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飛鳥 幻の三代  作者: ふじまる
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4 不思議な少年

馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です

 蝦夷は毎日元気に学校へ通っている。

 授業は面白くなかったが、内麻呂と一緒なら退屈しなかった。蝦夷と内麻呂は様々な事を語り合った。語り合うことで、お互いの知識の不足を補完し、より大きく成長出来るように思えた。いま自分に必要なのは、一人でも多くの人と接し、知見を深める事だ、と蝦夷には思えた。蝦夷は知りたかった、多くの事を、この世のあらゆる事を、まだ自分の知らないたくさんの事を。

 蝦夷と内麻呂は学校が終わるとよく都じゅうを探検に出掛けた。甘樫丘に登って都全体を上から眺めたりもした。上から見下ろすと飛鳥の都は山に囲まれた平野の中にあり、その平野には天の香久山や耳成山がぽつんぽつんと点在し、その間に無数の小さな家が建ち並んでいた。あちこちの家からは竈の煙がゆらゆらと立ち昇っていた。いかにも平和な風景だった。小さな家の合間にいくつかの大きな屋敷が見え、また御所も見えた。

 都を見渡しながら内麻呂は蝦夷に

「もし外敵が海から攻めて来たら、あそこの生駒山でくい止めるんだ」

 とか

「都をずっと北上すると、そこは山背国だ」

 と説明してくれた。

 蝦夷は遥か遠くへ目をやり、まだ見たことの無い土地の有様と世界の広さを想像した。

 そんなある日、いつものように蝦夷が学校へ行くと、教室の様子がそれまでと違っていた。べつに机の配置が変わったとか新しい物が置かれているというわけではないのだが、何かが異なっていた。教室の一隅がまぶしい光で輝いているように蝦夷には感じられたのである。これと同じ感覚に蝦夷は昔いちど陥ったことがある。初めて天皇に謁見した時である。あの時、蝦夷は皇后の周りにちょうどこれと同じ輝きを感じた。まさか皇后陛下がこの教室に? 蝦夷はわくわくしながら光源の方向へ目を向けた。しかし、そこに皇后はいなかった。代わりに見知らぬ少年が座っていた。

 その少年はとても秀麗な顔立ちで、あまりにも美しすぎて女の子と見まちがえてしまいそうなくらいだった。ただ、秀麗な中にもキリッと引き締まったところがあり、他人を寄せつけない威厳を持ち合わせていた。立ち振る舞いに何ともいえぬ気品があり、またその眼差しは遠い未来を見通すかの如く静かに澄みきっていた。

 後から登校して来た内麻呂に蝦夷はこっそりと少年を指さして

「あれは誰だい?」

 と小声でたずねた。内麻呂は

「何だ、知らないのか? あれは橘豊日皇子の長子、厩戸だよ」

 と教えてくれた。

 厩戸皇子うまやどのみこ、後に聖徳太子と呼ばれるようになるこの少年は、蝦夷や内麻呂と同じ年齢だった。しかし、蝦夷にはとてもそうは思えなかった。どう見ても自分たちよりも年上に思えた。いや正確に言えば、年齢など関係なく、人間として別格な存在に思えた。それくらい厩戸は常人とは違う光を放っていた。

 授業の最中も蝦夷は厩戸の事が気になってしょうがなく、彼の方ばかりを盗み見ていた。厩戸は特にメモを取ることもなく、まっすぐ前を向き、じっと教師の話を聞いていた。

 厩戸は授業が終わるとすぐに帰ろうとした。蝦夷は急いで厩戸に駆け寄り、自己紹介した。

「初めまして。ぼくは蘇我善徳と申します」

 引っ込み思案の蝦夷がこのような大胆な行動をとるのは珍しかった。どうしてこんなに積極的になれるのか分からなかったが、蝦夷の中にある何かが「そうしろ」と命じていた。

 不意を突かれて驚いた厩戸はしばらくぼんやりと蝦夷の顔を眺めていたが、やがて

「ああ、あなたが嶋大臣の息子さんですか」

 と言った。

「ええ、そうです。よろしくお願いします」

 と、蝦夷は嬉しそうに微笑んだ。ところが、厩戸には愛想も何も無く

「こちらこそよろしく」

 そう言ったきりそのまま退出しようとしたので、蝦夷は引き留めるかのように

「どうして今まで授業に出席しなかったのですか?」

 と訊いた。すると厩戸は

「この国の教師から教わる事はもう何も無いからです」

 と答えた。

「それが今日はなぜ?」

「たまには学校に顔を出せと父に言われたからです」

「では、また明日からしばらく学校へは来ないのですか?」

「そのつもりですけど」

 そう言うと厩戸はさっさと歩きだした。

「あ、待ってください、皇子」

 蝦夷は慌てて厩戸を追いかけた。内麻呂も後を追ってきた。

「途中まで一緒に帰りましょうよ。ね、いいでしょう?」

 蝦夷がそう言って愛想笑いをすると、厩戸は

「構いませんよ」

 と無愛想に答えた。

「こちらは阿倍高志君と言って同じ教室の生徒なのですけど」

 と、蝦夷は内麻呂を厩戸に紹介した。厩戸はちらりと内麻呂の顔を見て

「知っています」

 とだけ言った。

 その後も厩戸は黙ったままどんどん歩いていった。蝦夷と内麻呂の事など忘れてしまったかのようだった。さすがの蝦夷も話しかけづらくなり、黙ったままついて行った。厩戸の屋敷は上宮にあった。上宮の場所については諸説あるようだが、はっきりしない。現在の桜井市のどこかだと思われる。一応ここでは、現在、安倍文殊院が在る辺りだということにしておく。

 屋敷に着くと厩戸は

「これで失礼する」

 と、それだけ言って中へ入ろうとした。蝦夷は思いきって

「今度、遊びに来てもいいですか?」

 と尋ねてみた。

 厩戸は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐにまた元の無表情な顔に戻ると、

「どうぞ」

 ぶっきら棒にそう答えて屋敷の中へ消えていった。蝦夷と内麻呂は門の前に取り残された格好になった。

「何でえ、あいつ。愛想の無え野郎だなあ」

 内麻呂が文句を言い始めた。

「なあ善徳、あんな奴と仲良くしてやることはねえよ。おれは、あんな失敬なやつ大嫌いだ」 

 内麻呂はいつまでもそう毒づいていたが、蝦夷は別の感想を抱いていた。蝦夷はどうしようもなく厩戸に惹きつけられる自分を感じていた。蝦夷は厩戸に恋をしていたのである。

 少年時代は様々な感情が交錯する混沌とした時代である。まだ異性に目覚める前の未成熟な心は、多くの場合、優れた同性に向けられる。特に蝦夷のような軟弱な少年の場合、それが顕著である。この感情を恋と呼ぶのは不正確で、憧れと呼ぶ方が正しいのかもしれない。ともかくも恋に似た感情を蝦夷は抱き、それは厩戸へ向けられたのである。どうして厩戸なのか? なぜ内麻呂では駄目なのか? それは誰にも分からない。恋に理屈が通用しないのは、いつの場合でも同じだからである。

 翌日、さっそく蝦夷は厩戸の屋敷を訪問した。内麻呂には内緒にして一人で訪問した。内麻呂に内緒にしていたわけは、何となく後ろめたさを感じていたからである。厩戸の屋敷へ行ったことを知れば、内麻呂が傷つくように蝦夷には思えた。そこで、これは内緒にしておかなければならないな、と蝦夷は考えたのである。

 まさか本当に来るとは思っていなかったらしく、厩戸は蝦夷の来訪に心底驚いた様子だった。しかし、恋する男に相手の気持ちを忖度する余裕などあるはずもなく、蝦夷は喜々として厩戸の部屋へ上がり込むと部屋の中をあれこれ見て回った。

 厩戸の部屋には多くの書物がうず高く積み上げられていた。その中には蝦夷がそれまで見たことの無い難しげな書物もたくさん含まれていた。他の事はともかく学問に関しては同年代の少年の中で自分が最も先へ進んでいると自負していただけに、厩戸が同年齢ながら自分よりも遥か先へ行っているのを発見して、蝦夷は少なからずショックを受けた。

「ずいぶんと難しい本を読んでいるのですね?」

 悔しさを噛みしめながら蝦夷は厩戸にそう言った。

「他に楽しみが無いものでね」

 厩戸は関心なさげにそう答えた。

「これは何の本なのですか?」

 と、蝦夷は一冊の本を手に取って尋ねた。

「それは仏教の本です」

 厩戸は事もなげにそう答えたが、蝦夷は驚いた。なぜならば、稲目と守屋が争った蘇我物部抗争以来、わが国では仏教は禁止されていたからである。

「でも、仏教は禁止されているのでしょう?」

「表向きはね」

 そう言って厩戸はニヤリと笑った。

「しかし、秘かに仏教を信仰している人はたくさんいるし、おそらくあなたのお父上もそうなのじゃないかな?」

「え? うちの父がですか?」

 蝦夷は驚愕して目を丸くした。

「だって蘇我家は、わが国における最初の仏教擁護者ですからね」

「そうだったのですか・・・」

 蝦夷は途方に暮れた顔をした。

「そんな顔しないでください。別に悪い事をしているわけではないのですから。今は政治的な理由で仏教は禁止されていますけど、これは早く解禁しなければなりません。わが国に仏教はどうしても必要だからです。」

「仏教って、そんなに素晴らしいものなのですか?」

「ああ、素晴らしいですよ。これまでのわが国には無い、とても奥の深い教えです。ただ、今わたしの手元にあるこれらの資料では仏教のほんの片隅を齧っているようなもので、とてもその全容を味わう事は出来ません。本当はもっとたくさんの経典や解説書が欲しいし、ちゃんとした先生について学びたいのですが、今は無理です。それが残念なのです」

 厩戸はそう言ってため息をついた。そんな厩戸の姿を見て蝦夷は

「皇子は他の皇族の方とはずいぶん違いますね」

 と言った。

「どうして?」

「だって、同じ教室にいる他の皇族の生徒は学問になんかまったく興味が無いじゃないですか。皇子だけですよ、こんなに学問に熱心なのは」

「そうかもしれませんね」

 厩戸はさも可笑しそうに笑った。

「でも、彼らはそれで良いのですよ。彼らに求められているのは生きている事だけなのですから」

「それはどういう意味なのですか?」

 と、蝦夷は訊いた。

「天皇家にとって最も大切なのは血統を絶やさないという事です。血統さえ保っていれば誰が天皇になっても構わないのです。なぜならば、実際に政治をおこなうのは天皇ではなく、あなたのお父上たちだからです。天皇など飾り物にすぎないのです。我々皇族は血統を絶やさないためだけに存在しているのです。大勢の皇族がいざという時のための予備として飼われているのです、家畜のようにね。そんな皇族に学問が必要でしょうか?」 

 厩戸はそう言い終わると自嘲気味に微笑んだ。

「でも、皇子は学問に精を出していらっしゃるじゃないですか」

 蝦夷は厩戸の言葉を否定しなくてはいけない気がしてそう言った。

「わたしは現状を変えたいと思っています。そのためには学問が必要なのです」

「現状を変えるって、どう変えるのですか?」

「それはまだ言えないし、特にあなたには言えません」

「なぜぼくには駄目なのですか?」

「あなたが蘇我本宗家の後継者だからです」

「そんな・・・」

 蝦夷は目に涙を溜めて必死に自己弁護した。

「確かにぼくは蘇我家の跡取りですが、友人を裏切るような男ではありませんよ」

 すると厩戸は

「あなたが悪人だと言っているわけじゃありません」

 と苦笑いした。

「あなたが善人だということは分かっています。それどころか善人すぎて蘇我家の後継者には相応しくないのではないかと心配しているくらいです。だからあなたの誠意を疑っているわけではないのです。ただ、わたしの言う現状改革はまだ先の話だし、その時お互いがどうなっているか、どんな重荷を背負っているか分からないので、今はまだ内緒にしておきたいのです」

「未来のぼくたち・・・」

「大人になれば、わたしたちに課せられた宿命から、お互いに難しい立場を背負うようになるでしょう。その事を言っているのです」

「そうなのですか?」

「そうなのです。わたしは天皇家にとって運命の子なのでしょうが、おそらくあなたも蘇我家にとって運命の子になるでしょう」

 厩戸はそう言って静かに目を閉じた。

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