9 楓
馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語です
伊予国へ向かう三人の旅は続いている。
「もう何日も歩き続けているぞ。一体いつになったら温泉に入れるんだよ?」
歩き続けの毎日に、ついに内麻呂も音を上げ始めた。
「足の裏が豆だらけだよ」
そう言うと内麻呂はその場にへたりこんで沓を脱いだ。蝦夷と厩戸も座って足の裏を調べた。三人とも足の裏の豆が潰れて血が出ていた。沓にも穴があいていた。
周囲は人の気配のまったく無い雑木林である。耳に聞こえるのは鳥の鳴き声ばかり。三人は急に心細い気持ちになってきた。
「あと、どれくらい歩けば良いのだろうな?」
内麻呂が誰に言うともなしにそう呟いた。
「分かりませんね。ここがどこかも見当がつきません」
と厩戸が言った。
「だから船で行けば良かったんだよ」
蝦夷がそう言って話を蒸し返すと
「おれの前で二度と船の話はするな!」
と、内麻呂がぴしゃりと言った。
そんな話をしながら三人がひと休みしていると、突然
「おや、こんなところに人がいるぞ」
「ずいぶん若い奴らじゃねえか」
という声がして林の中から二人の男が現れた。一人は痩せて背が高く、もう一人は髭面で太っていたが、いずれにせよ二人とも人相が悪く、いかにもうさん臭さげな連中だった。
「おめえら、こんなところで何をしているんだ?」
と、のっぽの方が訊いた。
「ぼくたちは旅の途中なんです」
と、内麻呂が素っ気なく答えた。蝦夷と厩戸はじっと黙っていた。
「旅? 旅って、おめえらいくつだよ?」
「十五歳ですけど」
「十五歳で旅? どこへ行くつもりなんだ?」
「どこでもいいじゃないですか。それより、おじさんたちこそ、こんなところで何をしているのですか?」
「おれたちは逃げた女を探しているんだ。おめえたち、ここら辺で若い娘を見かけなかったか?」
「見ておりません」
そう言うと内麻呂は立ち上がった。蝦夷と厩戸も立ち上がった。
「それじゃ、ぼくたちはもう行きますので」
三人は歩きだした。去って行く三人に向かって、後ろからのっぽが
「ちょっと待て」
と声をかけた。そして、もう一人の太った髭面と一緒に駆け寄って来た。二人は三人をじろじろと眺めまわすとニヤニヤと薄ら笑いを浮かべた。
「おめえら、よく見りゃあ随分と良い身なりをしているじゃねえか」
三人とも長旅で服は埃まみれになり、ところどころ破れたりしていたが、それでも彼ら所持品を見れば、それが高価な物である事は誰の目にも明らかだった。特に三人が護身用に差している短めの剣には金細工が施してあり、一見して高価そうだった。
「あんたたちには関係ないだろう」
そう言って内麻呂が先へ進もうとすると、その先にのっぽと髭面が立ち塞がり
「そうはいかねえよ。命が惜しかったら、おめえらの持ち物を全部ここへ置いてゆけ」
と凄んだ。
次の瞬間、厩戸の剣がのっぽの太ももに突き刺さった。ほとんど同時に内麻呂の剣も髭面の肩口を斬り裂いていた。のっぽと髭面が悲鳴を上げて倒れたすきに内麻呂と厩戸は全速力で駆けだした。蝦夷は何が起きたのか分からなくて、ぽかんとつっ立っていた。その蝦夷に向かって内麻呂が
「バカ、早く来い!」
と怒鳴りつけた。蝦夷はびくっとして慌てて二人の後を追った。三人は倒れて何か叫んでいるのっぽと髭を置き去りにして一目散に逃げた。
どれくらい走っただろうか、もうこれ以上走れないというところまで走って、ようやく三人は立ち止まった。内麻呂は草の上に寝転がって
「ざまあみろ。あいつらめ、いい気味だ」
と愉快そうに笑った。厩戸も会心の笑みを浮かべていた。ひとり蝦夷だけが心配そうに
「あんな事をして大丈夫なのかい?」
そう言って内麻呂と厩戸の顔を交互に見た。
「あんな物盗り野郎、自業自得さ」
そう言う内麻呂に厩戸も同意見だった。
「べつに命まで奪ったわけじゃないのですから、あれぐらい罰として当然ですよ」
「でも、あいつらが追ってきたらどうするの?」
と、蝦夷はさらに訊いた。
「あの怪我じゃ追って来ないだろう」
「仲間がいるかもしれないよ」
「仲間か・・・」
内麻呂がちょっと考えていると
「仲間はいるよ」
という女の声がした。驚いた三人が声のした方を向くと、そこには顔におしろいを塗り、赤い着物を着た若い娘が立っていた。
「き、君は誰だ?」
内麻呂が吃りながらそう訊くと、娘は
「さっきの男たちが探していた女だよ」
と答えた。
「あいつらと何かあったのかい?」
「まあね。そんな事より、あいつらの仲間が追って来るかもしれないから、早くここをずらかった方がいいよ。あんたたち、これからどこへ行くつもりなんだい?」
「道後温泉」
「道後温泉? 随分と優雅じゃないか。まあ、いいや。あたいが道案内してあげるよ。ついておいで」
そう言うと娘はさっさと歩きだした。蝦夷と内麻呂と厩戸の三人は顔を見合わせてどうするか迷っていたが、とりあえずついて行くことにして急いで娘の後を追った。
道すがら少しずつ娘の素性が明らかになっていった。
「あたいは遊女なのさ。小さい頃に熱田津の女郎屋へ売られてね、それからずっと奴隷のようにこき使われてきたのさ」
「さっきの男たちは?」
と、内麻呂が訊いた。
「あいつらは女郎屋の手先だよ。あたいが女郎屋から逃げだしたので追ってきたのさ」
「なんだ、おれはてっきり物盗りかと思っていた」
「物盗りもやるよ。悪い事なら何でもやるんだよ、あいつらは」
「あいつら、まだ追ってくるかな?」
「追ってくると思うよ。みすみす逃がしたとあっては後のしめしがつかないからね」
「君は捕まったら酷い目にあうのかい?」
「ひどい折檻を受けて死んでしまうかもしれないわね。だから、捕まりそうになったら自殺するつもりだったんだよ、あたいは。そしたら、あんたたちがやって来て、あんなことになっただろう? あたいもひと息つけたというわけさ」
「なるほど。そういうわけか。分かったぞ。よし、おれたちに任せておけ」
と、内麻呂の瞳がキラリと光った。
「もう心配はいらないからな。こいつは乗りかかった船だ。いや、船にはもう乗りたくないんだけどさ。とにかく、おれたちが君を助けてやる。あんな汚らしい連中に君を渡すものか。あんな奴らは大嫌いだ。な、そうだろう? みんな」
内麻呂にそう言われると蝦夷も厩戸も黙って頷くしかなかった。それを見て娘は
「ありがとう。何て頼もしい人たちなんだろうね。後で必ずお礼をするからさ、しばらくのあいだ面倒をみておくれよ。ね?」
と喜んだ。
「ところで、まだあんたたちの名前も聞いていなかったわね。あたいは楓っていうんだ。あんたたちは見たところ身分の高い人たちみたいだけど、何ていう名前なんだい?」
楓にそう問われて内麻呂が本名を名乗ろうかどうか迷っていると、厩戸がすかさず
「わたしたちは都から来た学生で、こいつはタカ、こっちはゼン、そしてわたしはウマといいます」
と名乗った。
「へえ、都から来たのかい? いいねえ。あたいも一度でいいから都を見てみたいよ。きっときれいな所なんだろうね。それで道後温泉へは湯治にやって来たのかい?」
「いや、そうじゃないんですよ。本来の目的地は博多なのですけど、途中で有名な道後温泉にも寄っていこうと思いましてね」
「そうかい。あたいも博多まで逃げれば、あいつらの手が届かないかもしれないな」
「それなら一緒に行きましょうよ。しかし、逃げるにはこのままの格好ではまずいですね。特にあなたの着物は目立ちすぎる」
と、厩戸は楓の着物を指さした。
「そうだよなあ。それにおれたちも別の服に着替えた方が良いかもしれないな」
内麻呂もそう言った。
そこで厩戸は農家を探し、金を払って農民の着物を譲ってもらってきた。着替え終わると、内麻呂も蝦夷も厩戸もすっかり農村の青年らしくなった。剣やその他の大切な物は背中の荷物に隠した。
三人が驚いたのは楓である。それまでずっと年上だと思っていたのに、おしろいを落として村娘の姿になると、驚くほどあどけない顔の少女が現れた。
「何だ、君はおれたちと同じぐらいの年齢だったのか?」
内麻呂がそう言うと楓は照れて笑った。
「そんな事どうでもいいじゃないのよ。それよりタカ、その格好似合っているよ。ウマもゼンも、よく似合っているよ」
三人は誉められているのか貶されているのか分からなくて複雑な表情をしていた。
男三人と女一人の旅が始まった。
四人は山を越えて進んだ。きつい山道だったが女連れだと思うと不思議と三人は疲れなかった。それどころか
「楓さん、大丈夫ですか?」
「楓さん、足が痛くないですか?」
「楓さん、疲れたのなら少し休んでいきましょうか?」
と楓のことを気遣いながら歩いていると、逆にどんどん元気が沸いてくるのだった。
夜になって野宿の準備をする時も、三人はまず最初に楓のために柔らかくて暖かい寝床をこしらえた。また山の中から食べられる物をかき集めてきては精一杯のごちそうを作って楓をもてなした。
「あたいなんかのために、そんなに気を遣ってくれなくてもいいんだよ」
楓は申し訳なさそうにそう言ったが、か弱い女性を守るのが男の使命だと信じて疑わない三人はやめようとしなかった。楓は三人の思いやりにあらためて感謝した。
食事の後、四人はたき火を囲んでとりとめのない話をした。話の途中で内麻呂が
「女郎屋ではそんなにひどい扱いを受けたのかい?」
と楓に尋ねた。楓は一瞬はっとした表情をしたが、やがて燃える炎をぼんやりと眺めながら静かに語り始めた。
「あんたたちみたいな恵まれた人には分からないだろうね。ろくな物も食べさせてもらえずに、毎晩毎晩、何人もの魚臭い漁師の相手をさせられてさ。それで病気になって働けなくなったら見殺しにされるだけ。何人もの仲間があたいの目の前で死んでいったよ。みんなまだ若くて何も悪い事をしたわけじゃないのにね。ひどいよね、世の中は。あたいも、いい加減もう生きているのが嫌になってさ。だって、そうだろう? 生きていても何も良い事が無いのなら死んだ方がましじゃないか。それで死のうと思ったんだけど、ただ死ぬのは悔しいから、どうせなら死ぬ前に逃げてやろうと思ってね。それで脱走してきたってわけさ」
「ひどい話だなあ」
と、内麻呂がため息をついた。
「世の中には楓さんみたいな不幸な境遇の人がたくさんいるのでしょう? どうにかしてあげられないものでしょうか?」
蝦夷はそう言って厩戸の方を向いた。厩戸は眉間に皺を寄せて
「本当は身分の上下に関係なく全員が幸せに暮らせる国にならなければならないのでしょうけど、日本にはまだその豊かさがありません。これからも不幸な人はたくさん出てくるでしょう。今のわたしたちに出来るのは、彼らのため仏に祈ることだけです。彼らが極楽浄土へ行けるように祈ることだけです」
と言った。
「ねえウマ、その極楽浄土って何なの?」
初めて聞く言葉に興味を持った楓がそう質問した。
「死んだ後、仏さまが連れていってくださる幸せな国のことですよ」
と、蝦夷が厩戸に代わって答えた。
「それじゃあ、死んだあたいの仲間も、今はその極楽ってところで幸せに暮らしているのかい?」
「そうです。彼女たちのような可哀想な人は、来世で仏さまが救ってくださるのです」
と、今度は厩戸が答えた。
「あたいみたいな汚れた女でも、その極楽へ行けるのかい?」
「もちろん行けますし、それにあなたは少しも汚れてなんかいませんよ」
厩戸のこの言葉に楓は
「ありがとう。優しいんだね、ウマは」
と涙ぐんだ。そして
「それに・・・ウマってよく見ると、すごく男前・・・」
そう言って熱い眼差しで厩戸をじっと見つめた。厩戸は動揺して顔を赤らめた。内麻呂と蝦夷はわけが分からず、きょとんとしていた。
それからというもの楓はしきりに厩戸から仏教の話を聞きたがった。昼間、四人で歩いていても、いつの間にか楓は厩戸の横にぴったりとくっついて、嬉しそうに仏教の事をあれこれ質問するのだった。厩戸もニコニコ微笑みながらそれに答えていた。完全に二人だけの世界が出来上がっていた。
「どうやらおれたちは邪魔みたいだな」
つまらなそうな顔で内麻呂が、横を歩いている蝦夷にそう言うと
「そうみたいだね」
と、蝦夷も答えた。蝦夷も同様に砂を噛むような味気ない想いを抱いていたのである。いつの時代も、もてない男が感じる気持ちに変わりは無かった。