伊藤玲那編 「不幸になる為に生まれた命」
2017年8月。一人の死刑囚の刑が執行された。宿角玲那。享年、二十六歳と十ヶ月。
彼女が犯した罪は、殺人および殺人未遂。最終的に四人を殺し三人に重傷を負わせた。その三人は、いまだに後遺症で苦しめられているという。事件は彼女が二十一歳の時に起きた。それから何年も裁判をして、一昨年、死刑判決が確定してようやく執行されたという流れである。
彼女が死刑になったのは、そういう法律がある以上は仕方ないのだと思われる。四人もの人間を殺したのだから当然なのかもしれない。
だが、彼女の境遇を詳細に紐解けば紐解くほど、そこに至るまでに何が打てる手はなかったのかという気分になることはないだろうか。
『子供は親を選べない』
この言葉が生涯に亘ってどれほど彼女を苦しめ続けたのか、客観的な考え方のできる人間なら、彼女の事件以外でもこれまでに報道されてきた数多のニュースを基にして容易に想像することも可能なのだろう。だが、少なくとも彼女の両親はそれができるような人間ではなかった。
彼女は、清水寺からさほど遠くない、鴨川の堤防沿いから少し東に入ったところに建っている古い民家に住む夫婦の長女として生まれた。近視眼的で享楽的で己の欲望にばかり忠実で、他者を顧みることができない。それが彼女、宿角玲那の両親、伊藤判生と伊藤京子であった。
名字が変わっているのは、彼女が中学に上がったすぐの頃に両親が離婚。その後に彼女の親権を持った母親が再婚したことで伊藤姓から宿角姓に変わったからである。
彼女の血縁上の両親である判生と京子はいわゆる不良仲間であり、中学時代から互いに家にも帰らず他の仲間と一緒に徘徊しては、暴行、恐喝、窃盗などの非行を繰り返してきた。
もしここで誰かが真剣に対処して二人を更生させていたならあの結末はなかったかもしれない。しかしこの時点では、二人の親族さえ匙を投げ、見て見ぬふりを決め込んでいる状態だった。そういう無関心が何をもたらすのかを考えることさえなく。
おそらくは、そういう、自分に都合の悪い現実から目を背けるような親族達の人間性こそが二人をこういう人間にしたのだろう。
面倒臭い。
時間がない。
忙しい。
二人が幼い頃からそう言い訳をして、その存在そのものに目を瞑り蓋をして逃げるという行為の積み重ねがここに形を成したのだ。
故に、二人はそんな親族達の姿に倣い、自分達に子供を育てる能力などない事実から目を背け、周囲にそれを補ってくれる人間も殆どいないという事実さえ見ないようにして目先の快楽に溺れ、性を貪っていた。
こうなるともう、次にくるのは妊娠である。だがこの二人はそれさえ見て見ぬふりをした。堕胎費用惜しさに『そのうち何とかする』と先延ばしし続け、気付いた時にはもう中絶が可能な時期が過ぎてしまっていたのだった。
「どうすんだよ」
と京子が訊けば、判生は、
「俺が知るかよ。お前が何とかしろ!」
と吐き捨てるだけだった。
そうこうしている間にも腹の中の子は大きくなり、見た目にも明らかに誤魔化しきれなくなって妊娠が周囲に知れ、それに判生の祖父が激怒。借家として貸していたものが空いたこともありそれを一軒譲与する代わりに、
「今後一切、家族の縁を切る!」
と言い出した。
もっとも、この時の祖父の対応も、自身に都合の悪いことを感情的に切り捨てることで責任逃れをしようという浅ましいものでしかなかったのだが。しかもこの祖父自身、戦後のどさくさで成り上がる際に、表沙汰には決してできない行為を散々行ってきたという背景もある。
判生の家族は、いくつもの会社を経営したりして表向きは立派に見えていてもその性根は非常に似通った人間達であった。自分の感情を優先して都合の悪いことは怒鳴り散らして相手を威圧して自分の意のままに操ろうとする。実によく似ていると言えるだろう。。
祖父に『家族の縁を切る』と言われた判生の方も、祖父母や父母の人間性に対しては元から反発しており、家を譲り受けつつも、
「こんなボロイい家もらって納得するとか思ってんのかよ!」
と吐き捨てるという、どこまでもどうしようもないロクデナシぶりを見せ付けたのだった。
そして、文句を言いながらも、築五十年というくたびれた家で生活を始めた判生と京子の長女として、伊藤玲那は生を受けたということである。
が、こういう人間がまともに子供の面倒を見られるはずもなく、取り敢えず形だけは世話をしているふりをするもののそのやり方はいい加減で、生まれたばかりの玲那はいつも大きな声で泣き続けた。すると自分の思い通りにならない玲那に対して判生も京子も苛立ち、『うるせぇ!』と怒鳴って叩いたりを繰り返すようになっていった。
もちろん、そんなことで赤ん坊が泣きやむ訳がない。確かに最初はショックで泣きやむようなことも何度かあったが、それを自分に都合よく解釈したのだろう。叩けば泣き止むと思ってしまったようで叩くようになってしまったのだが、そんなものはすぐに効果を失う。そして泣き止ませようとしてさらに強く叩くという悪循環が始まったという訳だ。
それでも、そんな様子に胸を痛めている人間もいなくはなかった。近所に住む丸磯昭子もその一人だった。
丸磯家は、第二次大戦後の混乱期に事業を起こして成功した伊藤家から仕事を回してもらうなど助けてもらったことがあり、自分の子供も巣立ち手が空いていた昭子は、伊藤家への恩を返す意味も込めて、
「もしよかったら、私が面倒見てあげる」
と申し出て、玲那の世話をするようになったのだった。
それをいいことに判生と京子は玲那を放って遊び歩き、二~三日帰ってこないということすらあったりもした。
だが、もしかするとこの時期が、玲那にとっても、二十七年の生涯の中で最も安らいだ時であったのかもしれない。昭子が世話をしている時は、判生や京子のところにいる時に見せていた、癇癪を起したかのような激しい泣き方をすることが殆どなかったのである。
こうして、ほぼ昭子の子供のようにして玲那は育ち、少し人見知りが激しいが大人しい子供として健康に成長していった。
が、この世に神や仏がいるのだとしたら随分と残酷なことをするものである。おりしもバブル崩壊の最中、そのあおりを受け丸磯家の事業も大きく傾き資金繰りが悪化。繋ぎの為と金策に走った際に金を借りた業者が非常に悪質なものだったこともあり、昼となく夜となく督促が行われ、さらに明らかにまともな人間じゃない連中が取り立てに現れるようになると、丸磯家は夜逃げ同然で引っ越していってしまったのであった。
玲那が三歳の誕生日を迎える寸前のことだった。
残された彼女は両親の下に戻るしかなかったが、ここからまた、彼女の地獄が始まることとなった。育児放棄と暴力だ。
食事は一日に一回出ればいい方だった。それもコンビニ弁当や総菜パンばかり。しかも両親は殆ど家にいなかった。二日に一度程度の割合でふらりと家に帰っては弁当などを置いていくだけである。
「…ごはんは…?」
空腹に耐えかねて玲那がそんなことを口にしようものなら、
「は? あんた 親に指図するつもり!? 食わしてもらってる分際で何様!?」
などと怒鳴りながら小さな体が吹っ飛んで壁に叩き付けられるほどに激しくひっぱたいたりした。それで彼女が泣きだすとさらに何度も叩いた。
無論その声は、近所にまで響いていただろう。しかし近所の人間は『あれがあの家の方針だから』と口出ししない。実際、伊藤家は代々そのようにしてきたのだという。親族のみならず近所の人間さえ、そういうものだと思い込んできたのだ。『子供の為』という大義名分を掲げてそこに潜んでいる問題に目を瞑って耳を塞いで考えることを避けてきたのだ。暴力で相手を従えるのが正しいことだと言い聞かせてきた結果がそこにあった。
人は、自分が正しいと思い込めば、いくらでも残酷なことができるともいう。悪いのは相手なのだから自分は正義を執行しているだけだと思い込めば、幼い子供の目玉をえぐり出し耳をそぎ首を鋸で挽くことさえできてしまうのだそうだ。この時の判生や京子がまさにそうだったのだろう。親に対して生意気な口をきく子供を厳しく躾けるのは正しいことだと思い込んでいたから、僅か三歳の少女にさえこれほどのことができてしまったとも言えるのだと思われた。いや、事実、そう思っていた。自分達も、父母や祖父母にそのようにされてきたのだ。その通りのことをしているだけでしかない。
だが、それは思考停止というものではないだろうか。自分がそうされてどう感じたのか。そのやり方で自分は世間から不良と呼ばれるような人間になってしまったではないか。どうしてそれをおかしいと思わないのか。なぜ自分は正しく育たなかったのかを考えることができればここまでの行為はしなかったのかもしれないというのに。
判生や京子も、自分が幸せだと思ったことはなかった。自分は恵まれない境遇に生まれ育ち、虐げられていると感じていたのだ。そんな苛立ちを幼い我が子にぶつけることを間違っていると気付けないこともまた、大きな不幸と言えるのかもしれない。
判生や京子にとっての<幸せ>とは、それこそ自分の勝手気ままに思い通りに生きることだっただろう。しかし、この世はそんなに甘くない。この二人のような人間が好き勝手に生きることを許してくれたりはしない。だから二人の望む幸せは、一生手に入れることができるものではなかった。事実、この二人は生涯、幸せを実感することがなかった。
その不幸が、娘の玲那にも連鎖したとも言えるのかもしれない。
なお、この頃、判生は昔の不良仲間の先輩だった人間に誘われて風俗店の店長をしており、バブル崩壊の影響は受けながらも、不況の中にあっても性に対する人間達の欲望は失われることがなく、かつ判生自身も社会の状況を察知していち早く料金の引き下げを行い格安店として人気を博すなど、思わぬ才覚を発揮してそれなりの稼ぎを得たりしていた。
だが、それは玲那の生活環境を改善することには使われなかった。判生と京子は事務所と称してマンションの一室を実質的な住居として自分達はそこで寝泊まりし、玲那のことは古びた元の家に置き去りにして、食事だけを、二日に一回、多い時でも一日に一回程度の割合で置いていくというだけの生活をしていたのだった。自分達は好き勝手に贅沢な暮らしをしながら。
空腹に苛まれ一人で水風呂に入りくたびれた家が作り出す恐ろし気な闇に怯えながら敷きっぱなしの布団にくるまって眠る玲那とは対照的に、美味い食事を食べ宝飾品を買い漁り高級外車を乗り回してもなお、まだまだこんな程度じゃ幸せとは言えないと、判生と京子の心は満たされることがなかった。
そのように、掴むことができるはずもない幸せを求め当然の結果としてそれを手に入れることができない二人の精神は、飢え乾いた<何か>に常に苛まれてささくれ立ち、そしてそれは、まるでそうするのが当たり前だとでも言うかのように、歯向かう術を持たぬ非力で幼い我が子へと向けられたのだった。
故に、理不尽な苛立ちをぶつけてくる両親の暴力に怯え、玲那はいつもびくびくと他人の顔色を窺う陰気な子供へと育っていった。
ただ一方で、幸いにも玲那が通っていた学校はイジメなどのトラブルの対応に熱心なところであったこともあり、学校でまでイジメられるようなことはなかったのは幸いだったと思われる。また、行けば給食にありつけるということも相まって、彼女は学校には欠かさず通った。家にいるよりはずっとマシだったのだ。
さりとて、口数少なく表情も乏しくいつも俯き加減で怯えたような様子を見せる辛気臭い彼女と積極的に仲良くなってくれるような奇特な生徒はそうそうおらず、酷くイジメられることはなかったものの、当然の如く孤立した存在にはなっていた。
学校側もそんな玲那の様子には懸念を抱いていたのだが、当時はまだ現在ほど家庭内での虐待について理解が進んでいなかったこともあり、児童相談所にも通告はするもそれ以上の踏み込んだ対応が取られることはなく、結果として苛烈な虐待が見過ごされたまま時間だけが過ぎていくこととなってしまっていたと言える。
こうして、誰にも救ってもらえない玲那は、授業が終わっても、すぐには家に帰らなかった。学級文庫の本を読み漁り、それを読みつくすと今度は図書室に入り浸って本を読み漁った。そこに描き出される物語の世界に没入していると、その時だけは嫌なことを忘れることができた。彼女は、僅かな時間とはいえ自分が救われる方法を、自分で見付けるしかなかった。
家に帰っても他にすることがなかったこともあり、彼女は宿題などはきちんとやっていた。二年生になる頃にはテレビなどを見て家事の仕方も自分で覚え、拙いながらも掃除や洗濯を自分でやった。両親が持ってくる食事を一度に食べてしまうのではなく、冷蔵庫に保管して何度かに分けて食べることを自ら編み出した。そんな中、両親は食べ物ではなく、現金を置いていくようになった。
「それで自分で何か買って食べな」
要するに自分が買ってくるのが面倒臭くなっただけだったのだが、これは玲那にとっては逆に幸運だった。テレビで、スーパーなどでは終了時間近くなると弁当や総菜が安くなるというのを知り、近所のスーパーの営業終了直前に自分で出向いて半額になった弁当や総菜を買うようになった。これによって、それまでの倍近い食事にありつけるようになると、彼女はさらに知恵を絞り、金を使い切るのではなく少し残してそれを貯め、そして米を買って自分で炊くようにまでなっていった。
五キロの米を持って帰るのは幼い彼女にとっては大変な労力だったが、彼女の曽祖父が借家として人に貸していた時の住人が残していった台車に気付くとそれを押してスーパーまで行き、そこに米を乗せて家に帰るようにもなった。
この頃になると玲那もさらに知恵がつき、両親が家に顔を出す時には機嫌を損ねないように淡々と接するようになり、それでも機嫌の悪い時にはやはり八つ当たりされたが敢えて逆らうこともせず、金を置かれれば『ありがとうございます』と謙って丁寧に頭を下げ、聞き分けの良い<いい子>のふりをする詐術を身に付けた。すると両親は、
「やっぱガキはちゃんと躾けなきゃダメだな」
と、自分達のやり方が正しかったのだと満足げに笑うこともあったのだった。
玲那は考えた。生きる為に。少しでも暴力を回避する為に。自分の毎日が平穏なものになるように。
漢字が読めるようになってくると風呂の焚き方の説明書きも読めるようになり、自分で風呂が沸かせるようになった。この時に家にあったのは自動で湯温を調節できるタイプの風呂釜ではなかったので最初のうちは沸かしすぎたりして大変だったが、何度か使っているうちに要領を掴んだ。
トイレは和式の水洗だが、もちろん玲那が自分で掃除をする。しかも、かなり丁寧に。と言うのも、京子が食事を持ってきたついでにトイレを使おうとすると汚れていたのにキレて、
「こんな汚いのが使えるか! ちゃんと掃除しろ! 舐められるくらいにピカピカにすんだよ!! お前、これが舐められんのか!?」
などと怒鳴りながら玲那の顔を汚れた便器に押し付けたりしたこともあったからだ。それ以来、トイレは特に綺麗にするようにしていた。
そのような暮らしを続けているうちに、彼女は小学三年生になる頃には、ほぼ一人暮らしができるまでになっていたようだった。
それでも、暖かい時期にはどこからともなく得体の知れない大きな虫さえ入り込んでくる、この古めかしい家での夜はどこか恐ろし気で、玲那はテレビのアニメに夢中になることでその不安を紛らわせようとした。アニメの中では、苦しいこと、辛いことがあってもそれらは必ず解決し、主人公達は最後には幸せを掴むことができた。たまにそうでないラストを迎える話もあったが、それでも多くの物語は幸せな結末が用意されていて、彼女も、
「私もいつかきっと幸せになれる…」
と自分に言い聞かせていた。
なのに、神だか仏だかはどこまでも残酷だ。一体、何が気に入らなくてこんな幼気で憐れな少女に苛烈な試練を課すというのか。
それは、玲那が四年生に上がる直前の春休みのことだった。平日の夕方、彼女がいつものように一人でアニメを見ていると、玄関の方で人の気配がした。てっきり、両親がまた金を持ってきたのかと思って出てみると、しかしそこにいたのは全く見ず知らずの中年男だった。男は玲那の姿を見た瞬間、恐ろしい速さで走り寄り、彼女の口を押えた上で包丁まで突き付けて耳元で囁くように言った。
「れいなちゃん、だっけ? いつも一人でお留守番、偉いねえ。でも一人はさみしいだろ? だからオジサンが遊んであげようと思って来たんだ。大人しくしててくれたら怖いことはしないよ。オジサンと一緒に楽しくて気持ちいいことしようよ」
言葉は優しげだが、玲那はそこに恐ろしいものしか感じなかった。そんな彼女の細い足を温かい液体が伝い流れていく。失禁だった。
「あららあ、お漏らししちゃったねえ。大変だ。すぐに着てるものを脱がないと」
男はその様子を見てさらに興奮したようにそう言いつつ、玲那が着ていたワンピースの裾に手を突っ込んで、下着に手を掛けた。
「…あ…っ」
脱がされようとしていることに気付いた彼女は小さく声を上げて膝を合わせ抵抗を試みたが、男の目がギラリと光るのを感じ、幼い体は強張った。暴力の気配を察知し、彼女は無意識のうちにそれ以上の抵抗を諦めてしまっていた。両親からの暴力を避ける為に身についた習性が働いてしまったのだ。
そんな彼女を捕らえた男は、漏れた小便の所為でスムーズに下着を脱がすことはできなかったが、それが逆に男の興奮にさらに火を注ぐ結果になった。ぐしょぐしょの下着を床に放り出し、ワンピースの裾を掴みそれも脱がせた。ワンピースと下着しか身に付けていなかった玲那はそれだけでもう身を守るものをすべて失ってしまった。
「っはははは! すごいね、れいなちゃん」
男の顔は真っ赤に紅潮し、下衆以外の何物でもない歪んだ笑みを浮かべながら玲那の股間を凝視する。それでも彼女は抵抗しなかった。いや、できなかった。恐ろしくて不快で気を失いそうなほどにおぞましいのに、体が動かないのだ。下手に抵抗するともっと酷い目に遭わされるという恐怖が勝ってしまっていたのだろう。
「いい子だね、れいなちゃん。それとも前からこういうことに興味あったのかなぁ?」
恐ろしさで抵抗できないだけの彼女に対し掛けられた言葉は、あまりに下劣かつ卑劣なものであった。しかし男はそんな自分にさえ酔い、少女を己の支配下に置いているというこの状況だけで果ててしまいそうになる自分を必死に抑えていた。
「すごい、すべすべだ。すごい…!」
ほぼ思考停止の状態にある玲那の体を男は撫でまわし、その感触を存分に味わう。皮肉なことに、まともに食事がとれるようになったことで彼女の肌は潤いを取り戻していたのだ。以前はもっとカサカサして手などはそれこそ酷く荒れていた時期もあったというのに。
なおこの時、彼女には性に関する知識はまだ殆どなかったが、自分がこれからとんでもない目に遭わされるのだということだけは本能的に察していた。なのに、やはり体が動かない。それどころか思考すらまともに機能しない。
ここまでやっても抵抗しない少女に気をよくした男は、彼女の体をべろべろと舐めまわし始めた。怖気の走る感触に玲那の体が総毛立つ。さらに男は、彼女の唇まで奪い、口の中に舌をねじ込んできた。それにさえ抵抗できず、玲那は成すがままになった。彼女の口の中を、男の舌が執拗に弄る。
吐きそうなくらいの嫌悪感を感じているのに、やはり玲那にはどうすることもできなかった。暴力を恐れるあまり竦んでしまったというのも最初はあったが、今ではもう、自分に降りかかった状況があまりにも意味不明で彼女のキャパシティを超えていて、脳がそれを処理しきれていないようだった。
「オジサンとのキス、そんなに良かったかな? オジサンも、れいなちゃんとのキスでもう我慢できなくなっちゃったよ。だから、れいなちゃんの初めて、全部オジサンがもらってもいいよね…?」
男は確認するようにそう訊いてきたが、玲那は既に男の言葉自体が届いていなかった。何か言ってるのは分かるのだが、何を言ってるのか意味が入ってこないのだ。それだけである。
なのに、彼女の沈黙を承諾と解釈し、男は幼い彼女の体を抱えるようにして板間の床に寝かせ、男の腕とそれほど変わらない太さしかない太ももを掴んで大きく広げさせたのだった。そのあられもない格好に、男の心臓はドンドンと殴るように鼓動を刻む。これまでに味わったことのない興奮を感じ、男の思考も停止した。後はもう、ぎりぎりと肉体を軋ませるほどに膨れ上がった欲望にただ突き動かされていただけだった。
しかし、ここまできてようやく、これ以上はダメだと本能的に察した玲那が、
「や…だぁ…こわいぃ……」
と、文字通り蚊の鳴くような声でそう訴え、男の体を押し退けようとした。少女にできる精一杯の抵抗であった。だがそれすら、男にとってはただのスパイスにしかならなかったらしい。
「あ…つ…っっ!」
男がぐいっと体を押し付けてきた瞬間、玲那は、焼けた金属の棒でも刺されたのかと思った。そうだ。<挿入>などではない。文字通り<刺された>痛みだ。それを、少女の脳が熱さと誤認したのだ。その途端、ぼろぼろと涙が溢れた。知らない男に尖った鉄の棒か何かを腹に刺されて自分は殺されるのだと彼女は思った。何一つ楽しいことのない、苦しくて辛いだけの短い人生の最後がこれだとは……
後はもう、それこそ何も考えられなかった。自分は串刺しにされて殺されてしまったと思い込んだ彼女は、考えることを止めてしまっていた。そんな中でも痛みなのか熱さなのかよく分からない感覚はずっとあったが、それすら『死んだらこうなるんだ…』くらいの認識でしかなかったのだった。少女の体は、人形のようにぐったりとなっていた。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろう。ひんやりとした板間の床の冷たさを感じ、玲那の意識は急速に覚醒していった。
「……」
静かだった。何の気配もなかった。視線の先には、すすけた陰気臭い天井だけがあった。ゆっくりと辺りを見まわすと、誰もいなかった。自分一人だ。
『…ゆめ……?』
ぼんやりとした思考の中でそんなことを思ったが、少し体を動かそうと身を捩ると、ビリッとした痛みが股間から背筋を奔り抜けた。
「……あ…」
痛みを感じた先に視線を向けると、そこには血まみれの自分の下腹部と脚が見えた。床に打ち捨てられた下着とワンピースも見えた。
『ゆめじゃ…なかったんだ……』
玲那は再び頭を床に下ろし、両腕で顔を覆った。涙が勝手に溢れ出して、「…ひっ、っぐ…えぐっ…」としゃくりあげてしまう。止めようとしても止まらない。
彼女は泣いた。古びた家に、ぼろ雑巾のようにボロボロにされて一人捨てられたことを思い知らされて、
「うぁあぁぁん」
と声を上げて泣いた。なのに、その泣き声を聞きつけて救いの手を差し伸べる者さえいない。だから彼女はとにかく泣き続けるしかできなかった。喉が痛み、胸が痛んだが、彼女はひたすら泣き続けた。
泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣いて、泣くことにさえ疲れてしまって、それから彼女はゆっくりと体を起こした。
『お風呂…、入らなくちゃ……』
血まみれの自分の下腹部と脚を見てそう呟き、殆ど夢遊病者のように呆然としたままで風呂釜のスイッチを入れ、風呂が沸くまでの間に下着とワンピースを洗濯機に放り込み、自分の小便と血と男の精で汚れた床を、彼女は雑巾で拭いた。
下腹部にズキズキとした痛みがあったが、我慢できない程の痛みではなかったから気にしないようにした。それよりも、何度もドロッとしたものが自分の股間から溢れてくるのが困った。男に刺されて自分の体の中にあるものがこぼれ出てきてるのかと不安になったが、それもしばらくして収まったから少し安心した。
沸いた頃を見計らって風呂に入って体を洗った。男に体中を触られ舐められたことを思い出してしまって、それを洗い流したくて何度も何度も洗った。体を洗ってるとまた涙が勝手に溢れてきた。
玲那は、そのことを誰にも話さなかった。話せる相手もいなかったし、話したところでどうにもならないと思っていたからだ。
それから数日後、彼女を襲った男が、別の少女に乱暴しようとしたところを取り押さえられて逮捕されたというニュースが流れたが、玲那がそれを知ることはなかったのだった。