如月物語
この家の台所にいる一人の青年、如月閃は迷っていた。
今日の朝食をパンで済ませるか、わざわざ手間暇かけて白飯を炊くか。
閃自身は、白飯を炊いて昨日の夕食の作り置きの味噌汁と一緒に朝食を楽しみたいのだが、ついさっき見つけた食パン一斤。(今日が賞味期間のようだ。)
これの出現によって、閃は休日の朝っぱらから悩まされるハメになったのだ。
普段なら妹の彩の文句を聞き流しながら食パンと作り置きの味噌汁を食べようと試みるのだが、今日は大切な客人がこの家に泊まりに来ているのだ。
閃は突然閃いてご飯を炊くことにした。食パンはおやつにするか夕食に使ってみるか後で考えよう。
閃は食パンへの想いを忘れてお米を洗い始めた。
八雲や朱佐が泊まりに来たのなら、食パンと味噌汁でもいいのにな。閃は二人の親友の顔を思いながらお米を水で洗っていく。
八雲とは、(本名は鳶町八雲<とびまちやくも>)幼稚園からの幼なじみで、小学校も中学校も高校も同じで、組もずっと同じだ。
鳶色の茶髪で透き通った瞳が彼の特徴だ。
もう一人の親友、朱佐(本名は朱佐黄龍<すさこうりゅう>)とは、閃と八雲が中学生の時に二人の命を救った恩人でもあり、その後二人の親友となった人物である。黒色の艶がある髪と、大人びた物腰の良さが彼の特徴だ。
閃は洗い終わったお米を炊飯器に流し込み、早炊き印のスイッチを押した。
まだ、朝の七時半だ。明後日は、閃達が通う盟凰高校の創立記念日なので学校は休みだ。だから盟凰生は休日が三日もある。
自分が平日も休日も同じ時間に起床するのは、朝ご飯を作るためと朝刊のテレビ欄をいち早く読むためだ。休日だからぐーたら過ごすのは時間がもったいないのでしないことに決めている。
閃は冷蔵庫からオレンジジュースが入ったビンを取り出し、グラスへ注いで一気飲みをした。
彼は果汁100%の甘味と交わる酸味がたまらなく好きだった。このオレンジジュースは、知り合いの岩月おじさんが作っているオレンジ生産地から取り寄せている代物だ。
二杯目のオレンジジュースを注ぎ、リビングのL字型ソファーへ座った閃はテーブルにおいてあった朝刊読むことにした。
テレビ欄からスポーツ欄へとスラスラ読んでいくと、リビングから廊下へ続くドアから足音が聞こえた。閃はドアの方へ目をやると、足音の主がドアから顔を出した。
「早起きなんだな。」
足音の主は咲桜だった。艶がある長い髪の毛は、ポニーテールのように一本で纏められていて、色白の肌と長い睫毛に、黒い真珠のような瞳が、閃の目をいつも釘付けにする。咲桜はドアを閉めて閃の隣に座った。
「おはよう。」
二人は互いに挨拶を交わす。
「彩はまだ起きてないのか?」
閃は朝刊を折りたたみ、グラスに残ったオレンジジュースを飲み干した。
「あぁ、昨日は遅くまで起きてたからな。彩から色々話を聞かされたよ。」
夜更かししていたことを物語るように、咲桜はあくびをして軽く伸びをした。閃は咲桜の一つ一つの仕草に見とれていて返事をするのを忘れていた。
そう、この白崎咲桜という人物こそが、閃のたった一人の恋人だ。
高校一年生の入学式に咲桜に一目惚れした閃は、この高校生活で数々の試練を乗り越えて咲桜と今の関係にある。
「聞いてるのか?」
咲桜が閃の顔を覗き込む。
「あ、あぁ。聞いてるって。ただちょっと考え事を。」
閃は適当に誤魔化した。もしも閃が咲桜に見とれてたなんて言ったら、彼女は顔を真っ赤にするだろう。
咲桜は褒められるのが苦手だ。彼女いわく、異性相手に褒められると恥ずかしくなって頭がこんがらがるらしい。
まぁ付き合った始めの頃よりはましになったかな。と閃は思った。
「今日は、出掛けるんだったな。どこに行くかは知らんが。」
咲桜はソファーの近くに置いてある二つの大きなショルダーバッグを見た。二つともこれ以上は入らないってくらいにパンパンに荷物を詰め込まれている。
「あれ?彩から聞いてなかったか?今日はキャンプに行くんだぜ。」
突然の報告に驚く事もなく、それを聞いて咲桜は深い溜め息をついた。
「水着を持って来いって理由はそれだったのか…。」
「み、!水着!?」
驚いた閃は目をしっかり開けてまばたきを繰り返す。口もあんぐりと開いていて相当なマヌケ面に違いない。
そんなマヌケ面の頭の中では、太陽が照る砂浜に、頭にハイビスカスの花を差して、黒いビキニの水着を着た咲桜がこっちへおいで〜。と言わんばかりに自分を手招きをしている。…ような気がした。
「そこに食いつくなっ!」
閃の頭に、咲桜の平手打ちがクリーンヒット。数秒経ってようやく閃は我に返った。
「まさか…。そのキャンプには、私と彩も…?」
咲桜は急に恥ずかしくなり、トートバッグに入っている水着を憎んだ。予想外な展開になって朝から顔が熱くなる。
閃は満面の笑みでにっこりとピースサインを出す。咲桜は二度目の溜め息をついた。それは前のよりも増してとても深いようだった。「まさか三人だけじゃないだろうな。」
「いーや、八雲と朱佐も来るぜ。朱佐の知り合いのキャンプ場のバンガローに泊まる予定だ♪」咲桜は三度目の溜め息をついて席を立った。
「9時には出発するぜ。」
炊飯器からご飯が炊けた音が聞こえ、閃も席を立った。
「わかった。着替えて来る。」
ピンポーン。
リビングにインターホンの音が響き渡った。
「鳶町達か?」
「多分な。にしても早すぎだっつの。」
閃は咲桜の手を引いて玄関へ向かった。(「なっ、何するんだ!?」
「お出迎えでもしよーぜ♪」)
閃と咲桜の二人は、玄関のドアを開けて客人を出迎えた。
「おっはよ〜閃♪って…お二人とも夕べはお楽しみでしたね。」
「早朝から見せつけてくれるとはな。」
そこには閃の親友、八雲と朱佐が立っていた。
「とっ、鳶町!それは誤解だ!それに朱佐もだ!」
咲桜が顔を赤らめて八雲に言う。
恥ずかしがる咲桜を横目で見ながら、閃は朱佐からキャンプ場の地図を受け取った。
「こんなに早いとは思わなかったぜ。なんかあったのか?」
「いや。ただ八雲が早く行こうって言っていてな。ただのおふざけさ。」
「え〜。朱佐だってノリノリだったじゃん。本当は窓から入って驚かすつもりだったんだけどね。」
八雲と朱佐は靴を脱いでリビングへ上がった。
「でも二階の俺の部屋のカーテンが開いてるから無駄だって思ったんだろ?」
閃の問いに八雲は頷いた。
「作戦は失敗だったわけだな。私は着替えてくるぞ。」咲桜は欠伸をしながらのろのろと階段を上がって行った。
ひんやりとした空気の廊下を通り抜けてリビングに集まった閃と八雲と朱佐。
八雲が閃に問いかける。
「支度は出来てたみたいだね。」
「一昨日から準備して昨日荷物の中身の確認もしたからな。抜かりはないぜ。」
閃はずっしりと重みがあるショルダーバッグを持ち上げ、もう一つのバッグは朱佐持った。
「早いうちに車に運ぼう。後が楽になる。」もう一つのバッグを持ち上げた朱佐が閃を誘った。
「八雲〜。朝飯の準備を頼むぜ〜。」閃の頼みに八雲は頷き、彼はリビングへ方向転換して食器棚から茶碗を出し始めた。
「よく白崎をキャンプに誘えたな。まぁ自分の女だから当然、だな。」
朱佐の言葉に、閃は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「じ、自分の女って…露骨過ぎだろ。まぁ、実際は彩のおかげって…かんじかな。」
「あいつはお前に出会って変わったよ。だいぶ。いや、かなり。かな。」
そういえば、と閃は咲桜と朱佐が同じ中学校のクラスメート(しかも三年間連続同じクラス。)という事を思い出した。
「変わったって。例えば?」
「よく笑うようになった。とか。人当たりが優しくなったってところかな。」
閃が興味津々に頷く。
「中学生の頃の白崎は、なんて言ったらいいか、真面目過ぎて人に冷たいってイメージだったからな。あぁ、これはあくまで俺個人の勝手な当て付けのイメージだから、気にするなよ。
どうだ?付き合い始めて一周年を迎える気持ちは。」
朱佐がイタズラにニヤリと笑って閃をおちょくる。
彼の言葉に動揺し、その拍子に閃は、廊下と玄関の段差につまづいた。
「まぁ…、最初はメールばっかりだったけど。学校で喋ったり一緒に帰ったりしたのは結構前からだし…。
多分、去年の文化祭の時からかな。咲桜が変わり始めたのって。」
閃は頭をぽりぽりと掻きながら顔を俯かせて朱佐から赤面を隠す。
「ほ〜う。去年の文化祭ねぇ。
その日に二人に何があったのかは、今日の夜に線香花火でもしながらゆっくり語ってもらおうかな。」
朱佐はまたニヤリと笑い、靴を履き替えて玄関から出た。
それに続いて閃も玄関のドアを開けて外へ出た。
閃の家の前には、朱佐の所有する白いアルファード(自家用)が暖かな太陽の光を浴びながら待っていた。
「後ろに積もう。」
朱佐が車の後ろに回り、それに続いて行く閃。
その時二人の背後から声がした。
「黄龍様。私が荷物をお積みいたします。さぁ閃様もこの諏訪田めにお任せ下さい。」
背後からの声の主は、朱佐の家に仕えている執事の諏訪田源一だった。
朱佐の家は、父親が有名な高級車の会社の社長で、海外にも企業を展開させている大富豪だ。朱佐自信にも、育ちが良さそうな身なりと顔立ち、そしてオーラが感じられる。
朱佐と閃は二つのバッグを諏訪田に任せて再び自宅へ戻った。
閃が自宅へ戻ると、廊下にはもう八雲と咲桜と彩が出発の準備をし終わっていた。
その後咲桜と彩はリビングへ入って行き、朝食の支度をはじめた。
「後は朝ご飯食べるだけだよ。」八雲が閃と朱佐に説明した。
だんだん廊下にも味噌汁の匂いが漂ってきた。
「相変わらず好きだな。合わせ味噌。」
朱佐がリビングから漂う匂いを嗅ぎながら閃に話す。
閃は
「当然よ。」という仕草を振りまきながら八雲を引っ張ってリビングへと入って行った。
「おはようお兄ちゃん♪」
台所から彩が顔を出した。
顔立ちは兄にそっくりで、閃に女性らしさを加えたような顔。
閃と同じ真っ黒な瞳に、兄よりも艶があるよく手入れがされたサラサラの黒髪。
これが閃の妹の彩だ。彩は盟凰高校の一年生で、閃を含めた二年生四人の後輩だ。
「や〜っと起きたか寝ぼすけ彩め。夜更かしなんてしたら咲桜に迷惑だろ。」
「昨日はあたし達眠れなかったから、ちょーっとお喋りしてただけなの。」
閃が彩から味噌汁を注ぐおたまを引ったくった。
「おーおー。朝から兄妹喧嘩かな〜?」
八雲がご飯をよそいながら合いの手を入れる。朱佐もそれを見ながら一線距離を置いて笑っている。
「あたしに咲桜をとられたから寂しかったんでしょー?」
閃が注いだ味噌汁のお椀を持ってそそくさと逃げていく彩。図星だった閃は、なんとか平静を保とうと頑張った。
「如月…。」
咲桜が閃の隣に寄った。閃はドキッとしておたまを持った手が震えた。
「呼んでくれれば。そっちへ行ったぞ?」
咲桜の上目遣いに、閃はまたドキッとした。
呼んでくれれば…?もしかして…あの咲桜が…
ちょっとデレた。
いやいやいやいやいやいや。
落ち着け俺。落ち着け如月閃。
横目でチラッと咲桜を見ると、咲桜は恥ずかしそうにうつむいて顔を隠している。耳が赤くなっているのだから、顔も相当なんだろうな。
閃は、朝からなんとか気力を振り絞って平静を保った。好きな女の前なんだ。こっちが動揺したら格好が付かない。
「サンキューな♪」
これが閃の気力を振り絞った結果だった。
「朝から夫婦円満ですなぁ〜。」八雲が五人分のご飯をテーブルに分ける。
「まだまだ初々しいな。しかし白崎があんなこと言うなんて。誰かが糸を引いた…か?」テーブルの椅子に腰掛けて彩を見つめる朱佐。
それに気付いた彩はにっこりと笑顔を見せた。
「お互いに好きなクセに、なーんか恥ずかしがってるのよね。特に咲桜が。」
「相手があんな奴だからな。」
朱佐と彩が笑った。
「ノロケはいいから早くご飯たべよーよー。」
席についた八雲が台所の二人にブーイングした。
その後二人が顔を真っ赤にしたのは言うまでもない。