宿角玲那編 「彼女が残していったもの…」
「きゃぁぁあぁーっっ!!」
金切り音のような鋭い悲鳴が早朝の繁華街に響き渡った。生ゴミを目当てに集まっていたカラスが反応したかのように視線を向ける。その先にあったのは、地面に倒れた中年男に馬乗りになって何度も包丁を振り下ろす若い女と、中年男が出てきたテナントビルの出入り口に立ったいかにもな恰好をした水商売風の女が悲鳴を上げる姿だった。
しかしそんな水商売風の女の悲鳴さえ聞こえないのか、男に馬乗りになった若い女はひたすら包丁を突き立てていた。その顔は上気し、うっとりとしたものにさえ見えた。明らかに恍惚の表情だった。
結局、その若い女は、通報によって駆け付けた警察官の警棒で包丁を叩き落とされた上に三人がかりで地面に引きずり倒されて制圧されるまで男を攻撃し続けた。
ある種の覚醒状態にでもあったのかとても女の力とは思えない膂力で抵抗し、警官の一人は取り押さえる際に指を骨折さえしたという。
アスファルトに押し付けられて頬から出血した若い女は、完全に身動きが取れないようになってようやく正気に返ったようだった。
「…あ…?。え…?」
宿角玲那だった。あまりの興奮状態によりほぼ意識が飛んだ状態で刺し続けてたらしい。
後に彼女は供述している。
「夢中になりすぎて他の人間を殺しに行けなかったのが心残りだ……」
と。彼女は男にとどめを刺した後、手当たり次第に通りがかった人間を襲い、とにかく殺しまくろうと考えていたのだった。
宿角玲那に滅多刺しにされた伊藤判生はすぐさま緊急搬送されたが、搬送先の病院で死亡が確認された。後に司法解剖を行った医師によると、肋骨に守られた部分の内臓にはさほど損傷はなかったものの、それ以外の腹部の内臓については一つとして原形を留めていたものがなかったという話であった。少なく見積もっても数十回は刺されていたとみられる。
一方、緊急逮捕された宿角玲那はと言えば、伊藤判生を襲った時の狂乱状態が嘘のように収まって大人しくなり、それどころかまるで魂でも抜けてしまったかのように、数日の間、一切の反応を見せることがなかった。
その間にも彼女が行った犯行が次々と明らかになり、テレビはトップニュースとしてそれを大々的に取り上げた。
ニュースによると彼女の自宅が全焼、そこからはもはや性別すら判然としない二人分の成人の遺体と、完全に燃え尽きて骨だけとなった乳児と思しき子供の遺体が発見されたということだった。
他にも、駆け付けた消防隊によって辛うじて救出されたがその時点では心肺停止状態だった成人男女二人も、心肺蘇生は成功したものの意識不明の重体であるという。
それだけではなかった。その火事が起こる数時間前に発生していた刃物による傷害事件の容疑者も、宿角玲那と断定された。意識不明で収容された被害者が懸命の治療によって意識を取り戻し、宿角玲那に刺されたと証言したからである。無論、その被害者とは来支間敏文のことだ。
その後、火事の現場から救出された男女の内の男性の方の意識が戻り、宿角家にたまたま遊びに来ていた見城和真とその妻の貴陽美(旧姓・真崎)であると確認され、その証言から焼死体となって発見されたのは、消息不明となっていた家人の宿角健雅と妻の京子及び長男の健侍と推定された後、DNA鑑定により本人と断定された。
なお、今回の事件による犠牲者及び被害者は以下の通りである。
宿角健雅。容疑者である宿角玲那の義理の父親。享年、三三歳。遺体の損傷が激しく死因は特定されなかった。
宿角京子。容疑者である宿角玲那の実の母親。享年、三九歳。夫の兼雅と同じく遺体の損傷が激しく死因は特定されていない。
宿角健侍。健雅と京子の長男。享年、七ヶ月と十七日。両親と同じく遺体の損傷が激しかった為にやはり死因は特定できず。
伊藤判生。容疑者である宿角玲那の実の父親。享年、三九歳。死因、外傷性ショックに伴う心不全。
見城和真。健雅の友人。たまたま宿角家に泊りがけで遊びに来ていたところ、容疑者の放火による火災に巻き込まれて負傷。全身の七十パーセントに及ぶ重度の火傷により歩くことさえままならない障害を負った。
見城貴陽美。見城和真の妻。夫と共に宿角家に泊りがけで遊びに来ていたところ事件に巻き込まれて負傷。全身の六十パーセントに及ぶ重度の火傷に加え、心肺停止の影響を受けて低酸素脳症を併発。辛うじて意識はあるものの意思の疎通も困難という状態で寝たきりとなる。
来支間敏文。この事件の最初の被害者にしてこの後の犯行のきっかけとなった人物と目されている。腹部をナイフで刺され重傷を負ったが、それは彼が容疑者の宿角玲那を襲撃した際に反撃されたことによる負傷である。このことにより小腸の三十パーセントと大腸の五十パーセントを失い、その後遺症に生涯苦しめられることとなった。
実に、凄惨かつ救いのない事件だった。
若干、二一歳の女が、一人で、僅か十数時間の間に七人もの人間を次々と死傷させていったという全容が明らかになると、世間はそのあまりの凄惨さに戦慄した。
もちろん死傷事件そのものもすさまじかったのだが、そこで被害者の一人とされた来支間敏文が、七年前に伯父を殺害して服役し、僅か数ヶ月前に出所したばかりだったことに加え、容疑者の義理の父親で被害者の一人でもある宿角健雅も、警察が危険ドラッグの売買の重要参考人として近々任意で事情聴取を予定していた人物であったことが週刊誌によってすっぱ抜かれ、さらには容疑者が逮捕された時に襲っていた被害者が容疑者の実の父親であり、かつそちらも違法な売春組織を運営していたとして警察にマークされていたことがある人物であるということも別の週刊誌にすっぱ抜かれるに至って、そのドラマの如き複雑に絡まり合った人間模様に、多くの者が熱狂的な反応を見せたのである。
ワイドショーでも連日センセーショナルに取り上げられたのはもちろん、ネット上でも<祭り>状態となり、来支間敏文がかつて起こした事件も再び注目を集め、その際に殺された来支間克光が淫行事件の容疑者であったことも、来支間克光の娘である来支間久美が精神に異常をきたして入院し事故か自殺か分からない形で転落死したことも、そして来支間久美が今回の事件の容疑者の宿角玲那の同級生で一時期友人だったことも掘り起こされた。
それに加えて、証言の裏を取る為に宿角玲那自身を医師が検査・診察した結果、彼女の全身には無数の古い痣があり、特に股間や尻の間などには煙草を押し付けられたと思しき火傷の痕も散見され、さらには体内から採取された体液を分析した結果、被害者である宿角健雅による性的暴行があった疑いが濃厚になり、彼女が今回の犯行に至った動機には、両親による虐待に対する報復という面が色濃くあるということを窺わせるという情報も明らかになると、ネット上の<祭り>にさらに燃料を投下する形となり、憶測が憶測を呼んでもはや収拾がつかないほどの盛り上がりを見せたのだった。
<宿角玲那は実の父親と義理の父親両方から性的虐待を受けていた>
<来支間敏文は宿角玲那のストーカーで、しかも宿角玲那と来支間久美が来支間克光から性的虐待を受けてたことを知って殺した。来支間敏文が宿角玲那に刺されたのはその褒美として関係を迫ろうとしたから>
<火事で焼け死んだ宿角健侍は、実は宿角玲那の子>
<来支間敏文が来支間克光を殺したのは、宿角玲那&来支間久美を取り合ったのが原因>
<宿角玲那と来支間久美は、伊藤判生が作った売春グループに所属してて来支間敏文と来支間克光はその客>
等々、事実もあればまったくの出鱈目という情報も錯綜し、もはや狂乱状態だったとも言えるだろう。
その中で、来支間敏文の両親が生活保護を受けているという情報も何者かによってネット上にアップされ、『犯罪者の親が生活保護とかふざけるな!』とこれまた炎上。やはり住所まで晒されて再び嫌がらせが殺到。遂には処方されていた睡眠導入剤を過剰摂取して両親は自殺を図り、父親の来支間克仁が死亡するという事態にまで至った。
だが、この事件をまるでイベントのように楽しんで盛り上がっている人間達は分かっているのだろうか。自分達がこの事件が起こってしまった原因の一端を担っているのだということを。宿角玲那の後押しをしてしまったのは自分達だということを。
恐らく分かってはいないのだろう。自分達の行いは当然の権利を行使したにすぎず、誰にも文句をつけられる筋合いのものではないと思っているのだろうから。でなければ、来支間敏文の両親が自殺を図るほどに追い詰め、しかもそれを悪びれることもなく『ザマアwwwwww』『世論大勝利wwwwww』とはしゃいだりはしないだろう。
『命には命で償うべき』と言いながら、自らは匿名を隠れ蓑にして集団で個人を袋叩きにして死に追いやっても反省すらしない。言行不一致とはまさにこのことか。何故そこまで他人には厳しくて自分には甘いのか。
更には、今回、完全にただ巻き込まれただけの見城和真とその妻の貴陽美(旧姓・真崎)についても、『DQNを処分しきれなかったのが残念』『なんで生き残ってんだよそのまま死んどけよ』と攻撃されるだけでなく、危険ドラッグの売人であるという完全に事実無根な噂まで流された。実際、見城和真は見た目こそ宿角健雅と同種の人間に見えただろうが、本当は違法なことを続けている宿角健雅を何とか更生させようとして頻繁に家を訪れたりして説得を続けていたというのが真実だった。なのに、そういう事実は何故か伝わらない。冷静に判断しようとする意見は『犯罪者を擁護しようとしてる』とみられて攻撃され、踏み潰されていく。
何しろ、その見城和真本人を目の当たりにしていた筈の宿角玲那でさえ、自分を虐げる宿角健雅の同類と見做し<死ぬべき人間>として認識していたくらいである。
己の価値観やものの見方を疑うことのない人間の恐ろしさをまざまざと見せ付けられる事態だと言えるだろう。
自分が見たくないものや認めたくないものに対しては目も耳も塞ぎ、それでいて自分がそうだと思いたいものについては、根拠などなくても、いや、明確にそれを否定する根拠があったとしても無視して自分に都合よく解釈する。
それもまた人間の姿の一つなのであるということが、今回の事件とそれに対する世間の反応を見ていれば分かるというものであったのかもしれない。
そんな彼らは、当初、当然のように玲那に対しても容赦のない罵声を浴びせていた。
無論、玲那のやったことは許されるものではない。自らの復讐の為に四人の人間を次々と殺し、三人に回復不可能な障害を負わせたのだから、それに対しては強い非難が向けられて当然である。ましてや産まれて僅か七ヶ月の健侍が命を奪われなければならない理由はそれこそ何もない。それだけでも強い非難を受けるのに値するだろう。
さりとて、玲那にあらん限りの罵詈雑言をぶつけていた者達のそれは、本当に義憤からだったのか?。単なる憂さ晴らしではなかったのか?。既に逮捕されて反撃してくる可能性のない相手を安全なところから攻撃して己の正義感に酔いたいだけではないのか?。一体、何を、どれだけ真剣に考えた上での行動だというのだろうか。
何しろ、犠牲者である健雅や判生の人物像が明らかになるにつれて『自業自得だろwwwwww』といったコメントが見られ始め、さらにその行いが週刊誌によってすっぱ抜かれたことで、玲那を攻撃していた者達の一部が手の平を返し、今度は健雅や判生らを攻撃し始めたのである。幼い少女だった頃から長きにわたって性的虐待を受け続けた女性が加害者たる父親らに遂に報いを受けさせた<復讐劇>として持ち上げだしたのだ。
それは、容疑者である玲那が、美人と言って差し支えない容姿をしていたことも影響しているのかもしれない。中には酷い写りの写真などもあったりしたものの、彼女の写真としてネット上に晒されたものの多くは美しいもの愛らしいものであった。
それはやがて、玲那を持ち上げた者達の中から、彼女を<姫>と称し悲劇のヒロインとして祀り上げる人間さえ現れるという事態へと進展していく。
だがこれもまたおかしな話の筈だった。宿角健雅や伊藤判生のしたことは確かに許されることではない。かと言って命まで奪われなければならない程のことだったのだろうか?。玲那に対して危害を加えていない見城夫妻が、ましてや生後七ヶ月の健侍がその巻き添えを食わなければいけないことだったのだろうか?。
そのことに疑問を呈しても彼らは、『DQNの血は根絶やしにするのが当然だろwwwwww』と歯牙にもかけない。
結局、玲那に罵詈雑言をぶつける者達も、玲那を持ち上げ被害者側に罵詈雑言をぶつける者達も、単に攻撃対象が違うだけで、本質はどちらも同じでしかないということなのだろう。
しかしそんなネットの熱狂とは裏腹に、当の玲那自身は、まるで憑き物が落ちたかのように無気力で虚ろな様子で淡々と取り調べに応じていた。すべての罪を認め、異議さえ唱えなかった。国選弁護人から『都合の悪いことには答えなくてもいいんですよ』とアドバイスを受けてもとりあおうともしなかった。
取調室で彼女は刑事に向かって言ったという。
「もうどうでもいいから早く死刑にしてください…。でないと私、もっと人を殺しますよ……」
冷淡で、まるで感情が込められていない平板な言葉にも拘らず、そこには一つも嘘がないことを、その場にいた刑事達は感じたそうだ。
彼女の苛烈な過去が明らかになるとその境遇に同情した弁護士達によって自主的に弁護団が結成され、検察側と徹底的に争う姿勢を表明した。もっとも、玲那本人は「余計なことはしないでください…」と吐き捨てたそうだが。
裁判でも玲那は一切反論しようとせず、弁護団のことを「邪魔者」と切り捨て、裁判官や裁判員の前でも、
「早く死刑にしてください…。私、今でも人を殺したくて仕方ないんです……」
と言ってのけ、法廷をざわつかせたりもした。
自らも宿角玲那に対する殺人未遂で裁判中だった来支間敏文が証人として証言台に立ち、
「こいつをすぐに死刑にしてください!。死刑にならないんなら僕がこいつを殺します!!」
と叫んで暴れだし、退廷させられるという一幕もあった。
すると、そういう、裁判官にも検事にも証人にも世間にも臆さず超然としている玲那の姿に何かを見出したのか、<姫>と称して祀り上げていた者達の中にはさらに彼女に心酔し、まるで教祖のように崇め始める者までもが現れ始めた。
このように、玲那の周囲は時間を経るほどに混沌としていったのだった。
なのに当の玲那自身はやはりそういう騒ぎには一切関心を持つこともなく、拘置所で日がな一日、本を読んで静かに過ごすという毎日を送っていた。
一審で当然のように死刑判決が言い渡された時にも彼女はまるで動じず、「何か言いたいことはありますか?」と裁判長に問われても、
「ありがとうございます…」
と、頭を下げることさえなくただ呟くように漏らしただけであった。
その後、弁護団が玲那の意向に関係なく控訴・上告を繰り返して最高裁まで持ち込んで争い、四年の時間を費やして結局は死刑判決が確定してもなお再審請求を出すなどして徹底的に抵抗する姿勢を見せた。それでも、玲那はまるで他人事のように沈黙し、ただ拘置所で静かに本を読んでいるだけだったのだという。
そして2017年8月。弁護団が再審請求を出している最中、死刑囚・宿角玲那に対する死刑が執行されたのだった。
彼女の死刑が執行されたというニュースが流れると、あるSNSのニュースサイトのコメント欄では、再び、復讐の必要性について盛り上がるコメントが寄せられていた。
するとそこにまた、
『復讐?。くだらないな。そんなもの、幼稚な奴の考えることだ』
とコメントが寄せられた。それに対し、
『出たよ綺麗事wwwwww』
『お花畑乙wwwwww』
『こういうこと言う奴に限って自分の子供とか殺されたら手の平クルックルなんだろなwwwwww』
といった、文字通り判で押したようなコメントが返され、集中攻撃を浴びた。
だが、攻撃された人物はまったく動じることなく、淡々とコメントを返していた。
『リアルな復讐劇がどんなものか、お前らには分からないんだろうな』
『俺の姉は、復讐劇の巻き添えを食って今は寝たきりだ。その家族の苦しみがお前らに分かるか?』
『見ててスカッとする復讐劇とか、所詮は作り話の中にしかない』
『お花畑はお前らの方だ。俺から見たらな』
それが、かつて玲那が見たやり取りと同一人物によるものかどうかは分からない。ただ、『俺の姉は、復讐劇の巻き添えを食って今は寝たきりだ』という部分については、今回の事件にも符合する部分がある。見城和真の妻、貴陽美は、事件から六年が経過した今もなお寝たきりだということだ。その関連性もまた、判然とはしないが。
しかし、これほどの騒動の最中でも、終始、宿角玲那自身の普段の人物像について触れる者は殆どいなかった。何故なら、普段の彼女のことを覚えている人間が殆どいなかったからである。
週刊誌の記者などが小学校の頃の同級生にインタビューしても、彼女が同級生であったことすら覚えていない者が殆どだった。中学の時には来支間久美の件絡みで、高校の頃になるとレスリング部にも所属していたこともあって、多少は彼女のことを覚えている者もいたが、それでも<友人>と呼べる者はいなかっただろう。アルバイト先でも同様であった。彼女は自らの存在を消そうとでもするかのように、目立たず息をひそめて黙々と自分の仕事だけをこなしていたようだ。
まったくもって驚くほどに、彼女は自らの存在の痕跡を残そうとさえしていなかったようだった。
本当に、彼女は何の為に生まれてきたのか…?。性の道具にされる為か?。それとも人を殺す為か?。
それに答えられる人間はこの世界にはいない。何故なら誰も、それに答えられるほども彼女のことを知らないのだから。
ただ、ネット上には、彼女を<姫>と称して崇拝していた者達が残したページが、宿角玲那という存在の残滓のように辛うじて残されていたのであった……。