12 帰京
馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です
内麻呂と楓は明確に互いを意識するようになり、態度がよそよそしくなった。最初のうち内麻呂は急に生じた距離感に戸惑い、最後の一線を越えるのをためらっていたが、とうとう我慢できなくなって、ある晩ついに楓に襲いかかった。
「お願い。ちょっと待って」
楓はそう言って部屋の隅へ逃げると身を縮めた。
「おれが嫌いなのか?」
と、内麻呂は絶望的な叫び声を上げた。
「ううん。そうじゃないのよ」
と、楓は首を振った。
「あたいは嬉しいんだよ。大好きなタカに求められて。でも、少し時間が欲しいんだよ」
「なぜ?」
「今まで何百人、いえ何千人の男と寝た遊女のくせに、いまさら何を言っているんだと思うかもしれないけど、ちょっと待って欲しいんだよ。遊女なら命の恩人のためにさっさと抱かれれば良いのにと思うかもしれないけどさ、それくらい朝飯前だろうにって」
「おれは、何もそんなふうには・・・」
「いいんだよ。あたいだってそう思っているのだから。だけどさ、あたいはついこのあいだまでウマの女だっただろう? あんたの友人のウマのさ。あたいの中でまだその整理がついていないんだよ。あたいはウマのことを真剣に愛していたし、その時はウマ以外の男に抱かれるなんて絶対に嫌だと思っていた。もしそんな事になったら死のうと心に決めていたほどだった。本当だよ。遊女だって、たとえ遊女だってさ、元はただの女なのだから、誰かを本気で好きになったらそうなるんだよ。今はタカのことがいちばん好きだけど、でもウマのことも嫌いになったわけじゃないし、そこら辺の事があたいの中でこんがらがって、まだ心のふんぎりがつかないんだよ。変かい? あたいの言っていることは」
「ちっとも変じゃないよ」
内麻呂はそう言って、後ろから楓を優しく抱き締めた。
「明日、おれから厩戸にはっきり言うよ。楓と別れてくれって言うよ。おれと楓は真剣に愛し合っているんだと言ってね。それなら良いだろう?」
翌日、内麻呂はその言葉を実行して、厩戸に楓と別れてくれるよう頼んだ。そばには蝦夷もいた。楓は後ろの方でしくしく泣いていた。厩戸はとっくに内麻呂と楓の仲に気づいていたので快く承知した。
「わたしはもう楓さんには手を出しませんから、お二人で仲良くやってください」
その夜、内麻呂と楓は向かい合って、お互いを見詰めていた。二人にとって待ちに待った夜だった。内麻呂の心臓は早鐘のように激しく鳴り響いていた。
「じゃあ、いいね?」
「うん・・・」
事が終わると、内麻呂は満足げな表情で天井を見上げた。楓は内麻呂が満ち足りた様子なのが嬉しくて、頬を内麻呂の胸もとに寄せてじっとしていた。
「楓」
と、内麻呂は呼んだ。
「はい」
楓は少し体を起こした。
「これからおまえは、わが伝統ある阿倍家の女だ。一生おれについてくる覚悟はあるな?」
内麻呂は妙に堅苦しい事を言い始めた。どうやら楓を妻にしたつもりでいるらしかった。一人前の男になったという興奮がそういうもの言いをさせているのであろうが、楓の不幸な半生は心に幻想を抱くのを許すほど寛大ではなかった。楓には分かっていた。しょせん自分は遊女であり、内麻呂とは生きている世界が違うということが。やがて内麻呂と別れなければならないということが。
「うん。あたいは一生タカのものだよ」
楓としては曖昧な返事をするより他は無かった。
「そうじゃないよ。おれが訊いているのは、阿倍家の人間になる覚悟があるかということだ。おれは我が阿倍家に誇りを持っている。阿倍家こそがおれのすべてだ。阿倍家を守るためなら、おれは何でもするつもりだ。おれについて来る以上、おまえにもそういう覚悟を持ってもらいたいんだ。」
「あたいはタカさえ幸せならそれで良いの」
「何だか話が噛み合わないけど、とにかくおれはおまえを一生愛し続ける。だから楓、おまえも一生おれのそばにいてくれるな? いいな?」
「ええ。たとえどこにいても、あたいはタカと一緒だよ」
「楓は変な言い方をするなあ」
内麻呂は続けて何か言おうとしたが、その口を楓が二本指で軽く押さえて
「そんな事より、ねえ、もう一回する?」
と言った。内麻呂は言葉に詰まって目を白黒させた。楓は内麻呂の小さな乳首を口に含んで舌で転がした。内麻呂は小さなあえぎ声を上げた。
「したいんでしょう?」
「うん」
内麻呂は再び楓の体に覆いかぶさっていった。
この日を境に、内麻呂と楓は誰憚ることなくいちゃつくようになった。まるで新婚夫婦みたいだった。厩戸と蝦夷はせっかくの愛の時間を邪魔しては悪いと思い、なるべく二人に近づかないようにした。内麻呂と楓は二人だけの甘い時間を心ゆくまで楽しんだ。
しかし、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ、気がつくと季節はすっかり秋になっていた。そろそろ都へ戻らなければならない時期だった。
そんなある日、蝦夷は楓に呼び出された。こっそり役所の裏の竹林まで来て欲しいという。蝦夷が指定された場所へやって来ると、そこには楓が一人で待っていた。
「悪かったわね、ゼン。わざわざこんなところへ呼びつけて」
「べつにそんな事は構わないけど、どうかしたのかい? 楓さん」
蝦夷はわけが分からずそう尋ねた。
「ゼンはいつもおとなしくて、あまりしゃべらない方だから、あたいも今までじっくりお話したことが無かったけど、でもあたいはいつも思っていたんだ、ゼンはとても心の優しい人だって。それに誠実で信用できる人だって」
「そりゃどうも・・・」
「それでね、そんなゼンに相談に乗ってもらいたい事があって、今日は来てもらったんだよ。あたいには他に相談できる人がいないからさ。相談できる相手はゼンだけだからさ」
「いったい何があったの? ぼくに出来る事なら何でも力になるよ」
蝦夷にこう言われても楓はなかなか切りだせずにいたが、やがて意を決すると
「相談したいのはタカの事なの」
と言った。
「高志の? あいつがどうかしたのかい?」
「タカがあたいを都へ連れて行って、あたいと結婚するって言うんだよ」
楓の言葉に蝦夷は呆然としたが、少し考えた後
「それは何というか・・・おめでたい話じゃないの?」
と言った。すると楓が声を荒げた。
「そんな、ゼン。ねえ、もっと真剣に考えてよ。あたいみたいな女が都へ行ってタカのお嫁さんになれると思っているの?」
「高志の親に反対されるというのかい?」
「とうぜん反対されるでしょうね。だって、あんたたちはものすごく身分の高い家の子供なんでしょう? あたいみたいな遊女あがりの女が、そんな立派な家のお嫁さんになれるわけないじゃないの。それに都にはきれいなお姫さまがたくさんいるのでしょう? 都へ戻れば、そういうお姫さまに目移りして、あたいなんかすぐに捨てられるのがオチさ。あたいは邪魔物にされるのさ」
「つまり高志に捨てられるのが怖い、と・・・」
「タカはあたいが初めての女だから、今はぽーっとのぼせ上がってあたいに夢中になっているけど、少し時間がたって冷静さを取り戻せば、やはりこんな薄汚れた女より、都のピカピカしたお姫さまの方が良いと思うに決まっているわ」
「でも、そうなるとは限らないじゃないか」
「そうなるんだよ。あたいは男ってものをよく分かっているもの。今までさんざん嫌な思いをしてきたからね。ねえゼン、あたいは本気でタカが好きなんだよ。こんなに人を好きになったのは、生まれて初めてなんだよ。もう好きで好きでたまらないんだよ。だから、タカに嫌われたくない。タカがあたいを嫌いになるのが怖い。そんな事には耐えられない」
楓はそこまで言うと、しくしく泣きだした。
「だからね、どうせ別れるのなら、タカがあたいを好きなままで別れたいんだよ。タカに嫌われる前にお別れしたいんだよ。そして楽しい思い出だけを残したいんだよ。ねえ、あたいのこの気持ち、ゼンには理解できないかい?」
「いや、楓さんの気持ちはよく分かるよ。でも、あの頑固者の高志が納得するかな?」
「だから、それをゼンに頼んでいるんじゃないのよ。うまくタカを説得して、あたいのことを諦めさせて欲しいんだ。お願いだよ、ゼン。何とかタカをうまく言いきかせてよ」
楓にそう頼まれたものの一人では荷が重いと判断した蝦夷は厩戸に相談した。ところが、その厩戸も
「これはなかなか難しいかもしれませんよ」
そう言って考え込む始末だった。
翌日、蝦夷と厩戸は内麻呂の説得を始めたが、案の定、内麻呂は
「楓を都へ連れて行く」
の一点張りだった。
蝦夷は声を張り上げた。
「少し頭を冷やせよ、高志。冷静になって考えれば、楓さんを都へ連れて行くなんて無理なのが分かるだろう?」
「なぜ無理なんだよ?」
と、内麻呂はいきり立った。
「だって、君の父さんや家族が楓さんを受け入れてくれると思うかい? 無理だろう? 素性の知れない女を名門阿倍家が受け入れてくれるわけないじゃないか」
「それはおれがちゃんと説得するよ」
「無理だって。結局は楓さんを傷つけることになるのだから、もういい加減諦めなよ」
「嫌だ。楓を諦めるくらいなら死んだ方がましだ」
「そんな無茶な」
蝦夷は内麻呂の意固地ぶりに泣きだしたくなった。
「それに高志、いま君は楓さんに夢中かもしれないけど、都へ戻って他の女性を見れば、また気持ちが変わるかもしれないじゃないか」
「おれが他の女に移り気すると言うのか?」
内麻呂は憤然としてそう言った。
「いや、そういうわけじゃないけどさ。人間というものはえてしてそういうものだろう? ねえ?」
蝦夷は内麻呂をなだめるようにそう言った。すると内麻呂は何かを決意したような表情で静かにこう宣言した。
「善徳、君だけはおれの事を分かってくれていると思っていた。それなのにこのように無責任な男だと思われていたとは実に心外だ。この上は君と絶交させてもらう」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ、高志くん」
狼狽した蝦夷は涙目になって内麻呂にすがりついた。
それまでずっと黙っていた厩戸がそのとき初めて口を開いた。
「高志くん、ここは現実的に考えて最善の結論を出すことにしましょうよ。楓さんと結婚するために、まず障害になるのは家柄です。いくら愛し合っているといっても、名門阿倍家の嫁に家柄のちゃんとしていない娘を選ぶわけにはいきませんからね。これは君も認めるでしょう?」
「まあ、そういう事はあるけどさ・・・」
と、内麻呂はしぶしぶ認めた。
「この問題を解決するためには、楓さんをいったんどこかの名家の養女にするしかありません」
「どこの養女にするのですか?」
蝦夷が目を輝かせてそう尋ねた。
「都の誰かに頼むと秘密が露見する恐れがあるので、ここはひとつ大伴広成に頼むのが上策でしょう」
「それは良い考えですねえ。さっそく広成に頼みましょうよ。ねえ? 高志くん」
蝦夷はそう言って内麻呂の顔を見た。内麻呂もまんざらじゃない表情をしていた。
「問題はまだ残っています」
と、厩戸は話を続けた。
「いくら広成の養女にしてもらっても、今のままの楓さんでは阿倍家の嫁になるのは無理です。やはり言葉遣いを改めさせ、行儀作法を教え、名家の嫁にふさわしい知識と教養を身につけさせなければ。これには何年か時間がかかります。高志くんには少々待ってもらわなければなりません。高志くん、待てますか?」
「うん・・・」
「そうすると結論としては、高志くんにはいったん都へ帰ってもらって、楓さんが阿倍家の嫁にふさわしい女性になるのを待ってもらう。その間にもし高志くんの気が変わって他に好きな女性ができたら、その時は楓さんに諦めてもらう。これしかないでしょう。どうですか? 高志くん。納得していただけますか?」
「完全に納得したわけじゃないけど、まぁ仕方ないだろうな」
内麻呂はムスッとした顔でそう答えた。
養女の話をもちかけると、蝦夷と厩戸に恩を売れ、また阿倍家と姻戚関係が結べるかもしれないとあって、広成はすぐに快諾した。
「へっへっへ。お任せください。楓さまの教育はわたくしどもでしっかりやらせて頂きますからね。本物の立派なお姫さまに変えてごらんにいれますよ」
厩戸と蝦夷と内麻呂の三人は大和朝廷の軍艦で難波まで戻ることになった。手配したのは三人を無事に都へ帰さないと命が無くなる運命の広成である。広成は三人が無事に都へ戻ること、ただそれだけをハラハラしながら天に願っていた。
それでも蝦夷に向かって
「都へ戻ったら、わたくしめの事も、お父上さまにどうかよろしくお伝えくださいね」
と言っておくのは忘れなかった。
出発の朝、見送りに来た楓に内麻呂はこう言った。
「時期が来たら必ず迎えを寄越すからな。それまでしっかりと勉強して、おれの妻にふさわしい女になるんだぞ」
楓は目を潤ませて内麻呂を見上げながら
「あたいはこんな女だし、一人でもちゃんと生きていけるから、もし都で好きな人が出来たら、あたいのことなんか気にしないで、その人と幸せになってね・・・」
と言ったが、その声は消え入るように小さかった。
「まだそんなことを言っているのか」
内麻呂は嫌な顔をした。
「いい加減、バカなことを言うのはやめて、おれを信じろよ」
「ごめん。ただ、あたいはタカに迷惑をかけたくないだけなんだよ」
そう言って楓は泣きだした。内麻呂は楓を優しく抱き寄せた。
「もういいから。とにかくおれを信じて待っていろ。いいな? 楓」
「はい」
楓は内麻呂の胸に顔を埋めて頷いた。
船は港を出た。内麻呂は楓に向かって大きく手を振った。楓も船影が水平線上に消えるまで手を振り続けた。船の中で内麻呂はひとり船べりに肘をつき、黙ってずっと海を見ていた。蝦夷と厩戸は内麻呂をそっとしておいた。
船が難波に着くと、そこから三人は大勢の兵士に護衛されて馬で飛鳥へ帰った。半年ぶりに見る都は橋や道路が整備され、以前よりきれいになった印象だった。
蝦夷が屋敷へ戻ると、さっそく友知とヨシが飛び出してきて、良かった、無事で良かった、そう言って泣いた。
「ぼくは無事に帰ってくると言っただろう? いい加減に子供扱いはやめてよ」
蝦夷はそう言ったが、自分が無事に戻ったことを泣いて喜ぶ友知とヨシに心の中では感謝していた。
蝦夷は馬子に帰京の挨拶をしたが、馬子には特に喜んだ様子が無かった。それどころか、蝦夷が無事に帰ったことに少々落胆しているかのようだった。蝦夷は敏感にそれを感じ取った。やっぱり父さんはぼくが嫌いなんだ・・・
「ずいぶん日焼けしたな。以前より逞しくなったようだぞ」
うつむいたまま黙っている蝦夷に馬子がそう言った。
「ありがとうございます」
蝦夷は無表情にそう答えた。
「遠国の様子はどうであった?」
「博多はまるで外国のようでした」
「珍しい物がたくさん見られたわけだな?」
「はい。視野が広がったように思います」
「博多では不便が無かったか?」
「いいえ。大伴広成がよくしてくれましたので」
「広成?」
馬子は記憶の糸をたぐって広成の顔を思いだそうとしたが、どうしても思いだせなかったので、とりあえず
「後でわしからも礼を述べておこう」
とだけ言った。
「お願いします」
蝦夷は深々と頭を下げた。これで広成に対する義理は果たしたと思った。
「今回の旅で何を学んだ?」
馬子は気を取り直してそう訊いた。
「日本は早く統一国家となって国力を高めないと外国に侵略される恐れがある・・・そういう事を学びました」
「それは厩戸の入れ知恵か?」
「入れ知恵ではありません。皇子と一緒に外国船を回り、二人で出した結論です」
「ふうん。で、どんな風に日本を統一する?」
「それはもちろん天皇を中心としてですね・・・」
「分かった。もうよい」
と、馬子は不愉快そうに話を遮った。
蝦夷は布都のところへも帰省の挨拶に行った。
布都は出発前と同じように寝所で休んでいた。その顔は半年前と比べて随分やつれたようだった。蘇我物部戦争で夫に兄を討たれて精神的にまいった上に、その後も布都には心の休まる暇が無かったからである。馬子が物部の残党を皆殺しにしようとしたのを、布都は「もしそんな事をしたら自分も死ぬ」と脅かして何とかやめさせた。物部氏の家来だった人間に仕事を世話したり、金銭を補助したりして、彼らの生活が立ち行くように奔走した。それらの心労が重なり、最近の布都はほとんど寝たきりの状態になっていた。
「無事でなによりでした」
蝦夷の元気そうな顔を見て、布都は笑顔でそう言った。
「あなたの無事な顔が見られてほっとしました。みんなが健康で元気なのが、今のわたしには一番の喜びです。もうわたしは人が死んだり悲しんだりするのを見たくありません」
「母上、体調の方はいかがですか?」
と蝦夷が心配して訊いた。
「心配してくれてありがとう。お陰さまでこのところ少しは良いみたいです。でも、わたしの体なんか今さらどうなっても構わないのです。大切なのは若いあなたたちです。あなたや良徳や娘たちが元気ならば、わたしはそれだけで満足です」
布都は静かにそう言った。
「そんな事おっしゃらないでください。そんなの嫌ですよ。母上も一緒に元気じゃないと嫌ですよ」
蝦夷は我慢できずに泣きだした。