第0話「少し未来の男の話」
プロローグ。
その男には3日より前の記憶がない。
言葉は話せる。
物の食べ方だって分かる。
しかし、自分の名前すら思い出せない。
本能で生き方だけ知っているだけだ。
記憶喪失……と言うよりは、この世界に生まれ落ちたばかりのような奇妙な感覚があった。
初めに意識が芽生えたのはとある森の中だった。
そこが危険な場所なことは分かった。
しかし彼は剣が扱えるわけでもなく、何か超常の力があるわけでもない。
自分を守る術も、そもそも生きていく目的すら思い浮かばなかった。
運が悪ければそこで力尽きていたであろう。
だが彼にツキはあった。
数時間行く当てもなく森を彷徨い歩いていると、冒険者の集団と出くわした。
親切な冒険者たちで、迷子の男に温かいスープを飲ませ、森の外まで連れて行ってくれると言う。
彼は感謝した。
そして、自分が記憶がないことを話す。
これからどうすれば良いのか分からない。
金も仕事も身寄りもない。
どうやって生きて行けば良いのだろう。
そうだ、どんな雑用でもする。
冒険者の一団に自分も加えて貰えないか、と。
彼の必死の懇願に冒険者たちは哀しそうな表情を浮かべる。
――悪い、私たちもそこまで余裕はないんだ。
――剣も魔法も使えない者はさすがに連れて行くことは出来ない。
男は再び絶望する。
しかし、冒険者の1人がとある提案をした。
――そうだ、この先にドイルヴァノン王国と言う国がある。
――あそこは独自の魔法具で栄えてるらしい。
――行ってみて損はないはずだ。
他の冒険者たちも賛同する。
確かにあれなら、剣の技術も魔法の素養もない人でも使えるだろう、と。
幸いドイルヴァノン王国はここからそう遠くない。
そこまでは我々が送って行こう。
――ありがとう。
生まれて初めての感謝の言葉だった。
◆
そうして男はドイルヴァノン王国へとやってきた。
遠目にも巨大な城が見え、城下町は広く活気に満ちている。
立派な商店から、様々な露店までもが立ち並び目が回りそうだ。
――目的のものはどこだろう。
冒険者たちは「そこに行けばすぐに分かるよ」としか言っていなかった。
これだけ店が並んでいるのに、すぐわかる。
きっとそれは剣士が剣を持つように、ここでは至極当たり前のものなのだろう。
それにしても想像以上に物も人も溢れている。
これではそれを探すどころではない。
情報の多さに倒れてしまうかもしれない。
――少し人のいない所へ行こう。
彼は逃げ込むように路地裏へ。
更に少し進むと店が潰れた後だろうか。
寂しい空き地に着いてしまう。
――ふぅ、とりあえずここで一休み。
そう言って腰を降ろそうとすると――
「おにいちゃん、そこあぶないよ?」
「――――!」
先程まで気付かなかったが、木陰にでも隠れていたのだろう。
まだ幼いとすら言える女の子が彼の側に立っていた。
「ごめん、今すぐどくよ」
「うん。でもせっかくだから これうめるの手伝ってよ」
初対面で随分と馴れ馴れしい女の子だ。
とは言え彼にはやることは何もない。
女の子の些細な願い。それを断る理由はなかった。
「あぁいいよ。ところで何を埋めてほしいのかな?」
「これ」
女の子は、その手には大きすぎるくらいのビンを持っていた。
やや重そうに持っているのを見るに、中身もちゃんと入っているようだ。
はて、埋めてしまって良いものなのか。
「それ何?」
「びん」
彼女の答はひどく簡潔で、しかし男の疑問を晴らしてくれなかった。
まぁ良い。そういうならば従うまでだ。
彼は女の子からビンを預かった。
そして近くで見ることであることに気付く。
――良く見たら中は……面白いな……。
そこには土台があり、まるで小さな小川のように水が貯められ、木の枝で作ったであろう木々や生物の形をした粘土細工、更には階段までが付けられ、小さくも紛れもない一つの"世界"が作られていたのだ。
「これ本当に埋めちゃっていいの?」
「うん、だって埋めなきゃ使えないもの」
――使う?
良く意味は分からないが、とにかく初めから地面に埋めるものらしい。
男は疑問を抱きつつも、それがスッポリ収まる程度の穴を掘りビンを入れる。
そして、土を被せると「はなれたほうがいいよ」と女の子が言うので、二人で木陰へと移動した。
――今日は日差しが強いな。
だが木陰の涼しさが何とも心地よい。
男は少し前まで自分の境遇を恨んでいた。
知らない世界に一人放り込まれたような孤独。
知り合いも何もない空虚な逸れ者。
このまま森の中で朽ち果てていくだけだとしたら、きっとこの世界では自分が存在したことさえ、誰も知らないままだったのだろう。
そんなことをひたすらに考えていた。
――だけど、何だか何とかなりそうに思えてきたな。
こんな簡単なことだけで、ちょっとは気分が良くなっている自分だ。
自分のことは何も知らなかったが、どうやら大分楽観的な性格ではあるようだ。
ならばきっとこの先だって――――
――ドンッ
男が少しの間考え事をしていると、先程ビンを埋めた場所から突然大きな音がした。
何があったんだ? もしかしてさっきのビンが爆発したのか?
問題でも起きてしまったのだろうか?
慌てる男に女の子は――
「だいじょうぶ」
とだけ言ってトテトテとその場所に近付いて行く。
恐る恐る見ると、とくに爆発したような後はない。
――ただそこには取っ手のついた蓋があった。
「あれって一体なんだ?」
「おにいさん知らない? めいきゅうの入口だよ」
「めいきゅう……?」
「回してあけて」
女の子はその取っ手を回すように促す。
どうやら車輪のような仕組みになっているらしい。
言われるがままに回すと、キコキコと音がしてやがてそれは開いた。
男は今度は腰が引けてはいない。
中に何があるのか。その好奇心に突き動かされ中を覘きこむ。
「これは……」
それは見たことのある光景だった。
ついさっき。ビンを見た時のその光景だ。
だが木の枝は立派な木々に、水たまりは綺麗な小川に、そして人形までもがネズミのような動物となって中を動き回っている。
そして男は気付いた。
それは直観であり、確信だった。
――この国にあるという魔法具はこれのことだ。
「これって君が作ったの?」
「ん、中に木とか入れればだれでも作れるよ」
私は少しお父さんに手伝ってもらったけどね、と少し照れくさそうに女の子は付け加える。
二人はその中へと入っていく。
剣も魔法もなくてもそこに世界が作れてしまう。
良く見れば均等すぎる木や、不格好な河原に不慣れな彼女の苦心が垣間見える。
だが同時にそこには純粋に作る楽しさと、若さゆえの勢いが感じられた。
彩り豊かに風景に出てきた言葉はあまりにも簡素な一言だ。
――――綺麗だ。
女の子に手を引かれて踏み入れた"彼女の世界"。
既に男の顔に苦悩はおろか、不安の影すらも見受けられない。
彼はワクワクしているのだ。
自分にも扱えるものなのだろうか。
それが気になって仕方がなかったが、ぐっとその場は堪える。
まずは恩人である少女の作品を楽しんでからだ。
女の子は小走りにやや進むと、向き直って礼をした。
芝居がかった可愛らしいおじぎだ。
そして歌うかのように告げるのだ。
「ようこそ――わたしの作っためいきゅうへ」
男は笑って頷いた。
……………
……
誰もが迷宮を作り出せる変わった国。
一組の男女が作り出した不思議な国。
――――物語は数十年前に遡る。
―― ハグレモノ・ダンジョンキット ――
一章 始まりは煙の迷宮編