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飛鳥 幻の三代  作者: ふじまる
16/48

15 厄介な人間関係

馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です

 太子と結婚した宇治は母親の推古天皇によく似た色白の美人だったが、生まれつき体が弱く、そのせいか性格はひどく控えめでおとなしかった。こういう虚弱体質の少女にはよくあることだが、宇治はとても夢見がちであり、結婚に関しても小さい頃から様々な場面を想像しては自分なりの理想を作り上げていた。

 そんな宇治にとって太子はまさに理想の結婚相手だった。これから始まるであろう白鳥のように美しい太子とのおとぎ話のような新婚生活を、宇治はわくわくしながら待ち焦がれていた。ところが、理想と現実は異なるという真理を宇治が気づくのに、それほど時間はかからなかった。宇治が思い描いていた甘い新婚生活は存在しなかった。というのも、太子が菩岐の部屋へばかり行って、宇治のところへは申し訳程度にしかやって来なかったからである。太子がお帰りになったという声を聞き、今日こそはこちらへお渡りくださるだろうかと祈るような気持ちで待っていても、いつも太子は菩岐のところへ行ってしまい、そのたびに宇治は孤独感に苛まれながら長い夜を一人で過ごすのだった。

(わたしは愛されていないんだ)

 それを敏感に感じ取った宇治は地獄に堕されたような気持ちになった。しかし、それは否定しようのない事実だった。宇治にはもうわけが分からなかった。生まれた時から周りの人間にちやほやされ、楽しい思い出ばかりの中で育って、ある日、厩戸皇子という絵に描いたような美しい青年と結婚するという話になり、みんなから厩戸皇子さまのお嫁さんになれるなんて姫さまは何てお幸せなのでしょうと言われ、自分でもそうなのかなと思って楽しみにしていたのに、全然そうじゃなかったからである。それはまるで今まで慣れ親しんできたポカポカと暖かい世界がとつぜん壊れ、不意に氷のような冷たい世界にたった一人で放り出されたような気分だった。一体どうしてこうなったの? わたしの何がいけなかったの? 宇治は空へ向かってそう叫びたい気持ちだった。叫んでも答えが返ってこないのは分かっていたが。 

 宇治は残酷な現実に直面して苦しんでいたが、それは太子も同じだった。太子も宇治に対しては申し訳無い気持ちで一杯だった。もう少し宇治の方にも愛情を注がないといけないのは分かっていたが、どうしても気持ちが菩岐の方へ向いてしまうのを太子は抑えることが出来なかった。太子は推古天皇に無理強いされた結婚を呪った。

 別に宇治に魅力が無いというわけではなかった。宇治は美しいし、性格も良いし、充分に魅力的な女性だった。もし菩岐を知らない頃に知り合って結婚していたら、きっと良い夫婦になれただろうと思う程だった。しかし、菩岐が現に存在している以上、どうしても太子はそういう気持ちにはなれなかった。他の事なら縦横無尽な機略を使いこなす太子も、こと恋愛に関しては意外と純情だった。器用に複数の顔を使い分け、菩岐と宇治の両方に良い顔をするような芸当は、この時の太子にはまだ出来なかった。

 すっかり傷ついた宇治は自分のことを醜くて嫌な女だと思い込み、太子を遠ざけるようになった。こうなったのは自分のせいだと反省した太子が宇治のところへ行こうとしても、もはや姫は会おうとはしなかった。

「なぜ姫に会えないのだ?」

 太子は宇治付きの老女に抗議したが、老女は

「姫さまはご病気ですので」

 と答えるばかりだった。

「しかし、わたしは姫の夫だよ」

「もちろん分かっております。でも、姫さまはお体の調子が悪いので・・・」

「いいから、そこをどきなさい」

 このまま老女と問答を繰り返しても埒があかないと判断した太子が無理やり通り抜けようとすると、老女がそれを押し止めて

「お待ちください。無茶をなさいますと姫さまが死んでしまいます」

 と叫んだ。老女の目からは涙が溢れていた。その必死の形相を見れば、太子としてもそれ以上の行為を断念せざるを得なかった。

 その後も関係を修復しようと努力したが、宇治の心の傷は想像以上に深く、もはや太子にもどうにも出来ない状態だった。菩岐も心配して宇治に面会を申し込んだが、やはり断わられた。宇治は外部との接触を一切断って隠遁生活を始めた。宇治の隠棲は太子の人生に暗い影を落とした。

 飛鳥寺はいよいよ完成間近だった。百済から彗聡、高句麗から彗慈の、両高僧も来日した。「一体あんな大きくて重い物をどうやって運び込むのだろう?」と蝦夷が疑問に思っていた大仏も、いつの間にか止利が人夫を集めて上手く金堂の中央に設置していた。これには蝦夷も驚き、思わず亜矢に

「あなたのお父さんは魔法使いみたいですね」

 と言った。すると亜矢は

「善徳さまは、おかしな事ばかりおっしゃいますのね」

 と言ってクスクス笑った。

「だって不思議なのですもの」

 と、蝦夷は幼子のように膨れ面をした。

「ちっとも不思議じゃありませんよ。たくさんの人夫たちに運ばせたのですから。もちろん、ただ力任せに運ばせたのではありませんよ。ちゃんと動きやすいように工夫して運ばせたのです」

「それが不思議だと言っているのですよ。いくら工夫したからといって、あんなに重い大仏を運ぶなんて」

「あら、もっと重い物だって運べますわよ」

 と、亜矢は自信たっぷりに言った。

「善徳さまはご存じ無いのかしら? 昔の天皇のお墓には、今回の大仏よりもずっと大きくて重い石が使われているということを」

「あ、なるほど。古墳があったか」

 蝦夷はこれはうっかりしていたとばかりに額をぴしゃりと叩いた。

「でしょう?」

 亜矢はニヤリとして蝦夷の顔を覗き込んだ。蝦夷は妙に心臓がドキドキした。

 蝦夷と亜矢は真新しい飛鳥寺の境内を散歩した。境内の桜がちょうど満開の時期を迎えていた。

「きれいですね」

 蝦夷が桜の木を見上げてそう言った。

「そうですね。とても美しいですわ」

 と、亜矢も桜の木を見上げた。

「ぼくはこういう美しいものを見ると何だかほっとして心が落ち着くのですよ」

「またおかしな事をおっしゃって」

「え? そんなに変ですか? 亜矢さんもそういう気持ちになることはありませんか?」

「そりゃあ、ありますけど、でも、善徳さまはやはりお疲れになっているのですよ。飛鳥寺の準備で毎日お忙しいから」

「確かにずっと休んでいませんが・・・」

「ほら。いけませんよ、そんなに根をつめては。適度の休息をとらないと体がまいってしまいますわよ」

 亜矢が心配してそう言った。

「でも、この飛鳥寺の仕事は、ぼくが父に初めて任された仕事なのです」

 と、蝦夷は胸を張った。

「ぼくは、ご覧の通りの能無しです。陰では蘇我家の出来損ないと言われているらしいです。まあ、そういう陰口を叩かれても仕方ないでしょうね。だって、同級生の厩戸皇子は摂政となってこの国の舵取りをしているし、阿倍高志くんは大夫としていま東北地方の蛮族対策の仕事をしています。それなのにぼくはまだ何でも無いのですから。父はぼくに重要な仕事を任せようとはしません。きっとぼくのことが信用出来ないのでしょうね、あいつはどうにも頼りない奴だと思って」

「それは善徳さまの思い過ごしですよ」

「気休めを言うのはよしてください。本当にそうなのですから」

 と、蝦夷は珍しく苛立った。

「とにかくぼくは今回の仕事を立派にやり遂げて、父に認めてもらいたいのです。ぼくが頼れる男だと認めてもらいたいのです。そのためにも完璧な仕事をしなければならないのです」

「ねえ、善徳さま。あまり思い詰めない方がいいですよ。善徳さまはあまりにもご自身のことを悪く考えすぎです。大臣さまも心の中では善徳さまを頼りにしていると思いますよ」

「父だけが理由じゃないのです。母のこともあるのです。母はいま病気で寝ています。かなり危険な状態です。母は父に滅ぼされた物部大連の妹なのです。蘇我家と物部家のはざまで、これまで母はさんざん辛い思いをしてきました。だから早く一人前になって母を喜ばせてあげたいのです。母は仏教が嫌いですが、それでもぼくが立派な仕事をしたと知れば喜んでくれるでしょう。そうすれば母の病状も少しは良くなるかもしれません」

「善徳さまはお優しいのですね」

 と、亜矢は蝦夷に温かい眼差しを送った。

「いや、そんな事はないですけど」

 蝦夷は照れて顔を赤くした。

 ところが、そんな蝦夷の目論みは脆くも崩れ去った。布都が亡くなったのである。燭台の細い炎が次第に小さくなってゆき、遂にはふっと消えてしまうかのように、静かに布都は亡くなった。蝦夷は母の死に意気消沈した。

(ぼくは母さんに何ひとつ良いところを見せられなかった。やっぱりぼくは能無しなんだ。ぼくは何をやっても駄目なんだ・・・)

 めそめそしている蝦夷にヨシがこう言った。

「若さま、いつまでも悲しんでいてはいけませんよ。若さまが沈んでばっかりいると、かえって奥方さまがお悲しみになります。奥方さまは極楽でちゃんと若さまの姿を見てくださっていますからね。だから元気を出すのですよ」

 小さい頃から、蝦夷に何かあると、いつもヨシが励ましてくれた。落ち込んで自信を無くす蝦夷を元気づけてくれたのは、いつもヨシだった。蝦夷にとってヨシは、ぬくぬくと暖かい寝床のような存在だった。ヨシは蝦夷の心の支えであり、ヨシがそばにいてくれたからこそ、蝦夷はつらい事にも耐えられたのである。

 ところが、今の蝦夷は、もうヨシの慰めでは満足出来なかった。蝦夷の心にぽっかり空いた穴は、激しく別の誰かの励ましを求めていた。その人の顔は蝦夷の心の中にはっきりと映っていた。蝦夷は止利の屋敷を訪れた。

「このたびはご愁傷さまです」

 玄関先で出迎えた亜矢は気の毒そうな顔をしてそう挨拶した。

「奥方さまのお葬式には父とわたしも出席します。善徳さまも早くお元気になってくださいね」 

 そう言われても蝦夷は黙ってうつむいたままだった。

「善徳さま、大丈夫ですか?」

 亜矢が心配してそう尋ねた。

「すいません。急にやって来て」

 やっと口を開いた蝦夷は亜矢に詫びた。

「母の死で気が動転していたものですから」

「わたしは少しも構いませんから、どうぞ中へお入りになってください」

 そう言われても蝦夷は動こうとはしなかった。玄関先につっ立ったままじっとしていた。しばらくして蝦夷は目を伏せたままぽつりとこう言った。

「どうしてもあなたの顔が見たくなったのです」

「それは・・・どうもありがとうございます」

 亜矢は動揺してそう答えた。

 その後も蝦夷は黙ったままだった。亜矢の方もどうしていいか分からず、じっとしていた。長い沈黙の時間が過ぎた。困り果てた亜矢が何か言おうとしたその時、

「今日はどうもすいませんでした。失礼します」

 蝦夷はそう言って帰っていった。亜矢は走り去る蝦夷の後ろ姿を呆然と見送った。

 布都の葬儀は、さすがに最高権力者の妻の葬儀とあって盛大なものとなり、たくさんの人が参列した。その中には旧物部系の豪族が多く含まれていた。彼らは蘇我物部戦争の後、馬子によって一族郎党すべて根絶やしにされそうになったところを、布都の尽力のお陰で何とか命を永らえた人たちだった。布都は彼らにとって命の恩人だった。彼らは、蘇我一族のことは大嫌いでも、布都のことだけは自分たちの聖母のように思い、慕い続けていた。

 布都の死によって飛鳥寺の完成式は当分のあいだ延期になった。それは仏教を忌み嫌っていた布都が見せた最後の抵抗のようにも思えた。

 飛鳥寺の完成式は先に延びたが、彗慈の太子への講義はすでに始まっていた。太子は上宮の屋敷へ彗慈を招き、差し向かいで仏教の講義を受けた。彗慈は日本語が話せなかったが、太子は朝鮮語が話せたので意志の疎通に困ることは無かった。彗慈は、来日の際、多数の経典を日本へ持ち込んだ。その中には太子がまだ知らない経典が数多く含まれていた。太子はそれらの経典を読み、分からないところを彗慈に質問した。

 日本へ来た時、彗慈は四十代後半だった。現代の我々から見れば、まだ年寄りというほどの年齢ではないが、当時の人々にとっては充分に老人だった。しかも長い修行生活のお陰で独特の重厚な風格が備わり、いかにも高僧といった外見をしていた。

 もちろん彗慈が高僧なのは外側だけじゃなかった。中身も文句無しの高僧だった。中国へ渡った仏教は六朝時代に思想的な進化を遂げ、それはすぐに高句麗にも伝わった。彗慈はその最先端の仏教の権威だった。仏教だけでなく儒教や道教の造詣も深かった。

 それまで太子が学んできた百済経由の仏教は南方系であり、氏族仏教的な傾向が強かったのに対し、彗慈がもたらした北方系の仏教は国家仏教的な色彩を帯びていた。蘇我氏が掲げる仏教に対抗しうる新しい仏教の可能性がそこにあった。太子は高句麗の僧を招聘させた自分の考えがまちがっていなかった事を密かに喜んだ。

 しかも彗慈は単なる学僧ではなかった。隋と新羅に挟まれた高句麗の人間として、多分に政治的な感性の持ち主だった。すなわち、彼もまた隋の出現による母国の行末を案じている一人だったのである。その点で太子と彗慈は同じ悩みを共有する仲間同士だった。 

 講義中にこんな事があった。彗慈が持ってきた法華経の経典の中に欠字があったので、太子が

「先生、ここの文字が欠けていますが」

 と指摘すると、彗慈は

「そこはどの国の経典でも欠けています」

 平然とそう答えた。

「ここにはどのような文字が書かれていたのでしょうか?」

 腑に落ちない太子が改めてそう尋ねると、返ってきた彗慈の言葉は意外なものだった。

「どうぞ、殿下のお好きな文字をお入れください」

 と言うのである。これにはさすがの太子も驚き

「しかし先生、聖なる経典にわたしなどが勝手に手を加えたらやはりまずいのではないでしょうか?」

 そう言うと今度は彗慈が不機嫌な表情で質問した。

「殿下は坊主になるおつもりなのですか?」

「いいえ、ちがいますが・・・」

「それなら経典を研究する学者になるおつもりなのですか?」

「わたしはこの国の指導者になる人間です」

「殿下は仏教による新しい国造りをするおつもりなのでしょう?」

「その通りです」

「それなのに、なぜいちいち経典の文字などにこだわるのですか?」

 彗慈にそう言われても太子はきょとんとするばかりだった。

「よろしいですか、殿下。仏教はもともと遠い西国の釈迦が開いた教えですが、現在伝わっている経典のほとんどは釈迦が実際に記したものではありません。それらは後世の人々が作ったものなのです」

「すると先生は、これらの経典は偽造されたものであるとおっしゃりたいのですか?」

「そうではありません。これらの経典は、いわば果実なのです。釈迦が蒔いた種を後世の人々が大切に育て、たわわな果実を実らせたのです。なぜそんな事が可能だったのかと言うと、それは仏教が生きているからです。死んだ教えは何をしても成長しません。しかし、釈迦が蒔いた種には豊かな生命力が宿っていたのです。人々は仏教を、過去の遺物としてではなく、生きた教えとして受け入れてきました。そして利用しました」

「利用?」

「つまり自分たちの都合のいいように解釈したということです」

「それはまずいでしょう」

「一般的にはそうです。一般的には許される事ではありません。でも、それが人々の幸せのためだったらどうでしょう? 大切なのは教義ですか? それとも人々の幸せですか? そもそも仏教は何のためにあるのですか? それは人々の幸せのためにあるのではないのですか?」

「確かに先生のおっしゃる通りですが・・・」

「大切なのは、あくまでも人々の幸せです。仏教はそのための手段にすぎないのです。つまり単なる道具なのです。釈迦が仏教を興したのも人々の幸せを願ってのことでしょう。それならば、いくら勝手な解釈を加えても、それが真に人々の幸せのためならば、決して釈迦の心から外れる事は無いはずです。道を誤ることはないはずです」

「はあ・・・」

「心を受け継ぐのです。釈迦の心を。常に人々の幸せを考えていれば自然と釈迦の心に適うはずです。そうなればもう経典の欠字など気にならないはずです。そして釈迦の心を身につけたら、細かい事など気にせずに、大局を見据えて思い切った政治をおこなってください、この国のために、未来のために、人々の幸せのために。それが天より与えられた殿下の使命なのです」

 彗慈は太子の仏教の教師だけでなく、その政治顧問にもなった。同じく太子の政治顧問である秦河勝を加えた三人は、今後の日本の在り方について密談を重ねた。太子と彗慈の結論は最初から決まっていた。それは隋という大帝国に対抗するために、日本を現在の氏族社会から天皇を中心とする統一国家に変えなければならないということだった。

 統一国家建設という点では馬子も同じ考えの持ち主だった。しかし、馬子のそれはあくまでも蘇我家を中心とした統一国家であり、馬子にはゆくゆく天皇の地位を簒奪しようという野心が隠れていると太子は睨んでいた。皇族である太子の立場からすれば、蘇我家が天皇家を乗っ取るなどという事は、とうてい容認出来るはずがなかったが、仮に皇族でないとしても、蘇我家が天皇家に取って代わるのは認められないと考えていた。というより端からそんな事は無理だと思っていた。

 いくら蘇我家が権力を振りかざそうとも、天皇家の持つ絶対的な正統性を手に入れる事は出来ない。それは歴史の重みというものである。天皇家には天照大神より連綿と続く長い歴史がある。その歴史に裏打ちされた正統性があるがゆえに、日本は天皇家を中心にまとまっているのである。蘇我家も古い家柄だが、天皇家ほどの歴史は無い。そんな蘇我家が天皇家にとって代わろうとしても、人々は納得しないだろう。 

 それゆえ太子の考える統一国家実現の最大の障害は馬子であった。河勝は秦一族の長という立場もあって氏族社会の解体に対しては消極的だったが、馬子打倒という目標は太子と一致していた。残る問題はその方法だけだった。

「ただちに蘇我家を滅ぼすというのは現実的ではないので、とりあえず少しずつ蘇我家の力をそぐようにすべきだと思います」

 と、河勝は朝鮮語でそう言った。外国語に堪能な河勝は、日本語がまだ片言の彗慈が一緒にいる時は、気を遣って朝鮮語で会話したのである。

「具体的にはどうするのですか?」

 と、太子も朝鮮語で尋ねた。

「先の戦争で敗れた物部側の豪族たちを少しずつ復権させて、朝廷内での蘇我の勢力を相対的に下げるようにするのです」

「それは名案ですね。さっそく実行しましょう」

「あくまで少しずつですよ、殿下。急激に数を増やすと嶋大臣に悟られますからな」

「分かっていますよ。ちゃんと上手くやります」

「いくら蘇我家が強大な権力を有しているといっても、その繁栄はそう長く続かないのではないでしょうか?」

 と、ここで彗慈が口を挟んだ。

「それはどういう意味でしょうか?」

 と、河勝が彗慈に質問した。

「大臣閣下はもう若くないので、いつ何が起こっても不思議ではありません。もし大臣閣下に万が一の事があったら、いま寺司をなさっている善徳殿が後を継がれるのでしょう? そうなればもう蘇我家など恐れる必要は無くなるのではないですか?」

「大僧正は善徳殿に会われたことがあるのですね?」

 失笑しながら河勝が彗慈にそう尋ねた。

「はい、何度かお目にかかりました」

「で、その時の印象はどうでした?」

「とても真面目な好青年でしたよ」

「しかし、蘇我家の当主は無理だと?」

「はい」

「ははは。見る目は誰も一緒ですな。その善徳殿は殿下のご学友なのですよ。しかもたいへんに仲の良い。そうですよね、殿下?」

「ええ、彼はわたしの親友で、先生のおっしゃる通り、極めて善良な人間です。そう、裏も表も無い善良そのものの人間です。わたしは彼のまっすぐな人柄をとても愛していますが、彼の代になったら蘇我家の勢力は今の半分になるかもしれませんね」

 太子はそう答えた。

「半分以下でしょう」

 と、河勝は分析した。

「ただ、そう簡単に嶋大臣が死ぬとは思えません。現に彼は天然痘に罹っても生き延びましたからね。まったく恐ろしい生命力の持ち主です。ですから、まだしばらくの間は嶋大臣の死を期待するのは難しいかと思います」

「自然の死が期待出来ないのであれば、人為的な死はどうなのですか?」

 彗慈が冷たくそう言い放った。

「暗殺ですか?」

 河勝は、まさか彗慈のような高僧の口から暗殺の話が飛び出すとは思っていなかったので、いささか面食らった様子でそう訊き返した。しかし、大義の前には小悪もやむなしと考える彗慈は、平然と頷いた。それを見て河勝は言葉を継いだ。

「まあ、いざとなったらそういう方法を採らなければならないでしょうけど、向こうも警戒して常に万全の警備をしていますからね。それに嶋大臣自身が敵の十人や二十人は平気で倒すほどの武芸の達人なので、現実にはなかなか難しいでしょうね。今のところは様子見という感じです」

「ま、あせらずにゆっくり行きましょうよ」

 と、太子は彗慈と河勝の両方へにっこり微笑みかけた。

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