第5話 処刑者、来たりて
「……まさか…………『パニッシュ・レオーネ』、だと……?」
かすれた声を絞り出しながら、大剣の男が、眼前に現れた巨大な獅子の――パニッシュ・レオーネの名を口にする。
自らを示す名を呼ぶ声に呼応してか、処刑の獅子の名を冠された巨大な獅子は、その場で天を振り仰ぎ、咆哮をとどろかせた。
「ゴアアアアァァァァァァァァァーーーーッ!!!!」
『ッ……!!』
耳にした者の心を凍て付かせるような、雄々しく、禍々しい咆哮。そして、その巨躯の全身から放たれる、心臓を握りつぶされているかのような強大なプレッシャーは、その場にいた全員が、ひと時の自由を奪われるほどだった。
「パニッシュ・レオーネ、って――『コルシャの森のヌシ』か?! どうなっているんだよ!!」
ようやく思考が身体に追いつき、自由を取り戻した冒険者の一人が、悲鳴交じりの怒鳴り声で叫んだ。
――巨大な獅子ことパニッシュ・レオーネは、冠された名とは別に「コルシャの森のヌシ」という異名を持つ。
コルシャの森に築かれた、独特の生態系が織りなす食物連鎖の頂点に立っていることから冠されたその異名は、かの魔物が文字通り、「この森で最も強い魔物」であることを、極めて端的に表現していた。
本来、森のヌシはコルシャの森の最深部――トーヤ達が通っている地点からもっと北にある、最も外界から離れた未開の地を自らの縄張りとしている。それが何故、トーヤ達の目の前に姿を現したのかは定かではないが、少なくともかの魔物がこんなところに……少なくない人間が利用するような場所に出現していい存在でないのは、確かだった。
「オレが知るかよ! ……クソッ、とにかく逃げる準備だ! 後衛やケガ人は、行商の連中と一緒にとっとと離脱しろ!!」
プレッシャーに呑まれつつある中、口惜しさに満ちた怨嗟の声を吐き出しながら、大剣の男は引け腰気味に構える。その様子を見た冒険者たちは、一部を残し、一斉に行商隊の方へと逃走を図った。
「に、逃げろぉぉーっ!!」
「ダメだ、叶いっこねぇ!」
「嫌ぁ! こんなところで死にたくないぃ!!」
たちまち、その場は混乱状態に陥る。大剣の男とグレアムを筆頭とする数人が沈静化を図るものの、圧倒的なプレッシャーにあてられた無力な者たちは、狂乱することしかできなかった。
「と、トーヤ! どうするのこれ?!」
「お、俺に聞かれても……! とにかく、今は逃げないと!」
「でも、あいつこっち見てるよ!?」
エヴァの言う通り、パニッシュ・レオーネはすでに、行商隊と冒険者たちをその双眸に収めている。
首をもたげた獅子の足がゆっくりと持ち上げられ、再び世界を揺るがすと、その場にいた面々はさらに恐慌状態に陥った。
「逃げるぞー! 俺たちの手に負える訳ねぇー!!」
「け、けどどうすればいいのよ! あんなの、逃げたところで逃げ切れるの?!」
「わかるわけねぇだろ! だがよ、逃げなきゃ死ぬんだぞ!?」
口々にそう言いながら、冒険者と商人たちは次々と馬車に乗り込み、馬を発進させる。
その様子を悠然と観察していたパニッシュ・レオーネは、まるで面白い見世物を観察するかのように、ゆっくりと行商隊の方へと歩を進めた。
「来るんじゃねぇ、よッ!!」
獅子の歩みを食い止めようと、大剣の男が大剣を振るい、戦技を放つ。先ほど、大量の魔物を蹴散らして見せた強烈な一撃。
パニッシュ・レオーネの足を狙って繰り出されたそれは、狙い通りに足を捉えて。
しかし、小動させることすら敵わずに終わった。
「なっ……?!」
男の驚愕もつかの間、他に残った冒険者たちが、パニッシュ・レオーネめがけて、次々に戦技や魔法を叩き込む。
が、いましがた男の戦技が獅子の歩みを妨げることができなかったように、放たれた多様な攻撃の数々も、巨大な獅子にとっては、小動するほどのものでもなかったらしい。着弾した攻撃のことごとくはその肌をむなしく撫でるだけで、歩みが止まることは無かった。
直後、パニッシュ・レオーネはふと、ゆっくり足を止める。
自分の足を撫でたそよ風を気にするかのようなそぶりを見せたかと思うと、その背に生えた、鋭利な刃物を思わせる翼――いうなれば「刃翼」とでも呼ぶべきものを、ばさりと一つ、はためかせた。
「がッ――」
「ぅ――」
「へ――」
直後、男を初めとする冒険者たちが、小さく呻く。
かと思えば、次の瞬間、その場に烈風が炸裂した。
「うわっ――?!」
距離を離し始めていたトーヤ達でさえ、苦悶に顔をしかめてしまうほどの衝撃波は、そのすさまじさに反して、数秒も経たずにその場を通り抜けていく。
(衝撃波……違う、あいつの攻撃だ! この威力じゃ、あの人たちは――)
嫌な予感を脳裏によぎらせ、いち早く顔を上げたトーヤの視界には。
森の一角を染め上げる赤と、そこに転がるナニカだったモノの後が散乱する、凄惨な光景が飛び込んできた。
「な……ぁ……?!」
理解を拒絶するかのように、トーヤの思考が数瞬停止する。
大剣の男と、他の冒険者は何処に行ったのか? 少し考えればすぐにわかりそうな疑問を経て、ようやくトーヤは事態を把握するに至った。
全滅。
たった一発放たれた、おそらくはパニッシュ・レオーネの攻撃と思しきモノ。それだけで、目の前に居た冒険者たちは、物言わぬ屍――否、千々に引き裂かれた、ばらばらの破片にされたのだ。
「何、だと……?!」
後ろで様子を伺っていたグレアムの口からも、呆然とした言葉がこぼれ落ちる。他の面々も一様に驚きを隠せないのか、誰一人として言葉を発せた者はいなかった。
やがて、眼前の障害物を排除した巨大な獅子は、ばさりとはためかせた刃翼を元の形に戻し、顔を上げる。
樹木の天蓋に覆われ、薄闇に支配された空間でなお爛々と輝く双眸は、トーヤ達行商隊を、再び真っ直ぐに見据え直した。
「ッ――グレアムさん!!」
「は……っ、あぁ!」
いち早く事態を完全に理解できたのは、トーヤ。
人の名一つを呼ぶだけで、うわずってつっかえてしまいそうになる喉を震わせて叫ぶ。直後、すぐさま立ち直ることに成功したグレアムが、音高くムチを打ち鳴らし、馬車を急発進させた。
車輪を嘶かせ、走り始める馬車の枠を掴み、トーヤも遅れて馬車へと退避する。乗り込んだ中に居た隊の面々は、先ほどの惨状を見たせいか、一様に青い顔を晒していた。
「き、来てるぞ! あいつ、追ってきてる!!」
その中の一人が、悲痛な声で叫ぶ。つられて振り向くと、パニッシュ・レオーネの巨体がかすかに揺れ、血だまりを踏みつぶしながら、再び行商隊の馬車を目指して歩みを進め始めたのが、トーヤにも見えた。
「嫌だぁ……! こんなところで死にたくねぇよぉ……!」
「そんなの、みんな同じだよ!! あんただって、仮にも依頼を受けた冒険者でしょ? グチグチ弱音吐いてないで、なにか考えて!」
いち早く馬車に転がり込んだのか、一番奥の隅で震える冒険者の男――鍛えられた体躯を縮こめて震える男。その様子を見たエヴァが、厳しい表情で叱責した。
――その声音に、若干の憔悴と恐怖の感情が混じっていることを、付き合いの長いトーヤは自然と感じ取る。
無理もない話だ。エヴァはおろか、この場に居るほぼ全員、こんな危機に直面するなど初めてに違いない。大小の差こそあれ、恐慌状態に陥るのは仕方のないことだろう。
いち早く立ち直ることができたトーヤとて、それは例外ではない。辛うじて平静を保ててはいるが、気を抜けばすぐに、足先から這い上がる恐怖が全身を支配し、動けなくなってしまうだろう。
(どうすればいい? どうすれば、ここにいる全員が無事に逃げ切ることができる――?)
恐怖にざわめく心を必死に落ち着かせながら、トーヤはひたすら思案する。
(あの攻撃を凌ぐ手段は限られてる。あの人たちをたった一撃であんな有様にしたんだ、半端に防いだとしても、防御ごと貫通される)
(目視で避けるのも難しい。それに、この馬車があの攻撃を避けられるわけがない)
(なら、あの衝撃波を食らう前に遠くに逃げることができれば? ……いやムリだ。アイツの速度を考えても、この数の人間がそんな早く動くことなんて――?)
命の危機を前にして、トーヤの思考は巡り続ける。
生存本能を糧に、ひたすら加速していく思考の中、ふとひらめきが走った。
「――そうか。多人数が無理でも、一人なら」
「え? どうしたの、トーヤ?」
トーヤのつぶやきを耳ざとく聞き取り、エヴァが怪訝な表情をするが、トーヤは気づかない。代わりに、その頬には一筋の汗が流れた。
(でも、これは賭けだ。上手くいかなければみんなが死ぬし、上手くいっても逃げ切れる可能性は低い。少しでも全員が可能性を上げるなら、この手を使うのが一番いいはずだ)
(……だけど、俺にできるのか? せいぜい駆け出しを過ぎたくらいのみそっかすに、できるのか?)
考えるのは、可能性。浮かび上がる可能性を吟味し、天秤にかけ、考えうる限りの最良だと理解してなお、トーヤの心は決まりかねていた。
死の恐怖に怯えている、ということもある。しかしそれ以上に、自身がはじき出した最良の選択が、「本当に最良の選択なのか」という疑問が、あと一歩の踏ん切りをつけられずにいたのだ。
(――いや)
そんな中、ふとトーヤの視線は一人を映す。
そこに居たのは、エヴァ。恐慌状態の面々を必死になだめすかし、自身も恐怖と戦っているであろう知己の姿を見たトーヤの胸の内に、小さな炎が灯った。
(違う。できるできないの問題じゃない。――やるんだ。あの日、父さんと母さんが、叶いっこない相手を前に躊躇わなかったように)
脳裏をよぎるのは、過去。
かつての今生の別れの時、奇しくも似通った状況下において、迷わず命を懸けてみせた、誇らしき両親の姿。
(守るんだ、大切な人を。今度は、俺が――!)
かつて見た光景が、目前の世界と重なる。
すると、トーヤの胸の内に、静かで、しかし熱く燃える感情が生まれて。
驚くほど穏やかに、その心が決まった。
「ちょっと、トーヤ! 何する気?!」
ばしん、と両の頬を強く叩き、自分に喝をいれると、トーヤはおろしていた腰を上げ、馬車の出口へと歩み寄る。
突然のトーヤの行動に驚きながら、エヴァが制止の声を上げる。振り返ってみれば、他の人間たちよりもいっそう青い顔をした知己の姿が、そこにあった。
「ちょっと、時間稼ぎにね。――アイツの動きを考えれば、このままじゃこの馬車は、ここにいる人間は殺される。だから、それを防ぎに行くんだ」
「何言ってるの!? 無理だよ! トーヤも、さっきのあの光景は見たでしょ?!」
エヴァの言葉に肯定の頷きを返しながら、しかしトーヤは戻らない。
「でも、アイツはもう俺たちを狙ってる。そんな状況でみんな揃って逃げても、待ってるのは皆殺しの未来だけだ。……なら、俺は助かる可能性に賭けたい。諦めて死ぬのを待つくらいなら、ほんのわずかな可能性を信じて動きたいんだ」
ちらりと見やれば、パニッシュ・レオーネは少しだけ速度を上げているらしい。疾走に揺れる巨躯は、だんだんとその影を大きくし始めていた。見立てが正しいなら、おそらくはもう、幾ばくも猶予はないだろう。
「――それに、俺は死にに行くわけじゃない。絶対に、絶対に生きて帰ってみせる。父さんと母さんから受け継いだ夢を叶えるまでは、死ねないからさ。……だからさ、エヴァ姉。そんな世界の終わりみたいな顔、しないでよ」
少しだけ冗談めかしてから、笑う。恐怖に歪みそうな顔を隠すための仮面は、どうにか剥がれずに済んだらしい。
見れば、エヴァの表情は絶望に染まっている。彼女の胸の内で荒れ狂う感情のことを思えば、トーヤもまた、心を引き裂かれるような痛みを抱いた。
だが、やらなければならない。知己の命すら見捨て、全てを諦め、座して死を待つよりも、かすかな可能性に縋り、最後まで足掻きたい。そう、トーヤは思っていた。
「――じゃあ、行ってくるよ。絶対、生きて町にたどり着いてね?」
願いを託し、トーヤは覚悟を瞳に宿す。
蹴飛ばすように馬車を発ったトーヤは、滑らかな着地と同時に、背の愛剣を抜刀。
「う、お――らあぁぁッ!!!」
そのまま、握りしめた剣を振りかぶると、あらん限りの力を込め、愛剣を思い切り投擲した。
――乱回転しながら一直線に飛翔する剣には、もしかすると、ありったけの力と共に、強い意志も宿っていたのかもしれない。
投擲された剣は、まるで吸い込まれるかのように、パニッシュ・レオーネの目元に直撃。目を潰す、まではいかなかったが、その目元を縦断する、小さくない傷を刻み込むことに成功した。
「グゥッ……?!」
予期せぬダメージを負ったせいか、うめき声と共に、獅子の巨体が怯んだのをとらえると、トーヤは全力でダッシュ。獅子の向こう側、行商隊の馬車から離れる方向へと、一直線に躍り出る。
「こっちだ、召氷魔法ッ!」
体勢を立て直した獅子の背中めがけて氷の矢を撃ちむと、トーヤの存在を気取った獅子が、ぐるりと回頭。忌々しげに目元を細め、ゆっくりとトーヤめがけて距離を詰めはじめた。
(よし、かかった!)
陽動が成功したことを悟りながら、トーヤはなおも手を緩めない。
「もういっちょ喰らえッ!!」
振りかぶり、突き出した右手から、鋭く輝く魔力の雷がほとばしる。
パニッシュ・レオーネの皮膚上で炸裂したそれは、さしたるダメージはない反面、とても目立つ。派手派手しい閃光が断続的に炸裂する中、重い足音を響かせながら、パニッシュ・レオーネは完全にトーヤに意識を向けた。
「――召風魔法ッ!!」
それを確認し、急いで魔法を放つと、トーヤの背後に、淡い緑色に光る風の渦が出現。ゴウッ! と音を鳴らすほどの突風を放出して、トーヤの身体を一気に加速させた。
(距離は充分! さぁ、あとは耐えられるかどうか――!)
脱兎のごとく逃走を図りながら、トーヤはすぐさま次なる魔法の発動に取りかかる。
「召氷魔法、障壁魔法!」
詠唱に合わせ、トーヤの左腕を覆うようにして、氷の塊が出現。さらにその上から、鈍く輝く光の膜――魔力で生成された障壁が重ね合わされ、二重の構造を持つ即席の盾が出現した。
「ゴアアァァァッ!!」
直後、パニッシュ・レオーネが、咆哮と共に刃翼を振るおうとするのを見て、トーヤはとっさに連なった樹木たちの裏に退避する。
そのまま再び逃走を開始しようとしたところで、背後から衝撃。左腕の盾をかざすと同時に、甲高い爆砕音が響き渡り、トーヤの身体は召風魔法の風よりも強く吹き飛ばされた。
「があぁぁぁッ!!?」
凄まじい衝撃波にもみくちゃにされ、無数の枝葉を巻き込んで墜落するトーヤだったが、その身体は五体満足。左手に構えていた盾は粉々に吹き飛ばされていたが、あまりにも収穫の多い一撃を食らい、トーヤは胸中でガッツポーズを作った。
(耐えれる……! 失敗すれば死ぬけど、まだ希望はある!!)
何本もの樹木を遮蔽物にし、二重の防御を施した盾を加えてなお、パニッシュ・レオーネの衝撃波はあまりある威力を持つ。しかし、減衰に減衰を重ねさせることができれば、人の身でも耐えられることが実証された。それは、トーヤの中にあった微かな希望を燃やすには充分すぎるほどの、事実だった。
(魔力の量は充分じゃないし、逃げ切れる保証なんてどこにもないけど――それがどうした。上等だ!)
傷だらけの体にムチを入れ、態勢を立て直したトーヤの口元には、笑み。
恐怖を噛み殺し、希望にすがり、生への渇望を滲ませた不敵な笑みを浮かべながら、トーヤは再び走り出す。
「逃げ切ってやる! 絶対、絶対に、生きて帰ってやるからなあぁぁぁぁーーーーッ!!!」
決意を雄叫びに変えたトーヤは、今一度魔法を発動。
決死の逃走劇が、再び幕を開けた。




