2 馬子
馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です
この時代、大和朝廷は各豪族たちによる豪族連合の態をなしていた。もちろん朝廷の中心には天皇がいたけれど、多分に宗教的な存在であり、豪族たちを一つにまとめる精神的支柱ではあっても、政治上の実権は有していなかった。
当時の朝廷の構成を見てみると、天皇の下にまず「大連」という役職があり、これを物部氏が代々世襲していた。次に「大臣」という役職があり、これは蘇我氏が世襲していた。これらを現代の内閣に置き換えてみると、総理と副総理のようなものだと思って頂ければ良いであろう。もっとも、物部氏が滅びた後、大連は廃止され、蘇我氏の務める大臣が単独で内閣のトップに立つことになるが。
大連と大臣の下には「大夫」という役職があり、複数の有力豪族が世襲していた。これは各国務大臣のようなものである。以上が当時の朝廷を構成する主要メンバーであり、現実の政策は彼らの合議によって決定していた。
しかしながら、最も力のある者が実権を持つというのが古今東西いつの時代にも当てはまる真理であり、合議とはいっても事実上、最大勢力である物部氏の意見がほぼそのまま採用された。すなわち、この時の日本の支配者は物部守屋であったということである。
『日本書紀』によると、物部氏はニギハヤヒを祖とする。このニギハヤヒというのは、神武天皇と同じ一族でありながら、神武天皇よりも先に大和へ入り、大和を支配していた人物である。この事から物部氏こそが本来の天皇ではなかろうかと言う人がいるほどである。その真偽は分からないが、とにかく物部氏は天皇家と同じくらい古い一族であり、代々朝廷を軍事面から支えてきた。
一方の蘇我氏は、元々はかっての大豪族・葛城氏の配下にある小豪族にすぎなかったが、葛城氏が没落するとそれと入れ替わるように朝廷内で力を伸ばしてきた。そんな蘇我氏躍進の陰には渡来人の力があった。蘇我氏は昔から渡来人を保護し、倭漢氏、鞍作氏、西文氏、船氏、葛井氏、津氏といった渡来系の小豪族を多数配下に抱えていた。
渡来人たちは文化的に当時の日本人を遥かに越えていた。彼らの優れた実務能力を利用して蘇我氏を大躍進させたのが、馬子の父である稲目だった。稲目は朝廷の財務を担当すると、算術に習熟し帳簿作成の技術を身につけていた西文氏や葛井氏の者たちに全国の戸籍を作らせ、徴税の仕組みを整えさせた。そのお陰で朝廷の収入は飛躍的に増大した。朝廷の財政を建て直した功績により天皇家の信頼を勝ち取った稲目は次々と娘を天皇に嫁がせ、天皇家と姻戚関係を結ぶことで勢力を伸ばしてゆき、遂には大和朝廷における最大勢力である物部氏と肩を並べる存在になった。
当然、危機感を強めた物部氏は蘇我氏を潰しにかかり、激しい対立が生じた。両者の対立が最も鮮明な形で現れたのが、仏教をめぐる抗争である。
『日本書紀』によれば、日本に仏教が伝わったのは欽明天皇十三年、すなわち西暦五五二年に百済から仏像と経典が贈られたのが最初ということになっている。その際、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇は
「こんな素晴らしい教えは今まで聞いたことがない」
と喜び、ぜひ日本でも仏教を広めようと考えた。
天皇の考えに賛成し、それを後押ししたのが稲目である。蘇我氏は渡来人と親しくしていた関係でもともと仏教に対して抵抗感が無かったし、蘇我氏のような新興勢力が物部氏らの古くからの勢力に対抗するためには新しい価値観の提示が必要だった。そして仏教こそが新しい時代の価値観たりえるはずだった。稲目は仏教を武器にして一気に朝廷内の最大勢力に駆け上がろうとした。
対する旧勢力は、物部氏と中臣氏を中心に、蘇我氏の台頭と仏教の受け入れに激しく抵抗した。彼らはこめかみに青筋を立てて天皇にこうまくしたてた。
「わが国には昔から百八十の神々がおわしますのを忘れたのですか? それなのに外国の神を崇拝しようなんて一体どういうおつもりなのです? まったくとんでもないお話です。そんな事が許されるわけないじゃありませんか。もし陛下が仏教を信仰すれば、神々がお怒りになって、どんな天罰を下すか分かったものじゃありませんよ。それでもよろしいとおっしゃるのですか?」
天皇家が神道と切っても切り離せない関係になったのは明治以降のことであり、もともと天皇家は神道に対してそれほどこだわりを持っていなかったようである。実際、推古天皇以降、歴代の天皇は熱心に仏教を信仰していたし、称徳天皇などは在任中に出家までしている。ほとんどの天皇が神道より仏教を好んだのである。
神道の総本家であるはずの天皇家よりも物部氏の方が神道に熱心だったのは、考えてみれば奇妙な話である。これは何を意味するのであろうか? もしかしたら神道はもともと物部氏のものだったのでは?・・・ しかし、ここら辺の話に深入りするのはやめておくことにする。
物部と蘇我の板挟みになって弱りきった天皇は仕方なく折衷案を提示した。国をあげて仏教を信仰するのはやめるが、蘇我家が私的に仏教を信仰するのは認めるという結論を下したのである。そして百済から来た仏像と経典を稲目に譲った。稲目はさっそく自宅を寺に改造し、毎日仏像を拝み経を唱えた。
百済から仏教と共に渡って来たものには新しい知識や技術など良いものがたくさんあったけれど、その反面悪いものもあった。その代表がそれまでの日本には存在していなかった病気、すなわち天然痘だった。天然痘は日本で大流行し、多数の死者を出した。すると、さっそく物部氏や中臣氏が、これは仏教を受容した祟りだと騒ぎ立てた。
民衆の天然痘に対する恐怖心も手伝い、騒ぎは大きくなる一方だった。遂に収拾がつかなくなり、最終的には稲目の寺を焼き、仏像を川に流すことでやっと騒ぎが収まった。
この一連の騒動は、歴史的にみるとわが国への最初の仏教受け入れが失敗したという事を意味するが、政治的には蘇我氏の物部氏ら旧勢力に対する敗北を意味した。権力の頂点に向かって爆進していた蘇我氏の勢いはここでいったん頓挫し、改めての仕切り直しを余儀なくされた。
稲目は煮え湯を飲まされたような気分だったであろう。この時の屈辱を稲目は決して忘れなかった。いつか必ず物部を滅ぼし、蘇我の時代にしてやる・・・稲目は心に固くそう誓い、じっと再起の時を待っていた。結局、稲目の生前には憎き物部氏を倒すことは適わなかったけれど、稲目は自分の果たせなかった夢を息子の馬子に託した。
臨終の床で稲目は、苦しい息の中、懸命に口を動かして
「物部を滅ぼし、仏教を広めよ」
と馬子に命じた。
馬子は稲目の手を握り、涙を流しながらこう誓った。
「ご安心ください。必ずやわたくしが物部を討ち果たし、父上のご無念を晴らしてみせます」
稲目はまだ何か言いたげに口をもぐもぐさせていたが、もはや言葉にはならなかった。ただ、すがるような目で馬子の顔をじっと見つめていた。馬子はこの時の稲目の顔を生涯忘れることが出来なかった。必死に何かを伝えようとしていた年老いた父の顔。力不足で何もしてあげられなかった無力な自分・・・
稲目の死後、後を継いだ馬子の腹はすでに決まっていた。亡き父の宿願を果たすこと・・・掲げる目標はこれだけだった。馬子の念頭には常に物部氏との決戦があった。物部氏は古くから朝廷を軍事面で支えてきた豪族なので兵士の数は多く、しかも精鋭揃いで強かった。それに比べると蘇我氏直属の兵士はいかにも貧弱だった。倭漢氏が軍事面で蘇我氏を支援していたが、それを加えても物部氏の兵力には遠く及ばなかった。物部氏を倒すためには、まずこの兵力の差をどうにかしなければならなかった。そのため馬子は蘇我軍の将軍である葛城烏那羅に命じて秘かに新兵を集めさせ、これを訓練して何とか物部氏に追いつこうとした。
馬子が物部氏打倒のための準備を着々と進めていた時期に蝦夷は大きくなった。蝦夷は成長するにつれ、ますます内気な少年になっていった。相変わらず運動は苦手だったが、学問が好きで暇があれば読書をしていた。いつも本を読んでばかりいる青白い顔の蝦夷を見て
「うちは学者の家じゃないのだぞ」
と、馬子は友知を叱りつけたが、友知にもどうしようもなかった。蝦夷の生まれながらの気質は、武人よりも文人に向いているのは誰の目にも明らかだったからである。馬子にもそれが分かるので苦りきっていた。
こう書くと読者は馬子を無教養で乱暴なだけの人物と思うかもしれないが、そうではない。良家の子息として、幼少の折から、馬子は当時の日本における最高水準の教育を受けて育った。しかも、ずば抜けて成績の優秀な生徒だった。馬子自身も学問が嫌いではなかった。
そんな馬子であったからこそ学問の価値は充分に認めていた。だが、学問では政治は出来ないとも思っていた。政治は理屈ではない。感情である。人が人を動かすことが政治だとすれば、最終的に人を動かすのは人間の胆力、すなわち人間的魅力である。こざかしい理屈をこねくり回している学者なんかに人はついて来ない。馬子は実体験からそう確信していた。
したがって、学問するのが悪いとは言わないが、馬子の後を継いで蘇我本宗家をさらに繁栄させてゆかなければならない蝦夷には、その前にもっとやらなくてはならない事があると馬子は思っていた。それは人間教育であり、人を惹き付ける魅力的な人物になるための修行であった。そのためには、まず蝦夷の肝っ玉を鍛える事がどうしても必要だった。
ある晩、試しに馬子は都から少し離れた場所にある廃屋に蝦夷を置き去りにしてみた。蝦夷が暗闇の恐怖に打ち勝って自力で屋敷まで戻って来るのを期待したのである。もちろん念のため、こっそりと監視の人間を付けてはいたが、そんな事を知らない蝦夷は泣き叫び、遂には口から泡を吹いて昏倒してしまった。蝦夷は高熱を発し、三日三晩、意識不明のまま眠り続けた。ヨシは泣きじゃくり、友知は顔を真っ赤にして抗議し、布都に至っては
「あなたは善徳を殺す気ですか?」
と怒り狂った。
さすがに馬子も今回は少しやりすぎたかなと反省し、それ以降は蝦夷に過激な鍛練を加えるのは控えるようになった。
六歳の時、蝦夷は馬子に連れられ、初めて宮中に参内した。世間に対し蘇我本宗家の後継者の初お披露目というわけだった。馬子と蝦夷は広い謁見の間に通された。皇族や豪族が多数列席していた。勝手知ったる場所なので馬子はいつものようにふてぶてしい態度でどっしりと構えていたが、突然こんな恐ろしげな場所へ引っぱり出された蝦夷はたまったものではなかった。しかも周りは知らない大人ばかり。こんなに大勢の大人に囲まれるのは蝦夷にとって初めての出来事だった。
蝦夷が知っている大人といえば、父と母とヨシと友知と何人かの家来たちと、それから馬子の腹違いの弟で彼の重要な補佐役である境部摩理勢ぐらいのものだった。以前、朝廷の役職を現代の内閣に譬えて説明したことがあったが、馬子が総理大臣だとすれば、摩理勢はさしずめ党の幹事長というところだった。摩理勢は馬子同様に並外れた胆力があり、しかもたいへんな切れ者と評判の男だったが、蝦夷にとってはいつもニコニコ笑っている優しい叔父さんという印象だった。蝦夷の周囲にいる大人は、馬子を除けば、みな優しい人達ばかりだった。
ところが、ここにずらりと居並んだ大人たちは誰ひとりニコリともせず、無表情な顔でただじっとしているばかりだった。その何を考えているのか分からない顔が不気味で恐ろしかったので、蝦夷は馬子の横で小鼠のように辺りをきょろきょろ見回しながら小さな体をますます小さくしていた。
やがて天皇と皇后が姿を現し、正面の玉座に座った。
馬子に促された蝦夷は教えられた通り大きな声で
「初めてのお目通りをお許しください。蘇我善徳と申します。よろしくお見知りおきください」
と挨拶した。
敏達天皇は目を細めて喜び
「賢そうな顔じゃ。嶋大臣は良いお子を持った」
と言葉をかけた。
「ははっ」
と、馬子は恐縮した素振りをした。
天皇の優しい言葉も、馬子とのやりとりも、極度の緊張状態にあった蝦夷の耳にはまったく入り込まなかった。蝦夷の肉体でまともに機能しているのは目だけだった。緊張で今にも精神の糸が途切れそうになりながら、蝦夷の虚ろな眼差しはまるで必死に救いを求めるかのようにある一点に釘付けになっていた。そこは全体的にどんよりと薄暗いこの謁見の間の中で唯一まぶしい光を放つ光源のように蝦夷には思えた。それくらい華やいだ雰囲気がそこにはあった。その一点とは天皇の横で優しく蝦夷に微笑みかけてくれている皇后その人であった。
後に推古天皇となる炊屋姫皇后は、このとき二十六歳。まさに輝くような美しさだった。ところどころほんのりと赤らんだ白く透き通った肌はとても柔らかそうで、じかに手で触れると甘い果汁が滴り落ちるかのようだった。顔立ちはややふくよかで母性的な感じがしたが、その中にもどこか凛としたところがあって、それが彼女の高い知性と強い意志の力を物語っていた。そして、どんな美人であっても個人の嗜好で好き嫌いが分かれるものだが、彼女は万人に好かれる一種の清潔感を持ち合わせていた。聡明で誰からも愛される美貌の持ち主、それが炊屋姫皇后だった。
皇后の美しさにすっかりぼーっとなった蝦夷はただひたすら皇后の顔を見つめていたが、この時の子供らしい正直な気持ちを素直に言葉で言い表すとすれば
(何てきれいなおばちゃんだろう)
ということになろう。
蝦夷はこの日の皇后の美しさを一生忘れなかった。
謁見が終わり、やっと解放されてほっとしていた蝦夷に、ひとりの中年男が近寄って来た。顔じゅうからヌメヌメとした老獪さを滲みだしているようなその男は、まず親しげに馬子と二言三言ことばを交わし、そのあと蝦夷に向かって話しかけたが、その言葉は蝦夷を戸惑わせるものだった。
「さあ、お前の伯父さんに顔をよく見せておくれ」
蝦夷はどう対応してよいか分からず、馬子の方を向き目で助けを求めたが、珍しく馬子は黙ってうつむいたまま動こうとはしなかった。後に蝦夷は知ることになるが、この老人こそが馬子の義兄にあたる物部守屋だった。
仏教受容の争いに敗れた蘇我稲目は、そのまま物部氏ら旧勢力に滅ぼされる危機にあった。その危機を回避するため、稲目は馬子を守屋の妹である布都姫と結婚させ、何とか蘇我家の存続を図ったのである。
過去のいきさつはどうであれ、ともかくも守屋は馬子の義兄にあたるわけだから、表面上、馬子は下手に出なければならない。
「善徳は、どちらかと言えばわが妹の方に似ているようじゃな。のう、嶋大臣?」
守屋にそう問われて馬子は
「はい。そうかもしれません」
と神妙に答えたが、こんなふうに他人にへり下っている馬子の姿を見るのは生まれて初めてだったので、蝦夷はびっくりした。さらに、屋敷へ戻った後
「あの糞野郎、憶えていろよ。いつか必ず思い知らせてやるからな」
と、馬子が守屋を大声で口汚くののしっているのを聞いて、蝦夷はもう一度びっくりするのだった。