5 戦争の予感
馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です
その後も蝦夷は内麻呂には内緒でちょくちょく上宮の屋敷を訪れた。
仏教の勉強も始めた。勉強すればするほど蝦夷は仏教の魅力に取り憑かれていった。仏教を極めれば宇宙の真理が解明出来るように思えた。また仏教から、自分の弱さを許し、それを受け入れてくれる大きな包容力を感じた。蝦夷は仏教研究にのめり込んでいった。そんな蝦夷の姿を見て厩戸も次第に心を開いていった。二人は、しばしば時のたつのも忘れて、仏教の教義について熱い議論を交わした。学校で内麻呂に
「最近、つきあい悪いじゃねえかよ。いつも一人で何やっているんだ?」
と言われても蝦夷は適当にごまかして厩戸のところへ行った。もう厩戸なしではいられなかった。それくらい蝦夷は厩戸と仏教に心を奪われていた。
ある日、厩戸は蝦夷を誘って外へ出た。
どこへ行くのかと蝦夷が思っていると、厩戸は不思議な場所へ入っていった。そこは都じゅうを内麻呂と探検した蝦夷も知らない場所だった。中には多くの病人や老人が寝ていて、数人の看護人が働いていた。
「ここは何なのですか?」
蝦夷が小声でそう尋ねると、厩戸は
「悲田院です」
と答えた。しかし、そう言われても蝦夷には何のことやらさっぱり分からなかった。目をぱちくりさせている蝦夷に厩戸が分かりやすく説明した。
「ここは身寄りの無い老人や誰も世話をしてくれる人のいない病人を引き取って保護する施設です。我々は恵まれた暮らしをしていますが、世の中の大多数の人は悲惨な生活をしています。飢え死にする人も少なくありません。そんな人たちを少しでも救えればと思って、わたしと皇后陛下でこの施設を作ったのです。いわば仏教でいう菩薩道の実践です」
「え? 皇后さまとですか?」
蝦夷はとつぜん憧れの人の名前が出てきたので驚いた。
「皇子は皇后さまとお親しいのですか?」
「まあ、叔母と甥の関係ですからね。皇后陛下はわたしを特に気に入ってくれて、小さい頃からずいぶん可愛がってくれました」
「そうだったのですか・・・」
蝦夷は厩戸に軽い嫉妬を感じ、顔色を曇らせた。
「どうかしましたか?」
蝦夷の様子を不審に思った厩戸がそう尋ねると、蝦夷は顔を真っ赤にしながら
「いえ、何でもありません。道理で皇子と皇后さまのお顔が似ていらっしゃるのだなあと思っただけです」
何とかそう答えてその場をごまかした。
「そうですか。それなら良いのですけど」
厩戸は話を続けた。
「でも、ここだけではどうしようもないのです。全国にもっとこういう施設をたくさん作らないと。特にこれから戦争が始まります。片輪者になる人間も大勢出るでしょう。ところが、戦争で体を壊しても、何の保証も無いのです。使えなくなった人間は冷たく捨てられるだけです。そういう人たちを救うための施設がもっと必要なのです」
「戦争? 戦争が起きるのですか?」
蝦夷は驚いてそう訊き返した。
「あなたのお父上が物部大連と戦うのですよ」
厩戸は当然のようにそう答えた。蝦夷は内麻呂も同じ事を言っていたのを思いだして
「やはりそうなるのでしょうか?」
と尋ねた。
「もはや時間の問題でしょうね」
「戦争になったら父は勝てるでしょうか?」
「勝ってもらわないと困ります。わたしにも蘇我家の血が流れていますからね」
厩戸の父方の祖母は稲目の娘であり、母方の祖母もまた蘇我系であり、厩戸には蘇我一族の血が流れている。
「それに、この国の発展のためには、古い物部ではもはや役に立ちません。これから時代は大きく変わります。物部では新しい時代について行けないのです。その意味でも蘇我に勝ってもらわなければ困ります。ただし、物部を倒すのは相当難しいでしょうが・・・」
厩戸の予言通り、状況は着々と戦争へと向かいつつあった。
きっかけは百済から新しく仏像が送られたことだった。これを機に馬子は自宅に仏殿を造り、仏教復活を高らかに宣言した。ところが、その矢先、馬子は天然痘に罹り倒れてしまう。それ見たことかとばかりに物部守屋は敏達天皇にあらためて仏教禁止令を出させ、馬子の仏殿を焼き払った。
そうしたところ、今度は守屋と敏達天皇が天然痘に罹った。病気療養中の馬子に代わって一族の陣頭指揮を取っていた摩理勢は、すぐさまこれは仏の祟りだと守屋を非難した。
蘇我物部双方の非難合戦が始まった。これを憂いた病床の敏達天皇は、蘇我一族だけには仏教の信仰を許可することで、この騒ぎを沈静化しようとした。その後、生まれつき怪物並みの強靭な生命力の持ち主である馬子と守屋は何とか病気から回復したが、敏達天皇自身はとうとう回復が適わなかった。
敏達天皇の葬儀には馬子と守屋も出席した。二人とも病み上がりの為げっそりと痩せこけ、足元がふらついていた。それでも口だけは達者であり、腰に自慢の大刀を差してうろうろしている馬子を見ると守屋が
「矢で射られた雀みたいだな」
とあざ笑った。確かに痩せ細って小さくなった体には大刀がやたらに大きく見え、小さな雀に大きな矢が突き刺さっているように見えなくもない。
笑われた馬子はムッとし、弔辞を読む守屋の手がぶるぶる震えているのを見ると、ここぞとばかりにこう言って笑った。
「あの手に鈴をつければ良いのではないか。リンリンと良い音が鳴ってさ」
今度は守屋がムッとして馬子を睨みつけた。馬子も負けじと睨み返した。一触即発の緊迫した空気が流れた。これはまずいと判断した摩理勢が馬子を外へ連れ出して何とか事なきを得たが、そのままにしていたら本当に馬子と守屋は剣を抜いて斬り合いを始めたかもしれなかった。
もう一つ事件が起きた。亡き夫の喪に服していた炊屋姫皇太后を、穴穂部皇子が無理やり犯そうとしたのである。
穴穂部皇子というのは二十代半ばの若い皇族で、多分に軽薄な性格の持ち主であった。敏達天皇の葬儀の場でも、次はおれを天皇にしろと騒ぎ、周囲から顰蹙を買ったが、物部側は彼を次期天皇に推していた。守屋とすれば多少おつむが足りないぐらいの人間の方がコントロールしやすいので都合が良かったのであろう。
すなわちこの事件は、物部派の穴穂部皇子が蘇我派の炊屋姫皇太后を味方に引き入れようと画策したものと評価することが出来る。それと共に、穴穂部皇子にとっても、かねてから目をつけていた美貌の炊屋姫を自分の女に出来る千載一遇のチャンスであった。いわば色と欲に駆られた行動だったわけである。結局、穴穂部皇子の企みは失敗したが、この事件は蘇我側の警戒感を一層強める結果になった。
西暦五八五年九月、崩御した敏達天皇に代わり、厩戸の父である橘豊日皇子が即位した。用明天皇である。
この頃、馬子の屋敷にある人物がしばしば訪れるようになった。それは蝦夷が初めて見る人物だった。その人は、年は馬子と同じぐらいだろうか、背がすらりと高くて、とても理知的な顔立ちをしていた。蝦夷は彼のことをてっきり学者の先生だと思っていたくらいである。ところが、上宮の屋敷へ遊びに行くと、中からその学者先生が出てきたので蝦夷はびっくりした。
「今のは誰なのですか?」
と、蝦夷が尋ねると厩戸は
「秦河勝という山背国の豪族です」
と答えた。
秦氏は秦の始皇帝を祖先に持つといわれる渡来系の豪族であり、現在の京都市にあたる山背国を本拠地にしていた。朝廷に従属していたが、朝廷内での権力争いには関心が無く、専ら山背国の開拓と殖産に努めていた。そのため、中堅豪族でありながらたいへんな財力があり、実質的には物部、蘇我に続く第三の勢力と言ってもよかった。
「あの人はうちにも何度か来ていますよ」
「そうでしょうね」
厩戸は当然だという口ぶりでそう言った。
「山背国の豪族が父に何の用なのでしょうか?」
「来たる物部との戦争に向けての打ち合わせに決まっているじゃないですか」
そんな事も分からないのかと少々呆れた様子で厩戸はそう答えた。蝦夷は恥ずかしくて下を向いた。
「でも、その秦さんが皇子に何の用なのですか?」
「河勝は昔から父と親しく、その関係でわたしも幼い頃から可愛がってもらっているのですよ。彼はわたしと同じ熱心な仏教徒なので、今日は久しぶりに仏教について語り合っていたのです。ただ、それだけのことです」
厩戸はそう答えたが、蝦夷は腑に落ちないものを感じた。
即位二年目に今度は用明天皇が天然痘に罹ってしまった。天皇の病気快癒を願って大規模な祈祷がおこなわれ、厩戸も父のために懸命に祈った。しかし、厩戸の祈りも空しく、天皇はあっけなく崩御した。
用明天皇が崩御すると後継者争いはいよいよ熾烈になった。物部側は穴穂部皇子を、蘇我側は泊瀬部皇子を、それぞれ推した。泊瀬部皇子の妻は馬子の娘で蝦夷の姉である河上姫である。蘇我と物部はいつ衝突してもおかしくない状態だった。都じゅうにピリピリした緊張が走った。
「兄と争うのはやめてください」
布都は馬子にそう懇願した。
「わたしたちは蘇我家と物部家の融和のために結婚したのじゃありませんか。それを忘れたのですか? それなのになぜ争わなければならないのですか?」
「べつに戦争すると決まったわけじゃないだろう? おれは一族の長として不測の事態に備えているだけだ」
と、馬子は見え透いた嘘をついたが、騙されるような布都ではなかった。
「嘘です。あなたは最初から戦争するつもりなのです。戦争がしたくて仕方ないのです。でも、戦争になったら、このわたしはどうなるのですか? どちらが勝ってもわたしは不幸になるだけではありませんか。あなたにはそれが分からないのですか?」
「だから、そういう事態に陥らないよう、いま努力をしているのだよ」
「もしあなたがどうしても兄と戦うというのなら、わたしにも覚悟があります」
「それはどういう意味だ?」
「実家へ帰らせていただきます」
布都はきっぱりとそう言った。
「実家ってどこのことだ? おまえはもう蘇我家の人間じゃないか。そうであれば、おまえの実家はここだ。ここ以外におまえが帰る家は無い」
馬子にそう言われて布都は泣きだした。その布都を労わるように馬子はこう言った。
「確かにおれたちは政略で結婚したが、おれがおまえを愛している気持ちは本物だ。それはおまえも同じだと思う。だからもうおれを困らせるような事を言うな。これから何が起ころうとも、おまえはおれのそばにいろ。そして蘇我家のことだけを考えていろ。自分が蘇我家の女だということを忘れるな」