7 旅立ち
馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です
都にまた平和な日々が戻ってきた。
西暦五九二年、馬子の推した泊瀬部皇子が即位した。祟峻天皇である。
物部氏が滅び、事実上の最高権力者になった馬子は、さっそく仏教の再興を宣言し、都には飛鳥寺、難波の地には四天王寺の建設を開始した。また、軍事の他に土木事業にも長けている倭漢氏に命じて、都じゅうの道路や橋の整備を始めさせた。馬子は着々と都を蘇我氏色に染めていった。
蝦夷も元の日常に戻り、毎日学校へ通った。何もかもが元の通りのように思えたが、それでもやはり若干の変化はあった。
一つは蝦夷の母、布都が病気がちになり、ほとんど寝てばかりいるようになった。夫が兄を殺したという事実が心に重くのしかかり、それが肉体をも蝕んでいたのである。
蝦夷は実母の布都に育てられたわけではない。実際に蝦夷を育てたのは乳母のヨシである。だから、蝦夷はヨシには強い愛情を感じても、布都にはそれほど愛情を感じていなかった。だが、それでもやはり実母の病気は心配なので、蝦夷は布都に念仏を唱えて死者の魂を慰めるよう勧めた。そうすれば布都の精神の負担が軽くなり、体調も良くなるだろうと思ったのである。ところが、布都は仏教だけは絶対に嫌だと言って拒んだ。
「わたしはそんな異国の神など信じません。わたしはこの国に昔からいらっしゃる神さまだけを崇めます。その他に神は必要ありません」
どうやら布都は仏教を兄の仇のように考えているらしかった。
(これは無理だな・・・)
蝦夷は母の心の傷の深さを思い知り、彼女に仏教を勧めるのを諦めた。
もう一つは、以前のように上宮の屋敷へ遊びに行っても厩戸に会えなくなったことである。どこで何をしているのか分からないが、厩戸はずっと留守だった。遊びに行くたびに不在なので、毎回蝦夷は味気無い思いで帰ってくるのだった。
蝦夷は厩戸に会いたかった。会って色々な事を語り合いたかった。だが、それが出来ないので鬱々とした日々を送っていた。ところが、学校へ行くと、そんな蝦夷の感情に気づくはずもない内麻呂が目をらんらんと輝かせながら
「物部が滅んで、いよいよおれたちの時代だな」
とうるさくつきまとって来る。
「そうなのかい?」
蝦夷は関心なさげにそう訊いた。
「そうだよ。そうに決まっているじゃないか。これからの日本の政治は君の父さんとおれの父さんが中心になって動かしていくんだよ」
確かに内麻呂の父である鳥子は、物部との戦争の後、大和朝廷内において馬子に次ぐ地位を獲得していた。
「でも、日本でいちばん偉いのは天皇陛下なんでしょう? それなのにぼくたちの父さんが何でも決められるみたいな言い方はおかしいよ」
蝦夷にそう言われ、内麻呂はぐっと言葉に詰まった。
「そりゃあ、確かにおれたちはみんな天皇家の臣下さ。でも、実際に様々な事を決めるのは、ぼくたちの父さんなんだよ」
「なぜ陛下が自ら決めないの? いちばん偉い人なのにさ」
「まあ表向きには高貴な陛下を下世話な事で煩わすべきじゃなく、そういった事は臣下がちゃんとうまく処理しておくべきだというのが理由だけどさ」
「表向きというからには別に本当の理由があるの?」
「そりゃあ、あるさ」
「それは何?」
「何って言われても・・・」
内麻呂は周りをきょろきょろと見回して、そばに誰もいないのを確かめてから
「そんなの、天皇なんか単なる飾り物にすぎないからに決まっているじゃないか」
と小声で呟いた。
「そうなの?」
「そうなんだよ。昔からずっとね」
「ふーん」
蝦夷は、しばらく考え込んだ後、こう尋ねた。
「そんなふうに考えている人は多いみたいだけど、でもそれなら単なる飾り物をいつまでも大切に置いているのはなぜなの? 飾り物にすぎないのなら、天皇陛下を追い出して、君の父さんやぼくの父さんがその代わりになれば良いじゃないの? なぜぼくたちの父さんはそうしないの? それに今まで誰もそうしようとしなかったの?」
「そんなの分からないよ。たまたまじゃないか?」
と、内麻呂はつまらなそうに言った。
「そうじゃないよ。やはり天皇家は特別な力を持っているんだよ」
「特別な力って何だ?」
「それはまだぼくにも分からない。でも、何かがあるのは確かだ」
「天皇家に力なんかあるものか」
内麻呂は突き放すようにそう言った。
「君も知っているだろう? 皇族の連中なんかバカばかりじゃないか。おれたち豪族の方がずっと優秀だ。あんな連中に何の力もあるものか」
「皇族はバカばかりじゃないぞ」
蝦夷がそう言うと、内麻呂が待っていましたとばかりに
「君が言うのは厩戸のことだろう? 確かに奴は優秀だよな。今回の戦争でもずいぶん活躍したそうじゃないか。おれの父さんも驚いていたぜ。とてもおれや君と同じ歳には思えないとね」
と言った。そしてこう続けた。
「でも、あまり切れ者すぎるっていうのも考えものだぜ。出る杭は打たれるという言葉もあるしね。今回の事で厩戸は君の親父さんに目をつけられたぞ。あまりにも優秀な皇族は、おれたち豪族にとっては邪魔なんだよ。まさか命を奪われることはないだろうけど、少なくともこれで厩戸が天皇になる可能性は消えたな。おれはそう見るね」
「命を奪われるって、それはどういう意味なの?」
蝦夷は驚いてそう訊いた。
「邪魔者は消されるということさ。もし厩戸が表立って現体制に反抗したりすれば、間違いなく命が無くなるだろうね」
「ぼくたち豪族が主君である天皇家の人間を殺せるわけないじゃないか」
蝦夷がそう反論すると、内麻呂は
「相変わらず甘いね、君は。今やおれたちの父さんには不可能な事は何も無いんだぜ。その気になれば天皇だって殺せるんだよ」
と得意げに答えた。
蝦夷は複雑な表情をして考え込んだ。
姿をくらましていた厩戸が蝦夷の前に現れたのは、その四日後のことだった。久しぶりに会う厩戸は以前より日焼けして精悍な感じがした。
「一体どこへ行っていたのですか?」
さっそく蝦夷はうれしそうな顔をして厩戸の側へにじり寄っていった。
「しばらく山背国の河勝のところへ行っていたのですよ。色々と情報を集めにね」
厩戸はニコニコ微笑みながらそう答えた。
「それで目的は達したのですか?」
「ええ、有益な情報がたくさん集まりましたよ」
「それは何の情報なのですか?」
「外国の情報です」
「外国?」
蝦夷は途方に暮れた顔をした。厩戸はそんな蝦夷の顔を見て微笑した。
「河勝のところには外国の情報が都よりも多く入るのですよ。日本はいま変革の時期を迎えていますが、海の向こうの大陸でも大変動が起きたみたいなのです。何でも数年前、隋という大帝国が出現したらしいのです。この帝国は将来かならず日本に大きな変化をもたらすでしょう。日本だけじゃありません。新羅や任那や高句麗も影響を免れないでしょう」
厩戸の説明を受けても、蝦夷には今ひとつ実感がわかなかった。そこで
「日本はそんなにも外国の影響を受けるものなのでしょうか?」
と厩戸に質問してみた。すると厩戸は即座にこう答えた。
「日本なんて世界から見ればほんの小国ですからね。大帝国が出現すればもろに影響を受けてしまいますよ。それが良い影響なら良いのですが、その反対の場合もありえます。そのためにも我々は隋の事をもっとよく知らなければなりません」
「でも、どうやって知るのですか?」
と、蝦夷は訊いた。すると厩戸は晴れやかな笑顔で
「旅をしようと思っています」
と言った。
「旅? 旅って、どこへ行くのですか?」
「九州の博多です。博多はわが国の玄関口ですからね。博多まで行って隋の情報を集めてこようと思っています。ついでにその途中の村や町の現状も視察してくるつもりです」
「ぼくも同行させてください」
厩戸の話を聞くや、すぐさま蝦夷は目を輝かせながらそう言った。
「え? あなたをですか? わたしは構いませんけど、きっと蘇我家の人が許さないでしょう。あなたは大切な跡取り息子ですからね。途中で何が起きるか分からない危険な旅へ出しはしないでしょう」
厩戸にそう言われれば確かにその通りだなと蝦夷は思った。試しに友知に旅の話をしてみると、案の定、猛反対された。
「若はまだ世間の事をよくご存知ないのです。都でさえ夜になると盗賊や追いはぎがうようよしているのに、地方へ行けばどんな無法者がいるか分かったものじゃありませんぞ。それなのに警護の人間も付けずに厩戸皇子と二人で博多まで旅をするですと? そんな危険な事は許されません。若はご自分の立場をお忘れか? 若は只の人間ではないのですぞ。蘇我本宗家を継ぐお方なのですぞ。ということはつまり、将来は天皇陛下をお助けして、日本の政治の舵取りをしなければならないということなのですぞ。若は本当にそれが分かっておられるのか?」
「分かったよ。分かったから、もううるさく言うのはやめてよ」
友知のねちねちと続く説教に閉口して、蝦夷は逃げだした。
ところが、駄目もとで馬子に話してみると、あっさり許可が下りたので蝦夷は拍子抜けした。
「若さまに万が一の事が起きたら一体どうするおつもりなんですか?」
友知は涙を流して反対したが、馬子は無視した。
馬子はこの旅が蝦夷を逞しく鍛える最後のチャンスかもしれないと思っていた。それに馬子は人間の運というものを信じていた。
物部の大軍に囲まれても、おれは生き残った。つまり、おれには運がある。もしこの旅で不幸にして善徳が命を落とすことになれば、それは善徳の運がそれだけのものだったということだ。将来、蘇我家を任せてゆく人間には運がなければならない。運の無い人間に蘇我家の未来は託せない。だから、この旅は善徳に運があるかどうかを試す絶好の機会になるはずだ。もし善徳に運が無いのなら、他の子供に代えるだけのことだ。善徳を失ってもそれほど惜しい気はしないしな・・・
それに、と馬子は思う。
もし善徳が危険な目に会う時は、同行する厩戸にも危険が及ぶ時だ。この際、厩戸には消えてもらった方が将来のためには良いかもしれない。あの皇子はやがて蘇我家の災いになるような気がする・・・
旅立ちの朝、友知は心配のあまりまだめそめそ泣いていたが、ヨシは案外平気な様子だった。それでも、いざ出発となると、目に涙を溜めて蝦夷に
「若さま、必ず無事にお戻りくださいね」
と言った。
「大丈夫だよ、ヨシ。ぼくは強い男になって帰ってくるよ」
旅装束に身を包んだ蝦夷はそう言ってヨシに優しく微笑みかけた。本当に心から自分を愛してくれる人がここにいる。ヨシを悲しませたくない。ヨシのためにも絶対に無事に帰ってくるんだ・・・蝦夷はそう心に誓った。
家臣たちに見送られ、蝦夷は元気いっぱいに出発した。
上宮の屋敷で厩戸と合流し、そこから二人で難波へ向かった。難波から船に乗って瀬戸内海を西へ進むのである。
五月の初めだった。日差しがぽかぽかと暖かくて、とても気持ちが良かった。蝦夷と厩戸が難波へ向かって快調に歩いていると、後ろから
「おーい」
と二人を呼ぶ声がした。振り返ると旅姿の内麻呂が息を切らせて駆けてきた。
「どうしたのさ?」
蝦夷が驚いてそう尋ねると
「おれも君たちと一緒に行くぜ」
と、内麻呂はニヤリと笑った。
「でも、君の父さんは許可してくれたのかい?」
「ああ、君と皇子が二人で博多へ行くという話をしたら、ぜひおまえも一緒に行けと言ってくれたよ」
蝦夷と厩戸皇子が二人だけで旅へ出ると聞いた鳥子は、馬子に気を遣い、多少なりとも護衛の役に立てばと思って、自分の息子を送りこんだのである。もちろん、内麻呂がそんな鳥子の意図に気づくはずがない。蝦夷と厩戸が旅へ出るのなら当然自分も一緒だと思い、張り切って追いかけて来たのである。
「君たち二人じゃ危なっかしいからな。おれがついていれば安心だろう?」
内麻呂は自信たっぷりにそう言った。
「頼もしい道連れが出来ましたね」
と、厩戸は嬉しそうに微笑んだ。
「そうですね。確かにそうですね」
蝦夷は厩戸の言葉に苦笑いしながら頷いた。
「そういうわけだ。納得したか? 納得したら、さあ出発するぞ」
内麻呂の号令で三人は再び元気よく歩き始めた。