宿角玲那編 「生まれてこれなかった者、生まれてこれた者」
指を折られ頬を手加減なく殴られた玲那だったが、病院へは『階段から落ちた』と説明して治療を受けた。医師からは、
「階段から落ちたんですね?」
と念を押すようにゆっくりと訪ねられたが、玲那が事実を打ち明けることはなかった。話したところで無駄だと思っていたのだ。それに下手なことをするとさらに酷い目に遭わされることは分かり切っていた。だから大人しく耐える方がずっと楽なのである。彼女はそれを学習していた。
「お前、マジであんまムチャすんなヨ。しまいに逮捕されんぞ」
リビングの隅でまるで家政婦のように待機している玲那を見て、遊びに来ていた見城が、京子の肩を抱きながらソファーにふんぞり返る宿角健雅に苦笑いを向けていた。それと同時にちらりと視線だけを向けて見た玲那の左手はギプスで固められている。
「問題ねーよ。これは<躾>なんだからよ。そのうち分かるって。オレが正しいってのがな」
ニヤニヤと笑いながらそう言う健雅の隣で、京子も満足気に「うんうん」と頷いていた。年齢は健雅よりも五歳以上も年上にも拘らず、完全に心酔しきっているのが分かる。
一体、こんな男のどこがいいのかと考える人間も多いだろう。しかし似た者同士で共感するというのは確かにあるのだ。
京子にとって宿角健雅が若く力強く一本筋が通っている。…ように彼女には見えていたのだった。確かに自分の考えに従って行動はしてる。自分を曲げない。それは事実だ。事実なのだが、こういう場合の<自分を曲げない>というのは果たして褒められるべきものなのだろうか?。ただの我儘や身勝手ではないのか?。
他者を蔑ろにして我を押し通そうとすることと、明確な自我を持っているということは全く別物の筈である。そもそも自分の自我がしっかりしていれば、多少他人の都合に合わせたり譲歩したりしても揺るがない筈だ。それをしたくないのは、本当は自分に自信がなく、少しでも譲歩すれば失われてしまう程に脆いということを無意識に自覚しているからではないのか。
結局、そういうことなのだ。宿角健雅の横暴さや我の強さは、実は弱さの裏返しでしかない。自分の弱さ、余裕のなさを誤魔化す為に、虚勢を張る為に物理的な部分の力を磨き、他人を威圧して優位に立ちたいから見た目も威圧感があるものにしているに過ぎなかった。
それでも、同種の人間から見ればこの男の力強さは魅力的にも見えるようだ。また、性的にもこの男は強かった。それも理由の一つなのだろう。
こうして宿角健雅はこの家では絶対的な君主として君臨していた。異論は認めない。疑問すら認めない。何も考えずただ自分の言うことに従っていればいい。それがルールだった。怖いものの例えとして<地震。雷。火事。親父>と言われた頃の父親の姿を自分が取り戻すのだと、健雅は考えていた。
こう言えば、その考えに賛同する者も出てくるのだろう。今は父親が弱くなったから駄目なのだと考える者達にとっては実に魅力的にも見えるのだろう。だが、こんな、上辺だけを真似して、物事の本質を蔑ろにしているようなものを賞賛していて何が分かるというのか。
この男のしていることなど、幼稚な<ごっこ遊び>に過ぎないというのに。
宿角健雅がどれほど家で絶対的な存在として振る舞おうと、それは玲那を本当に服従させることはできていなかった。上辺だけを取り繕い、服従するフリをしているだけに過ぎなかった。当然だ。彼の父親ごっこにそんな価値などなかったのだから。
自分のことを思い返せば分かるはずだ。尊敬も信頼もしていない相手に本気で服従する人間などいない。目先の痛みを免れる為に従っているフリはするかもしれないが、それは力関係が逆転すればすぐに破綻する危ういものでしかない。若く力も強い今は圧倒的な暴力で抑え付けることができていても、数十年後、歳を取り体が衰えてしまえば誰も従ってはくれなくなる。むしろそれまでの行いのツケを払うことになるだろう。今度は自分が暴力で支配される、もしくは相手をする価値さえ見出してもらえず見捨てられる可能性もある。高齢者施設にでも入れてもらえればまだいい方で、それこそ誰にも顧みてもらえないままに孤独のうちに死を迎えることだってあるだろう。
ただし、この家庭の場合は、そこまで玲那が我慢してくれればの話だが。
深夜。玲那は自室で自分のPCを開き熱心にキーボードを叩いていた。左手はギプスで固められてしまっているので殆ど右手だけで。その画面には、掲示板が表示されている。
『指折られた。マジありえない』
『マジ?』
『kwsk』
『母親の再婚相手。クソDQN。いきなりブチ切れて指折った』
『うっそだろ?』
『ありえね~』
『はいはい嘘嘘』
『ガチなら警察へどうぞ』
『だよな~傷害で逮捕余裕じゃん』
『でもこいつは嘘でもDQNとか片っ端から射殺するべきじゃね?』
『マジそれな』
『DQNとか生かしとく意味なくね?』
『禿同』
『禿同』
『禿同』
『DQNとかテロリストみたいなもんだろ』
『あいつら存在そのものが害悪だもんな』
『マジで根絶やしにするべき』
『そうそう。DQNとか生かしとくから日本がダメになんだよ』
『頃せ』
『〇せ』
『DQN死ね死ね死ね死ね死ね』
『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね』
等の文字が見る間に流れていく。それを見詰める玲那の口元が僅かに吊り上がり、笑みを形作っていた。禍々しい笑みだった。
これが、最近の彼女の日課だった。元々はネットでもアニメを見る為に、かつての<仕事>の蓄えを使って買ったPCだったが、それ以外の情報などもそこにあることを知るには時間はさほど必要なかった。むしろ、リアルでは友達を作れなかった玲那がネットに没入していくのは自然なことだったのかもしれない。
とは言え、最初の頃は長々と自分の境遇などについて書き込んだが逆に攻撃された。同情を集めようとする行為は敬遠されると自然と学んだ。だから今では自分の親をDQNと称してそちらが攻撃されるように仕向ける書き込みをするようになっていた。DQN親にやられたとしておけば、概ね最終的には『DQNは死ね』といったような流れになるのでとても楽だった。
高揚感があった。楽しかった。リアルには嫌なことしかないが、ネットの中にはこうして同調してくれる人間もいるのが分かって、ほんの少しだが気分も晴れる気がした。
しかも、<DQN>という単語を使うだけで面白いように流れを誘導できる。自分の親、宿角健雅や京子のような人間は生きてる価値もない、さっさと殺されるべき人間だと<みんな>が共感してくれた。それ故、自分があいつらをいつか殺す為にあれこれ模索してるのは正しいことなのだと彼女には思えた。
また、<やられたらやり返す>、<復讐>、<報復>というキーワードでも、彼女が望む反応を皆は返してくれた。
リアルでは、誰も玲那を育ててくれなかった。実の父親も、母親も、新しい父親も育ててなどくれなかったし、学校の教師も玲那だけを見ている訳には行かず十分に彼女の相手をできているとは言い難かった。とは言え、学校については、イジメなどが酷くならないように対処してくれていただけでも相当頑張ってくれてたと言ってもいいだろう。なので学校に責任があったとは言い難いと思われる。
故に玲那は、ネットによって育てられたという一面があったのかもしれない。分からないことがあれば何でもネットを使って調べた。
だが、ネット上の情報や意見には、嘘や錯誤や改竄や悪意が少なからず含まれていることは承知のとおりである。それを見抜けるだけの能力は、やはりリアルとの比較によってしか身につかないのかもしれない。ネット上の情報は、その裏付けとされる根拠やソースそのものが捏造されていることが多々あるからだ。
さりとて、ネットそのものは単なる道具に過ぎない。使い方によっては非常に役立つ便利な道具だろう。自動車の事故が多いからと言って自動車そのものの存在が否定される訳でもないのと同じで、あくまで使う側の問題なのだ。
ただ、現時点ではまだ利用する側が十分に成熟していないということもまた、事実なのだと思われる。そんなネットに、人間の心を育てさせたらどうなるか……。
自分の気に入らないものは徹底的に貶め、弄り、攻撃する。その場の流れを読むことだけを優先し、それに少しでも水を差そうものなら袋叩きにして排除しようとする。
他人の死を願う言葉が持て囃され、まるで挨拶の如く気軽に交わされる。
誰かが死ねば『ザマアwwwwwww』とその死を嘲笑する。命の尊厳などそこには存在しない。しかもそれを疑問にさえ思わず当たり前のものとして、小学生はおろか本来なら分別が備わっている筈のいい歳をした大人までがそうしているのだ。
親に心を育ててもらえず、およそ幼児の頃から精神面での成長が止まってしまっている人間がそれを常識として学び取ってしまうのだ。それがどれほど恐ろしいことか、考えることはできないだろうか。
宿角健雅は親として玲那を躾けていると嘯いているが、実態はいい加減なものである。彼女の心は育てずに、自分に都合の良いロボットとして服従させようとしているに過ぎないのだ。それは決して<躾>ではない。
親を敬え、親の言うことには従え、挨拶をしろと健雅は言う。
しかし、口で言っただけでは玲那は親を敬わないし、従う気もないし、挨拶などしたいとも思わない。そこで、口で言っても聞かないから、口で言っても分からないヤツだから殴る。それが健雅の考え方だった。
『口で言っても分からないヤツは殴るべき』
そういうことを言ってる人間から見れば、健雅のやってることは正しいはずではないのか?。
だがそうなのか?。本当に正しいのか?。表面的な理屈だけなら健雅の言っていることは道理かもしれないが、健雅のやってることが正しいと思うか?。もし健雅のやってることが正しくないと思うなら、何が正しくないのか説明できるか?。
そこで、この男のすることには<愛情>や<思いやり>が足りないと仮定してみる。ではその<愛情>や<思いやり>が足りないということをどうやってこの男に分からせる?。およそいくら言葉を並べてもこの男には届かないだろう。では、言葉でいくら言っても分からないから殴るか?。殴って<愛情>や<思いやり>を教えるか?。
どうやって?。どう殴ったら<愛情>や<思いやり>が理解できる?。愛情を込めて殴れば伝わるか?。健雅が愛情を感じてる人間などいないのに?。健雅が愛してもいない相手が一方的に愛情をもって殴ったとしてそれで愛情が伝わるというのか?。
いや、そんなことで愛情が伝わるなどと言えば、それこそ<ご都合主義>以外の何物でもないのではないのか?。
<愛情>や<思いやり>は、殴って伝わるようなものだろうか?。教えられるものだろうか?。自分は殴られたことで愛情を感じた、そこに思いやりを感じたという人間はいるかもしれない。しかし冷静に考えてみると本当にそうなのだろうか?。殴られたことで愛情を感じたのなら、それは元々愛情というものを知っていて、殴られたことをきっかけに改めて実感したということではないのか?。思いやりにしても、それと同じことではないのか?。そうだとしたら、改めて気付かされる以前に愛情や思いやりを教えてくれていたのは誰なのか?。
<愛情>や<思いやり>こそが人間にとって大切なものだとするなら、結局、殴ることで人が育ち、大切なものが伝わる訳ではないと考えられないだろうか?。
愛情、思いやり、優しさ、気遣い。そういったものは具体的にどうやれば伝わるものなのだろうか?。
そういうものはやはり、自分がそのようにしてもらえて初めて、必要であり大切であり、かつどのように相手に接することが愛情や思いやりや優しさや気遣いと言われるものとなるのかを実感することができるのではないのだろうか?。そういう風にしてもらわない限り、実際には伝わることはないのではなかろうか?。
翻って考えてみれば、伊藤判生も、京子も、宿角健雅も、幼い頃からそのようにしてもらってきていないのだ。彼ら自身が、愛情や思いやりや優しさや気遣いといったものを実感できるような接し方をしてもらっていないのである。だから彼らにはそれが何なのか分からないし、どうすることがそれに当たるのかも分からなかった。とにかく怒鳴って命令して殴れば人間は育つものだと教わってきた。故にそうするだけなのだ。
それだけのことでしかなかったのである。
となれば、そんな人間達ばかりに囲まれてきた玲那も当然、愛情や思いやりや優しさや気遣いと言われるものを学んではきていない。教わっていない。教わってないから分からないし備わっていない。そういうものが欠落したところに、他人を罵り、蔑み、貶め、弄り、吊し上げて己の憂さを晴らし楽しむという行為が正当なことであるかのように多くの人間によって行われている様子を見せたらどのようになるだろうか?。想像するのも恐ろしい。
もし、誰かが、愛情や思いやりや優しさや気遣いといったもので玲那を守ることができていたら……。彼女に、それがどれほど心地よく、自らを癒し、慰め、穏やかな気持ちにしてくれるのかを伝えることができていたなら……。幼い頃の玲那を育ててくれた丸磯昭子や、玲那をただ黙って慰めてくれた陽菜らがしてくれたことがどれほど自分にとって大切なものだったかを改めて実感させてくれる者がいたとしたら、玲那はどのような人間になっていたのだろうか……。
それを知ることはもはや叶わない。それはもう、意味の無い<たられば>に過ぎない。
京子に罵られ、健雅に殴られ、虐げられ、嬲られた彼女は、愛情や思いやりや優しさや気遣いといったものの代わりに、自分を蔑ろにする者には等しく死をもって購わせるべきという、もはや<信念>とでも言うべき強固な価値観を自らの内に育て上げていた。それが他人を従わせることができる唯一のものと彼女は思っていた。
そして、中学・高校の六年間は、彼女にとって、己の牙となるべき強い意志と精神力と肉体を鍛え上げる為の絶好の期間となった。勉強は殆ど頭に入らなかったが、まるで一流のアスリートの如く鍛錬を続けた。復讐を成し遂げる為に。
その間にも、健雅に嬲られたことにより三度妊娠し、二度の人工妊娠中絶を受け、その影響によるものか、三度目の妊娠については自然に流産した。それらの経験も当然のように彼女の恨みをより強固なものに変えていくこととなった。
人工妊娠中絶の時は全く見ることさえなくいつの間にか終わってる状態だったが、流産により死んだ胎児を病院で処置してもらった時には、まだ殆ど人の形すらしていない我が子の遺体と対面もした。ただの小さな赤い肉の塊にしか見えなかった。とても人間とは思えなかった。思えなかったのだが……。
「…あれ…?。なんで……?」
それを見た瞬間、玲那の目から涙が溢れた。しかし、悲しいとか辛いとかそんなことは感じてなかった。胸を締め付けるような感覚さえなかった。それなのに涙だけが勝手に溢れてきたのだ。それはこの時にはまだ辛うじて残っていた彼女の人間性の欠片だったのかもしれない。それを確かめる術はもはやないが、これが彼女の流した最後の涙だったようだ。
この後、玲那は、己の中で大きく育った負の感情を具体的に結実させるその時まで、人前で感情を見せることは一切なかったのであった。
高校を卒業してからは大学には通わず、玲那はアルバイトをしながら家計を支えた。宿角健雅も<仕事>はしていたのだがそれは実際には表に出せるような仕事ではなかった。危険ドラッグの売買や、振り込め詐欺等の不法行為を生業としていたからである。
玲那も薄々そのことには感づいていたが、どうせ自分には関係のないことと気にもしなかった。それよりは、自身の復讐を果たす機会を窺うことが忙しかった。
その間、玲那が二十歳を迎えようとしていた少し前に、思いがけないことも起こった。母親の京子が健雅の子を妊娠したのだ。しかも、法律上は娘である玲那が自分の子を産んだとなれば面倒なことになるからと人工妊娠中絶をさせたというのに、京子との子は我が子として受け入れることにしたようだった。
これは一体、何の冗談ということなのか…!?。
玲那にとってはそれが正直な気持ちだった。
生まれた子は男の子だった。それを健雅は喜び、健侍と名付けた。<健やかな侍>とは、実にシャレがきつい。
それだけではない。健侍の世話は、殆ど玲那がやらされた。
「母親は忙しいんだから、姉のお前が弟の面倒見るのは当然だろ!?」
京子はそう言って健侍の面倒を押し付けて、自分はパチンコ三昧だった。母乳は二ヶ月ほどで早々に止まってしまってそれからは全てミルクだったから、余計に押し付けやすかったのだろう。
やむを得ず、玲那は赤ん坊の世話の仕方もネットで調べた。ミルクの作り方も与え方もゲップのさせ方も、おむつを換える際に気を付けることも全てだ。実の母親の京子は、玲那を生んだ時も殆どまともに世話をしていなかったので何も覚えておらず、彼女に何一つ教えることができなかった。
父親の健雅はそれこそ、気が向いたら健侍の顔を見にくるだけで何も手伝う様子はなかった。健雅曰く、
「ガキの世話は女の仕事。父親は躾だけしてりゃいーんだよ」
だそうだ。
それでも玲那は従順に振る舞い、言われた通りに異父弟の世話をした。もっとも、彼女が異父弟の世話をしたことで母性に目覚めたとか愛情を感じるようになったなどということは欠片もなかったが。ただひたすら自分の仕事として事務的に接していただけだ。アルバイトに行ってる間は保育園に預け、それが終わったら迎えに行く。それを淡々と繰り返す。しかも保育料は玲那のアルバイト代から支払わされたが、それにも文句を言わず従った。
玲那の育児はそれこそロボットが作業をこなすように味気ないものだったものの、泣かせると健雅に殴られるので、少しでもぐずりそうになったら抱っこして落ち着くまで根気強くあやした。ネットをする時にも健侍を膝に抱きながら揺りかごのようにゆらゆらと揺らしていた。そのおかげか、本当の母親の京子がたまに抱いたり健雅が相手をしようとするとすぐにぐずりだすのに、玲那が抱いている時はすごく落ち着いていた。健侍は、玲那に一番懐いていたのだ。
それとなぜか不思議なことに、健雅の友人である見城にも懐いているのか、彼が抱くと泣かなかった。この時、見城も結婚していて妻を連れて頻繁に宿角家に遊びに来ていた。泊りがけで遊んでいくこともざらにあった。それに合わせるかのように健侍の顔を覗き込んだり抱いたりしていたからかもしれない。実の両親以上に。しかも見城はいつも落ち着いていた。健雅や京子はいつも苛々しているのに対して、見た目に似合わず穏やかな気性をしていることが良い形で影響していた可能性はある。
「なんか、オレの子供みてーだな」
妻との間には子供のいなかった見城は、健侍を抱いてそんな風に笑った。ただし、その様子を、玲那はくすりとも笑うことなく黙って見ていた。
玲那にとってはここは<家庭>などではなかった。ペットのような異父弟の世話をさせられ、夜になれば母の京子と交代で健雅の姓処理の相手をさせられ、奴隷どころか家畜のように扱われるだけの監獄にも劣る場所だった。実際、今時の刑務所の方がよほど人道的に扱ってくれるだろう。
また、日に日に大きくなる健侍を見ていると、得体の知れない何かが胸の中をざわざわと動き回るのも玲那は感じていた。先にも触れたが、決して愛情ではない。母性などでもない。それよりは、健雅や京子の顔を見た時によぎるものに間違いなく近い感覚。
そう、それは間違いなく<憎悪>だった。健侍の姿を見ていると頭に浮かんできてしまうのだ。人の形をしていないただの赤い肉の塊として自分の胎の中から出てきた我が子の亡骸が……。
自分の胎の中にいたそれは、人の形にさえなることなく死んだ。なのにこいつは何故こんなに大きくなっていく…?。あれとこれの違いはいったいなんだ…?。自分の胎に宿ったからあれは死んだのか?。自分は子を産むことさえ許されないのか?。自分は、あの男の排便ならぬ<排精>の為の便器だとでもいうのか?。
……。
……。
……ふざけるな……。
……ふざけるな……!。
自分はそんなことの為に生まれてきたというのか?。自分は人間として生きることさえ許されないというのか……!?。
といった感じでようやく言葉としても表現できる程に形になりつつあった自分の中に湧き上がる思いを、玲那はネットの中にぶちまけた。それは呪いの言葉であっただろう。
誰かが死ねば『ザマアwwwwwww』と嘲り、悩みを打ち明けている者がいれば『はい、ワロスワロスwwwwww』と蔑んだ。そうして誰かが感情的になって反論してきたりすればその様子に胸が躍って、唇の端が勝手に吊り上がり笑みの形を作り上げた。
自殺志望の人間が集まるというサイトにも現れ、『さっさと市ねwwwwww』と罵った。
この頃は、あれほど好きだった筈のアニメすらもう既に殆ど見ておらず、それどころかアニメを見る暇があれば掲示板やコメント欄で他人を罵倒し憂さを晴らした。ただ、復讐劇を描いたアニメやドラマだけは熱心に見ていたようだ。
そのアニメについてまとめたサイトのコメント欄では復讐の意義について他の利用者と大いに盛り上がり、自分も復讐の機会を虎視眈々と狙ってると嬉々としてコメントを残した。
だがある日、SNSのニュースサイトに掲載された殺人事件のコメント欄でいつものように復讐の必要性についてコメントしてると、そこに、
『復讐?。くだらねえ。そんなもん、幼稚な奴の考えることだ』
と、その場の流れに冷や水を掛けるようなコメントをする者が現れた。当然、他の利用者も次々とそのコメントに噛み付き、
『出たよ綺麗事wwwwww』
『お花畑乙wwwwww』
『こういうこと言う奴に限って自分の子供とか殺されたら手の平クルックルなんだろなwwwwww』
と集中攻撃を行った。だが、そのコメントの主は、
『どうした? 言いたいことはそれだけか?』
などと返してくる。もちろんその程度ならただの強がりにしかこの時点では見えなかった。この程度の返しはよくあることだ。しかしそいつは言う。
『復讐劇に巻き込まれた人間の苦しみが、お前らには分からないか?』
『俺の姉は、復讐劇の巻き添えを食って今は寝たきりだ』
『お前らがスカッとする復讐劇とか、所詮はただのフィクションだ』
『リアルな復讐劇がどんなものか、頭の中で妄想してるだけのお前らには分からないんだろうな』
『俺から見たらお花畑はお前らの方だ』
何人もの利用者からいくら集中攻撃を受けてもそいつは淡々とコメントを返してきた。
「なんだよ…、こいつ……!」
玲那自身もいくつもコメントを付けて攻撃した。なのにそいつはまるで堪えていないようにも見えた。
「ムカつく……っ!!」
玲那はそのページを閉じ、他の盛り上がってるところに移って口直しをした。そこでは自分と同じように復讐の必要性を語ってる者達ばかりだった。それが心地よくて、ホッとするのを感じていた。
そうだよ。これだよ。こうじゃなくちゃ!。
ミルクが終わった健侍を膝に抱いて寝かしつけながら、また気分が高揚してくるのを堪能する。
彼女がそんな風に感じられるのは、そこにしかなかったのだった。