宿角玲那編 「果たされた復讐に蕩ける怪物」
二十歳を迎えた頃の玲那は、それなりに美しい女性に育っていた。あまりに野暮ったい格好をしていると宿角健雅が煩いので、適当にファッション誌の真似をして身嗜みを整えていただけだったが。
しかし、冷めた表情で姿勢良く立つ彼女は、その人形を思わせる無機質な印象とは裏腹に、内側には今にも弾けそうなほどの様々な思いがみっちりと詰まっていた。かつての、心を閉ざし何も考えないようにすることで目先の苦痛をやり過ごそうとしていた空虚なそれではなくなっていたのである。
もっとも、この時の彼女を満たしていたものの殆どは、人間そのものへの憎悪だったが。
毎日毎日、ネットで陰惨な事件の情報を漁り、その詳細な内容や手口を見ては自らの復讐劇をそこに重ね合わせて夢想するということを続けていた。
また、彼女が娯楽のように楽しみにしていたのが、惨たらしく殺された人間の写真を眺めることであり、二十歳以降ではネットを利用していた時間の半分以上をそれに費やしていたのだという。
その写真や画像の多くは海外のものではあったが、日本国内のものも、カメラ付携帯電話の普及と共に凄惨な事故現場等を撮影したものを中心に増え始め、彼女を喜ばせた。
生後半年を過ぎ明らかに大きくなった異父弟の宿角健侍を膝に抱いてあやしながら、大型トラックに轢かれもはや人の形をしていない遺体を鮮明に写した画像などを、うっとりとした目で、微かに頬を上気すらさせてじっくりと眺めていた。
思い出していたのだ。自分が働きかけたことで甥に歩道橋から突き落とされて大型トラックに轢かれ、ぐちゃぐちゃの轢死体となって悲惨な最期を遂げたという、来支間克光のことを。
思えばあれが、明らかにそうなることを想定して行動した結果として人間が死ぬこととなった最初の事件の筈だった。法律上、彼女が責任を問われることはなかったが、間違いなくこの結末を望んでいたのだ。そしてその通りになった記念すべき最初の<殺人>であった。
『ああでも、死ぬところをこの目で見られなかったのは残念だったなあ…』
そんなことをぼんやりと考える。だから次の機会があれば、人間が死んでいくところをこの目で見たい…。
と、そんなことが頭をよぎったその時、玲那は視線をPCから外し、何気なく下の方を見ていた。そこには、自分の膝の上で安心しきって眠る健侍の姿があった。それを見た瞬間、彼女の口の端がキュウッと吊り上がり、笑みを形作った。だがそれは、とても人間の顔とは思えないものだった。あまりに禍々しく、おぞましく、狂気そのものが形を成した笑みだった。
玲那は思う。
『ああ、なんと無防備で、無力で、絶好の獲物だろう。こいつは今、私が首に指を絡めて力を入れるだけで死ぬんだ。人間が死ぬところを見られる最高のチャンスじゃないか。自分の手で殺せる、これ以上ない獲物じゃないか……』
涎さえ垂らしそうな笑みで、生後半年を過ぎたばかりの異父弟を彼女は見詰めていた。だが―――――…。
『いやいや待て待て。今こいつを殺したらすぐに逮捕されて即刻刑務所行きだ。それじゃ意味がない。こんな奴一匹殺しただけなんてもったいなさ過ぎる。私の狙いはあくまであいつらだ。せっかく探偵まで雇ってあいつの居場所を調べてるっていうのに、今逮捕されたら無駄になってしまうじゃないか』
と考えて、細い首に回そうとしていた自分の手を止めていた。
<探偵まで雇って居場所を調べているあいつ>。
この時に玲那が頭に思い浮かべたそれは、彼女の実の父親、伊藤判生であった。
玲那は、伊藤判生、伊藤京子(現・宿角京子)、宿角健雅の三人は最低殺さなければいけないと思っていたのだ。少なくともこの三人を殺さないうちに逮捕でもされてはたまらない。だから、この三人を殺した後で逮捕されるまでの間にとにかく多くの人間を殺してやろうと考えていた。その為の準備は整えている。
伊藤京子(現・宿角京子)と宿角健雅の二人については、一緒に住んでいるからまあ簡単だ。不眠症ということで病院から処方してもらった睡眠導入剤をツマミにでも混ぜて酒と一緒に提供してやれば恐らく造作もない。だが、伊藤判生の居場所が分からないでは殺しにも行けない。だからそちらの準備がしっかり整うまではとにかく我慢だ。
そう。宿角玲那はもう、この時点で既に人の命を奪うことを何とも思っていない怪物として完成していたのだった。殺人は彼女にとって人生の目的そのものであり、後はそれを実行できる機会を待つだけになっていたのである。
そしてこの時、彼女も全く知らなかったのだが、実はもう一人の完成された<怪物>が己の目的を果たす機会を虎視眈々と狙っていたのであった。
その怪物の名は、来支間敏文。伯父の来支間克光を殺した事件で言い渡された六年の刑を終えて出所し、世間から逃れるようにひっそりと暮らす両親の下で復讐の牙を研ぎ続けた男であった。
彼が起こした事件により両親は世間からの集中攻撃を浴び、脅迫じみた内容の電話や手紙、家への投石、壁への落書き等々の執拗な嫌がらせを受けて精神を病み、職場でも後ろ指を指され白い目で見られ様々な陰口に晒された父親の克仁は仕事も続けられなくなり、家を売り払って遺族への賠償に充て、今は再就職もままならず生活保護を受けながら病院に通う毎日であった。母親もほぼ同様の状態である。
刑を終えて出所し、身元引受人でもある両親の下に戻った敏文だったが、足の踏み場もないほどにゴミが散乱したアパートの一室で無気力に一日を過ごす変わり果てた両親の姿を見て、彼自身も完全に壊れてしまったのだった。少年刑務所にいる間にも、表向きは真面目で改悛の状を匂わせる言動を心掛けつつも自分を陥れた宿角玲那に対する憎悪を募らせそれを先鋭化させてきた。見た目には極めて模範的な囚人を演じつつだ。しかし、表向きの態度とは裏腹なその本性は係官には見抜かれており、仮釈放は認められず刑期満了によってようやく出所となった。世間で言われている程、<反省しているふり>は通用しなかったのだ。
だが、敏文にとってはそれも納得がいかなかったらしい。彼としてはきっちりと改悛の状を見せているつもりであったのにそれが認められなかったことが許せず、それもやはり宿角玲那の所為だと考えてさらに恨みを募らせていた。
さりとて、改悛の状が本物であろうともただの演技であろうとも刑期を終えてしまえば釈放する外なく、収監中に憎悪を練り上げていた彼を野に放つ結果となってしまったのは悔やまれるところかもしれない。もちろん少年刑務所内では更生教育も行われてきたのだが、彼の『自分こそが正しい』という認識を改めさせることはついに叶わなかった。この辺りは、今後の改善が望まれるところだろう。
こうして二人の怪物がそれぞれに復讐の機会を窺いながら、運命の時へと向かって行った。
本当に、どうすればあの事態は回避されたのだろうか。この時点では事件を起こしていなかった玲那はともかく、克光を殺した敏文はそこで死刑にしていたら大丈夫だったのだろうか?。
いや、その保証は全くない。確かに敏文自身の手による後の事件については防げたかもしれないが、果たしてそれで被害が小さくなっただろうか?。
また、敏文本人に限定しても、彼が途中から大人しく刑に服しようとしたのは死刑になる可能性がないと判断したからであり、自分の行為が死刑になる可能性があるものだと認識していれば、逆に<死なばもろとも>とさらに暴走していた可能性も否定できない。しかも、克光を殺したことさえ責任は克光側にあり自分は悪くないと思っていたのだから、死刑になる可能性どころか自分が逮捕されることさえ有り得ないと思っていた節があり、故に克光の事件を防ぐことができなかったのだ。
そう、『人を一人殺した時点で死刑』となるのだとしても、自分が罪を問われる可能性をそもそも想像できなければそれは抑止力としては機能しないということである。
そして、今回の件に関して言えば、この後の敏文の行動が重要な意味を持ってくるのだとも言えただろう。
玲那は時折、宿角健雅と京子に提供する酒のツマミに自分が病院から処方された睡眠導入剤を混ぜてその効果を確認していた。来るべきに日に備えた予行演習も兼ねた行為であった。
二人は単に酒に酔って寝てしまったとしか思っていない。酔いつぶれたようにリビングで寝る二人を見ながら、どのように包丁を刺せばいいかを綿密に何度もシミュレーションした。
ネットではどうすれば確実に人間を殺せるかを調べ、自分が実行する時の参考にする。
なお、時々、泊りがけで遊びに来る見城とその妻は、彼女にとっては面倒な不確定要素であった。もっとも、健雅と同じく所詮はDQNだ。主目的の三人を殺すついでこいつらも殺せばいいだろう。そんな風にも思っていた。
だが、玲那は気付いていなかった。見城は確かに健雅の友人でありいかにもな見た目もしている。しかし彼は玲那に対して何ら理不尽な行いはしていなかったのだ。それどころか健雅が彼女を殴ればそれを諫めようとするようなことを言ったり、彼女を庇うような素振りすら見せていたのである。それなのに、玲那はそういう部分を全く見ようとしなかった。
『DQNは社会の害悪。皆殺しにするべき』
ネット上でやり取りする人間達からそういう結論と共感を得ていたからだ。
『DQN死すべし、慈悲はない』
冗談めかしてそういうコメントをすることもあるが、彼女自身は心底本気である。故に見城も彼女にしてみれば生きる価値のない死ぬべき人間の一人でしかなかった。そういう思い込みが出来上がっており、認識を改める余地もなかった。見城のような男と結婚する彼の妻も同類としか見ていない。
ネット上で罵詈雑言や誹謗中傷や悪態を並べ、『死ね』『殺せ』等の言葉やそれを連想させる比喩的表現を安易に用いる人間達の多くは自らの行為を単なる<遊び><ジョーク><余興>だとして大目に見てもらおうと思っているのかもしれないが、稀に行われる殺人予告や爆破予告では逮捕者も出るように、決して冗談や遊びでは済まないのである。何故ならそれを真に受けてしまう人間がいるからだ。宿角玲那のように。
彼女には、そういうものを冗談として捉える為の素地がないのだ。そういう部分を誰も育ててきていないのだから。『DQNは死ぬべきだ』と言われれば『その通り』と本気で受け取ってしまうのが彼女だ。実際にその種の人間に苦しめれられ虐げられてきたが故に。そして彼女が殺すべき対象として認識しているのは、<それっぽい人間>全てであり、しかもそういう人間を野放しにしている者すべてが彼女の憎悪の対象だった。それがどこまで拡大解釈されるのかは、玲那の気分一つであった。
ネットの影響力というものは、フィクションの比ではない。フィクションは所詮、絵空事である。フィクションの中の登場人物がどんなことを言っていようが価値観を持っていようが空想の産物でしかなく、言ってしまえば最初から嘘だと分かっている嘘である。しかしネット上に溢れるコメントの数々は、例えそれが冗談や嘘だったとしてもそれを発した人間は現に実在し、それが果たして冗談や嘘だったのかは発した本人にしか分からない。他人からはそれが本心からのものに見えることもあるのは事実なのだ。だからその内容が法に触れれば逮捕もされる。そしてそれが、何人もの人間によって発せられるという事実。
さらには、他の何人もの人間がそれに同調し賛同すれば、例え元々は冗談や嘘でしかなかったのだとしても、それ自体が一つの<正しさ>となってしまうこともある。
『DQNに生きる価値なし』
あるコミュニティー内でその意見が同調され共感を集め賞賛されれば、それはフィクションなどより遥かに高い説得力を持った正当な価値観とされてしまうことも有り得るのだ。そんな価値観に染まってしまった人間が野に放たれると、何が起こるだろうか。
まさにそれが今、起ころうとしているのである。
二十一回目の誕生日の夜。宿角健雅に『誕生祝』と称して玲那はその日も体を弄ばれた。幼い頃から変わらずやはり快楽などなかった。彼女にとってはただただ不快で、痛くて、苦しいだけだった。何度も体の奥に精を吐き出され、嘔吐しそうになるのを彼女は耐えた。
三度目の妊娠が流産という結果に終わって以降、玲那は妊娠しなかった。度重なる人工妊娠中絶と流産の結果、彼女は非常に妊娠し辛い体になってしまったらしい。もっともそれ自体は、この時の玲那にとってもありがたいことだったのかもしれないが。妊娠などというものに煩わされずに済むのだから。
健雅が出て行った自室のベッドに顔をうずめながら、玲那は己の中の憎悪をさらに膨らませていた。正直なところ、そろそろ抑えておくのも難しくなってきていた。探偵社に調査を依頼した伊藤判生の消息が掴めるまでもたせられる自信がない。
『何やってんだ…!。早くしろよ……!!』
声には出さず、玲那は奥歯をギリッと噛み締めた。
だが、<その時>は突然訪れた。捜索を依頼していた探偵社から連絡が入り、伊藤判生の消息がようやく知れた。関東某県でやはり風俗店を経営し、それなりに羽振りの良い生活をしているのだと言う。その行動を詳細に調べ上げた写真付きの報告書も受け取り、現住所も分かった。再婚し、子供までいるという。玲那にとっては異母妹にあたる小学生の少女だった。どこか幼い頃の玲那に似た面影のある少女だった。
その報告書を見た時の玲那の表情を、探偵はこう評した。
「あれがリアルな般若面ってやつかとゾッとしたよ…。もう二度とあんなのには関わりたくないね」
他人の前では見せないようにしていた彼女の感情が表れたということは、いよいよすべてが終局へと向けて転がり始めるということである。
しかしこの時、同時に動き出している者がいた。来支間敏文だ。アルバイトが終わっていつもなら保育園に子供を迎えに行っていた宿角玲那が明らかに普通じゃない風体の男と会っているのを、同じ喫茶店の少し離れた席から確かめた。しかも何か資料のようなものを見た彼女が般若の如き恐ろしい顔をするのも見てしまった。
『あいつ、何かやらかすつもりだ…!』
敏文にはそれが察せられてしまった。それは結局、同じ人を殺すことを何とも思っていない怪物同士だからこそ感じ取れてしまったものなのかもしれない。
男と別れ喫茶店を出て歩き始めた玲那の後を、敏文は追った。すっかり日も暮れて人気のない道を早足で歩く彼女を見失わずに追うのは意外と骨が折れた。気付かれないようにしないといけないというのもあるからだ。
だがそれは無駄な努力だったようだ。玲那は気付いていたのだ。自分を尾行する何者かの気配に。だから彼女は突然走り出して角を曲がった。
『くそっ!』
つられて敏文も走り、角を曲がる。
「…!?」
瞬間、敏文がギョッとした表情になった。角を曲がったすぐそこに人影が立ち塞がっていたからだった。
「お前……!」
まんまと誘い出されたことに気付いて、かあっと体の奥が熱くなる。
「なによ、あんた。私に何の用?」
そう言われた時、彼のタガが外れた。
『こいつ…、俺のことを覚えてもいないのか…?。お前の所為で俺がどんな目に遭ってきたか…。
ふざけるな…!。ふざけるなよ、このクソ女がぁ……!!』
敏文の体の中でギリギリと音さえ立てそうに膨れて弾けたものが、僅かに残った理性すら呑み込み押し流していく。自分の行動がどんな結果をもたらすのか、それを考える思考能力さえ失われていく。
もう、何もかもどうでもいい。この女さえ殺せれば……!!。
バッグに忍ばせていたナイフを取り出し、敏文は躊躇うことなく玲那に向けて奔る。
が、敏文の行動はあまりに浅墓なものでしかなかった。もちろん行為そのものも浅墓なのだが、思考そのものが幼稚で単純で自分にばかり都合のいい解釈だけで構成されていたのだ。すべてが自分の思い通りにいくという思い込みは一切直っていなかった。それどころかかえって悪化していたと言えるかもしれない。それがかつてどういう結果を生んだのか、自身がそれを実体験として経験した筈なのに、まるで理解していないのだから。
そして、宿角玲那が自らの復讐を成し遂げる為に今日までどれだけ自分を磨いてきたか、最初にそれを身をもって味わうことになったのは、来支間敏文だった。
玲那は、人を殺す為の方法を自らイメージトレーニングするだけでなく、アルバイトの帰りに護身術を教える教室に通いそれも身に付けていた。特に、刃物を使った襲撃者に対する護身術について熱心に習得した。
だがそれは、決して自分の身を守る為ではなかった。刃物を持った相手に襲われた時にどう対処するかではなく、自分が刃物を使って襲い掛かった時に反撃を封じる為に具体的な反撃方法を知っておきたかったのだ。つまり護身の為ではなく、あくまで確実に人間を殺す方法を身に付ける為にということである。
しかしまさか、それが自分の身を守る為に役立つとは、彼女自身想定していなかった。
教室での習熟が終了した後も、彼女はまるで一流アスリートの如く自主的に練習を繰り返し、殆ど無意識に体が動くくらいに動きが染みついていた。しかも、中学の途中からレスリング部にも所属し、専門的な指導の下、体も鍛え上げてきている。自分が考えている通りに体が動くようにする為だった。今はレスリングは行っていないが自主的な鍛錬は続けており、その成果によるものか、敏文がナイフで切りかかっても全く慌てることなく体が勝手に動き、ナイフを取り上げ、そのまま反撃へと移ることができた。護身術ではそこまで教えてくれなかったが、その辺りは護身術を基に彼女が自ら編み出したものだった。
奪ったナイフを彼の脇腹から滑り込ませ、そしてネットで仕入れた人を殺す為の技術にあった通りに体内を抉るように捩じってみせる。それにより敏文の腸はズタズタに切り裂かれ、漏れ出た便が腹膜内を汚染した。処置が遅れれば確実に死に至る重大なダメージだった。
少年刑務所の中でただ恨みを肥大化させて人間性を失っただけの敏文と、復讐を実現する為に具体的な研鑽を怠らなかった玲那の差が出た瞬間だった。
にも拘らず、見事に敏文を撃退してみせた玲那に喜びの表情などはまったくなかった。
『くそっ!、なんだよこいつ!!。余計なことしやがって!!』
彼女の頭の中にあったのはそういう思考だった。当然だ。こんな事件を起こしてしまって逮捕されては自分の本来の目的が果たせなくなる。幸い、大して返り血は浴びていない。手だけ洗えばそんなに目立たないだろう。どうやら目撃者もいないようだ。今はすぐこの場を離れ、保育園に健侍を迎えに行って家に戻り、迅速に計画を実行に移さねば。
今の時点で目撃者がいなければ、自分がやったと突き止められるまでには早くても一日、長ければ数日の余裕があるだろう。これからは時間との勝負だ。とにかく、宿角健雅と京子をまず殺害し、次いで警察に追い付かれる前に伊藤判生も殺す。勤め先や現住所及び普段の行動パターンが既に掴めていたのは不幸中の幸いだった。
『急がねば…!』
そう決断した彼女の行動は早かった。迷いなく動き、公園の手洗い場で血を洗い流し、保育園で健侍を迎えて家に帰った。
「遅くなりました…!」
と詫びながら夕食の用意をしているとそこへ見城夫妻がやってきた。
『なんでこんな時に…!』
とは思ったがそれは顔には出さず、夕食の用意をする。
「なんか今日はやけにパトがうるせえな。事件でもあったのか?」
サイレンを鳴らしたパトカーがひっきりなしに走り回っていることに健雅がぼやくが、玲那の表情はまったく動かなかった。
夕食の後で酒の用意をしてツマミに睡眠導入剤を混入。寝付くのを待つ間に健侍を風呂に入れたりと、あくまで日常と変わらない動きを心掛けた。
それが功を奏したのか、十一時前には宿角健雅と京子はリビングで鼾をかいて眠り始めた。見城とその妻は今回のツマミがあまり好みではなかったらしく殆ど口にしなかったことでその場では眠らなかったが、いつものことと慣れた様子で勝手に風呂に入って客間の方にこもってしまった。このまま客間で寝る為だ。
『仕方ない…!。やり方を変えるか』
本当は包丁で一人一人感触を楽しみながら殺したかったが見城夫妻が客間にいては気付かれてしまうかもしれない。そこで玲那はオイルライターのオイルをカーテンに振りかけて火を放ち、クッションにも振りかけて出入り口を塞ぐようにそれにも火を放った。完全に寝ているので目が覚めることはないと思うが万が一目覚めても逃げ道を塞ぐ為である。
台所の引き出しに常に置いていた現金十数万円を手に取り、探偵から受け取った報告書の入ったバッグを掴んで家を出る。後はもうどうなろうと自分の知ったことではない。できれば宿角健雅も京子も見城夫妻も焼け死んでくれたら御の字だ。自室のベビーベッドに寝かせた健侍のことについては、頭によぎることさえなかった。
自転車に乗って京都駅へと向かい、途中のコンビニで夜行バスの席を予約した。幸い、今日の便の席が取れたのでそのまま夜行バスに飛び乗った。
「ふう…」
バスが発車すると、ようやく一息付けた。後は目的地まで待つしかない。気分が昂って寝られないかもしれないと思ったが、意外とすぐに眠りに落ちた。
寝ている間、何やらいろいろ夢を見た気がするが、目が覚めた時には何も覚えていなかった。意外な程にぐっすりと寝た気がする。
横浜の停留所でバスを降り、そこからタクシーで伊藤判生がいるであろう場所に向かった。風俗店の事務所だ。そこから朝の七時くらいに家に帰って夕方まで寝るのが毎日のパターンなのだという。そしてその調査報告は完璧だった。
事務所の前で待ち伏せていると、彼女の記憶にあるそれよりは明らかに老けていたが、まぎれもないあの男、玲那を地獄へと叩き落とした張本人の一人、実の父親の伊藤判生が姿を現した。
その時の玲那の胸によぎったものはと言えば、それはもう歓喜であったのかもしれない。決して実の父親に再会できたという喜びではなかったが。
「なんだお前…?」
自分の前に立ちはだかった若い女を見て、判生は訝った。それが自分の実の娘だとはすぐには気付かなかった彼に向かって玲那は微笑みかけた。彼女の生涯で唯一にして最高の満面の笑顔だった。そんな笑顔が自然と漏れたのだ。
だって、狂おしいまでに待ち焦がれた相手にようやく会えたのだから。
お父さん。
お父さん。
お父さん。
お父さん。
会いたかった。
やっと会えた。
さあ、死んで……!。
素晴らしい笑顔のまま、バッグから取り出した包丁を父親の左脇腹から斜め上に目掛けて滑り込ませ、ぐるりと力一杯捩じってみせた。
「…が、っは!。あぁっっ!!?」
声にならない呻き声を上げつつ、判生は本能的にその場を逃れようとした。父親の腹に深々と刺さった包丁を手放し、さらにバッグの中から新しい包丁を取り出して、逃げようとして背中を向けた彼を後ろから再び刺す。肉に滑り込む刃物の感触が彼女の背筋を奔り抜け、ゾクリと体が震えた。
『なにこれ、気持ちいい…!』
敏文の時は咄嗟だったからそれだけの余裕がなかったのかもしれないが、今ははっきりとそれを堪能することができた。
包丁を抜き、更に刺す。そしてまた、抜いて、刺す。
足がもつれて地面に倒れた父親の体に馬乗りになり、玲那はさらに包丁を刺した。
刺して、
抜いて、
刺して、
抜いて、
そして刺す。
それはまるで、男が女性の肉を犯すかのような往復運動だった。
『気持ちいい…!。気持ちいいよ…!。ああそうか、男が女を犯すのはこんな風に気持ちいいからなんだ……!!』
そんなことを考えていた玲那の頬は紅潮し、瞳は潤んで恍惚の表情を浮かべていた。
そう、彼女はこの時、性的に感じていたのだ。普通の性行為では決して感じることのなかった性的な快感だった。それを生まれて初めて、包丁で人を刺すことで彼女は得ることができたのだった。