8
「はっ」
男を失ったレティスが寝こむこと三日。
目尻から流れる涙を吹いて、レティスはようやくベットから起き上がることができた。
『睾丸破裂ですな』
激しい痛みに身動きが取れず、泣き笑うジートと冷たい瞳で見下ろすセシルに見守られながら、年老いた魔術医にそう診断された。意識を失いつつ、治療を受け、何とか容体を持ち直し、なんとか言葉が出るようになったのが昨日の出来事である。
扉が開きレティスはビクリと身を縮めた。
「……あっ」
「おはよう。今日は起きられそうか?」
「うん。大丈夫そう」
「なら食事はここにおいておく。では」
「……セシル……ありがとう」
お礼も聞かず、パタンと閉じられた扉を見ながら、レティスは再びベットに塞ぎこんだ。
あの時、友達になったはずのセシルはもういない。
当然のように怒っているらしく、今のようにかなり冷たい態度をとられるようになってしまった。あれ以降、一度も視線を合わせてくれたことがない。
それでも今、レティスが落ち着いているのは、寝ている時にセシルが頻繁に部屋を訪れて、動けないレティスの看病をしてくれていたからである。一度は寝ていると勘違いしたのだろうか、長々と彼女の赤裸々な独り言も聞いていた。意外とうっかりさんなのである。
「まぁ、大人になってみないと分からないからなぁ」
握りつぶされたナニは、魔術医のロイドウォルター先生により一応は完治した。だが、元々幼い容姿のレティスである。もともと精通もしておらず、機能が治ったかどうか確認の術はない。もっとも、勃たなくなったことだけは、本人だけが密かに胸に秘めている。
レティスは三日間寝込んでいた部屋を見渡した。
この部屋はレティスのために用意された場所だろう。木目の美しい床に、白い壁。そこにベットと机と椅子があるだけの簡素な部屋だった。机に置かれた食事は、流動食からランクアップし、今日は野菜を挟んだサンドイッチと果物のジュースだった。
窓からのぞく日差しに目を細めながら外を見れば、もう時間は昼ごろであるらしい。もう少し療養したほうが良いかと考えたが、嘘のように体の痛みも取れており、体力も気力も充実していた。
「やることは決まってるからな」
レティスは飲み込むように食べると、勢い良く部屋を飛び出した。
階段を音もなく駆け下り、居間へと顔をだす。
やること。それはまず、笑い泣きをして転げまわっていた、あのジートという男にお礼がしたいと考えていた。
激痛に苛まれている時、優しく手を握り「正直さ、笑いすぎて死ぬかと思ったぜ……」「えーナニ?聞こえない」「もっと大きくなれよぉ」と、かけてくれた応援?下ネタは忘れることが出来ない。何がそれほど面白かったのだろうか?その度に生きる気力が湧いてきたのも事実であるが……。
一発……、一発でいい。あの顔に一撃を入れてやる。
強い覚悟と信念を持って、レティスはジートを探した。
「セシル。食事ありがとう」
「……」
コトリと食事が終わった皿を置く。キッチンには、セシルが一人で立っていた。
視線は頑なに逸らして無表情。友情の復旧には時間がかかりそうだった。
「ところで、ジートさんは何処へ?」
「……」
かまわずにニコニコと笑うレティス。
セシルもピクリと反応し、ほとんど口を動かさないように言った。
「テーブルに手紙」
「あ、あれか」
茶黒のテーブルに、一通の手紙が置かれていた。「親愛なる我が弟子レティスへ」と書かれてある。掴むときに思わず力を込めすぎてクシャっと握り潰してしまった。いけない、いけない。重要なジートの行方が分かるかも知れない手紙なのである。破り捨てるのは中を確認してからだろう。
「なになに……」
『親愛なる我が弟子、レティスよ。この手紙を呼んでいるということは、今俺は側にいないということだろうな……。今回の件は深い心の傷となってしまったと思うが、レティスの治療にはリーナにも願い、国でも一番の魔術医にお願いした。これが、俺なりの贖罪だと思ってくれるとありがたい……。』
出だしは穏便な謝罪の言葉だった。
魔術医とはあの老人のことだろう。すごく高そうな黒服を着ていて、如何にもという古の魔法使いのような貫禄をしていた。治療風景を思い出そうとすると、様々な色をした閃光が部屋の中を飛び交っていた気がするが、腕は確かなのだろう。夢現に、口に何かを突っ込まれて飲まされたが、あれがどんなものだったのか……生臭くてしょっぱいもの……知るのがちょっと怖い。
『今、俺がそこにいないのは訳がある。理由は二つあるが、その一方だけレティスには話しておく。それは、セシルのことだ。あの時どんなことがあったか、俺は詳しく聞いていない。ただな、レティスが生死の境を彷徨うことになったその日の夜に、セシルがレティスを友達だと。そう、お前の名前を呼んで泣いていたのを俺は見たんだ。それがどのようなことか、レティスはまだ知らないだろうが、俺にとっては重要なことだった。』
あー、やっぱり自分は死にかけたのだとレティスは他人事のように考えていた。
力強いジートの励ましもそのためだったのかもしれないが……きっと意識がないと勘違いしたのだろう。
文面から察するに、ジートとしても妹の境遇を案じていたのが伝わってくる。
こういう所々で見せる優しさのせいで、こちらとしては振り上げた拳をどこに置くべきか悩み、悶々としてしまうのだが、なんだかんだと、ジートも妹に友達が出来たと喜んでいることが伝わってきて、それが少し嬉しくもなってしまった。
『俺としては、レティスが変わらず、セシルの友であって欲しいと願っている。きっと近い将来には笑い話になると俺は確信している。だが、物分りの良いレティスとは違って、セシルの方はちょっと難しいようだ。どうも、俺がいると意地を張ってしまうらしい。そこでリーナとも相談して、少し距離を置くことにした。だから、俺は今そこにいない。悪いが、セシルのことをよろしく頼む。』
セシルについては把握している。例の独り言で、友達でいたいという気持ちだけは伝えられているので、レティスとして変わるものはない。今はまだ冷たい態度を取られているが、時間をかけて修復していこうと考えていた。
『人に生死があるように、出会いと別れは突然なのだ。レティスの師として、最後まで見届けることが来なかったのは残念だが、俺は旅立つ。レティスよ、生きてまた会おうぜ。』
ふむ。と読み終わったレティスは、もう一度手紙を読み返した。
縦読み、暗号、透かしに炙り出し……。彼の居場所は手紙からは分からない。少し悩んだ後、ジートの広い家をうろうろと歩きまわり、一通り彼が隠れていそうな場所を全て探してみた。
居間のソファーにポツンと座り一言「本当にいない……」と呟いた。
ジートを殴ってやると意気込んでいたものの、いざ相手がいなくなるとこうも寂しくなるものらしい。たった数日の付き合いであったが、一緒にバカをやれる兄貴分として、心の支えとするほど、ジートを慕っていたようだ。彼の側にいれば、自分も何かが出来ると……勘違いするほどに……。
冷静に思えば全てジートの背中に乗っていたに過ぎない。ここに来ても、レティスはジートを頼り、ジートの言うとおり頑張れば、強くなれると考えていた。いや、そのような考えでは、到底立派な男になどなれるはずがない。そういうマイナス思考は村で捨てたはず……だった。そう、出来るのだ。立派な強い男になるのだ。ジートが見てくれていないのに……?
それを三回ほど繰り返した時だった。
レティスの両頬にパチンと衝撃が走った。
「……何をやっているんだお前は!!」
一人しょぼくれていたレティスの頬を、両手で挟んでいるセシルが目の前にいた。
青く綺麗な瞳で、レティスの瞳を見つめ返してくれている。
「見ていれば、あっちをうろうろ、こっちをうろうろと……、親を失ったひな鳥ではないか」
全くその通り。と卑屈な気分になり更に落ち込むレティス。
だが、セシルとしても思わず行動に出てしまったのだろう。伸ばした手を引っ込めることも出来ず体を硬直させていた。
レティスは少し視線を下げて、ポツリポツリと語り始めた。
「僕は本当に何も出来ない子供でした。14歳になるのに、見た目は子供のままです。心も……子供のままでした。魔法も使えず、非力で、いつもみんなに守ってばかりで……、強くなりたいって思いながら何も……努力もしていないのに、一人で自分のことばかり嘆いていました……」
だけど、セシルには全てを知っていてほしいから。
「そんな時ジートさんが迎えに来てくれたんです。最初は嫌でした。どうせ何も出来ない自分が、学校にいって何が出来るんだろうって、ずっと悩んでたんです。だけど、あの人はそれがチャンスだと言ってくれたんです。僕の欠点をチャンスだと……言ってくれたんです。僕が寂しくないように、わざわざ森の中を通ってきてくれたり、僕が役に立つ唯一の事を……やらせてくれて、それを褒めてくれました……」
ジートの行動はいつもハチャメチャのようだが、それには意味があることを知っていた。本人がどこまで意識してくれているかは分からないが、少なくともレティスの瞳にはそうと映っていたし、だからこそ心から強いあこがれを抱いた。
「寝ている時、ジートさんの励ましの言葉は下ネタばかりでした。その度に殴ってやろうと思って、生きようって強い意志が芽生えたんだと思います。殴って……お礼を言って……そう、思っていたのに……」
彼は唐突に消えた。一枚の手紙を残して……。
ほっぺに触れるセシルの手にそっと触れた。水仕事でもしていたのだろうか、少し冷たい。
レティスは、セシルの青く澄んだ綺麗な瞳を見つめた。
彼女の瞳からは、先ほどまでの冷たい色が失われていた。代わりにあるは少々の逡巡だろうか。しばらくして、彼女も口を開いた。
「兄様のことは気にしなくていい。突然いなくなることは、よくあることなんだ。……そ、それでだな」
じぃぃぃぃぃと見つめ続けるレティスにうろたえたように、セシルが矢継ぎ早に言った。
「……あの時は、わたしも悪かった。恥ずかしくて力が入ってしまって。だから、レティスが治ったらみんなで、食事でもと思って、用意してたんだが……。兄様は飛竜討伐任務とやらで出掛けてしまって、今、二人だけしかいないが良かったら、一緒に食事でもどうだろうか?」
それはレティスが寝込んでいる時に偶然聞いた独り言の、そのままの一部であった。寝ているレティスを前に練習だとも思っていたのだろうか?そう思うと嬉しくもあり、微笑ましい。
「……僕も言い出せなくてごめん。セシルが看病してくれて、ずっと感謝してた。ご飯も喜んで一緒に食べさせてもらうよ。これからもよろしく。セシル」
「……レティス」
レティスが満面の笑みを浮かべると、セシルもホッとしたような表情をした。
『ひな鳥作戦。弱っていると思わせて相手の慈悲を引き出す作戦だ。上手くやれよ』
セシルが足取りも軽く離れたところで、レティスはもう一度、ジートの残した手紙に目を落とした。
「……さすが兄妹。ひな鳥ねぇ……。っと鍛錬の時間も少ないから頑張らないと」
軽い罪悪感から、セシルにジートの手紙をそっと手渡し、レティスは夕方には戻ると告げて、逃げるように家を飛び出した。