私小説について
最近、なかなか新作の私小説を見かけないような気がすると思い、ちょっと調べてみた。するとたとえば、「自伝的要素が主柱となっているもの」という基準で選別された私小説とみなされる作家・作品リスト ──表現方法は本来の私小説とはかなり違うものが多いという条件付き── では、わりと最近の芥川賞受賞作品も列挙されていた。
西村賢太 『どうで死ぬ身の一踊り』『小銭をかぞえる』 『苦役列車』
柳美里 『石に泳ぐ魚』『命』4部作
団鬼六 『不貞の季節』
岡田睦 『明日なき身』
又吉直樹 『火花』
村田沙耶香 『コンビニ人間』
少し前なら、
大江健三郎 『新しい人よ眼ざめよ』
青野聰 『母よ』
車谷長吉 『塩壺の匙』『赤目四十八瀧心中未遂』
中上健次 『化粧』『熊野集』
津島佑子 『光の領分』『真昼へ』
立松和平 『蜜月』
村上龍 『限りなく透明に近いブルー』
胡桃沢耕史 『黒パン俘虜記』
笙野頼子 『なにもしてない』『居場所もなかった』
山田詠美 『ベッドタイムアイズ』
西村賢太、又吉直樹、村田沙耶香はわりと最近の芥川賞作家だが、このリストの作品で読んだことがあるのは、大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』だけだった。
私小説というと、田山花袋の『蒲団』あたりからはじまり、大正、昭和の頃は多くの作家が私小説を書いていたようなイメージがある。
森鷗外、夏目漱石、田山花袋、徳田秋声、島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、谷崎潤一郎、室生犀星、藤澤清造、佐藤春夫、横光利一、宮本百合子、川端康成、尾崎一雄、梶井基次郎、中野重治、坂口安吾、島木健作、小林多喜二、林芙美子、太宰治、丹羽文雄、原民喜、大岡昇平、中村光夫、檀一雄、田中英光、梅崎春生、島尾敏雄、水上勉、安岡章太郎、吉行淳之介、中野孝次、三島由紀夫、吉村昭、三浦哲郎等々……
有名な小説家が、このリストではかなり列挙されていたが、オレがすでに読んでいる小説家はやはりごく一部だった。
森鷗外、夏目漱石、島崎藤村、佐藤春夫、横光利一、川端康成、梶井基次郎、坂口安吾、小林多喜二、太宰治、原民喜、田中英光、梅崎春生、三島由紀夫ぐらい。
これもオレのイメージだが、やはり平成以降は、昭和以前に比べて私小説的な作品が少なくなってしまったような気がする。たとえば志賀直哉のような客観描写ではなく、対象を見た作家の内面を描くことを主眼とした「心境小説」もあるようだが、今の時代、そもそも個人の内面を深く描く小説は求められているのだろうか?
オレの場合は、私小説の要素が強い太宰治に強く傾倒しているが、それは私小説的だからこそ太宰治の思いが伝わり、オレの心奥に鐘の音が響いたからだ。
今夜も日本酒を飲みながら、愛犬シーズーのシーの寝息を聴き、YouTubeでコンサートでのYOASOBIの「アイドル」を観たりしている。そろそろ散歩の時間だ。今朝も薄明のなか、あったかい缶コーヒーを飲みながらシーと散歩をしよう。
──シー、散歩だよ!