13 祟峻天皇
馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です
祟峻天皇は、当初、自分を天皇の位に就けてくれた馬子に感謝し、義理の父である馬子を「わが父」と呼んでたいへんに慕っていた。ところが、そんな二人の蜜月関係は長く続かなかった。馬子が権力を独占し、自分には何の権限も無いという現実を知るにつれ、次第に祟峻天皇が周囲に不満をこぼすようになったのである。
「陛下、滅多な事をおっしゃってはなりませんよ。もし嶋大臣の耳に入ったら大変な事になります」
祟峻天皇が不満を口にするたびに側近たちはそう言ってたしなめたが、それがまた天皇をいら立たせた。
「なぜ大臣に気を遣う必要があるのだ? おれがいちばん偉いのではないのか?」
「もちろんそうです。日本国の人間はすべて陛下のしもべです」
「しかし、現実はちっともそうなっていないじゃないか」
「ですから、そこは陛下も大人になってですね、物事を少し寛容に考えるようにしていただければと思うのですが」
そう言って側近の一人が愛想笑いをした。
「もううんざりだ。おれは大臣の操り人形じゃないのだぞ。今後、国の政策はすべておれが決める。大臣の好きにはさせないぞ」
祟峻天皇は逆上してそう叫んだ。側近たちは、触らぬ神に祟り無しとばかりに、そそくさとその場を退席した。
一人になって怒りのやり場を失った祟峻天皇は手近な物に八つ当たりして、あたりかまわず皿を投げたり燭台をひっくり返したりしていたが、皇后の河上が侍女を引き連れてやって来るとぴたりと動かなくなった。
「どうしたのですか? こんなに散らかして」
河上は呆れてそう尋ねた。
「いや、何でもない・・・」
と、祟峻天皇はばつが悪そうに答えた。
「もしかして父に対する不満をおっしゃっていたのではないでしょうね?」
「そんなこと言ってないよ。なぜそう思うのだ?」
と、祟峻天皇はおどおどして訊いた。
「最近、陛下が父に不満を抱いているという噂を小耳に挟みましたので・・・」
「そんな・・・誰がそんないい加減な事を言っているのだ? そいつをここへ呼んで来い。おれは一度も大臣への不満など口にした覚えは無いぞ」
祟峻天皇はまだ二十代だったので若さゆえの反抗心に溢れていたが、いくら強がりを言っても、いざとなるとやはり内心では馬子が怖かった。それゆえ馬子の娘である河上を警戒していた。妻に下手な事をしゃべると、それがそのまま馬子に伝わると思っていたのである。祟峻天皇は河上の前では余計な事を一切言わなかった。
「それならば良いのですけど。いいですか、誰のお陰で天皇になれたのか、それを忘れてはなりませんよ」
と、河上は祟峻天皇にぴしゃりと釘をさした。
「勘違いなさらないでください。これは陛下のために申し上げているのですよ。わたしは実の娘として父の恐ろしさがよく分かっております。父は非情な人間です。もし父の機嫌を損ねたら陛下にどんな災いが降りかかってくるか分かったものではありません。ですから、何があってもご自重くださいね。くれぐれもご忠告申し上げておきますよ」
「分かったよ。大臣に逆らうつもりなんか無いから、もう一人にしておいてくれ」
祟峻天皇はイライラしてそう叫んだ。
河上はまだ言い足りない顔をしていたが、諦めて退室した。姫自身には祟峻天皇を陥れようという意図は皆無だった。もちろん、馬子に余計な事をしゃべったりもしなかったし、それどころか夫である祟峻天皇を心配して、何とか馬子との仲を修復しようと努力していたほどだった。
馬子に祟峻天皇の情報を伝えていたのは、河上姫が輿入れした時について来た従者である倭漢一族の駒という男である。駒は馬子のスパイであり、祟峻天皇の動向を逐一馬子へ報告していた。河上や蘇我家の人間のいない場所で、祟峻天皇が側近たちに馬子の悪口を言ってうさを晴らしている事も、駒はすでに掴んでいた。そして、その情報はとっくに馬子のもとへ届けられていた。しかし、馬子はそのまま放っておいた。もともと馬子は祟峻天皇の事など単なる若僧程度にしか思っていなかったし、放っておいてもどうせ何も出来ないだろうと高を括っていたからである。
馬子と祟峻天皇の対立は深く静かに潜行していった。
蝦夷と内麻呂は学校を卒業し、それぞれ父親の手伝いを始めていた。鳥子の後につき従って朝廷内を堂々と歩く内麻呂は本当に誇らしげな顔をしていた。それに対して蝦夷は常に馬子の後ろに隠れるように歩いていて、廊下ですれ違った皇族や豪族に挨拶されても、おどおどと口ごもるばかりだった。そんな蝦夷を馬子は苦々しい顔で見ていた。朝廷内の誰もが、蝦夷の代になったら蘇我家も滅びるだろう、そう思っていた。
内麻呂は博多にいる楓にせっせと手紙を送り続けていた。もともと字が書けなかった楓の返事は、最初のうちこそ読めた代物ではなかったが、毎日懸命に勉強しているのが実感できるほど急速に上達していた。内麻呂は楓の成長を喜び、早く迎えの船を出して楓を都へ連れてきたいものだと願っていた。
二年の歳月が流れた。
ある日、しばらく訪れていなかった上宮の屋敷を蝦夷が訪問すると、厩戸は庭にいた。見知らぬ若い女性と一緒に庭の花を鑑賞しながら談笑していた。
「お邪魔でしたか?」
蝦夷がそう言って近づくと、厩戸は照れ笑いしながら
「いや、よいのですよ。紹介しましょう。こちらは膳部大夫の姫君です」
と言った。
その姫君は蝦夷をまっすぐ見つめてにっこりと微笑んだ。
「嶋大臣のご子息の善徳さまですね? 初めてご挨拶させていただきます。膳部の娘、菩岐と申します」
「あ、こちらこそ、どうも・・・」
蝦夷は膳部と聞いて
(ああ、父さんと親しいあの人か)
と思った。
蝦夷も馬子の部下ともいえる大夫たちはよく知っていた。その中で内麻呂の父、鳥子はいつも真面目できちんとしている印象だった。反対に巨勢比良夫は大酒飲みで、下品で、乱暴者という印象だった。彼らに比べると菩岐の父、賀多夫は影が薄かった。個性が無いというか、蝦夷にはいつも静かで目立たない印象しかなかった。
だから、その賀多夫にこんな愛らしい娘がいたことは、蝦夷にとっては意外だった。蝦夷はもの静かで控えめで地味な賀多夫しか知らないので、それと目の前の可憐な少女がどうしても結びつかなかったのである。それくらい菩岐は輝いていた。張りのある若い肌と弾けるような笑顔は周囲をぱっと明るくしていた。顔付きにはまだ幼さが残っていたが、受け答えする姿からは彼女の利発さと芯の強さが感じられた。
(素敵なお姫さまだ)
蝦夷は一目で菩岐に好感を抱いた。
「ところで、皇子と姫さまはどういうご関係なのですか?」
蝦夷がそう質問すると、菩岐は顔を赤らめ、後ろを向いた。その菩岐をいたわるように厩戸が言った。
「まだご存じなかったのですか? 姫とわたしは婚約したのです」
婚約と聞いて蝦夷は驚いたが、十七歳の蝦夷たちはそろそろ結婚してもおかしくない年齢だった。
「え? いつ婚約なさったのですか?」
「三カ月ほど前です。嶋大臣もわたしと姫の婚約を知っていますよ。大臣から何も聞いていませんか?」
蝦夷は首を横に振った。仕事を手伝っているというのに息子の自分に何の情報も伝えてくれない馬子を、蝦夷はうらめしく思った。
「姫のことは小さい頃から存じ上げていたのですが、最近また親しく話をするようになりましてね。お互い仏教徒ですから、一緒に仏教の話などをしているうちに、自然と恋に発展したというわけなのです」
「はあ、そうですか・・・」
「こんな事を言うのは、はなはだ照れ臭いのですが、姫とわたしは妙に気が合うのですよ」
「なるほど」
厩戸は完全に恋する男に変貌していた。楓の時もそうだったが、厩戸は恋に落ちると日頃の明敏さが影を潜め、ただの平凡な男に成り下がる傾向があった。蝦夷は「この人には女難の気があるな」と密かに思ったくらいである。もっとも、恋する男は大概そういうものなのだが。
とにかく、でれでれした厩戸の顔を眺めていてもしょうがないし、こんな時に話をしても何の得るものも無いのは分かりきっていたので、蝦夷は早々に退散した。
蝦夷が屋敷へ戻ると、ちょうど夕食の時刻だった。夕飯を食べながら、その日あった出来事をヨシに話して聞かせるのが、蝦夷の習慣だった。蝦夷が厩戸と菩岐の婚約の話をすると、ヨシはパッと顔を輝かせた。
「それは良縁ですね。膳部大夫さまもさぞお喜びでしょう」
「どうして?」
「だって、厩戸皇子さまといえば、とても聡明で、次の天皇候補にも挙げられている方じゃないですか。若さまの親友でもあるし、膳部家の将来のためには、またとない縁談だと思いますが」
「皇子は天皇にはならないよ。いや、なれないよ。父さんが許さないもの。皇子を天皇にする気が無いから、父さんは膳部家の姫との結婚を許したんだよ」
「しかし、いずれはお館さまに代わって若さまが大臣職をお継ぎになるのですから、その時はまた状況が変わるかもしれないじゃないですか」
「確かにね。ぼくが大臣になれば皇子を天皇にするだろうね。彼の優秀さはぼくがいちばんよく知っているからね」
「そうなれば膳部大夫さまも天皇家の外戚となれるじゃありませんか」
「そうやってぼくたち豪族は勢力を伸ばしてきたんだよね。実際、今うちの姉さんも皇后になっているものね。姉さんといっても数回しか会ったことがないけどさ。でも、そうなると、膳部家の力が強くなるのを防ぎ、蘇我家の権勢を維持するために、大臣になったぼくは皇子を天皇にするのを拒否しなければならなくなるのかな? 親友を裏切るような真似をしなければならなくなるのかな? そんなのは嫌だな」
「まあ、将来はそういう難しい問題も生じるかもしれませんけど、いずれにせよヨシは楽しみですよ、若さまが立派な大臣におなりになる日が」
そう言ってヨシは微笑んだ。
「本当にぼくが大臣になれるのかな? 父さんの後を継いで一人でちゃんとやっていけるのかな? 今のぼくにはとても想像がつかないのだけど」
「大丈夫ですよ。若さまなら立派にやっていけますよ。でも、その前に、厩戸皇子さまと同じように、若さまも素敵なお嫁さんを貰わなければなりませんね」
「ぼくはまだいいよ」
と、蝦夷は顔を赤らめた。
「いえいえ、そろそろ真面目に考えなければならない時期ですよ。若さまにはこれはと思っている姫さまはいらっしゃらないのですか?」
「いないよ。いるわけないじゃないか」
蝦夷は逃げだすような素振りをした。
「特に想っていらっしゃる方がいないのでしたら、そのうちお館さまが良い縁談を持ってこられることでしょう。そうじゃなかったら、このヨシが若さまに相応しい姫さまを探してまいります」
「どうしてもぼくは結婚しなければならないのかい?」
「当たり前です。それとも若さまは蘇我本宗家の血を絶やすおつもりなのですか?」
「そうじゃないけどさ。とにかく結婚するにせよ、相手はぼくが見つけるよ。こればかりはいくら父さんの命令でも嫌だ。知らない女の人を押し付けられるのは真っ平だ。自分が納得した相手とじゃないと、ぼくは絶対に結婚しないよ」
この時の蝦夷は無意識のうちに大人になることに抵抗していた。しかし、時はそんな蝦夷のささやかな抵抗をあざ笑うかのように、情け容赦なく次の展開へと蝦夷たちを押しやっていった。
内麻呂の父、鳥子が急逝した。
卒中だった。仲の良い親子だっただけに突然の父の死は内麻呂に大きな衝撃を与えた。内麻呂は悲しみに打ちひしがれ、すっかり焦燥しきっていた。蝦夷が慰めの言葉をかけても何の役にも立たないほど内麻呂の悲しみは深かった。
鳥子の葬儀に参列した馬子は内麻呂を近くへ呼んでこう言った。
「今回の突然の訃報はわしにも大きな打撃じゃった。お父上とわしはもう何十年も共に働いてきた仲じゃったからな。まさに肝胆相照らす仲じゃったと言ってよいじゃろう。お父上はそれはそれは優能な政治家であったぞ。お父上が亡くなった今、おまえは後を継いで朝廷の大夫とならなければならない。色々と不安もあるじゃろうが、心配はいらぬぞ。これからはわしを実の父と思って、分からない事があったら、何でもわしに相談するがいい。亡きお父上の恩に報いるためにも必ずやおまえの力になってやるぞ」
「ありがとうございます。何事も大臣のお指図に従いますので、何卒よろしくご指導お願い申し上げます」
馬子の言葉に内麻呂は泣きながらそう答えた。内麻呂はちゃんと弁えていた。いくら強がってみても、しょせん阿倍家が生き残ってゆくためには、馬子の尻にくっついて行くしかないということを。馬子に逆らって自分たち一族に未来は無いということを。
若輩ながら大夫という重職に就いた内麻呂は、とうぜん朝廷の会議にも出席したが、常に馬子に賛成の立場だった。その他、何をするにせよ、内麻呂は馬子の意に添うように努めた。内麻呂は馬子に気に入られようと必死だった。馬子の方もそんな内麻呂を可愛いがり、何かと目をかけてやっていた。今や内麻呂は完全に馬子の言いなりだった。
やんちゃだった内麻呂が、まるで別人のようなクソ真面目な顔をして馬子の側にかしこまり、その指示を仰いでいる姿を見ると、蝦夷は思わず吹き出しそうになった。
いちど蝦夷はそんな内麻呂をからかったことがある。
「どうしちゃったんだよ、高志。そんな真面目くさった顔をしてさ。最近じゃぼくの父さんの前でぺこぺこしてばかりじゃないか。おまえらしくないぞ。たまには思いっきりがーんと言ってやれよ」
蝦夷に悪意は無かった。ほんの軽い冗談を言ったつもりだった。しかし、内麻呂にとっては冗談では済まされない事柄だった。内麻呂は泣きそうな顔をして蝦夷の方を向くと、
「だってしょうがないじゃないか。生きてゆかなければならないんだから」
そう言って足早にどこかへ行ってしまった。
蝦夷はハッとした。内麻呂の意外な反応に驚くと共に、彼を傷つけてしまったことを悔やんだ。そうか、ぼくたちはもう子供じゃないんだ。蝦夷は改めてそう思い知った。いつの間にか子供時代は終わって、ぼくたちは大人の仲間入りをさせられていたのだ。大人はたいへんだ。いろんな物にがんじがらめにされて。もう子供のように無邪気ではいられない。たわいもない冗談も通じない。責任ばかりが重くのしかかる。でも、こんなに早く大人にならなければならないのだろうか? もう少し子供のままでいさせてはもらえないのだろうか? 蝦夷は内麻呂が去っていった方向をぼんやり眺めながらそんな事を考えていた。
夏の終わりに厩戸は菩岐と結婚した。
若い皇族の結婚は朝廷内に華やいだ雰囲気をもたらした。ただし、祟峻天皇の気分だけが沈んでいた。というのも、今回の結婚に関して、祟峻天皇はまったく蚊帳の外に置かれたからである。厩戸の結婚式は馬子を主賓に執りおこなわれた。祟峻天皇には出席の誘いも無かった。それどころか、近ごろでは万事において祟峻天皇は蚊帳の外だった。山奥の辺鄙な場所に造られた倉梯宮に押し込まれて、朝廷の会議にも出席を求められなくなっていた。おとなしく歌を詠んだり、楽器を演奏したり、ただそれだけをしていろと言われているようなものだった。
二年前に妹子が予想した通り、隋の出現により百済、新羅、高句麗の朝鮮三国の間に緊張が走り、そのせいで百済と新羅の間で紛争が生じた。仏教を伝えてくれた百済系の渡来人を多く保護していた関係で、蘇我氏は昔から百済と深い親交があった。馬子は百済応援のため博多へ葛城烏那羅を大将とする二万の兵を送ることを決めた。馬子の腹は海を渡ってすぐに援軍を送れる博多に大軍を駐屯させることによって新羅を威嚇し、出来ればそのどさくさに紛れて、かって新羅に滅ぼされた任那の復興を図るというものだった。任那が復活すれば日本が朝鮮半島へ出兵する際の足掛かりになりうるし、また大陸からの侵略に対する防波堤にもなりえた。任那再興は大和朝廷の長年に渡る悲願だった。
ところが、この重要な派兵の決定も、祟峻天皇抜きで、馬子の独断によって決定された。これに対しては朝廷内でも多少の異論があったが、馬子は強引にねじ伏せてしまった。祟峻天皇は、馬子のこのようなやり方を、自分に対する侮辱と受け取った。側近たちが止めるのも聞かず、祟峻天皇は馬子への批判を公然と口にするようになった。朝廷に献上された山猪を見た時も
「この猪のように憎らしい奴の首を落とせたら、さぞ痛快だろうな」
と、祟峻天皇が言ったものだから側近たちが慌てた。それが馬子を指しているのは誰の目にも明らかだったからである。
祟峻天皇はそれだけでは飽き足らず、とうとう馬子の暗殺をも計画するようになった。馬子さえ殺せば後は何とでもなると祟峻天皇は思っていた。
(大臣が死ねば、あの頼りない善徳が後を継ぐことになる。そうなれば蘇我一族など、もはや恐れる心配は無い。蘇我家はどんどん弱体化し、再び天皇家に実権が戻る可能性も出て来るだろう・・・)
朝廷内には馬子の権力がこれ以上肥大化する事に危機感を抱いている勢力が少なからず存在した。祟峻天皇はそれらの勢力に働きかけて、密かに馬子暗殺のための武器や兵士を集めつつあった。だが、この企みはいち早く駒の知るところとなり、すぐに馬子へ急報された。駒から知らせを受けた馬子は、今回ばかりはさすがに祟峻天皇を放っておけなくなった。とはいえ相手は天皇である。馬子といえども迂闊な行動は出来なかった。摩理勢と二人きりで何かを協議した後、馬子は駒を呼び出した。
「今回の件ではわしもたいへん憂慮しておる」
馬子は重い口調でそう言った。
「まさにその通りです。いかに陛下といえども、今回の企みは到底許されるものではありません」
と、駒は言った。
「そこで陛下をどうするかじゃが・・・」
「わたしは遠島に処すべきだと思います」
「わしはなあ、駒」
馬子はそう言って少し間を置いた。
「陛下自身よりも陛下の企みに同調する勢力が朝廷内にまだいることを重大視しておるのじゃ。そこで、その者らが二度と逆らう気を起こさなくなるように、わしに反抗しようなどとは金輪際思わなくなるように、今回は断固たる処置を採りたいと思っておる。これを機会に蘇我家の支配を盤石なものにしたいのじゃ」
「と申しますと?」
「おまえに陛下を殺してもらいたい」
「陛下を殺す?」
駒は飛び上がって驚いた。
「し、しかし、いくらなんでも、それは・・・」
「おまえの気持ちはよく分かる。じゃが、よく考えてみよ。それくらいの事をしなければ、また性懲りも無くわしに逆らう者が出てくるじゃろう。だが、いざとなれば陛下の命さえ奪うと知れば、さすがに恐ろしくなって、もはやわしに逆らう者はいなくなるはずじゃ。わしはそれを狙っておるのじゃ」
「しかし、陛下を手にかけた後、このわたしはどうなるのでしょうか? わたしは死罪になってしまいます」
駒は震えながらそう言った。
「それは心配ない。後の事はちゃんと考えてある」
「あの・・・それはどのような?」
「だからちゃんと考えてあると言っておろうが!」
馬子はとつぜん大声を上げた。駒は驚いてびくんとした。
「それともこのわしが信用出来ないと言うのか? え、そうなのか?」
馬子にそう詰め寄られると駒は額を床に擦り付けて詫びた。
「申し訳ございません。何事も閣下のご指示に従います」
「いいか。あまりわしを怒らせるなよ。もういちど逆らったら次は命が無いと思え」
「ははっ」
駒は額を床に付けたままそう返事をした。その後、駒は馬子から祟峻天皇暗殺についての細かい指示を受けた。
数日後、東国から珍しい貢ぎ物が届いたという知らせを聞いた祟峻天皇が興味津々な様子で内裏から出てくると、途中で待ち伏せしていた駒が短刀で天皇の心臓を一突した。天皇は声も立てずに崩れ落ち、そのまま絶命した。たちまち宮中は大騒ぎになった。駒はその騒ぎに紛れて脱走し、あらかじめ馬子が用意しておいた隠れ家へ逃げ込んだ。
祟峻天皇が刺殺されたという報告を受けると、ただちに馬子は摩理勢を犯人捜索に向かわせた。手勢を率いた摩理勢は駒が隠れている家を急襲した。
「陛下の命を奪った逆臣、覚悟せよ。この境部が成敗してくれるわ」
摩理勢は駒の鼻先に剣をつきつけて、そう大声を張り上げた。
「お、お待ちください。境部さま。これは何かの間違いです。わたくしは大臣閣下に指示されて行動したまでのこと・・・」
駒はおろおろしながら必死にそう弁解した。
「黙れ。きさまが皇后陛下に邪まな欲望を抱き、あろう事か無理やり皇后陛下と肉体関係を結んだ事は、すでに調べがついておるのだ。今回の犯行も皇后陛下を自分一人のものにしたいという不埒な望みが原因であろう」
「わたくしが皇后さまと・・・河上姫さまと関係を? 滅相もございません。とんだ濡れ衣です。まったく身に覚えの無い事です。どうか皇后さまにご確認ください。そうすればわたくしが潔白だという事が分かるはずです」
「うるさい。皇后陛下は出家して尼になられた」
「尼に?」
駒がそう呟いた時、摩理勢の剣は無情にも駒の体を刺し貫いていた。
「それでは最初からわたしを殺すつもりだったのですね?」
体に刺さった剣を両手で掴み、口から血を吐きながら、駒は摩理勢を睨んでそう言った。摩理勢が思わず後ずさりするほどの凄まじい形相だった。
「最初からわたしを騙して陛下を殺させ、その後でわたしを始末するつもりだったのですね?」
「すまん。黙って往生してくれ」
摩理勢はそう言うと、目をつむって駒にとどめを刺した。
亡くなった祟峻天皇は、その日のうちに埋葬された。天皇が殯も行わずにそのまま埋葬されるのは誰の目にも異常な事態だったが、馬子を恐れて異議を述べる者は一人もいなかった。