序
馬子、蝦夷、入鹿と続いた蘇我本宗家三代の物語です
馬子、蝦夷、入鹿と続く蘇我本宗家三代の物語を書こうと思う。
六世紀から七世紀にかけて事実上の日本の支配者だった蘇我氏に関しては謎が多い。一族のルーツも謎なら歴史上から忽然と姿を消した点もまた謎である。謎が多すぎて、もともと蘇我氏などという豪族は存在しなかったと唱える人もいるくらいである。
『日本書紀』の内容には信憑性が乏しいとは昔からよく言われていることだが、最近では学校の教科書から聖徳太子に関する記述が削除されていると聞く。歴史上、存在が確実だという証拠の無い人物を教科書に載せるわけにはいかないという理由かららしい。その点では、蘇我氏も聖徳太子と同じくらい存在があやふやである。
かく言う私も『日本書紀』の内容の信憑性には疑問を抱いている一人である。
人間、年をとると古き時代に思いを馳せるようになるものらしい。こういう年寄りは多いと思うが、私の父は、晩年、古代史にひどく興味を持ち、自分なりに色々と研究していた。研究といっても何の専門的知識も無い年老いた素人の道楽だから、巷に溢れるその手の通俗書を読んでは勝手な空想を膨らますだけのことだったが、私も何度か父に捕まり彼の自説を聞かされたものである。今、その内容は私の記憶にまったく残っていない。しかし、一生懸命自説を説明する父の顔だけは、今でもはっきりと憶えている。また、私が大阪でサラリーマンをしていた時、父を呼んで奈良や京都を案内してあげたことがあった。父が亡くなった今、それらは懐かしい思い出である。
父の影響で私も日本の古代史に興味を持つようになった。難しい歴史学の専門書はただの一冊も読んだことがないけれど、民間の学者が書いた通俗書はずいぶん読んだ。それらは大胆な仮説で読み手の知的好奇心を刺激する、とても楽しい本ばかりだった。特に古田武彦氏の九州王朝説には胸躍らせたものである。他にも聖徳太子は蘇我入鹿だとか、蘇我馬子だとか、いやいや異国の王だとか、そういった類いの本の洗礼を受けたものだから、私も『日本書紀』の記述をそのまま鵜呑みにする気にはなれないのである。
邪馬台国もそうだが、日本の古代史に関して様々な仮説が飛び交う原因は、決定的な証拠が見つかっていない事に起因する。そして、この先も決定的な証拠は発見されない可能性が高い。それならば、各人が自由に想像力の翼を羽ばたかせて、勝手な学説を打ち立てても良いはずである。そして、それこそが古代史研究の醍醐味ではないだろうか?
本来なら私もこの小説で読者をあっと驚かせるような大胆奇抜な仮説を展開しても良いはずだが(実際には、そんなものは持ち合わせていないけれど)、私の目的は歴史を語ることではない。私の目的は物語を語ることである。
すなわち、『日本書紀』の物語の枠組みを借りて、その中でわたし自身の想いを語るという手法を採りたいのである。したがって、これから読んでいただく小説では、とりあえず『日本書紀』に書かれている通りにストーリーが展開する。ただし小説であるから、それぞれの人物像は私の勝手な創作だし、架空の人物も登場する。わざと筋立てを変えた部分もある。また、『日本書紀』の記事では多数の人物がごちゃごちゃ入り組んでいて分かりにくいので、そのうちの多くを割愛した。
さらに日本の古代史がとっつきにくいと感じさせる最大の要因は名前に対する違和感にあると思うので、現代人が不自然に感じるであろう名前は馴染みやすいものに変えた。実際、変てこな名前が多いのである。一例をあげれば、推古天皇の娘で聖徳太子の妻となった姫の名前は「菟道貝蛸皇女」という。いかにも不気味な名前である。どうしてこんな異様な名前がついたのか、その理由は分からないが、とにかくこのままでは可憐な少女だったであろう、この若いお姫様が可哀想なので、私の小説では「宇治姫」に変えさせていただいた。こういう例が他にも何人かいる。ただし、蘇我馬子や小野妹子などのようなあまりにも有名な人物は、現代人からみると男なのに女性のような名前が付いていて違和感があるとしても、そのままにしてある。さすがにこれらは有名すぎて変えるわけにはいかなかったのである。
繰り返して言うが、日本の古代史は万人に開かれているので、興味のある方はぜひ歴史の真実に迫っていただきたいと思う。ただ、現在の私の関心はそこには無いので、この小説では別の試みをさせていただく。すなわち、私は歴史小説を書くつもりはないのである。古代の日本が舞台になっていても、これは現代人の心の問題を扱った現代小説である。少なくとも私はそのつもりで書いている。それが成功しているかどうかは別の話だが。