しかしいま、
──しかしいま、物質的に一応満たされて平和が続く日本において、大きい才能が育つことは困難だという見方もあります。また、若い小説家が二十世紀の作家たちの生きた時代、歴史をどこまで継承しているのか──
大江健三郎は、2006年10月のフランクフルトのブックフェアで行われた講演で、かなり強く示したという。
──文学ジャーナリズムが力を注いでいるのは「年少の口語的なスタイルの持主を発掘すること」── だと危惧し批判しながら……
さらに彼は言葉を続けた。
──この1年、若い作家たちの小説をたくさ読んで、はじめて日本語の文体が地すべり的に変わっていること……それは、明治の言文一致体の出現以来の大変化じゃないでしょうか……
どこまで柔らかくなるのかしれない、ブログの時代の「口語体文学」については、懸念があります。すでに新聞の文章ですら「難しい」と言われるほど、文章の軽薄短小化、プラス軟化が進んでいるのですから。
文学に限らず芸術とは、けっして恵まれた環境ではなく、踏みつけられ狂わんばかりの心の奥から紡ぎ出されたものこそが、ホンモノへと昇華していくのではないか。大江健三郎はそのことを理解していたこそ、平和が続く日本において、大きい才能が育つことは困難だと語ったのだろう。二十世紀の作家たちが生きた時代、歴史を学び継承する志しをもつことも重要なのだ。
今夜も日本酒を飲みながら、オレにお尻を向けて寝息をたてている愛犬シーズーのシーの頭をそっと撫でた。
puro e disposto a salire a le stelle.
──私は、清められ、星を指して昇ろうとしていた──
(ダンテ『神曲』煉獄編の最後の行)