにこの世にいないからです。

遊泳を学んでいない者に泳ぐことを強要するのは無理なことですが、我々は生まれたときからこういった莫迦(ばか)げた命令を負わされています。人生は複雑ですが、複雑な人生を簡単にするのが暴力なのです。


 芥川龍之介は、厭世的なところがあったかもしれない。それはオレも同じ。

 オレのこころも醜いが、世の中には、たくさんの有象無象(うぞうむぞう)(やから)(うごめ)いていて、オレはいつも避けている。オレは自分のまわりにバリアを張って、輩のツバが届かないようにしている。


 こういう輩にとって侏儒は、蔑称すべきたんなる()()()に過ぎず、彼らの心の奥を()しはかることはできないだろう。

 侏儒が、明滅する星たちを見上げ、宇宙の摂理をだれよりも理解し、ヘラクレス星群の光が地球へ達するのに3万6千年かかり、それだけ宇宙が大きい、と気づいていることを知らないだろう。



 今朝も薄明のなかを愛犬シーズーのシーと散歩に出かけよう。シーと一緒に薄明の空に輝く一等星を見上げよう。


 ──シー、宇宙の声が聴こえるね!




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