伊藤玲那編 「巡る因縁の輪に囚われる者達」
その日、来支間敏文は酷く不機嫌だった。かと言って分かりやすく怒鳴り散らしたりものに当たったりする訳ではない。彼は周囲の人間には、真面目で正義感の強い、よく躾けられた行儀のよい子供だと思われていたからだった。
しかし、それは彼の表向きの姿でしかなかった。他人が見ている彼のその一面は、いわば仮面のようなものであったのだろう。さりとて、彼は実にそれをうまく使いこなしており、誰もその裏に秘めているものに気付くことはなかったのだった。
いや、気付こうとしていなかったと言った方がいいかもしれない。親類をはじめとした彼の周囲にいる人間は、表向きの顔さえそれなりに繕われていれば、その人間の裏の顔などとやかく言わない者達だったからだ。だから彼が、実の父親の双子の兄である来支間克光に対して不穏な感情を抱いていようとも誰も気にしなかったのである。
もっとも、それが少々外に漏れたところで責める者もいなかっただろうが。
と言うのも、彼の伯父の来支間克光という人間は、銀行や役所関係の仕事に就いている者が殆どの来支間家にあってはやや異端とされる人物で、ある意味では一族の鼻つまみ者だったという事情もあったからだ。
来支間克光は、表向きはタレント事務所を経営しているという形を取ってはいたが、それがきちんとした実態を伴ったものであるのかどうか、親類の誰も確認が取れていなかった。
無理もない。それは確かに実態など存在しない、ただの虚構に過ぎないのだから。
そんな伯父の家から、見知らぬ中年女に連れられた小学生くらいの女の子が出てくる光景を、克光の甥である来支間敏文は目撃してしまったのである。
元よりよからぬ噂のあった伯父の家から小学生の女の子が、いかにも子供のことなどペットか自分の付属物程度にしか思っていなさそうな母親らしき女に引きずられるように出てきてしまっては、それなりに頭の回転も悪くなかった敏文に、ロクでもない想像をさせることになったのも無理からぬことだった。
敏文は思った。
『あの男をそのままにしておいては、久美が不幸になる』
と。
久美とは、克光の娘であり、敏文にとっては従妹であると同時に実の妹のように可愛がっている六歳年下の少女である。この時、敏文は単純に妹のように思っていた少女の身を案じたからそう思っただけだった。
さりとて、まだ高校生でしかない自分に何ができるのかと言えば、何も思いつかず、それがまた彼を苛立たせた。早く大人になり、行政の重要な立場に就いて克光のような人間を監視し、久美を守りたいと思っていたのであった。
一人の少年が自身の伯父に対して憤りを募らせていたのと同じ頃、誰も悲しむ者がいない、それどころか最初からいなかったかのように周囲の誰もが平然と振る舞う莉愛の死は、五年生になるところだった玲那の中にある種の死生観のようなものをもたらすこととなった。
『なんだ…。人間が死ぬのって、この程度のことなんだ……』
<人一人の命は地球よりも重い>。そんなフレーズを耳にしたこともあったが、そんなことは嘘だと玲那は感じた。
『だって、あの子が死んでも地球は何ともならないし、みんな平然としてる。まるで、蟻を踏みつぶして殺したみたいに……。
そうか、人間だって大した価値なんてないんだ…。人間が死んだって世の中は何も変わらないんだ…。
自分が死んだって、誰も困らないんだ……』
そう考えるようになった玲那は、ますます虚ろな表情の、人形のような子供になっていった。
それでも、男達の行為に対する嫌悪感はどうしても消えてくれなくて、<仕事>はやはり辛かった。泣きたくなんてないのに勝手に涙が溢れてきて、そんな彼女の様子は逆に客を喜ぼせることになった。それが嫌で、何とかそれを忘れたくて、玲那はさらに心を閉ざした。
なのに、陽菜が頭を撫でてくれたりすると、何とも言えない気持ちにもなった。もっとずっと撫でていてほしい。ギュッと抱き締めてほしいという気にもなった。客の男達からは絶対に感じない何かが、<ひーちゃん>からは感じられた。
しかし玲那は、それをなるべく気にしないようにしていた。それを受け入れると、何かすごくたまらない気分になるからだ。
『自分は死んだって誰も困らない無価値な人形のようなものだ』と思っていればまだ落ち着いていられるのに、ひーちゃんに頭を撫でられたいと思うと、仕事に行くのがものすごく嫌になってしまう。
だから、莉愛の死から更に季節は巡って玲那が六年生になる頃には、彼女はあまり陽菜の傍には寄り付かなくなっていた。陽菜も、わざわざ自分から玲那の傍に行って頭を撫でるようなことはしなかった為に、二人は控室に一緒にいても目を合わすことすらなくなっていた。
また、莉愛の死後、店にはまた小学生の少女が二人加わっていたが、玲那はそんな二人のことさえ意識しないようにしていた。麻音と心音と呼ばれる双子の少女だったが、その名前すら覚えようとはしなかった。それどころか、姿すらまともに見ていなかったかもしれない。
麻音と心音の方も、いつも暗い顔をして自分達を見ようともしない陰気な先輩のことは気にしないようにしていたようだ。
しかしそれにしても、双子が揃ってこんな仕事をするというのは、どういうことなのだろう?。それも結局は、家庭の問題だったと思われる。
双子は母親を早くに亡くして父親と一緒に暮らしていたのだが、この父親も妻を亡くし男手一つで二人の娘を養うことに疲れ果て、心を病んでいた。その為、仕事もあまりできず、父と娘二人の生活は困窮していた。生活保護を申請しても、まだ働き盛りでしかも父親ということでとにかく『仕事を見付けましょう』の一点張りで取り付く島がなかったのだった。
だが、本当は、役所の方も蔑ろにしていた訳ではなかった。生活保護というのはやはり安易に認めることができなかったが、片親であれば<児童扶養手当>というものを申請することができ、そちらは条件さえ満たされればすぐに認められる制度であった。支給される金額は、世帯の収入にもよるものの子供一人につき最大四万円強と微々たるものだったかもしれないが、それが認められれば医療扶助も受けられる可能性が高くなるし、就学支援を受けることも容易になる筈だった。ましてやこの時の父娘の経済状況からすれば満額が支給される筈だったのだ。
なのに父親は、生活保護の申請を認めてもらえなかったことで思考停止してしまったらしく、児童扶養手当についても『どうせ認めてもらえる訳がない』と思い込んでしまって申請すらしようとしなかった。
行政としては、受給条件を充分に満たしていたとしても、申請してもらわないと勝手に支給することはできない。子供一人で四万円強、二人いるので増額されて五万円程度ではあっても、あれば少なくとも飢えることはなかっただろうし、満額支給されるほどならば医療扶助も受けられて医療費が免除され、さらには就学支援も受けられ、給食費なども免除された筈なのである。
しかしそのようなセーフティネットも、利用されなければ無いのと同じ。心を病んで満足に仕事もできなくなった父親の下、娘二人は自分達の生活を守る為に、自分達でもできる仕事をと、近所の女子高生を見習って自らの体を金に換えることを思い付いたのだった。
ただ、この父親も、決して怠け者という訳ではなかった。むしろ本来は生真面目で、かつては仕事もきちんとしていたのだ。なのに、その生真面目な性格が逆に災いして、生活保護を受けたりすることに対して必要以上の罪悪感を感じてしまい、一度申請を却下されただけで心折れてしまったというのもあったのだった。
『生活保護を受けるような人間は怠け者で、社会のお荷物である』という世間の価値観を意識していたのもあったのだろう。真面目であるが故に精神を病んでしまう程も追い詰められているのであれば、それは十分に救いの手が差し伸べられるべき案件だというのに……。
無知で無理解であるが故に他人を攻撃する者など、放っておけばいいのだ。道理はそちらにはない。本来ならこの父娘のような世帯を救う為にある制度に難癖を付ける方が間違っているのである。それが国民として従うべき法であり、現在の社会の仕組みだった。なのにこの父親は、その間違った声を上げる騒々しく煩い者達の悪意に負けて、取るべき手段を取らなかった。そういう意味では、責任もあったと言えるだろう。
娘二人に、自らの体を売るなどという決断をさせてしまった責任が。
だがそんな事情も、この店に集まった人間達には何の関係もないものだった。そういうことを気にして案じてくれる者はここにはいない。そういう人間はここには来ない。玲那も陽菜も、そこまで他人のことを気遣う余裕はなかった。
「お姉ちゃん…、お姉ちゃん……」
初めて客を取った日、妹の心音は控室に戻ってきて姉に縋って泣いた。自分のやろうとしていたことがどういうことだったのかを、実際にそうされて初めて実感できたのだ。だがもう遅い。やってしまったことはなかったことにはならないし、失ってしまったものは戻らない。そしてすぐさま、姉の麻音も同じ経験をすることになった。
その客は、玲那が初めて取らされた客だった。新しい少女が入ったというので試しに買うことにしたのだ。玲那にも向けたあの淫猥な視線で、麻音の全身を舐めまわすように見た。
怖かった。逃げたかった。こんな仕事をやろうと考えた自分の浅はかさを思い知って激しく後悔した。しかし、妹の心音は既に同じ目に遭ってしまった。ここで自分が逃げる訳にはいかなかった。
裸に剥かれ、全身を舐めまわされ、男の涎と汗でドロドロにされた上に誰にも触れさせたこともない柔肉を貪られ、麻音は泣いた。妹にあんなことをさせてしまった自分は絶対に泣くまいと思っていたのに、涙が勝手に溢れてきてしまった。それがまた男を喜ばせるとも知らずに……。
そして、父親想いの双子の娘は、己の尊厳と価値を、僅かな金に換えてしまったのであった。
「伊藤さん、私、掃除道具片付けてくるからゴミ捨ててきて」
掃除の時間にクラスメイトにそう言われて、玲那は黙って頷いた。その目は酷く冷めていて、子供らしい愛嬌やあどけなさとは一線を画した、ほの暗く重いものを漂わせてさえいた。
<仕事>を始めてから、始めさせられてから一年半。六年生になった玲那は、それまでとは少し雰囲気が変わってきていたようだった。背が伸び、明らかに成長していたこともそうなのだが、かつては普段からビクビクおどおどしていた感じだったものが、そこまでではなくなっていたようにも見えた。
無口で他人とは関わろうとしない点ではそれまでと変わっていないとも思えるものの、何と言うか、どこか投げやりで荒んだ雰囲気を漂わせ始めていたのかもしれない。
当然か。いくら臆病な少女でも、それなりに成長はするのだから。自分が置かれている境遇について自分なりの認識も確立させていくのは当然だ。しかも、自分と同じ仕事をしていたある少女の死が、彼女に強い影響を与えていたのだろう。投げやりで荒んだ雰囲気を漂わせていたのは、それこそ誰からも悼んでもらえなかったその少女の死がもたらしたものだと言える。それにより彼女は、命というものに何の価値も見いだせなくなっていたからだ。
無表情なままでゴミ捨て場でゴミバケツをひっくり返し打ち捨てられる中身に対して、彼女はまるで見下すように冷たい視線を向けていた。ゴミの中に、蝉の死骸があった。校舎の中に入り込んで廊下の隅で死んでいたのをクラスメイトがゴミと一緒に捨てたらしい。それを見詰める玲那は、ゾクリと背筋が寒くなるような冷酷な目をしていた。
教室に戻ってゴミバケツを元の場所に戻すと、彼女は何事もなかったかのように自分の席に着いた。
学校では、大体そんな感じだった。
しかし……。
学校が終わって家に帰るとすぐに宿題を済ませて家の掃除をして夕食の用意をして食べて、それからテレビの前に座ってアニメを見ていた。だがそこに玄関を乱暴に開ける気配がすると、それまでの冷淡な目が途端に怯えたようなものに変わった。母親が仕事の為に迎えに来たのだ。
「玲那、行くよ!」
有無を言わさぬその様子に、彼女はやはり従順だった。学校で見せていたような姿はまるで見られない。
仕事についてはやはり今でも慣れることができずにいた。もういい加減に慣れてしまえればと自分でも思うのに、体が勝手に竦んで涙まで溢れてしまう。それが逆に男を喜ばせるのは分かっていてもいまだに止められない。
この頃の玲那は、そんな自分が許せなくなっていた。そして、いつまで経っても親に逆らうことができない自分も憎かった。
頭では分かっているのだ。『嫌だ!』と言えばいいと。もう六年生なのだから、逃げようと思えば逃げることもできた。その気になれば包丁でも構えて母親を刺すことだってできる筈だと、そのくらいには力もついてきてると、食事の用意の為に台所に立って包丁を見るたびに思っていた。なのに、母親を前にすると体が動かなくなってしまう。心が折れてしまう。だからそんな自分などいなくなってしまえばいいと彼女は思っていた。
自殺願望、というのとは少し違うかもしれない。だが、強烈な自己否定という意味では共通するものもあるかもしれない。いつしか玲那は、自分は生まれてくるべきじゃなかったという結論に達していた。自分さえ生まれてこなければ両親はあんな仕事を自分にさせなかったし、自分もあんな目に遭わずに済んだし、客の男達を調子付かせることもなかった筈だと思った。
だから、夏休み前、社会の授業の時に教師が内容を少し脱線させて戦争中の話題に触れた際、京都は空襲を免れたという話を聞いた時には、
『空襲でみんな死んでしまえばよかったのに…。そうすれば私も生まれてこなかったのに……』
と考えてしまったのだった。しかも思わず、
「全員、空襲で死ねばよかったんだ。なんで京都を空襲の目標から外したんだ。使えねー……」
などと呟いてしまって、それを耳にしたクラスメイトを戸惑わせたりもした。
そう。この頃の玲那は、冷めた目をして汚い言葉をぼそぼそと口にするようなスレた姿と、大人に怯える幼い少女の姿という二面性を見せるようになっていたのだった。状況によって態度が変わる、情緒不安定さの表れとも言えたのかもしれない。いや、情緒不安定どころか、実際には既に精神を病んでいたのだろう。本人もそれに気付いていなかっただけで。
だがそれも、無理のないことだった。まだ十二歳にもならない少女が受けとめきるには、彼女の置かれている現実は過酷過ぎた。
母親の運転する自動車で客の下に送り届けられ、部屋に入るなり商品のラッピングを剥ぐように裸に剥かれると、興奮を隠そうともしない男の下卑た視線の前に、膨らみかけた胸と、産毛というには濃く長くなった柔らかい毛がちらほら見え始めた下腹部が晒された。
「玲那ちゃん!、毛が生え始めてる!?」
客の男が驚いたように声を上げると、彼女は涙を浮かべて俯いた。すると男は、洗面所から自分が使っているカミソリとシェービングクリームを持ち出し、
「ちゃんとキレイにしなきゃダメじゃないか!」
と強めの声を上げて芽吹き始めた少女のヘアをきれいさっぱり剃ってしまったのだった。そんな風に生え始めたアンダーヘアを剃ってしまう客もいるかと思えば、再び生え始めたそれを愛おしそうに指に絡めて引っ張って、その度に嫌そうに顔を歪める玲那の表情を堪能する客もいた。中には、記念にと言って強引に生き抜いてティッシュに挟んで机の引き出しに仕舞いこむ者さえいた。そのどれもこれもが、彼女には嫌悪の対象でしかなかった。
なお、この頃には、玲那の常連客の一人だった来支間克光からの指名は殆ど入ってこなくなっていた。成長の兆しが見られ始め、彼が好きだった玲那ではなくなりつつあったことにより、飽きられたのである。
それ自体は彼女にとっては喜ばしいことだっただろう。特に嫌な客の一人だった来支間克光の呼び出しがかからなくなったのだから。この頃の彼の関心は、心音へと移っていたらしい。年齢は玲那と同じだったのだが、見た目に玲那よりも幼かったのだ。しかも、行為に慣れ始めて平然と振る舞うようになってきていた姉の麻音に比べて、この頃はまだ初々しい反応を見せていたというのもあった。
「ああ、いやだあ…」
恥ずかしそうな彼女の仕草もまたそそられる。人形のように無抵抗でただ涙を流すだけだった玲那の反応も悪くなかったが、弱々しい抵抗を見せる心音の姿は、克光の劣情を駆り立てた。彼はそこに、ある種の素質を見出した気がしていた。
『この子はひょっとしたらモノになるかもしれないな…』
タレントとしてウケるかウケないかは、本人の微妙な仕草をはじめとした滲み出る雰囲気に左右されることが多い。その点で言えば、心音にはそれがあるように克光には感じ取れた。
「なあ、心音ちゃん。芸能人になる気はないかな?。君だったらけっこういい線行くように思うんだけどなあ」
向かい合って膝に抱えるようにして少女の肉を堪能していた克光がそんなことを言い出したが、当の心音には届いていないようであった。
来支間久美は、あるクラスメイトのことが気になっていた。そのクラスメイトは、ひどく無口で大人しくて、いつも一人だった。名前は確か伊藤玲那。他のクラスメイトは彼女のことを避けようとするけれども、久美は何故か気が付くと彼女の姿を目で追ってしまっていた。
それが何故なのかは、久美にも分からなかった。ただ、彼女が好きな人形に通じる何かがあったのかもしれない。
久美の趣味は、人形集めだった。もっと幼い頃はいわゆる着せ替え人形をいくつも集めた。父親が時々、思い付いたみたいに一万円とか二万円とかまとまった小遣いをくれるので、それで人形を買い集めた。
無計画にポンと小遣いを渡す父親にも、そんな父親にもらった小遣いで愚にもつかない人形を買ってくる娘にも、母親はいい顔をしなかったが、久美は自分のことをあまり好きそうではない母親よりも、人形を買う為の小遣いを気前よくくれる父親のことが好きだった。
久美が人形に入れ込むようになったのも、そんな歪な親子関係が影響していたのかもしれない。親の愛情を実感できないのを、自らが人形を愛でることで埋め合わせようとしていた可能性はあったようだ。
六年生になる頃には久美の人形集めは、いかにも女児向け玩具の着せ替え人形ではなく、それよりも高価で造形がよりリアルな六分の一サイズのドールに移っていた。比較的安いものでも一体一万円を超えるような人形である。着せ替え用の衣装だけでも、彼女自身が着ている服よりも下手をすると高いかもしれない。
そんな人形を、久美は既に数体持っていた。その人形に触れながらいろいろと空想するのが彼女の遊び方だった。最近はもっぱら、その人形がアイドルとしてデビューして人気者になっていくというシチュエーションを楽しんでいるようだ。
それは、父親がタレント事務所を経営しているということも影響していたのだろうか。
久美自身は、自分がタレントになれるとは思っていなかった。引っ込み思案で地味なタイプの自分がタレントに向いているとも思えない。だからこうやって人形を使って空想しているだけで十分だった。
それに、彼女が<トシ兄>と呼んでいる来支間敏文が優しくしてくれるから、それ以上は望んでなかった。望んでなかった筈だった。
なのに、クラスメイトの伊藤玲那のことが気になって仕方ない。
そしていつしか彼女は、何となく伊藤玲那の傍にいるようになっていた。そんなに親し気に話し掛ける訳でも、一緒に遊んだりする訳でもない。ただ何となく傍にいるだけだ。でも彼女にはそれで十分だった。
一方の玲那の方も、距離は近いがはっきりと絡んでくる訳でもない彼女のことは、必ずしも好意的に捉えているとは言い難かったものの強く拒むでもなく、玲那が十二歳の誕生日を迎える頃には勝手にさせている状態になっていた。それは、他人から見れば友達のようにも見えたのだろう。
しかし、久美は、学校以外での玲那のことを何も知らない。ましてや自分の父親が彼女に対して何をしたのかも知らない。だがそれは玲那の方も同じだった。久美の父親が自分の客の一人だったということを知らなかった。そもそも来支間克光の名前も知らなかった。名前を知っていたら、それほど多いとも思えない名字が一致するということでその関係性に気付くこともあったかもしれないが、客の名前は基本的に本人が教えでもしない限りは玲那達には明かされていなかったのである。
その辺りは、店側と客側、お互いの安全の為という判断だったと思われる。そしてそれは、功を奏していたと言える。こうして客の娘がすぐ傍にいても、それとは知れなかったのだから。
だが、その関係に気付いてしまう者が全くいない訳でもなかった。
久美と玲那の学校の運動会で、そのことに気付いてしまった人間がいた。
『な…、に……?』
信じられないものを目の当たりにした驚きに、その人物は顔が強張り青褪めていた。
来支間敏文だった。妹のように可愛がっている久美の運動会を見る為に学校に来て、久美のすぐ傍にいた玲那の姿を見て、いつぞやの、伯父の家から母親らしき女に引きずられるように出てきた少女だと気付いてしまったのである。
伯父と少女の間で何があったかまでは知らないが、どうせロクでもないことだったのは間違いない筈だ。そんな少女と久美が同級生という事実に、彼は、眩暈に襲われそうにさえなった。
運動会の後、敏文は久美に声を掛けた。
「久美。今日、一緒にいた女の子は友達なのか…?」
「…伊藤さんのこと…?。うん。私は友達だと思ってるけど…」
その言葉に、彼は頭にカッとした熱いものが奔り抜けるのを感じた。だからつい、強い口調になってしまった。
「ダメだ!。その子と付き合っちゃダメだ!」
掴みかからんばかりの勢いでそんなことを口走った敏文に、久美は怯えた。そしてそのすぐ後で、自分が友達だと思ってる相手を悪く言われたと感じて思わず敏文を睨み返していた。
「なんでそんなこと言うの!?、トシ兄。私の友達ことを悪く言わないで!」
それは、久美が敏文の前で初めて見せた姿だった。大人しくて従順で、いつも自分の言うことには素直に従ってきた妹のような少女の思わぬ反撃に、彼は戸惑いを隠すことができなかった。それが彼の感情を更に昂らせた。
「バカッ、あいつはとにかくダメなんだよ!。お前は俺の言う通りにしてればいいんだ!!」
そのただならぬ雰囲気に、周囲の生徒達や保護者達が何事かと振り返る。そこでようやく我に返った敏文は、声を潜めてなおも言った。
「久美、これは本当に大事なことなんだ…!。俺はお前の為を思って言ってるんだよ…!」
『お前の為を思って言ってる』。そんな恩着せがましい言い方が果たして相手に届くことなどあるのだろうか。少なくともこの時、敏文の言葉は久美に届くどころか、決して小さくない溝を生む結果にしかならなかった。
「トシ兄のバカ!、キライ!!」
久美はそう声を上げて敏文の手を振りほどいて走り去ってしまったのだった。
「お…、おい…!」
呼び止めようとしたがもう既に手遅れだった。久美の姿は角を曲がってすぐに見えなくなってしまった。慌てて後を追うが、彼女が曲がった角からその先を見た時にはもう、久美の姿はどこにもなかった。
適切な態度、適切な言葉を選ばなかったことで相手を怒らせてしまったのなら、それは言った側の責任だ。自分の意図したとおりに受け取ってくれなかった相手を責めるのは、甘えでしかないだろう。自分の未熟さを棚に上げて相手を責める人間が認められるほど、この世は甘くない。
だがこの時、敏文は未熟な自分を反省するのではなく、自分の言葉を理解しようとしなかった久美を責めていた。
『なんで…、こんな…。バカか、久美……!』
結局、そういうことなのだろう。自分に甘く他人に厳しいその姿勢は、彼が嫌っている伯父の来支間克光によく似ていると言えた。自分を甘やかし、自分の都合を優先し、苦しみは他人に押し付けるその姿が。
つまりそれが、彼の望む結果を得ることを邪魔している一番の原因なのだと思われる。効果的な手段をとる努力をせず、自分のやりたい手段をとるというのなら、それに見合った結末にしか辿り着けない。当たり前の話だった。
この後、彼はそういう自分の失敗を活かすことができなかったことにより、取り返しのつかない結果を生むことになる。だがそのことに彼が気付くことは、生涯なかったのだった。




