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宿角玲那の生涯(R15版)  作者: 京衛武百十
8/12

宿角玲那編 「失われていく命」

『敏文。お前はお前の思う通りに生きなさい。私はお前を信じている』


来支間敏文きしまとしふみの父、克仁かつひろが何故、急にそんなことを言い出したのかといえば、敏文の母親でもある妻が、


『最近、あの子、何か悩んでるみたいなんです』


というようなことを告げたからである。それを聞いた克仁かつひろは、てっきり、大学生になった自分の息子が進路について悩んでいると思い込んでしまったのだ。


なるほど確かにタイミング的にはそういう時期だろう。しかも、克仁自身が今の敏文とちょうど同じ頃に、親に勧められた公務員の道に進むか、それとも役者の道に進むかで思い悩んでいたという経験をしていたのだ。だからつい、息子も自分と同じようなことで悩んでいるのだと思い込んでしまったのである。


克仁は、役者の道と公務員の道を比べて親が勧める公務員の道を選んでしまうほどに堅実で生真面目な一面を持つ人間だった。それ自体は、こうして家庭を守る一家の長としての務めを果たしているところからも間違いなく長所であり美点だったのだろう。だが、この時、克仁はあまりに大きなミスを犯してしまった。


いや、それはこの時たまたまというよりは、元々そういう部分があったというべきなのか。


彼は、自分の思う<父親像>というものに囚われすぎていたらしい。父親というものは、子供と決して慣れ合わず、常にどっしりと構えて威厳を保ち、ここぞというタイミングで的確なアドバイスを与えることこそが理想的だと思い込んでいたのである。だがそれは、あまりにも、ドラマの中などに出てくる<架空の父親像>でしかなかったと言えるのではないだろうか。


彼は、もっと息子と言葉を交わすべきだったのだ。自分が理想とする父親像というものに拘らず、父と子というそれぞれの立場や役目を超えて、腹を割ってお互いの本音を曝け出して語り合うべきだったのだ。そうすれば、この時、自分の息子が本当は何を悩んでいたかが分かった筈である。


外面ばかりを気にして体裁を整えることにばかり腐心してしまっていた。人間というものは実際には様々な考えや一面を内に秘めているのが人間であるということを蔑ろにしたことで、克仁は取り返しのつかないミスをすることになってしまった。


「父さん。ありがとうございます…!」


そう言って頭を下げた息子が何を決心したのかすら、彼は理解していなかった。


ドラマに出てくる格好いい父親像など、所詮はフィクションの中の作り物でしかない。実際にはドラマでは描かれていない影の部分の方が遥かに多い筈である。そういうところでは必ずしも格好良くない姿を晒してしまっていたかもしれない。それにも拘らずドラマに描かれている部分だけを真似したところで上手くいく筈がないのだ。よほど運に恵まれてでもいない限りは。そして克仁は、その運に恵まれていなかった。それだけだ。


一方、敏文は、伯父の克光かつあきが何をやっているかということを、父は当然気付いているものだと思っていた。しかし兄弟という立場もあり表立って動けないでいると思っていたのだ。それで今回、自分の思い通りにやればいいと背中を押してくれたのだと解釈してしまったのである。確かに克仁も、兄がロクでもないことをしているかもしれないことは薄々察していたし、それに頭を悩ましていたことも事実だ。だが少なくともこの時はそれについて頭にも思い浮かべてはいなかった。


冷静になって後から振り返れば実にくだらないすれ違いだった。お互いにきちんと普段から話し合っていれば回避できたことだった。なのに、そんなあまりに馬鹿馬鹿しい思い違いが取り返しのつかない結果を生むこともある。


もっとも、この父と息子は、お互いの勘違いに生涯気付くことはないのだが。


無理もないか。こんなことがあの結果を生んだなどと想像したくもないだろう。しかしやはりそれが不味かったのだ。それでもなお、本当の原因には目を瞑り、二人はこの後も自らをドラマの登場人物になぞらえて、悲劇の主人公を演じていくことになる。事実の重大性に比べて、あまりにも浅墓であると言わざるを得ないだろう。


父親に背中を押してもらったと勘違いしてしまったことで腹を括った敏文が部屋に戻ると、そこに久美からの電話が入った。


携帯に出ると、まず聞こえてきたのは久美の泣き声だった。


「トシぃ…私…、私……」


話そうとはするのだが、感情が昂りすぎて胸につかえてしまい、言葉が出てこない。それほどのことを聞かされてしまったのだと敏文は察した。


「久美。慌てなくていい…。ゆっくりと話してくれたらいいから……」


そう気遣う様子を態度で示して、彼は久美が落ち着くのを待った。そういう器を見せられている自分自身に酔っていた。


やがて少しずつ、玲那から聞かされた内容を話す久美のそれは、ある程度の予測はしていたものの、彼の想像を超えて凄惨なものだった。そして、僅か十歳の少女を嬲り愉悦できる伯父に対する憤りがより強く形を成していった。あの男を放っておくのは、正義に反すると彼は思った。


「ありがとう…。彼女にもよく話してくれたと感謝しておいてほしい。後は僕に任せておいてくれ……」


久美の話が終わり、泣きじゃくる彼女にそう声を掛けて電話を切った彼は、強い決意をその顔に浮かび上がらせていた。


『これは、僕がやらなくちゃいけないことだ…!』


それは、間違いなく彼なりの正義感だったのだろう。幼い少女を嬲り食い物にする悪辣な男を許せないと考えるその気持ちは確かに尊いものであっただろう。だが、彼は警察官でもなければ検事でもない。法律上の知識も多少は備えていたかもしれないが、それでもこの時の彼が法律の理念そのものを正しく理解してるとは到底言い難かった。


専門家である筈の警察や検察ですら間違いは犯すし失敗もする。だからこそ冤罪事件などが存在するのだ。故に法的な根拠を重視し法律上の手続きに拘りミスを極力排除していく。それを、目先の感情のみを優先し法律を蔑ろにする素人にやらせればどんなことになるか、客観的に物事を見られる人間なら分かる筈だ。この世の多くの傷害事件・殺人事件が、加害者側の一方的な<正義>によって発生しているのだということが。


自制無き正義が何をもたらすか、敏文は自ら体現することになる。それが取り返しのつかないものになるということさえ考慮せずに。


翌日。昨夜の久美の電話を受けた時のテンションそのままに、彼は伯父の事務所へと向かった。それは、戸建ての借家を事務所と称して使っているだけの伯父の別宅だった。


その伯父の事務所の近所まで来た時、彼は思いがけない姿を見た。その瞬間、彼の頭の中でカアッと何かが熱を発するのを感じた。想定していなかった事態だけに焦ってしまった。怒りか憤りか、とにかく激しい感情がもたらすものだったのは間違いない。そんな彼の視線の先にいる者。


伯父の克光かつあきだった。克光がコンビニから出てくるところを目撃してしまったのである。朝食か何かを買いに出たのであろう。弁当と思しき商品が入ったレジ袋を提げていた。克光は事務所に戻ろうとしているのか、歩道橋を上っていく。


実を言うとこの時の克光は、まさについ先程まで少女を弄り倒して堪能してきたばかりであった。その後にこうして朝食を買いに出て、これから事務所に戻って食事にして昼過ぎまでひと眠りしようかと考えていたところであった。


そんな克光を、体の中に湧き上がるものに突き動かされるようにして敏文は追った。その目には伯父の姿しか映っていなかった。いわゆる<視野狭窄>に陥っていたのだろう。己の感情に囚われ、冷静な判断が出来ず、周囲が見えていない状態だった。彼の頭にあったのは、卑劣な伯父に正義の鉄槌を下すというただ一点のみだったと思われる。


「伯父さん!」


歩道橋を上がったところで、先を歩いていた克光を、彼は呼び止めた。いきなり声を掛けられて驚いた克光だったが、振り向いた先に見慣れた顔を見付けて安堵するのが分かった。


「ああ、敏文君か。こんなところで奇遇だね。どこかに出かけるところだったのかい?」


たまたま甥に出くわした伯父として当たり前の返答をして、穏やかに彼を見た。しかしそんな克光に対して敏文は、顔を真っ赤に紅潮させ、大股で歩み寄っていったのだった。




来支間敏文きしまとしふみは、いわゆる<いい子>だった。非常に聞き分けがよく、それでいて利発で、快活だった。成績も常に上位で、運動もそつなくこなし、身だしなみにも気を遣う、女子にも人気の好物件であった。


ただ、それらは全て彼の表の顔に過ぎないが。


と言っても、裏で何か悪辣なことをしているという意味ではない。<いい子>な部分はほぼ彼の計算であり演技であるというだけで、これといった悪行を行ってきた訳でもなかった。もっともそれも、たまたま<そういうことをする必要がこれまでなかった>という意味でもある。


唯一、彼が起こした目立ったトラブルと言えば、小学校の三年生に進級したばかりの頃に、クラスである女子生徒の筆箱がなくなったという事件があり、その時に彼が率先してある男子生徒が怪しいとして追求したというものであった。


その男子生徒は普段から虚言癖があり、クラスのほぼ全員が迷惑を掛けられていたこともあって、真っ先に疑われたのだ。


だが、冷静に客観的に考えれば当該生徒の<虚言癖>は、あくまで自らの空想を事実のように話すというものであり、決して本人が何らかの触法行為をしてそれを誤魔化す為に嘘を吐くといった種類のものではなかった。むしろ、事実についてはそれを捻じ曲げて話すことができないタイプだったのだ。自分の空想を事実のように話すのも、彼にとってその空想はあくまで<事実>であり、その事実を曲げて話せなかっただけである。程度としては比較的軽いものであっただろうが、今でならおそらく何らかの障害として診断が出るものだったのだろう。


当時、そういうものがあるということを理解していなかった敏文は彼のことを<嘘吐き>だと断じ、そんな嘘吐きなら筆箱ぐらい盗むだろうという当て推量で彼を犯人だと決め付けて責め立てたのだった。


「今すぐ筆箱を返して謝れ!」


敏文はその男子生徒にそう言いながら詰め寄った。さりとて詰め寄られた側の男子生徒には何の心当たりもない。当然、自分がなぜ責められているのか理解できずに混乱し、やがて泣き出してしまった。にも拘らず敏文は追及の手を緩めることなく、


「泣いてもダメだぞ!、早く筆箱を返せ!」


と迫った。


しかしその行為は担任の教師に見咎められて、敏文は放課後に残されてあらぬ疑いをかけてしまった男子生徒に対して謝罪させられることになった。実際、筆箱が無くなったとされていたのは持ち主の女子生徒の思い違いで、騒ぎを聞いた担任の指摘により別のバッグに入れられていたのが発見されたというのが顛末だった。担任は、彼女がよく思い違いをすることを把握しており、大抵、探したところとは別のところに入れて忘れているのがパターンだと知っていたという訳だ。


実は、他にもそのことに気付いていた生徒もおり、敏文に同調して男子生徒を責めていたのは、その男子生徒の虚言癖は知っているが、筆箱が無くなったと騒いだ女子生徒がよく思い違いをするというのを知らなかった生徒が殆どだった。


この一件において注意するべきことは、<明確な悪人が一人もいない>ということである。筆箱がないと騒いだ女子生徒も、普段から空想を事実のように語る男子生徒も、そして彼を疑った敏文や敏文に同調した生徒達の誰もが悪意を持ってそうしていた訳ではないということだ。誰も悪意を持っていないのに、こうして話が拗れてしまった。


女子生徒にも男子生徒にもそれぞれ問題があったのだが、敏文のそれは、言うなれば<根拠なき正義>とでも称すればいいのか。何一つ明確な裏付けもなくただの印象で誰かを悪と決め付けそれを押し通そうとしたことが問題だった。場合によっては男子生徒の未来さえ滅茶滅茶に破壊しかねないことを、何一つ悪意なく躊躇なくやってのけたのだ。しかも現在にわたって敏文はそれを全く反省していない。自分は何一つ間違ったことはしていないと今なお信じている。


悪いのは迂闊な女子生徒と、普段から嘘ばかり吐いている男子生徒であり、自分は単に巻き込まれただけだと彼は思っていた。男子生徒に謝罪させられたことも納得しておらず、あれはその場を取り繕う為の大人の対応としか思っていなかった。自分の問題点に気付きそれを改める機会を、彼は自ら潰してしまった。


正義の為なら証拠さえ要らない。


正義の為なら誰を犠牲にしても許される。


自分は何一つ間違えることのない正義の執行者である。


この時の敏文の考え方を要約するならこんな感じだろうか。それがどれほど危険なことか、彼は結局、学ぶことがなかった。


学校側はこの時のことを個人懇談という形で敏文の母にも伝えたのだが、敏文の母はそれについて幼い子供の些細な失敗と軽んじて彼を諫めることさえしなかった。何しろ普段の彼はとても<いい子>だったのだから。たまの失敗など普段の彼のいい子ぶりで十分に帳消しになると思ってしまったようだ。いい子の仮面の裏にある危険な思想が後にどのような結果を生むのか考えもせずに。


敏文の母は、自分の<躾>が完璧に上手くいっていると疑いもしなかったのだろう。表面的な部分が上手くいってるように見えていたことで。


なるほど確かに彼は一見すると非常に良く躾けられているような印象を受ける。申し分のないいい子に見えるのは事実だ。しかし彼は本質的な部分で他人を蔑ろにする本性を秘めた人間だったのだ。自分は常に正しく、間違っているのは常に他人であり、自分の行いは全て肯定されるべきと、およそ明確な根拠もなく思い込んでいたのだ。だからどんなに間違ったことでも躊躇なく行える。彼にとっての根拠とは、<自分にとって正しいと思えること>であり、それが合理的に客観的に真に根拠たりえるかなどどうでもよかった。


言ってしまえば、彼は、自らが警察官であり検事であり裁判官であり刑の執行者だと思っていたということだろう。


だから彼は伯父の克光かつあきに詰め寄り、警察官と検事と裁判官と刑の執行者として自らの責務を果たそうとした。


既に肉体のピークを過ぎただらしない体の中年男性でしかない克光を力で圧倒し、胸倉を掴んで手すりに押し付け、突き落とすようなふりをして恐怖を与え、自らの行いを悔い改めさせようとした。


『分かった!。私が悪かった!。もう二度とそういうことはやらない!!』


その言葉を引き出しさえすればそれでいいと思っていた。そうなる筈だった。少なくとも彼の頭の中では。


十分に恐怖を与えるがギリギリ落ちない程度に突き落とすふりをする筈だった。彼のイメージではそうなる筈だったのだ。


だが、現実はそうではなかった。一体何が起こっているのか分からないという風にポカンとした間抜けな顔をした伯父の顔が、敏文の目の前でスローモーションのようにゆっくりと遠ざかっていく。克光の体と、彼が手にしていたレジ袋と共に。そして、休日の朝ということで交通量も少なかった為に法定速度をやや上回る速度で通りがかったトラックのフロントガラスに吸い込まれるようにそれが打ち付けられ、一瞬で姿が見えなくなる。


「……え…?」


呆然と歩道橋の上から道路を見下ろす敏文の背後で、凄まじいブレーキ音と大型トラックのボディーが軋む音がした。その瞬間を目撃した者の話によると、急ブレーキをかけた大型トラックが大きく斜めに傾き、危うく転倒するところだったという。


克光の体はトラックのフロントガラスをひび割れさせ、それに驚いたドライバーがパニックブレーキを踏み、しかし速度が乗っていたトラックは簡単には止まらず、道路へと落ちた克光の体を何本ものタイヤで巻き込みながら数十メートルを進んでようやく停止したのだった。




来支間克光きしまかつあき。享年、四三歳。死因、脳挫傷及び全身打撲。


こうして、玲那をはじめとした何人もの少女を嬲り弄んできた卑劣かつ下劣な男は、自らの行為を反省することすらないままに、いや、自分に何が起こったのかすら理解しないままに、その生涯を閉じたのであった。




更に引き続き、突然父親を喪った、しかもそれが兄のように慕う従兄の手によるものであった久美ひさみがその後どうなったかを詳細に語らねばなるまい。


伯父を歩道橋から突き落とし死に至らしめた敏文としふみは当然、警察によって逮捕された。呆然と歩道橋に立ち尽くし騒ぎを見ていたのだが、警官が駆け付け声を掛けられると、『自分は悪くない!。僕は悪辣な伯父を懲らしめようとしただけだ!!』的なことを口走りながら抵抗した。さりとて本職の警察官数人がかりが相手では無駄な抵抗だった。


力一杯踏みつけられたブレーキによりロックした大型トラックの巨大なタイヤとアスファルトの路面にの間で磨り潰された克光かつあきの遺体は、それをたまたま目撃してしまった人間達の精神に大きな負荷を与えた。


遺体の状態をあまりに詳細に描写するのは憚られる為に割愛するが、およそ人間の形をしていなかったということだけは触れておこう。


頭蓋は原形を留めないほどに砕かれ、飛び散った脳髄の一部は歩道にまで届いたという。それらを回収する為に動員された警官達で不慣れな者の中には耐えきれずに嘔吐する若い警官もいたようだ。まあ、無理もないことだろうが。


検視の後で葬儀の為に棺に納められたものの、どう工夫しても人の形にはならなかったので、実際の葬儀の時には遺体の上に引き伸ばされた写真が掛けられていたそうである。


一方、夫の突然の死に来支間智美きしまともみはさすがに驚きはしたものの、自分を受取人にして生命保険をかけていたことから、一人になるとニヤニヤが止まらずに保険会社に連絡を取り、さっそく手続きを始めていた。


なお、久美はと言うと、あまりのことにただ茫然となって何も考えられないという状態だった。玲那の前でもそれは変わらず、玲那が仕方なく久美の家に泊まることは諦めて、まだリフォームの終わっていない自宅へ戻っても、まるで自身が人形になってしまったかのように佇んでいたのだった。


だがそれも、克光かつあきの遺体が検視から戻って通夜が始まる頃には、ノロノロとだが動けるようにはなり、喪服代わりの制服に着替えて通夜に参加するくらいのことはできるまでにはなった。


とは言え、いまだまともに思考が出来る状態にはなかった。それでもこの時、久美の頭の中では様々な過去の記憶が凄まじい勢いで再生され続けていたようだ。逆にその所為で活動の為のリソースが割けなかったとでも言うべきか。


久美にとっては、克光は優しい父親だった。その優しさが、久美が女の子だったからというのはあったとしても、優しかったのは事実だった。仕事が忙しくてあまり会えなくても、会えば『久美はいい子だなあ』と言いながら膝に抱いてくれたり頭を撫でてくれたりお小遣いをくれたりもした。いつも不機嫌で小言ばかりで邪険なだけの母親に比べればずっと居心地が良かった。


周囲が時々、父親の仕事が怪しいとか体裁が悪いとか言ってるのも多少は耳に入っていたが、生活には困らないし今時はいろいろな働き方があるのだからそれをとやかく言うのはただ妬んでいるだけだと思って気にしないようにしていた。


幸せだった。確かに久美にとっては幸せだったのだ。その陰で、玲那をはじめとした何人の少女が嬲られて弄ばれていようとも、彼女には全く関係のない話だった。知らなかったのだから。それにこの時点ではまだ、克光の行いは表には出ていなかった。逮捕された敏文としふみの供述と、警察内の情報共有により克光が少女を相手に淫行をしている人物の一人であるという可能性が浮上してきていたことが決め手となって家宅捜索に踏み切る前だったからだ。


だからこの時の久美は、理不尽に父親を殺された哀れな遺族でしかなかった。


「気を落とさないようにね…」


通夜に参列した人の中にはそう気遣いの言葉を掛けてくれる者もまだいた。


深夜に差し掛かり、通夜に参列していた人間がまばらになった頃、久美の脳内では父親の記憶のリピート再生に続き、今度は敏文としふみとの記憶が再生されるようになっていた。


敏文も、久美にとっては<優しいお兄ちゃん>だった。泣き虫で内向的だった自分をいつも守ってくれた。励ましてくれた。だから好きだった。いつも上から目線で命令口調だったりもしたが、幼い頃はそれも頼りがいがあると肯定的に捉えていた。さすがに自分も思春期に差し掛かって、初めてできた友達を悪く言われてしまったことにはショックを受けて距離を置くようにはなってしまったものの、それでも嫌いにはなれなかった。


なのに…、それなのに……。


『トシぃがお父さんを殺した……?』


父親との記憶と敏文との記憶が交錯し、唐突にそのことに気付いてしまった時、久美の体を得体の知れない衝撃が奔り抜けた。電撃のような、爆発するような、体がバラバラに弾け飛んでしまいそうな衝撃だった。


「…あ、ぁわ、うわぁぁああぁぁあああぁあぁぁぁーっっっ!!!」


突然、久美があらん限りの力を振り絞って叫んだ。自分の中を奔り抜けた衝撃がそのまま声となって迸ったかのように。


目を見開き、自らの頭を鷲掴みにして、髪を振り乱しながら久美は叫び続けた。パニック状態だった。頭の中を出鱈目な思考が無秩序に錯綜し、自分の体さえ制御できなかった。


「ぁぁああぁぁああぁぁぁぁああぁぁぁあああぁぁっっっっ!!!!」


吐き出される声は全く意味を成さず、まるで何かに取り憑かれたかのように絶叫する少女に、その場にいた人間全員が戦慄を覚えた。


「久美ちゃん!、久美ちゃん落ち着いて!!」


親戚の一人が少女の体を掴み抑えようとするが、彼女はそれを振り払ってなおも叫び続けた。中学一年の少女とは思えない力だった。


すると久美は虚空を見詰め、指差し、ようやく意味のある言葉を発した。


「お父さん!、お父さんが帰ってきた!!」


その場にいた者達全員が彼女の指差す方を見たが、そこには誰もいない。何もない。ゾワッとしたものが全員の背筋を駆け抜けた。


「お父さんが帰ってきたよぉ!!、ほらそこぉっっ!!!」


久美はなおも叫び続けた。完全な錯乱状態だった。


結局、四人がかりで押さえつけ、救急車が呼ばれて搬送され、久美は病院で鎮静剤を打たれて強制的に眠らされるまで凄まじい力で暴れ続けた。


「お父さんがそこにいるんだよ!!、どうして!?、どうして誰も分からないのぉぉっっ!!」


力尽くで押さえ付けられても久美はそう叫んでいた。その姿はもはや人間のそれとは思えなかった。辛うじて人の言葉を口にしているだけの獣のようでさえあった。


そのまま彼女は入院を余儀なくされたが、意識を取り戻すと暴れるので、病院側も止むを得ずベッドに拘束し、暴れる度に鎮静剤を投与するという形でしか対処できなかった。


それから二週間が経ち、ようやく暴れなくなったことで拘束が解かれ、看護師ともある程度の意思疎通ができるようになった時の彼女は、自身の指をしゃぶり続け、あやふやな単語をぽつりぽつりと口にするだけの、幼児そのままの姿であったという。


それでも時折、正気を取り戻したかのように意志を感じさせる表情もしてみせたが、その時にはひたすらボロボロと涙を流し嗚咽した。


そしてさらに一週間が経った時、久美は再び暴れ始めた。病室の窓に椅子を叩き付けたのだ。どうやら窓を壊そうとしたらしい。入院患者の自殺防止の為に窓は人が通れるほどには開かない。しかも窓を壊そうとする者もいるので、大型のハンマーで殴っても割れない強化ガラスが用いられていた。


その日は結局、また鎮静剤が打たれ眠らされた久美だったが、その翌日に看護師の目を盗んで病室を抜け出し、階段の下で倒れているところを発見された。自殺なのか事故なのかは判然としなかったが、頭を非常に強く打っており、脳が大きく損傷していたのだった。


懸命の治療が続けられたものの、その四十八時間後に脳死状態であると判定され、死亡が確認された。




来支間久美きしまひさみ。享年、十三歳。死因、脳挫傷。


父親を従兄に殺された殺人事件の遺族であり、何人もの少女を嬲り弄んだ淫行事件の加害者の娘でもあった少女の、あまりにも痛ましい最期であった。


なお、この時点では、彼女の父の克光かつあきによる淫行事件は既に明るみに出ていたのだが、彼女がそれを知ることはなかった。


なかった筈である。おそらくは……。



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