宿角玲那編 「目を瞑り耳を塞いだ正義」
久美の母であり、克光の妻でもある来支間智美は、激しく後悔していた。こんなことになるならもっと早くに離婚しておくべきだったと後悔していたのである。だがもう遅い。時間は決して巻き戻らない。彼女はこれ以降、少女に淫行した変質者の妻というレッテルと共に生きていくことになるのである。
まあ、今からでも離婚は可能だが、克光の行いが明るみに出る以前に離婚するのと以降に離婚するのとでは、天と地ほども差があっただろう。
話は一ヶ月ほど遡る。
思えば、娘の友達が家に入り浸っていた時からおかしかった。今さら構う気にもなれなかったことで無視して放っておいたが、あれが良くなかったのかもしれない。あれから何かが大きく狂い始めた気がする。
礼儀知らずな陰気臭い子供だと思った。他人の家に居座ってるクセにロクに挨拶もなく我が物顔で風呂にまで入り、連日泊っていった。どうやら家がリフォーム中で住めないからということらしいが、それで他人に甘えるとか、親は一体、どんな躾をしてるというのやら。
などと、自分のことは棚に上げ、智美は不満たらたらで<娘の友達>に対してあからさまに嫌悪の視線を向けていた。
それでも、今は自分も夫との離婚を急ぐ為に忙しい。こんなことに煩わされてる暇はない。そう考えて敢えて口出しもしなかった。そんな中、夫が歩道橋から転落し、そこに通りがかったトラックに轢かれて死んだのだ。それだけなら保険金も入ってくることだし別によかったのだが、夫を歩道橋から突き落としたのが夫の甥であり、しかも警察に押収された夫のパソコンから裸の少女の写真が大量に見つかって、何人もの中学生高校生の少女と淫行していたことが明るみに出てしまったのである。
それが二週間ほど前だ。
こうなると世間は面白おかしくそのことを取り上げて、まるで玩具を手に入れた子供のように、智美の夫のことを弄り倒した。マスコミが連日家まで押しかけ、不躾にしつこくマイクを向けてくる。しかもそれだけじゃなく、ネットに自宅の住所や電話番号まで晒された為に、嫌がらせの手紙や電話までが届くようになった。
「なんで?。うちは家族を殺された被害者なんだよ!?」
マスコミを振り切った後で家に閉じこもり、テーブルに置いた嫌がらせの手紙や、脅迫じみたメッセージしか入っていない留守番電話の点滅を前にして、智美がヒステリックにそう叫んだのも無理はないだろう。なるほど彼女の言うように克光は歩道橋の上から突き落とされて殺された被害者なのは間違いない。しかし同時に、何人もの少女に淫行を働いた加害者であったこともまた事実であり、嫌がらせの手紙や電話はそれに対してのものであったのだった。
とは言え、智美の言い分ももっともだ。罪は法によって裁かれなければ意味はない。私刑を許していては法による秩序は守れない。法律はあくまで国家としての秩序を守る為に存在するものであり、実は<正義を守る>ことが目的ではないのだ。
概ね正義と呼ばれる概念に即した形にする方が守る側も守りやすくなることから、法治国家においての法律はなるべくそういう風に作られており、それ故に正義を守る為のものと誤解されがちだが、実際に法が守ろうとしているのは<秩序>であって、正義という概念はその為のアリバイ作りに使われているだけである。
でなければ、独裁国家に<法律>などある筈がない。その時その時で気ままに独裁者が裁定してしまえばいいのだから。さりとて全ての事案に対していちいちそんなこともしていられないが故に、独裁者が望む秩序を維持する為に法律を作るという訳だ。
そうだ。たとえ独裁国家であっても、国民が好き勝手に私刑を行っていては国家としての秩序が守れなくなるのだ。だから国にとっては国民に法律を守らせることが最も大切なのである。
『犯罪者に甘い』
何か重大な事件が起きる度にそういうことを言い出す者がいるが、実際にはそうではない。法治国家における<法>は、権力者の横暴すら封じ込め、<法による秩序>を維持することを目的として作られる。だから、特定の誰かの気持ちや感情や都合だけに迎合したものにはならない。例えそれが、犯罪被害者や遺族の気持ちや感情であってもであり、ましてやそれが事件に係わりのない第三者のそれならなおさらだ。
『こいつ許せない』
『こいつの存在は邪魔だ』
『こいつを殺したい』
特定の誰かのそういう気持ちや感情や都合ばかりを酌んでいては、秩序などすぐに破綻する。現に今、本来は被害者である筈の克光を叩き、遺族を苦しめている者が無数に湧いて出ている。その行為が<正義>などと言えるのか?。しかも現在、克光を叩いている者の多くが、凶悪事件が起こって加害者が守られているかのような状況を目にする度に『犯罪者に甘い』などと口にする者達である。他人への誹謗中傷、嫌がらせ、果ては脅迫といった犯罪行為を行っている自分自身を棚に上げてそれを言うのだから、こういう人間に正義を騙らせていては秩序など守れる筈もないというのがよく分かるというものであろう。
人間は、間違いを犯す生き物である。克光を叩いている連中も、自分は正しいことをしているつもりなのに違いない。甥に殺された被害者であるのも事実だが、同時に、何人もの少女を食い物にしてきた卑劣かつ下劣な変質者だったのは確かなのだから。問題は、だからといって克光を大っぴらに叩けば遺族が苦しむ、という現実を見ることができないという間違いを犯している点にある。
なるほど<神の視点>であれば、克光の妻の智美さえロクな人間ではないのだから同情に値しないということが分かるかも知れない。しかし、実際にここで克光を叩いてる人間達には、智美の人間性など殆ど伝わっていないのだ。報道を見る限りでは、夫を理不尽に殺された哀れな遺族としか見えないようになっているにも拘わらず、その<哀れな遺族>をさらに苦しめる行為を平然と行っているのである。<正義>を盾にして。
この後、もし、智美が克光を殺した甥やその家族に対して損害賠償請求を行ったりすれば、その時に何が起こるのか、敏い人間なら容易に想像がつくだろう。『結局金かよ』『ATMが無くなったから代わりのが必要だもんな』等々の侮蔑の言葉がネット上に溢れることになるに違いない。そしてそういう行為を、匿名を隠れ蓑にして行うのはほんの一握りの人間ではないという事実が問題なのだ。
そういう人間達の思う正義を実現しようとすればどんな世界が出来上がるのか、想像してみるといい。誰も彼もが身勝手に正義を口にし、自分の正義ばかりを声高に叫び、それにそぐわないものはどんどん殺していくという混沌とした世界になるのではないのか?。
そもそも、克光の甥が彼を歩道橋から突き落として殺したのも、その甥の思う正義を執行しただけに過ぎない。その正義感が何を招くことになるのかを冷静に考えることさえせずに。その正義を執行することで自分が守ろうとした者を永遠に失うことになるというのを想像すらせずに。
もちろん甥も、何も考えなかった訳ではない。本人なりに考えた上での行為だった。本当は歩道橋から突き落とすまでのことはするつもりではなかった。ただ脅してそれで改心させようとしただけだ。だが、その為の手加減を間違ってしまった。頭の中で想像しているものと現実とでは違うのだということを理解していなかった。だから克光は歩道橋から転落してしまった。
『殺す気はありませんでした。ごめんなさい』
とどれだけ詫びようとも、死んだ人間は還ってこない。それとも、
『死んで当然の人間が死んだだけだから自分は悪くない。自分は正しいことをした』
とでも開き直るか?。
殺人を犯した人間の本心を聞き出し、それを詳細に挙げてみれば興味深いことが分かりそうだ。今、克光を叩いている人間達が言っている内容とほぼ変わらないことを挙げるに違いないのだから。
だがまあ、それは取り敢えず脇に置いて、来支間克光が何故、甥の手によって命を落とすことになったのか説明する必要があるだろう。
発端は偶然だった。いや、全体の因縁から考えれば必然だったのだろうが、誰かがその結末を意図して最初から仕組んだのではないという意味では間違いなく偶然だった。
久美が自分を滅茶苦茶にした客の一人の娘であることを知ってしまった玲那だったが、最初に顔を合わせた時こそ大きく動揺したものの、それ以降は落ち着いたものだった。久美の前でもさほど変わった様子は見せず、彼女の家に大人しく寝泊まりしていた。すると、
「ねえねえ、伊藤さん。伊藤さんのこと、玲那って名前で呼んでもいい?」
と、久美はそんなことを言い出した。自分の家に寝泊まりして、しかも一緒のベッドに二人で寝ても大丈夫なのだからそれくらいはもう平気な筈と思ったようだ。その時も玲那は、普段と変わらぬ感じで「別にいいけど…」と応えただけだった。
しかし、玲那にしても、その姿を見るだけでパニックに陥るほどの人間の自宅になどよく泊まれるものだと思う向きもあろう。だがこの時点では、実は玲那自身、何故自分がそんなことをしているのかがまるで分っていなかった。
もちろん、偶然といえど憎い相手の弱みを握ったようなものだからそれを利用して相応の報いを受けさせてやりたいということも考えた。
まずは、
『あの男の娘のこいつを、私と同じ目に遭わせてやろうか…?』
と考えた。だが、『誰に?』『どうやって?』という、最初の時点で行き詰まってしまった。この頃の玲那の周辺には、わざわざ彼女の為に動いてくれる人間など誰一人いなかった。久美に乱暴させようと思っても、その依頼を聞いてくれる人間がいないのだ。
とは言え、別に自分と付き合いがある人間に直接頼む必要はないだろうが。例えば、ネットには痴漢やレイプをプレイとして楽しみたいという女性もいて、それに協力してくれる、つまり、自分を痴漢したりレイプしたりしてくれる男性を募集する為のサイトなどもあるのだという。そこに、久美に成りすまして彼女の詳細を書き込み、それにまんまと乗せられた男達に乱暴させるという方法も考えられただろう。が、この時の玲那にはそんなサイトが存在するという知識がまずなかった。
これまでずっと、心を閉ざし、何も考えないようにすることで自分の置かれた状況に耐えようとしていた彼女にとっては、テレビのアニメくらいしか気晴らしになるものがなく、情報源ももっぱらテレビに頼っていた。しかもアニメ以外には一部のドラマやバラエティー番組くらいしか見ないので、入ってくる情報は非常に偏っている。インターネットもやったことがない。パソコンでもアニメを見られると知ったのは、つい先日、久美から教えてもらってようやくである。
実はそれを聞いたことにより、これまでの仕事で得た<給料>が蓄えとして銀行口座に残っていたので、家電量販店に行って自分のパソコンを買ったのだが、
「玲那の家、インターネットとかできるの?」
と久美に訊かれて、
「え…?。パソコンがあればできるんじゃないの…?」
などと応える始末であった。その後、久美に設定してもらって彼女の家で、テレビで見たいアニメがやってない時にはパソコンの方でアニメを見るという形で時間を過ごしている。ちなみに自宅の方は、母親がリフォームのついでにインターネット回線を引く手筈を整えていたりもしたが。自分も新しい夫と一緒に住むつもりなので、その辺りのインフラは抜かりなく整備しようとしていた。
そうやってようやくインターネットに触れ始めたばかりの玲那は、そこに溢れている情報にはまだ気付いてさえいない状態だった。なので、久美を誰かに襲わせるという案は取り敢えず保留となった。
次に考えたのは、自分が被害者として警察に克光の卑劣な行為を訴え出て逮捕させようというものだった。
さりとて、ドラマの中で被害者が自分がどんなことをされたというのを警察官に延々と語るというシーンを見たことで、あの男を警察に逮捕させる為には自分がされたことを詳細に打ち明けなくてはいけないということは辛うじて知っていた彼女は、
『他人に言うのはイヤだな……』
と尻込みしてしまった。憎いのは憎いし今さら自分がどうなろうと構わないという自暴自棄な気分にもなっているものの、それはあくまで肉体的に乱暴されるのは今さらという意味であって、関係のない人間に自分が何をされてきたのかをわざわざ教えたいとまでは割り切れていなかった。だからこれも今の時点ではできればやりたくない。
となればやはり、自宅でイメージトレーニングに励んでいたように包丁を手にして自分の手で直接―――――。
『……いや、ダメだ。今はまだダメだ。今の私の力じゃ確実にあいつを殺せないかもしれない。私が復讐する相手はあいつだけじゃない。失敗はできない。もし殺せても、それで警察に逮捕されたりしたらあいつらまで殺せなくなってしまう……』
玲那が言う『あいつら』とは、実の両親のことである。それが玲那の最終目標だった。宿角健雅もイメージトレーニングの相手にはなっているものの、それはあくまで母親を殺す際の障害として相手をしないといけないかもしれないという意味での重要な相手という認識だった。少なくともこの時点では。
なんていう諸々の思考を、久美の部屋で彼女が次々と渡す様々な衣装に着替えながら、玲那は延々と行っていたのだった。
「うわ~、やっぱり玲那、何着ても似合うな~」
興奮気味にそう口にする久美の前で、玲那はただ人形のように言いなりになっていた。こうやって他人の言いなりになるのは慣れたものだ。だからこの時の玲那は、それこそ等身大サイズのリアルな着せ替え人形のようなものだっただろう。またそれが久美の言うようにとても似合っていた。もっとも、玲那自身は、心の中で呆れながらため息をついていたりしたのだが。
このように、自分の中に膨れ上がる憎悪を自覚しつつ、自分をあのような目に遭わせた両親や客達を<殺してやりたい>と頭の中では思いながらも、まだ十三歳にもならない彼女には、それをどう形にすればいいのかを具体的に思い付くほどの知識や経験は備わっていなかった。正直、この時点ではまだ、他ならぬ玲那自身が自らの中にある憎悪を持て余している状態だったと言えるだろう。だから彼女が成長し知識や経験を身に付け、実効性のある方法を思いつくまではまだ猶予があった筈だった。
なのに、一体、どこの悪意を持った何者かによる干渉なのか、ようやく辛うじて心を持っただけの人形のようなものだった玲那の前に、この時の彼女が最も必要としていた者が現れてしまったのだ。彼女の憎悪の代行者が……。
久美の家に寝泊まりするようになって一週間。いつものように帰宅してきた久美と玲那の前に、立ち塞がる人影があった。
「トシ兄ぃ……」
戸惑う久美の口から言葉が漏れる。来支間敏文だった。大学生となり、更に青年らしくなった敏文が、苦々しい表情を浮かべて久美を見ていた。
小学校での運動会のあの日以来、彼女と敏文の間にできた溝は埋まることがなかった。久美は彼を避けるようになり、顔を合わせば挨拶くらいはするものの、彼が玲那の話題を持ち出そうとするとそれを察して耳を塞ぎ逃げ出すようになっていた。
久美にしても、彼のことは今でも嫌いという訳ではない。頼りになるお兄ちゃん的な存在として慕う気持ちも残っている。でもだからこそ、彼の口から自分の友達のことを悪く言うような言葉を聞きたくなかったのだ。彼のことを嫌いになりたくないが故に。
だがそれとは別に、この時の二人を見ていた玲那の顔が禍々しい笑みで歪んでいたことに、久美は気付かなかった。
「久美、話があるんだ。大事な話なんだ…!」
「イヤ!、聞きたくない…!」
玄関を開けようとする久美に、敏文が声を掛ける。しかし彼女はやはり耳を塞ぎ彼の言葉を聞き入れようとはしない。そんな二人を、玲那は冷めた目で見ていた。先ほど浮かび上がっていた禍々しい笑みは嘘のように消え失せていた。
そんな彼女の前で敏文は言う。
「久美、これは本当に大事なことなんだ。お前の将来にも関わることなんだよ…!」
「……」
彼がそこまで言うのなら確かに大事なことなのだと思う。実際、彼の言うことはこれまでも正しかった。しかし、こればっかりは聞けない。引っ込み思案で友達がなかなかできなかった自分に初めてできた友達なのだ。それと縁を切れなどと、聞き入れられる訳がない。
だがこの時の彼の様子は、これまでとは少し違っていた。かつてはとにかく上から目線で頭ごなしに押し付けてくるというどこか高圧的な印象を受けるものだったそれが、逆に縋るような感じになっているようにも思えた。だからつい、強く拒絶できずに彼の方を見てしまった。それを好機だと感じたのだろう。敏文の目が一瞬、鋭い光を放った。しかしあくまで口調は柔らかく続けた。
「伯父さんが人に言えないようなことをしてるのは間違いないんだ。僕は見たんだよ。その子が伯父さんの事務所から出てくるところを…」
ちらりと玲那の方に視線を向けつつそう言った敏文に、久美は泣きそうな顔を向けていた。そんな彼女の様子を見て、彼は内心、自分のペースに巻き込めたことを喜んでいた。こうなれば後はもう、以前のように優しくしてやれば丸め込むことも難しくない。時間はかかったが何とかうまくいきそうだと、顔には出さずほくそ笑んでいたのだった。
ただ、その時、二人の様子を見ていた玲那が再び見せた表情に気付かなかったのは、まるで絶好の標的を見付けた悪魔のように狂気じみた愉悦に満ちた毒々しい笑みを見落としてしまったのは、彼にとっては大きな失敗だったかもしれない。いや、それどころかこの後に起こることを思えば痛恨の極みとさえ言っていい。
中学生の従妹を手玉に取ることはできても、彼も所詮はそこまでだったということか。
とは言え、玲那の方も、この時の自身の振る舞いは、なぜそこまで出来たのか本人にも分からなかった。まるで何かが乗り移ったかのような、何かが<降りてきた>かのように彼女の体が動いただけであった。
「その人の言うとおりなの……」
不意に届いてきた、絞り出すようなその声に、久美も敏文もハッとした顔で振り向いた。その視線の先には、小さな子供のようなあどけない顔をして涙をぽろぽろとこぼす玲那の姿があった。つい今しがた見せた悪鬼を思わせる笑みは既に欠片も残っていなかった。そこにいたのはただただいたいけな少女だった。
少女は言う。
「ごめんね…。今まで黙ってて……。でも、私も久美にばれるのが怖かった…。私に酷いことをしたのが久美のお父さんだっていうのがばれたら、久美が悲しむと思ったから……」
それ自体は<演技>というよりも、以前の玲那の姿そのものだっただけだろう。他人に怯えおどおどとするかつての彼女がそこにいるだけだったのだから。そしてその痛ましい姿は、久美と敏文の胸をぎゅうっと締め付けた。久美を守る為に彼女を利用しようとさえ考えていた敏文ですらいたたまれなくなる程に。
だがそれでもなお、少女の哀れな姿に締め付けられながらも、それとは別の部分で敏文は心の内でガッツポーズさえしていた。
『これはいい…!。これで久美も目を覚ます筈だ。この子を引き離すのはまだ無理でも、少なくとも父親が何をしてるのかさすがに察するだろう…!』
それがこの時の彼の狙いだった。以前は玲那さえ引き離せば何とかなると思っていたが、やはり元凶である父親から引き離さないと駄目だと思うようになっていたのだ。しかもちょうど、母親が離婚を画策中だという。だが、肝心の久美は母親よりも父親に懐いているらしい。今のままでは離婚が成立したとしても父親の方について行ってしまいかねない。だから、彼女の父親に対する信頼を下げ、そちらについて行くのを阻止することが狙いの一つだったのである。故に今になってこうして接触してきたのだ。
その敏文の前で、久美は青い顔をしていた。玲那の突然の告白に理解が追い付かず、血の気が引いたままの状態になっているようだった。思考も停止しているようだ。そんな彼女に向かい、玲那がさらに語り掛けた。
「私も、久美のことが好き。私に酷いことをした人の家族とか関係ない…。だから辛かった…。久美の前でどんな顔をしてたらいいか分からなかった…。久美に冷たい態度を取ったりしてたのもその所為…。ごめんね…ごめんね久美……」
うなだれ、立ち尽くしたままそう話す玲那の目から、とめどもなく涙が溢れ、地面へと落ちた。この時の玲那の姿を見て何とも思わない者がいるとしたら、それはよほど情の薄い人間か、そもそも情緒が欠落している人間だろう。それほどまでに見る者の心の深いところへと突き刺さる姿だった。だから久美がそれに心動かされてしまっても、何もおかしくはなかった。
「…玲那……。そんなことない…、玲那が謝る必要ないよ…。玲那も辛かったんだね……。私、知らなかった…。そんなこと全然知らなかった…。だけど知らないで済まされることじゃないよね……。私の方こそごめんなさい…。気付いてあげられなくて……」
いつしか久美の目からも涙が溢れ、彼女は縋るように玲那の体を抱き締め震えていた。これ以上ないほどに玲那に共感していた。
「分かった…。私、ちゃんと聞く。玲那の話をちゃんと聞く。だから私に話して……」
そう言いながら、久美と玲那は家の中へと消えた。一緒に入ろうとした敏文に対しては、
「ごめんね、トシ兄ぃ…。これはやっぱり男の人の前では話しにくいことだと思うから、私が玲那から話を聞いておくね……」
と断った。そう言われてはさすがに敏文も引き下がるしかなかったが、後は任せておけば大丈夫だろうと彼は判断した。伯父に酷い目に遭わされたという少女の口から直接詳しい話を聞けば、それこそ父親に対する久美の信頼は致命的なダメージを受けるだろう。そうなれば後は自分が傷付いた久美を支えてやれば完璧な筈だ。だから、
「あ、ああ、そうだな……」
と物分かりの良い年長者としての姿を見せつつ、敢えて大人しく引き下がった。明日にでも改めて様子を見に来ることにしよう。
そう考えながら久美の家を背にして歩き出す。だがそんな敏文の胸に、ふと、先程の玲那の姿が浮かんだ。その痛々しい姿が改めて彼の奥深いところに刺さってくる。さっきまでは久美のことしか考えていなかったが、あの少女の涙を見て、それだけではないものが彼の中にも生じつつあった。玲那に対する同情だ。
『あんな女の子を苦しめるとか、許せない……!』
固く、熱を持ち、そして胸をギリギリと軋ませる何かが、彼の中に生じ始めていた。憤りだ。あんな弱々しくて儚げな少女に対して、あの男は、あの伯父はいったい、何をしたと言うのか…!?。
ほんの少し前まではその少女を上手く利用してやろう程度にしか思っていなかったというのに随分と調子のいい話ではあるが、敏文は、冷淡な一面も持ちつつも、基本的には真面目で正義感の強い人間だった。故に久美を守らなければいけないとも思っていたのだ。そしてこの時、その守らなければいけない対象に、玲那も加わりつつあっただけである。久美に比べればまだまだ優先度はずっと低いが。
それでも、自分の家に帰ってからも、敏文は久美と玲那のことが気になって何も手につかず、ベッドに横になってただ時間が過ぎるのを待っていた。そこに、
「敏文、お父さんが話があるって」
自室のドアをノックしつつ、母がそう声を掛けてきた。『父さんが…?。なんだろう』と思いつつ部屋を出て父が待つリビングに下りた。そこには、伯父の克光に瓜二つな父、克仁が、ソファーにどっしりと腰を下ろし、敏文を真っ直ぐに見詰めていた。
「座りなさい、敏文」
父親に促され、敏文は向かいのソファーに姿勢を正して座った。こうして向かい合うと、父は、伯父の克光とは姿こそそっくりだがまるで雰囲気が違うというのを改めて感じた。すると父親は、緊張した面持ちで自分を見る息子に対し、静かに、しかし重みを感じさせる言葉を掛けたのだった。
「敏文。お前はお前の思う通りに生きなさい。私はお前を信じている」