宿角玲那編 「日の当たらぬ場所を歩き続ける少女」
陽菜、麻音、心音のように日の当たる場所へと戻っていく少女もいるかと思えば、その道が示されることもなく日の当たらぬ場所を歩き続ける少女や、日の当たる場所から闇の中へと転落してくる少女がいるのもこの世というものなのだろう。
前者は当然、玲那のことである。後者についてはまた後に語ることになるので待ってもらうとして、まずは玲那のことから触れていこう。
夫の伊藤判生が経営していた裏風俗店が警察からマークされたと知った伊藤京子は、
『このままじゃあいつと共倒れだ』
と考え、離婚届を偽造し、夫と離婚してしまったのだった。しかし、自分の知らないところで勝手に離婚されてしまった判生の方も、その事実を知るや、
『ちょうどいい。俺はフけさせてもらう』
と言ってどこへともなく逐電してしまったのである。どこまでも不実な人間達だと言えた。
それは、玲那が中学に上がったばかりの頃のことであった。
事務所と称して住んでいたマンションの部屋を失い、夫にも逃げられた京子は、仕方なく築五十年以上のくたびれた自宅へと戻ってきていた。事務所に置いていた家財道具は一式運び込んでそちらはまずまず充実したが、そもそもの家の古さには辟易していた。トイレはどうすることもできないと諦めることはできても、風呂については我慢がならず、わざわざ毎日スーパー銭湯へと風呂に入りに行く始末だった。
しかし京子は、そうやって出掛ける時も玲那を連れて行くことはなかった。玲那としても、この母親と一緒に出掛けることなど望んでいなかったのでそれは問題ではなかったのだが、京子の身勝手さは底知れず、ご飯を炊いてスーパーで総菜を買って食事の用意をする玲那に自分の分も用意をさせた。
その振る舞いにはさすがの玲那も不満げな視線を向けてしまったが、それに気付いた京子に、
「なんだその目は!?。それが親に向ける態度かよ!!」
と怒鳴りながらやはり暴力を振るわれた。
ただ、思い切り頬をひっぱたかれた玲那だったが、この時は吹っ飛ばされたりせず、その場にとどまることができた。体が大きくなってきたことで持ち堪えられたのだ。
「…!?」
その事実に気付いた玲那の目に何かがよぎったのを、京子が気付くことはなかった。だが、これをきっかけにして、母親に対する玲那の恐怖心はすさまじい速さで失われていくこととなる。そして恐怖心が消え去ったことでできた心の余白に、別の感情が入り込んでくるのを彼女は感じていた。
ぐつぐつと煮え滾るようでいて、暗く重く腐臭の如き不快な何かを放つ感情。
憎悪だった。以前から芽生え始めてはいたのだが、母親に対する恐怖心の方が上回っていたことで縮こまっていたそれが、恐ろしい速さで膨れ上がり、彼女の心を満たしていく。
それでもまだ、突き動かされ理性を失わされるほどのものではなかった。しかし紛れもなく彼女の中で育っていったことも事実だった。
なのに、その母親に対する憎悪すら上回る程の異様な感情を呼び覚まされるものが、突然、彼女の前に現れた。
「この人が今日からあんたの父親だから」
進学したばかりの中学校から帰ってきた玲那に向かって母親がそう紹介したのは、母親よりも明らかに若い、二十代半ばかせいぜい三十手前という感じの、不自然なほどに日に焼けて黒い肌のがっちりとした体格を持ち、造形は整っているが耳どころか鼻にまでいくつもピアスを着けたどこか何とも言えない不気味な雰囲気を漂わせる顔つきをした男であった。
男の名は、宿角健雅。傷害の前科を持つ、もう見るからにまともとは思えないそいつは、言葉にしがたい表情で自分を見上げる玲那の、真新しい制服に包まれた体を舐めあげるように見詰めて、ニヤァと吐き気も催すような不快な笑みを浮かべて言った。
「オレがお前の父親だから。オレ、礼儀とか厳しいからね。舐めた態度する奴にはバシバシいくよ。でも、ちゃんとしてる子にはめっちゃ優しいからね」
もうその物言いだけで正気を疑うレベルではあったが、玲那は敢えて、
「よろしくお願いします…」
と頭を下げた。それを見た宿角健雅はさらに気持ちの悪い笑顔を浮かべて、
「いい!、いいねえ!。素直な子は好きだよオレ!!」
などと、意味の分からないテンションで手を伸ばし、制服の上から玲那の胸を鷲掴みにしたのだった。
「さっそく、親子のスキンシップね!!」
この無茶苦茶な振る舞いに、玲那は、怒りを通り越してただただ呆れるしかなかった。初対面の血の繋がらぬ娘の胸をいきなり鷲掴みにする奇行もそうだが、実は、伊藤判生と伊藤京子の離婚届の偽造に協力し、伊藤判生として行われた署名は、この宿角健雅の手によるものだったのである。
とは言え、当の判生が異議申し立てもせずそれを了承してしまったことで書類は正式に効力を発してしまい、判生と京子の離婚が成立。その後、僅か数日を経て今度は宿角健雅と京子の婚姻届及び、宿角健雅と玲那との養子縁組届も提出されて受理されてしまっていたのだった。
伊藤玲那は、彼女のまったく知らぬところでいつの間にか宿角玲那となっていたという訳だ。もはや悪夢以外の何物でもない。
以前の父親が経営していた裏風俗店が突然解散し、あの仕事から解放された玲那は、思いがけず与えられた自由に戸惑いつつも満喫していた。中学に進学したばかりだったこともあり、新しい環境でこれまでと違う気分を味わうことになった。それがある種の気分転換と精神的な余裕をもたらし、玲那の表情は、あくまでそれまでと比べての話ではあるが僅かに穏やかな感じになっていただろう。しかも、精神的な余裕は彼女に頭を使って思考する余裕ももたらし、玲那はそれまでとは全く違って自分で<考える>ということもできるようになっていた。
もちろんそれまでもいろいろと考えていたりはした。だがそれは、精神的な余裕などまったくない状態での必要に迫られた限定的な思考でしかなかった。だが今は、『今日のアニメは何だったかな』とか、『あのアニメの展開はどうなのかな』とか、生きる上ではそれこそどうでもいい他愛ない内容をぼんやりと考えることができるというのが彼女にとっては何にもまして嬉しかった。
嬉しい。そうだ。玲那はこの時、ようやく『嬉しい』などということを多少なりとは言え感じることができるようになっていたのである。陽菜に優しくしてもらってほんの一時だけ感じた嬉しさとも違う、本当に何でもない嬉しさ。それもこれも、あの仕事から解放されたからに他ならない。
あの仕事は、彼女にとっては本当に<地獄>だった。玲那は、十歳になる直前から中学に上がった直後まで生きたまま地獄にいたのだ。厳密には生まれてこの方、地獄じゃなかった時期などなかったのだが、仕事をやらされていた時のそれは特に彼女の精神を蝕んだ。心を固く閉ざし何も考えないようにすることで辛うじてバランスを保ってきた。でも今はもうその必要もない。
さりとて、そういうことから突然解放されただけでは彼女は<普通>には戻れない。そもそも彼女にとっての普通とは常に誰かに虐げられ抑圧されてきた状態だったので、それがないというのは玲那にとってはむしろ違和感さえ覚えるものだった。仕事をしなくなって一ヶ月ほど。ようやくその違和感にも慣れてきた状態というところだ。
他の子達と同じように学校に通い、授業を受け、学校から帰れば家で宿題をし、夕食を済ませ、風呂に入り、ただぼんやりとアニメをはじめとしたテレビを見る。そのテレビを見てる途中に母親が乱暴に玄関の扉を開けて仕事に連れて行かれることもない、平穏な時間。
普通の子供なら当たり前の、なんてことのないのんびりとした毎日。ようやく手に入れたそれを満喫していたところだというのに……。
『どうしてこんな……』
彼女はそんなことを考えていた。どうして自分ばかりこんな目に遭うと言うのか。この世に必要なかったのなら今からでもいい、消し去ってくれればいい。そうしたらもう何もかも関係なくなる。どうでもよくなる。
それなのに、その程度の望みさえ聞き入れてもらえないのか。
彼女は思う。
『私は、今まで何も考えてこなかった。考えられなかった。考えたら何もかも全部が嫌になるから……。
でも仕事がなくなって学校だけ行ってればよくなって、嫌なこともされなくなって私はやっと考えることができるようになった。
だからこれから一杯、いろんなことを考えようと思ってたのに…。
それなのに……』
ここまで散々苦しめてきてこの上まだ嫌なことをしようとする母親と、その母親に連れられて自分の前に現れた不愉快な男。そしてそんな二人を前にした彼女を満たしていく憎悪。
だが彼女は、それが憎悪であるということすら知らなかった。何か訳の分からないものが自分の中に溢れ出てきてるのは分かるのだが、人はそれを憎悪と呼ぶのだということさえ彼女は教わってこなかった。
許せない。
許せない。
許せない。
許せない。
もう嫌だ。嫌なことをされるのはもう嫌だ。だからそれをやめさせたい。じゃあ、やめさせるのはどうしたらいい?。
アニメの中では<悪者>はヒーローや正義の心を持った強い誰かがやっつけてくれる。けれど現実にはそんなのはいない。警察は何もしてくれなかった。政治家も何もしてくれなかった。現実にはヒーローなんていない。だったら自分がやるしかない。
だけど……。
だけど私にはそんな力はない。今はまだ私の力は全然弱い。やっとお母さんに叩かれても倒れたりしなくなっただけ。でも、ということは、私もまだこれから体も成長して力も強くなるはずだ。それでもあの男には勝てないかもしれないけど、少なくとも同じ女であるお母さんとは同じくらいの力にはなる筈だ。
そうだ。私も中学生になった。高校生くらいになったらお母さんとは同じくらいの力になるかもしれない。お母さんには勝てるかもしれない。だったらその時までに何かあの男にも勝てる方法を考えておけばいいかもしれない。私でも勝てる方法とか、武器とかを見付けなくちゃ。
そう考えた玲那は台所に行き、包丁を手にした。一本では心許なかったから両手で一本ずつ持ってみた。アニメで見た忍者とかを頭に思い浮かべて構えてみると、ほんの少しだけ自分が強くなったような気がした。アニメの中で刀を構えたキャラクターがやってたみたいに包丁を振ってみた。母親の体を包丁が切り裂くのがイメージできた。すると胸のなかでゾワゾワっとしたものが湧き上がってくる気がした。
『勝てる…?。私でも勝てる……?』
そんな風に思うとそのゾワゾワがさらに大きく湧き上がってる感じがした。口の端が勝手に吊り上がって笑みの形になった。
それは、両手に包丁を構えた中学生の少女が何かを空想しながらニヤニヤと笑っているという異様な光景だった。
玲那の中に湧き出してくるものがはっきりとした形を成していくのが見えるかのようであった。
一方、来支間久美は、中学に上がってからも玲那の傍にいた。やたらと馴れ馴れしくする訳ではないが大体いつも玲那と行動を共にしていて、同級生などからは普通に<友達同士>だと思われていた。
だがこの時、久美の家庭は崩壊寸前の状態にあった。元より、本来は家長である筈の来支間克光は週の半分も家におらず、何やら怪しげな自称タレント事務所社長であることが一番の原因だっただろう。故に克光の妻でもあり、久美の母親でもある来支間智美は、離婚届に自分の名前と判を押し、後は克光のそれをもらえればいつでも提出できる状態にしていた。
しかも、それを娘の目にも止まるようにとでもしているのか、そのままテーブルの上に広げて置いたりもしていた。
『そんな……』
『離婚するから』という母親からの無言のアピールをそこに感じ取った久美だったが、自分はどうすればいいのかまるで分らず、ただ鬱々とそれが回避されることを願うしかできなかった。
ある時には、つい、玲那の前で、
「もしかしたら、お父さんとお母さん、離婚するかもしれない……」
と呟くように口にしたりもしたが、玲那は玲那でこの時、それどころではない状況だったのでまるでそれが聞こえていないかのように取り合うことすらなかった。
昼休憩。一応、母親が用意してくれた弁当を開ける久美の前で、玲那は、昨日の営業時間終了直前にスーパーで買ってきた見切り品のホットドッグを弁当として黙々とかじっている。既に日付が変わった時点で<消費期限>は切れているが、万が一のことがあったところで構わないと投げやりになっている彼女にとっては何の問題もなかった。
中学校でも、玲那は小学校の頃と変わらず浮いた存在で、単発的に男子にからかわれたり陰口を叩かれることはあったものの、過度なイジメなどは特になく、同級生達もただ距離を置いているだけで概ね平穏であっただろう。いや、そうでなければいけなかった。何故なら、この時、既に玲那はそれまでのただ大人に怯えて震えているだけの存在ではなくなっていたのだから。
感情を窺わせない冷たい視線の奥で時折揺らめくどす黒いものを見抜ける者は誰もいなかった。
放課後。家に向かう玲那の足取りは重かった。家は今、玲那をはじめとした少女達を食い物にして荒稼ぎした蓄えを基に母親の思い付きで始まったリフォームの真っ最中で、自分の部屋以外はとても人が住めるような状態ではなかった。母親の京子と<父親>の宿角健雅は自分達だけ部屋を借りて退避中である。しかし娘については、彼女の部屋として使っている一室だけをリフォームの対象から外し、そこで生活を続けさせていたのだった。
作業を行っている職人達の間をすり抜け、玲那は自分の部屋へと向かう。リフォーム中にも拘らず無理に生活を続けるその娘を、職人達は奇異の目で見ていたりもした。中にはまずまず美しいと言ってもいい彼女の制服姿を見て淫猥な笑みを浮かべる者もいたが、特に問題もなく工事は進んでいく。それよりは、壁を失って養生シートで覆っただけの建物では防犯上も不用心だったことの方が問題だったかもしれない。
だが玲那にとっては、そんなことも些細な問題だった。今さら何者かが侵入してきて何をされようともこれ以上自分がどうにかなる訳でもないという開き直りもあったのだろう。
自室にこもり宿題を終わらせ、風呂は自転車で五分ほどのところにあった銭湯に通った。
慣れた感じで番台に料金を置いた時、「伊藤さん」と、彼女に声を掛ける者がいた。人形のように意思を感じさせない様子で声の方に振り向いた玲那の視線の先にいたのは久美であった。実は時々、玲那の家まで勝手について行ったりして、リフォーム中で銭湯に通っていることを把握していたのだ。しかも彼女の後を追って銭湯にまで来るなど、やってることはほぼほぼストーカーだが、久美としては悪意はない。ただ玲那と親しくしたかっただけである。
「……」
玲那の方も、久美が勝手に家までついてきたりしていたことは気付いていたが、追い払うのすら面倒だと感じていたので、久美の勝手にさせておいている状態だった。すると久美も、番台で料金を払って玲那の隣で服を脱ぎ始めた。当然のことだが、彼女と一緒に風呂に入りたくて現れたという訳だ。
しかし、それまでは玲那の傍にいられればそれで良かった筈の彼女がなぜここまでのことをし始めたのだろうか?。原因は、両親が離婚するかもしれないという不安だった。その不安が彼女を駆り立て、玲那とより親しくなって少しでも不安な気持ちを紛らわせたかったという感じなのだろう。
本当は、両親の離婚を回避させたかった。けれど自分では母親を翻意させられないことは、仮にもずっと一緒に暮らしてきて嫌というほど思い知ってきていた。下手に口出しすると余計に意固地になるタイプだということをよく知っていた。だから敢えてそっとしておく方がまだ離婚が回避される可能性が高いかもしれないという、彼女なりの判断だった。
とは言え、ただ不安の中で黙って耐えるというのも、久美にとってはあまりにも苦しすぎる選択だった。だから玲那に縋ろうとしてしまった。これまで傍にいて、このくらいだったら大丈夫かもしれないと感じたが故の行動だった。そしてその読みは当たっていた。固く心を閉ざしていた玲那にしてみれば、久美がまとわりつく程度のこと自体がどうでもいいことでしかなかった。『勝手にすればいい』程度にしか思っていなかったのだ。
『良かった。伊藤さん、いつもと変わってない…』
玲那と並んで体を洗っていた久美は、そんなことを考えてホッとしていた。こうして距離を詰めようとしても特にこれまでと様子が変わらないのが確認できたからだった。そこで彼女はさらに思い切った行動に出た。
「ねえ、伊藤さん。今、おうちをリフォームしてるところなんでしょう?。だったらうちに来ない?。今の状態じゃいろいろ不用心だし。ね?」
「…え……?」
思いがけない申し出に、さすがの玲那も咄嗟に久美を見詰めてしまった。そして縋るような目で自分を見る彼女を、初めてしっかりと見てしまった。
「……」
そんな久美の姿を見た玲那の胸の奥深いところで、玲那自身にもよく分からない何かが揺らめいていた。
これまで玲那の周りにいて彼女に積極的に関わろうとする人間は、誰も彼も自分を力尽くで捻じ伏せようとするものばかりだった。両親はもとより、客の男達も嫌がる自分を無理矢理組み伏せて体を貪るだけだった。常に上から見下ろし、従わせることしか考えていない連中ばかりだった。なのに、今、自分の目の前にいる少女は、下から見上げるようにしてこちらを見ている。それは、彼女が今まで感じたことのない感覚だった。だからつい、それにつられるようにして言葉が漏れ出てしまったのかもしれない。
「いいの…?」
それは、玲那が見せた数少ない甘えの姿であった。
しかしこの時、何故その誘いに乗ってしまったのか、実は玲那自身もよく分かっていなかった。ただ何となく乗ってしまっただけかもしれないが、これまで自分が経験したことのない人間関係に縋ろうとしてしまった可能性もある。自分よりも下の立場にわざわざなろうとしているこの奇特な少女との関係に。
それが何をもたらすことになるのかも知らずに……。
いったん家に帰って学校に必要なものと着替えなどを適当にリュックに詰めて、玲那は自転車を押しながら久美と共に歩いた。
特に会話もなくただ黙って歩いていただけだったものの、久美は胸が高鳴るのさえ感じていたようだ。この生きている人形のような玲那と、しばらくの間とは言え一緒に暮らせるとは。
これから始まる夢のような一時を想像するだけでワクワクしてしまう。家に着いたらさっそく、自分の服に着替えてもらおう。それから彼女に似合いそうな服を見繕っていろいろ着てもらおう。
そう。久美は、玲那のことを友達として見ているというよりは、間違いなく<リアルな着せ替え人形>のように見ていたのである。本人にはその自覚はなかったのかもしれないが、本心の部分では紛れもなくそれだった。
結局、二人は、本質的にはお互いに相手を対等な<人間>として見ていなかったのだろう。それを双方共に自覚することなく、片方は冷淡に、片方は内心浮かれながら夕暮れの中を並んで歩き、やがてある建物の前で立ち止まっていた。久美の家だった。
久美の家は、玲那のそれよりもずっと新しくやや大きめの戸建て住宅だった。小さな門がありそれを開けて中に玲那の自転車を停めさせ、久美は玄関を開けるべく鍵を出して差し込んだ。今の時間はまだ、母親はパートから帰っていない筈だからである。
「…あれ…?」
鍵を差し込んで開けようとした時の違和感に、久美は思わず小さく声を上げてしまった。掛かっている筈の玄関の鍵が開いていたのだ。その瞬間、久美はピンときた。
「お父さん!?」
そう家の中に向かって声を掛けながら玄関を開けると、そこに、娘が帰ってきた気配を察してリビングから現れた父親の姿があったのだった。
来支間久美の父親。そう、それは、玲那のことを金で買い、その体も心も弄りつくした客の一人、来支間克光その人である。
「……!!」
同級生の少女の自宅の中に自分の客の姿を見付けてしまった時の玲那の顔をどのような言葉で表現すればいいのか……。
何の心構えもしていなかった完全な不意打ちの状態で、もう二度と顔も見たくもないと心底思っていた相手に出会ってしまった為に、玲那の精神は紛れもなくパニックを起こしていた。しかも、ただびっくりしただけとかそういうのではない、病的な反応。
心どころか体まで実際に引き裂かれてその辺に巻き散らかされるかの如き感覚。
現実感が喪失し、上下の感覚すら失われる。必死で何かを考えようとするが、それを考える為の頭そのものがどこかに消え失せてしまったかのように脳が働かない。
それと同時に、驚きか、怒りか、恐怖か、戸惑いか、憎悪か、それらすべてを乱雑に鍋に放り込んで何も引かずに汚物で煮込んだような<何か>が、彼女の顔に張り付いていた。それはもはや、本来ならまだあどけなさも残る筈の中学一年生の少女の顔とは思えなかった。ある種の怪物の顔だったのかもしれない。
対して、娘と一緒に玄関に入ってきたのが自分がかつて買っていた少女だったことに克光も気付き、さすがにギョッとしたような表情を見せた。だがこの程度の修羅場には慣れているのか、驚いたような顔をしたのは一瞬で、すぐさまにこやかに<同級生の父親>の顔を作り、
「久美の友達かな?。いらっしゃい」
と、そしらぬふりをふりをしてみせたのだった。その、抜け抜けと恥ずかしげもなくすっとぼけてみせる男の態度を見た瞬間、玲那の背筋を、得体の知れぬ何かがバリバリと音を立てて噛み砕きながら脳髄を突き抜け頭頂部から空へと打ち出されたかのような感覚が奔り抜けた。髪のボリュームが明らかに増したように見えたのは、文字通り<怒髪天を衝く>というものだったのかもしれない。
もしこれが、途切れることなく仕事を続けている状態の玲那であったなら、ここまでにはならなかっただろう。多少は不快に感じても怯えの方が強く出て体が竦み、ただ心を閉ざすだけで済んでいた可能性もある。
しかし、仕事を離れ、ある程度は気持ちを切り替えることができるだけの期間を置き、そして自らの体の成長を自覚し、母親の平手の一発で吹っ飛ぶほどもか弱くもなくなり、それどころか母親や新しい父親に対抗しようという気持ちも生まれてくるほどは大きくもなった玲那にとってその男は、自分の力ではどうすることもできない天災にも似た強大な理不尽ではなく、場合によっては自分の力でもなんとかできてしまうかもしれない矮小なただの下衆に成り下がっていたのだった。
そういうことだ。かつては恐怖で姿を見るだけで体も心も竦んでいたのが、母親のことも恐ろしくなくなりつつあったことで、母親や新しい父親を倒すイメージトレーニングを重ねてきたことで、彼女自身も気付かぬうちに、恐怖以外のまったく別の激情がその体を支配するようになっていたのである。
それでも、その瞬間に激しい感覚に突き動かされるように飛び掛かってしまわなかったのは、やはりこの時点ではまだ、彼女の体にそういう反応が備わっていなかったということなのか。破壊的な衝動に咄嗟に体が反応するほどのものが身についていなかったのだろう。
その後は、顔を強張らせながらも黙って頭を下げることができるようになるほどの冷静さが急速に戻ってきたのだった。その間、十数秒ほど。
ここが自分を滅茶苦茶に弄んだ客の家だと気付きながらも、久美に促されて敷居を跨いでしまったのが何故なのか、玲那自身にも分からなかった。単に思考停止に陥ったことで言われた通りの行動しかできなくなっていただけかもしれないが、それにしても意味不明である。
だが、自分のことに間違いなく気付いていながら大人しく家に上がってきた玲那を見て、克光はむしろ安堵していた。かつてのことをそれほど気にしていないのだろうと判断したからだ。それどころか、
『わざわざ家に上がるくらいだからもしかしたらあの子も期待してるのかもしれないな。もうだいぶ大きくなってしまったけど久しぶりにお小遣いぐらいあげてもいいか』
なんてことを考えてしまってさえいたのだった。どこまでも自分に都合よく物事を解釈し、自分だけはすべてが上手くいくなどと考えているのであろう世の中を舐め切った下劣な男だと言えた。
「ごめんね。まさかお父さんが帰ってるとは思わなかったから。びっくりしたでしょ?。でも気にしないで。お父さん、仕事が忙しくて普段はあまり家にいないから。お母さんも、最近はもうあんまり煩く言わないし。
ここが私の部屋。リフォームが終わるまで自分の部屋と思ってゆっくりしてもらっていいよ」
部屋のあちこちにカラフルな人形がずらりと並んだ、ある意味では女の子らしいと言えなくもないであろう久美の部屋に通された玲那は、まだ十分に頭が働かない状態のまま立ち尽くしていたのであった。