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飛鳥 幻の三代  作者: ふじまる
19/48

18 新婚生活

馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です

 太子はたびたび病床の推古天皇を見舞っていた。病状がだいぶ良くなった天皇は、太子に仏教の話をしてくれるよう頼んだ。太子は承諾し、天皇のために『勝鬘経』の講義をすることにした。在家信者の勝鬘夫人が主人公であるこの経典は、女性である推古天皇にぴったりだと思ったからである。

「まだ勉強の途中ですから未熟な部分も多々あると思いますが」

 あらかじめそう断った上で、太子は推古天皇のために一生けんめい『勝鬘経』を論じた。天皇は、寝床の中、上半身を起こした格好で太子の講義を聞いた。講義が終ると、天皇はたいそう喜んで礼を言った。

「ありがとう。あなたのお陰で久しぶりに心の中がすっきりした気分です。やはりありがたいお経の話は心に溜まった老廃物をぜんぶ外へ流し出し、精神を新しく生まれ変わらせてくれるものなのですね」

 太子はしきりに恐縮しながら

「わたしのつたない話が姉上の病気快癒のために少しでもお役に立てば、これ以上の喜びはありません」

 と言った。

「何のつたない事があるものですか。実に立派でしたよ。わたしはすっかり感心してしまいました。またいつか時間を作って、今度は別のお経についても講義してください」

「姉上がお望みならば喜んでいつでも」

「今のあなたには気力が漲っています。やはりもうすぐ父親になるという事が影響しているのでしょうね。どうですか、菩岐の体の具合は? お腹の赤ちゃんは順調に育っていますか?」

 と、推古天皇は尋ねた。

「はい、順調です。菩岐の腹もだいぶ大きくなりました」

 太子は嬉しそうにそう答えた。

「それはなによりです。元気な赤ちゃんが生まれてくると良いですね。そして次は宇治との間にも赤ちゃんが出来ればね」

「はあ・・・」

 天皇の口から宇治の名前が出ると太子の顔色が途端に曇った。幸いにして推古天皇にはそんな太子の顔色の変化に気づく様子は無かったが。

「このところおめでたい話が続きますね。確か阿倍大夫の奥方も妊娠中だそうじゃないですか」

 と、推古天皇は明るい調子で話を続けた。

「ええ、彼はわたしと同じころ結婚いたしましたので、子供が出来る時期も重なりました」

「これから朝廷はどんどん世代交代が進んで、若い人たちがたくさん入ってくるのですね。そして、わたしのような年寄りは静かに消え去ってゆくのですね」

「何を弱気な事をおっしゃっているのですか。姉上はまだまだこの国にとって必要なお方です。姉上が全快して公務に復帰するのを皆が待ち望んでおります。だから早く良くなってください」

 そう言って太子は涙ぐんだ。

「ありがとう。そんな事を言ってくれるのはあなただけです。あなたは小さい頃から優しくて思いやりのある子供でしたからね。あの頃のあなたは本当に可愛らしい子供だった。わたしも若かった。もう一度、あの頃に戻りたいものです」

 推古天皇のこの言葉に太子は何も言えなかった。

「そういえば何といいましたかね、あなたと幼なじみだった嶋大臣の息子さんは?」

 と、推古天皇は首を傾げた。

「善徳のことですか?」

 と、太子は訊いた。

「そうそう、善徳。聞いた話では彼も近々結婚するそうじゃないですか」

「はい。鞍作家の長女と結婚する予定です」

「まあ、鞍作家の? なるほどね。昔から蘇我家と鞍作家は親密な間柄ですからね」

「善徳にはこれまで浮いた噂がまったく無くて、わたしたち友人も心配していたくらいでした。ところが、その堅物が鞍作家の娘とは妙に気が合ったらしく、二人が仲良しだという噂はずいぶん前から聞いていました。それで二人がうまくいけば良いなと思っていたところ、この度めでたく婚約したと聞いて、わたしもほっと胸をなで降ろしているところなのです」

「嶋大臣の息子さんは女嫌いだったのですか? あの豪傑の息子さんが。あはは、世の中は面白いわね。ほんと可笑しいわ」

 と、推古天皇はさも愉快そうに笑った。

「そういう意味では、確かに姉上のおっしゃる通り、彼は嶋大臣の息子らしくないですね」 

 そう言って太子も一緒に笑った。

「何はともあれ嶋大臣もわが子の婚約をさぞ喜んでいることでしょう」

 推古天皇の言葉通り、馬子は蝦夷の婚約をたいそう喜び、

「これでやっとおまえも一人前だな」

 そう言って蝦夷を朝廷の大夫に加えることに決めた。生まれて初めて朝廷の役職を得ることになったのである。蝦夷は新しく屋敷を構え、亜矢との新婚生活に備えた。

 西暦五九九年、蝦夷は亜矢と結婚した。蝦夷が二五歳、亜矢が十八歳の年だった。 

 この時代の結婚は男が女の家へ三日連続で通うことによって成立する。正妻の場合は自分の屋敷へ迎い入れるが、それでも形式上はまず最初に夫となる男が妻となる女の部屋へ忍んで行かなければならない。女性経験がまったく無い蝦夷には、初夜といっても何をすれば良いのかさっぱり分からなかった。

「ぼくはどうすればいいの?」

 蝦夷はこっそり友知に相談した。友知はここぞとばかりに張り切って手取り足取り教えてくれたが、蝦夷には半分も理解出来なかった。ただ漠然とむかし内麻呂が言っていた《まぐわい》というのをすればいいのだなと思っただけだった。初めての体験だけど亜矢と一緒なら何とかやれるだろう、と蝦夷は自分に言い聞かせた。

 夜、蝦夷は心臓をドキドキさせながら亜矢の待つ寝所へ忍んでいった。

(あまりみっともないところを見せると亜矢さんに軽蔑されるぞ)

 そうは思うものの蝦夷の体の震えは治まらなかった。それどころか、落ちつこうと思えば思うほど逆に心臓の鼓動が速まり、全身から汗が吹きだす有様だった。口の中は乾いてカラカラだった。蝦夷は朦朧とした意識で部屋の中を見回した。

 燭台の炎が発する鈍い光に照らされて、部屋の中央の寝具が蝦夷の目に入った。そこに誰かが寝ている。もちろん亜矢が待っているのである。妙になまめかしいものが感じられた。

 蝦夷は無言のまま寝床に潜り込んだ。すっかりおびえていた蝦夷だったが、寝床に入ると事情が変わった。なにしろすぐ身近に亜矢の柔らかい肉体があるのである。もちろんそんな事は生まれて初めての経験だった。亜矢の息遣い、肌のぬくもり、ほのかな甘い香り、それらが蝦夷の全身をカーッと熱くした。それまで頭がぼんやりしていたのが嘘のように意識が冴え、体の芯からどんどん元気が沸いてくるのを感じた。その元気は特に下半身に集中していた。蝦夷は下半身の一部が硬直し、凶暴に暴れ回っているのに気がついた。こんな事は初めての経験だった。もはやおとなしく寝ていられる状態ではなかった。肉体が蝦夷に厳しく行動を命じていた。

「亜矢さん」

 と、蝦夷は声を上ずらせながら名前を呼んだ。

「はい」

 と返事した亜矢の声は微かに震えていた。

「あのう、結婚したら《まぐあい》というものをしなければならないらしいのです」

「・・・」

「結婚した人は、皆しているらしいのです」

「・・・」

「それで、ちょっと、今からその《まぐあい》というのを、してもよろしいでしょうか?」

 おずおずと蝦夷がそう尋ねると、しばらくして亜矢が蚊の鳴くような声で

「・・・お願いします」

 と返事をした。

 いよいよ蝦夷が男らしいところを見せなければならない時だった。

「それでは始めさせて頂きます・・・」

 亜矢の返事は無かった。ただ黙って身を縮めるばかりで、普段の活発な亜矢とはまるで別人のようだった。蝦夷はそんな亜矢の変化に戸惑い、いったん動きを止めたが、友知の言った

「いいですか若さま、おなごというものは自分からは何も出来ないものですから、男がしっかりと導いてあげなければいけないのですよ」

 という言葉を思いだし、亜矢の体に緊張で震える手を伸ばした。亜矢の体がびくんと反応した。蝦夷は一瞬ひるんだが、勇気を奮い立たせて亜矢の体の上に乗っかっていった。亜矢は黙ってされるがままにしていた。

 亜矢の体が蝦夷の体の下にあった。蝦夷はあらためて亜矢を見下ろした。亜矢は目を瞑って顔を横にしていた。その表情は苦しげで、呼吸が荒かった。亜矢の首筋がぴくぴく動いていた。普段、男まさりの亜矢だったが、その肩はやはり女性らしく細くて小さかった。その華奢な肩が蝦夷にはたまらなくいとおしく思えた。蝦夷は我慢できず亜矢の体にむしゃぶりついた。亜矢は「きゃあ」と小さな悲鳴を上げた。

 その後どうなったのか? それは蝦夷も憶えていない。無我夢中であれこれやっているうちに、何とか亜矢と一体になれたようだった。蝦夷は汗だくになった体を亜矢から離した。亜矢は恥ずかしげに横を向いて、そそくさと寝巻の乱れを直した。

 蝦夷は男としてやらなければならない事をやり遂げたという思いで、とても満ち足りた気分だった。そして自分を信頼して身を任せてくれた亜矢に心から感謝した。蝦夷は思いきって亜矢を抱き寄せた。亜矢は再び小さな悲鳴を上げたが、それでも嬉しそうに蝦夷の胸に顔を埋めてきた。

「ぼくは幸せ者です。生まれて初めて好きになった人と夫婦になれて、しかもその人がこんなに素敵な人なのですから」

 天井の模様をぼんやり眺めながら、蝦夷が晴れ晴れとした表情でそう言うと亜矢も

「わたしも善徳さまの妻になれて幸せです」

 と言った。

 その言葉に感激した蝦夷が思わず

「亜矢さん!」

 と叫ぶと、亜矢はくすくす笑った。

「亜矢と呼び捨てにしてください。もうあなたの妻なのですから」

「でも、何だか照れます」

「良いのです。あなたはわたしの旦那さまなのですから。でも、その代わり、必ずわたしを幸せにすると約束してくださいね」

「しますよ。するに決まっているじゃないですか。ぼくは必ず亜矢さんを幸せにしてみせます」

「また亜矢さんって言った」

「あ、ごめん」

 蝦夷と亜矢は顔を見合わせて笑った。

 三日間、蝦夷が亜矢の部屋へ通い終えると結婚が正式に成立し、蘇我本家屋敷では盛大な披露宴が催された。蘇我家御曹司の結婚とあって、都の内外から多数の客が集まり、祝杯を上げた。また全国各地から祝いの品が続々と届けられた。馬子は蝦夷の結婚にひと安心した様子で、客たちと大酒を飲んで陽気に騒いでいた。そんな馬子の姿を見て蝦夷は心から喜んだ。

 蝦夷の幸福な新婚生活が始まった。

 大夫として朝廷に出仕する蝦夷。それを見送る可愛い新妻・亜矢。一日の仕事が終わり、屋敷に帰ってくると、また亜矢がにっこりと出迎えてくれる。夜は晩酌しながら、その日あった出来事を亜矢に聞いてもらう。亜矢との楽しい会話。そして床入り・・・

 蝦夷は毎日が楽しくて仕方なかった。何という心の平穏! つくづく蝦夷は、いつか内麻呂が言っていた「結婚はいいぞ」という言葉は本当だったと思った。心がポカポカと暖かくなるような感覚を覚えた。これこそ人間の根源的な喜びに違いないと思った。この幸せな日々がこのままずっと続きますように蝦夷は心から仏にそう祈った。

 その頃、蝦夷も大夫として参加する朝廷会議の最大の議題は朝鮮半島問題だった。

 朝鮮半島の状況は風雲急を告げていた。隋と高句麗が国境線上で衝突し、それに刺激された新羅が百済と小競り合いを始めた。すぐさま馬子は境部摩理勢を総大将とする軍隊を半島へ送り、同盟国である百済の救済にあたらせると共に、この機に乗じて新羅から任那の地を奪い返そうとした。

 この混乱の時期に、かねてから太子が提案していた遣隋使の派遣が朝廷の会議で正式に決定した。ただその人選は太子が考えていたものとは大きく違っていた。太子としては身分や家柄に関係なく小野妹子のような有能な人物を派遣するつもりだった。そのために博多から妹子を呼び寄せてもいた。ところが、実際に決まったのは旧態依然とした身分の高い豪族による順送り人事だった。正使に選ばれたのは佐伯形見という外交に関して何の知識も展望も持ち合わせていない凡庸な男だった。妹子など随員の一人にも選ばれなかった。太子が抗議すると、馬子は素知らぬ顔で

「そんなにご不満なら、今回の派遣は止めにしましょうか?」

 とうそぶいた。今はとにかく遣隋使を派遣することが先決と判断した太子は、妹子を無理やり随員の一人に押し込んだだけで、それ以上馬子に逆らうことをせず、おとなしく引き下がった。

 太子は妹子を呼び、申し訳無さそうな顔で詫びた。

「すいません。あなたの力を大いに発揮してもらおうと思っていましたが、今回は駄目になりました。わたしの力不足です」

「何をおっしゃいます。殿下のお陰で今回わたくしのような低い家柄の者が随員の一人に選ばれたではありませんか。これは感謝してもしきれない事です」

 妹子が真剣な眼差しでそう言うと、太子は

「今の社会は上で老人たちがつっかえていて窒息しそうです。国家を変えようとする新しい試みは、ことごとく老人たちに潰されてしまいます。今回の遣隋使の件がまさにそうです。しかし、ここで腹を立てていても何にもなりません。今はただじっと我慢して、次の機会を待つより他はありません。今回、あなたには単なる見物客程度の役目しか与えられませんでしたが、次の機会には必ず重大な役目を担ってもらいますから、しっかりと隋の社会の有様を見てきてください」

 と言って妹子の肩に手を置いた。

「はい。今回は勉強に徹して、必ずや次の機会に役立ててみせます」

 妹子は力強くそう答えた。

「本当はあなたがちょっと羨ましいのですよ」

 突然、太子は意外な言葉を口にした。

「は?」

 妹子は驚いて太子の顔をまじまじと見つめた。その妹子に太子はしみじみと語りかけた。

「どんな形であれ、あなたは外国へ行ける。外国へ行って珍しいものをたくさん見て来られる。学んで来られる。しかし、わたしは一生この国を離れることが出来ません。本当はわたしも海を渡って広い世界を見に行きたいのですけど、それは叶いません。不自由なものですよね、身分が高いということは」

 西暦六〇〇年、第一回遣隋使を乗せた船がひっそりと難波の港から出航した。見送る人も少なく、とても国家の大事を託しているとは思えないほど寂しい船出だった。

 このように国際情勢が緊迫する中、我らが蝦夷はどうしていたかというと、世間の動きには一切お構いなく、ただひたすら甘い新婚生活を満喫していた。すっかり幸せボケした蝦夷の関心は、専ら亜矢との夜の営みと、これからの出来るであろう新しい家族にのみ向けられていた。

「高志のところに生まれたのは男の子だったらしいよ」

 晩酌しながら蝦夷は亜矢にそう話しかけた。

「まあ、それは良かったですね。阿倍さまもさぞお喜びでしょう」

 と、亜矢は笑顔で蝦夷の盃に酒を注いだ。

「うん。あいつは男の子を欲しがっていたからな。元々あいつは根っからの父親っ子で、昔から父親べったりだったもの。だから自分でも息子が欲しかったのだろう」

「そうなのですか?」

「そうなんだよ。とにかく待望の跡継ぎ誕生で阿倍家は安泰。めでたし、めでたしだ」

「摂政さまのところにもお子さまが生まれたのですよね?」

「うん。でも、あそこは女の子だったらしいよ。殿下の娘さんなら、きっとすごく美人のお姫さまだろうけどさ」

「誰のお子さまでも赤ちゃんは可愛いものですよ。小さい手。桜色の頬。汚れを知らぬ澄みきった瞳。ああ、わたしも見てみたいなあ、みなさんの赤ちゃんを。きっと可愛いのでしょうね。食べちゃいたいくらい可愛いのでしょうね」

 亜矢がうっとりとした表情でそう言うと、蝦夷は突然

「そうだ、こんど二人で高志の家へ遊びに行こうか?」

 と言いだした。

「え? そんな事をして良いのですか?」

 亜矢が驚くのも無理なかった。この時代、蝦夷たちのような上流階級においては、家族ぐるみのプライベートな付き合いなどという概念が存在していなかったからである。しかし、蝦夷はそんな事はちっとも気にせず

「良いに決まっているじゃないか。高志とぼくは親友同士なのだから。それに彼の奥さんである楓さんのこともよく知っているしさ。前々からいちど楓さんに亜矢を紹介したいと思っていたんだよ。ちょうど良い機会だから行こうよ」

 と、すっかりその気になって、子供のようにはしゃいでいるのであった。

 数日後、蝦夷と亜矢は本当に阿倍家の屋敷へ遊びに行った。

「すまないねえ、夫婦でのこのこやって来て。迷惑じゃないよね?」

 蝦夷がそう言って照れ笑いすると

「何が迷惑なものか。水臭いこと言うなよ。おれたちは親友じゃないか。遊びに来てくれて嬉しいよ。何のおもてなしも出来ないけど、今日はゆっくりしていってくれ。奥さんも自分の家にいるつもりでくつろいでください」

 内麻呂はそう言って、家来に酒や料理を運ばせた。屋敷の広い庭園を眺めながら蝦夷と内麻呂が酒盛りを始めると、そこへ

「ようこそいらっしゃいました」

 と言いながら楓が入ってきた。そのすぐ後ろには赤ん坊を抱いた侍女が控えていた。

「あ、楓さん。お邪魔しています」

 蝦夷は楓に挨拶すると、次に亜矢を手でさし示した。

「これがぼくの妻の亜矢です。今後ともよろしくお願いしますね」

 続いて亜矢も

「善徳の家内の亜矢と申します。どうぞお見知りおきください」

 と頭を下げた。

 楓は非常に恐縮し、

「奥方さま、どうかお顔をお上げください。わたしは高志の妻で楓と申します。善徳さまには、主人と結婚するにあたって、ただならぬお世話になった者です。わたしは表向きは大伴広成の娘ということになっておりますが、本当は恥ずかしくて人さまに言えないような下賎な生まれでございます。本当は阿倍家の嫁になれるような女ではないのです。そんなわたしが主人と結婚出来たのは、ひとえに善徳さまのお陰と言っても過言ではありません。善徳さまは、言わばわたしの人生の恩人なのです。ですから、本来ならわたしの方から奥方さまのところへご挨拶に伺うべきなのに、わざわざお越しいただいた上に、このようなご丁寧な挨拶をされては、わたしの立つ瀬がありません」

 そう言って涙を流した。蝦夷はそんな楓にニコニコしながら話しかけた。

「楓さん、堅苦しい話はいいからさ、亜矢に赤ちゃんを見せてあげてよ。亜矢は高志と楓さんの間に生まれた赤ちゃんを見るのを楽しみにして来たんだからさ」

 蝦夷にそう言われた楓はハッとして、すぐさま白い産着にくるまれた赤ん坊を侍女から受け取ると、亜矢のすぐ目の前へもって行った。亜矢は「まあ、可愛い」と言って顔を近づけ「べろべろばー」をして赤ん坊を笑わせた。やがて亜矢と楓はすっかり打ち解け、二人で赤ん坊をあやしながら世間話を始めた。時々キャッキャッと笑い声を上げながら何やら楽しそうに会話を弾ませていた。

「それにしても良かったねえ、元気な男の子が生まれてさ」

 蝦夷は横目で亜矢たちの方を見て、内麻呂にそう言った。

「まったくだ。本当に良かった。楓に感謝するばかりだよ」

 盃を空けながら内麻呂は上機嫌でそう答えた。

「子供の名前はもう決めたのかい?」

「ああ、とっくに決めているさ。忌名は御主人みうし。男子たるもの、この世に生を受けたからには、脇人じゃなく常に主人であって欲しいと思ってつけたんだ。字は勝邦にした。どうだ、良い名前だろう?」

「そうだね。君らしいよ。良い名前だよ」

 と、蝦夷は苦笑した。

「ところで、君の方はどうなんだい? ちゃんと子作りに励んでいるのかい? 早く孫の顔を見せて大臣を安心させてやれよ」

 内麻呂がそう言うと、蝦夷は照れながら

「分かっているよ。がんばります」

 と答えた。

「本当に分かっているのかい? おれはどうも君を見ていると心配で仕方ないんだよ。念のために訊くけど、夜はちゃんと夫婦の営みをやっているのだろうね? おれには君がそういう事をやっている姿が想像出来ないのだけど・・・」

「そんなこと想像しなくていいよ。ちゃんとやっているからさ、心配しないでくれよ」

「本当に?」

 と、内麻呂は疑り深い目でじっと蝦夷の顔を見つめた。

「勘弁してよ、もう」

 蝦夷は絶望的な声を上げた。

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