セミロング、ポニーテール
席替え初日の授業中、眼前の席に座るセミロングの女子の後ろ姿を頬杖片手に悠然と眺めていると、こうやってこの位置から視界に収めているぶんには前面の美醜など何ら問題にもなりはしないと、事実というかあるいは妄想に過ぎぬかもしれないそんな埒もない夢想に耽りかけた折から、頬杖の姿勢はそのままに視線だけ右へそらすと今度はポニーテールの女子が瞳に固定される。
襟元から甘やかに伸びる首筋がすらりと美しく、これは美人の典型というか条件なのかもしれないけれど、このひとは自分の首が映えるという確証を強くもっているのだろうか。あるいはその自信をつけたいが為に衆人へ自らの首を開放しているのか。どちらだろう。
ひょっとすると二つが危うい均衡を保ちながら、早いとこ己の勝利へと傾いて欲しいというのが本心なのかもしれないけれど、僕からすればそれはもう既に果たされているように見えてならないし、もはや周りの評価を毎日のように気にする時期ではなかろうと、お節介にも一つ声を掛けてあげたいのはやまやまではあるものの、そんなことは実際には実行されずに終わることなど重々承知しているし、それにもし仮にそれを実行してしまえばしまったで、双方にとってかえって望ましくない事態へと推移してゆくさまが今からもうまざまざと予見できてしまう。
けれどもこういう風に言わずに終わったこと、善かれ悪しかれ事態を変化へといざなう機会をこれまでどれほど無視した末に逸してきただろう。
今回も頭の中では一応の検討をつけてみたとはいえ、しかしそれは端から答えが決まっていたものを形のうえで考える振りをしただけかもしれず、形骸化した流れ作業に過ぎなかったのかもしれない。いや、だけれど、形骸化することそのものを馬鹿にはできない。流れ作業が一方にあるからこそ、そこで余分な力を失わず重要な問題に臨めるのではないのか?
だが今の場合問題はそこではない。ひょっとして問題はそこにあるのだろうか。重要なのはこの問題が流していいことなのかどうかの一点である。
それを自分に問うてみれば、到底流したくはないものの、しかしそう優先する問題でもなかろうという答えになる。とはいえこの問題を難しくしているのは今回のそれが趣味の範疇に属しているからだ。
でも言ってどうなる。そろそろどうでもよくなってきた。それに僕は彼女が美しいのを知っているし、美しいからこそ自分を惹きつけ、問題を提出してくるのも十分に心得ている。
眼前のセミロングにしても、クラスメイトの中では容貌派閥ともに一番上の序列に属しているわけで、そういう意味では「前面の美醜」など気にしていないという思いはただの見せかけでしかなかったかもしれず、あるいはフィクションということになるのだろうけど、ただし、虚構のうえでは僕はセミロングをほどほどの容姿しかもっていないことに「設定」できる。
つまり今の僕は彼女の美貌ではなくして、さらさらと美しく流れるつややかな黒髪に惹かれているのだと決める権利を有している。
表面の美貌が裏面の頭髪までをもより美しく香らせているのかもしれないという、おそらく事実であるところのものを選ばずに、裏面に繊細に流れる髪の毛こそが、彼女の美しさの本質であると信じる権利を有している。
これはフィクションだろうか。きっとそうだろう。けれども僕はフィクションなしに現実を解釈することは出来ない。それは無理だ。端的に無理だ。
そもそも言葉それ自体に現実そのものを指し示す力がなく、一語一語、あるいはどのような言葉の連なりであっても、脳内である種のフィクションとして変換されることによってしか認識できないことを考えれば、フィクションはむしろ尊いと言っていい。フィクションとは言葉なのかもしれない。言葉とはフィクションなのかもしれない。
思考をもてあそんでいた折から、右斜め前のポニーテールが消しゴムを落としたはずみに、こちらの机の下まで飛び跳ねてきた。
おそらく彼女は机の左端に置いていた消しゴムを何かの拍子に左の小指の側面で誤って弾いてしまい、それがたまたま、むしろお誂え向きにこちらの机の下に潜り込んできたものとみえる。
これは推理ではない。純然たる希望である。そうあって欲しいという願いである。こうやって創られる虚構に比べれば事実など全く取るに足りない。しかし果たしてそうだろうか? とはいえ今はこんな不埒な問いに耽っている場合でもない。
頭の働きをひとまず抑えて、今まさに起こりかける出来事にこの身をまかせるまま、静かに差し出されたポニーテールの手のひらへ、机の下から拾った消しゴムをそっとのせると、彼女はありがとう、と席に着いたままわざわざ斜め後ろへ閉じた膝を向けて声を潜めるように言ったそれが、困り顔の微笑とともに、新たな虚構の時空をひらいた。
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