7
「ぐふっ。さすがに……しぬ……ぞ」
横っ腹に見事な攻撃くらったようだが、無事だったようだ。自分も頭が少し痛いが、冷静になれた。それにしても、驚くべきは彼女の蹴りの速さと重さだろうか。レティスなら今の一撃で昇天することだろう。
ふんと鼻息も荒く、少女はソファーの横でへたり込んでいるレティスの前に、膝を折るようにして座った。
「自己紹介が遅れました。わたくしの名前はセシル・ムーザックと申します。スベイルを父に、ウィリアを母に持ち、兄はそこに転がっております。以後、お見知りおきを」
深々とされる礼は美しく滑らかで気品にあふれていた。レティスの瞳には、彼女が光り輝いているように見えていた。これが恋色補正というやつである。
慌てて佇まいを直し、彼女と同じく向き合って正座をする。やはり彼女のほうが身長が高いので、やや見上げる形になってしまったが、彼女の瞳をしっかりと見据えていった。
「ギマ村から来ました、レティス・クローゼェルといいます。父はラルトで、母はリースです。兄弟はいませんが、村の子供達が兄弟のようなもので、その村の人達も家族のような人たちで、みんな優しくて良くしてくれました。いつかお話できたら嬉しいです」
ああ、いろいろあったけどまたあえて嬉しい。
ドロをつけた顔で笑うレティスに、セシルも目尻を緩めてくれた。少しクールな女の子であるが、根はジートと同じく優しい人だと思う。そうでもなければ、わざわざ街中でレティスに道を教えてくれることなどしないだろう。
「ああー痛かった。マジで」
わりと早く復活してきたジートが起き上がってきた。
セシルがジートを威嚇するように言った。
「当たり前だ。出会っていきなり何を言うかと思えば……」
「二人きりの冒険で育まれた友情ゆえの冗談だろ。万が一ってこともあるだろうし」
「そ、れ、が。人の話を聞く態度ですか!!!」
パシンと床を叩きながら、かなり年上の兄を正座させられるあたり、ジートも妹には頭が上がらない部分もあるらしい。セシルもクールそうに見えていたが、兄弟のやりとりになると、歳相応の子供っぽさをまだまだ感じさせる。
「本当に大丈夫ですよ、セシルさん。ジートさんもご心配おかけしました」
「おう。無事でよかったな」
「まぁ、兄様が心配されるのも……これだけ可愛らしい方なら仕方がありませんが……」
セシルに苦悩と羨ましそうとも取れる表情で見られたが、男が可愛い褒められても微妙な気持ちである。ともあれ、これだけ広くソファーもある立派な部屋の床の上で、三人が正座している姿というのも滑稽というものだ。
「まずは風呂でも入って来いよ。レティス」
「そうですね。忘れてました」
レティスは自身の泥まみれの姿を見た。このままでは歩くだけでいろいろと汚してしまうだけだろう。一休みして体力も戻ってきたので、今のうちにさっと入ってくるほうが良さそうだ。
「じゃぁ、せっかくだし一緒に入るか?」
「はい。裸のお付き合いですね。分かりました」
ニタリ顔のジートに少し嫌な予感もしたが、野宿生活で互いの裸くらい見せ合っている。背中流しでもさせられるかもしれないが、村の子供たちの面倒を見ていたレティスである。洗浄補助係としての腕は中々のものなのだ。とくとご覧に入れようと立ち上がった。
「えっ!あっ……あの!」
立ち上がろうとしたレティスを押しとどめるように伸びてきたのは、意外なことにセシルの腕だった。その手がレティスの汚れた服を掴み、再びその場に座らされてしまった。その表情は、彼女らしくない驚いた顔だった。
「レティス……さん本気なのですか?」
「はい?」
疑問に首をひねるレティス。
「ジートさんにはお世話になっていますし、村でもみんなで入っていましたから、背中流しくらい大丈夫ですよ」
「うむ。良き心がけじゃ。良きに計らえ」
「兄様は黙っていて下さい」
ドンッと怒気というものは時に音を発するのだと、レティスはその時初めて学んだ。
「レティスさん。あのですね……」
「大丈夫ですよ。セシルさん」
レティスは健気に笑いかけた。確かに今日は一日いろいろあって体は疲弊している。ここでジートの体を洗うのはちょっとだけ辛いかもしれない。だが、帰ってきた時のあの暖かな抱擁のお礼と思えばそれほど大変なことではない。
だが次の瞬間、ふわりとしたセシルの芳香がレティスを包んだ。何を思ったのか彼女は汗まみれで、ドロドロに汚れたレティスを抱きしめたのだ。
「わっ、ちょっ……セシルさん!?」
「いいんです。レティス……後で兄様の息の根は止めます。今は何も言わないで」
「でも、汗で汚れますし。離して下さい~」
最初は必死にモゴモゴとしたが、びくともしなかった。セシルの鍛えられた筋肉に、レティスでは太刀打ち出来ず、なされるがままになった。
まだまだ14歳の少女であるが、確かにやわらかな二つの膨らみが顔に押し付けられているような格好である。それを意識してからは、レティスは出来るだけ動かないように、呼吸も出来るだけ止めるようにした。
「ぷはー」
ようやく開放されたのはどれくらい時間がたっただろうか。とても幸せな時間だった。嬉しいやら苦しいやらで、途中から記憶が絶え絶えとなっていたが……。そしてなぜ、セシルがその瞳に薄く涙を浮かべて、こちらを見下ろしているのか全く理解できない。
「なら私が一緒に入ろう」
「えっ、え?」
気がつけばジートの姿は影も形も無くなっていた。レティスは今、セシルに手を引かれながら歩いている。あれ……?彼女は今さっき、なんと言ったんだろう。
男として大変嬉しい幻聴は、先ほどちょっと窒息していた頭が作り出したものだろうか。きっとそうに違いない。何が何だか分からなくなってきたのでレティスは嬉しい妄想そのままに思考を止めた。
そして今、セシルと二人、大きなお風呂で仲良く並んで座っていた。
「全く、兄様にも困ったものだ」
背まで伸びる長い銀髪を洗いながら、ぷりぷりと怒るセシルの胸が、ぷるぷると上下に揺れて見えている。ジートへの日頃の鬱憤を、つらつらと絶えず口にだしていた彼女は、迷いとか羞恥心というものを全く感じさせない見事な脱ぎっぷりで、レティスが声を出す暇もなく、脱衣所を通り抜けていった。
嬉し恥ずかし男であるレティスは、セシルの全くの無防備な下着姿や裸体を、強靭な精神力で見ないように脱衣所の隅で顔をそむけていたが「あなたもさっさと服を脱いで来なさい!」と脱衣所で叱られては従うより他になく、先に髪を洗い始めていた彼女の横におずおずと座ったのである。
「……びっくりしました。セシルさんは……その恥ずかしくないですか?裸とか見られるの……」
最後の方はさすがに消え入りそうな声になってしまった。今日初めて出会って、世界でも一番綺麗な女の子で、一目惚れした相手が、今、目の前で一緒にお風呂に入っているのである。
肉体的な成長が乏しいレティスでは、彼女にとって弟か子供のような扱いなのかもしれないが、少なくとも精神は14歳の男の子だ。女の子にも興味があるし、裸にも興味があるお年ごろである。
「特に恥ずかしいとかは。兄の非常識にはさすがに呆れましたけど……。それよりレティスは村では他の人と一緒に入ったりしていなかったの?」
「ああ……そうですね。村だといつも誰かと一緒でした。共同風呂が一つあるだけでしたから。自分は子供たちの面倒を見ることが多かったので、彼らと一緒に入って洗ってあげることが多かったですね。村のお風呂は、ここよりもう少しだけ湯船が広い感じでした」
今入っているお風呂は、一人で入るには勿体無いほどの広さがあった。
壁側にはシャワーと鏡が3つもあり、奥の大きな湯船は、10人くらい詰めれば入れそうなスペースがある。天井はガラス板を組み合わせたものが幾何学的に配置されており、先進的というか、宇宙的というかんじで、どこから発光しているのか分からないが、柔らかな白色の光が浴室全体を照らし出していた。
「子供たちとお風呂というのも楽しそうだな」
「はい。あっちでこっちでといろいろと大変なんですけどねぇ」
思い出すとあの喧騒が耳に聞こえてくるようだった。今頃は元気にしているだろうか。
「私は年の離れた兄がいるだけだから、こうして一緒にお風呂に入る相手が中々いなくてな。みんなで楽しくお風呂というのは……ちょっと憧れていた」
泡で満遍なく洗った髪を、座ったまま胸を反らして後ろに流し、セシルは泡を洗い落としていた。長い髪だと洗うのが大変なんだよなぁ、とうっかり覗きそうになったが視線は真っ直ぐに戻す。
彼女にあたった水滴がこちらにもかかり、気恥ずかしさを誤魔化すようにレティスは自分の髪をガシガシと洗い始めた。
「長い髪だと大変ですね」
「そうだな。学校に入ればもう少し短くしなければならないかもしれないが、今はもう少しこのままかな」
腰元にまで流れる髪を、上手く結って上にまとめ上げていく。普段は見えない女性のうなじと言うのは、女性の色香を高めるもので……、
「綺麗ですね」
ポツリ言葉をこぼしてしまうくらい、レティスはセシルに見蕩れていた。
「そうか……私はレティスみたいな可愛らしさが羨ましいが」
セシルの瞳に見つめられて、レティスは鏡を見て身を固めた。
「レティスももう少し髪を伸ばしてみただろうだ?きっと可愛いと思うぞ」
クスクスと笑うセシルはからかっているのだろうか?それでも、彼女が見たいというならば、それはそれでやってみても良いかもしれないと思うレティスであった。
「せっかくなんだ。背中を流してくれないか?」
「あ、いいですよ」
ぼんやりと髪を伸ばした自分の姿を想像していたので、なんとなく二つ返事をしてしまった。
セシルに自分の粗末なものを見せるものも躊躇われるので、出来るだけ見せないように配慮して彼女の後ろへ回りこんだ。
「ふふ。よろしく頼む」
体を洗うためのスポンジを受け取り、レティスは気恥ずかしそうにはにかんだ。
レティスの身長が低いと言っても、座っているセシルより頭ひとつ分は高い。立ったまま洗おうとすると、どうも鏡越しに彼女の顔やら胸やらが見えてしまうので集中出来ない。なので、村では使わないがイスをもう一つ後ろに持ってきて、座ったまま彼女の背中を洗うことにした。
「由緒正しき背中洗いの作法というやつか?」
「これはこれで三人とか四人でやると結構楽しいですよ」
適当な相槌をいれながら、レティスはセシルの肌を優しく撫でていく。
肩から背中、腰にかけて、普段から村の子供達を洗っていたことが役に立った。彼女の綺麗な素肌の感触や香りに翻弄されることなく、レティスの体は事務的に動いていく。
「じゃあ、腕上げてー」
「……これでいいか?」
「あっれ?ごめんなさいいつものクセで」
レティスが気が付くと、セシルの右乳にスポンジを押し当ててしまっていた。少し抱きつくような体勢で、膝立ちの洗浄本気モードになっているところでレティスは立ち止まった。
慣れとは恐ろしいものである。途中から完全にセシルを村の子供のように洗おうとしてしまっていたようだ。
「いや、手馴れていると感心してしまった。肌触りも優しく強くて気持ちがいい。体を洗われるというのも悪くないものだ。せっかくだから最後までお願いしたい」
「うっ」
と言われてしまえば、断れないのがレティスであった。
ここまで来れば自動洗浄機、レティスの本領発揮である。
羞恥心は泡とともに消し、如何に全体を綺麗にかつ素早く、気持ちよく洗ってあげるかという使命のみが体を動かしてた。
鎖骨から胸、胸下からの谷間。体を上手く重ねて相手の動きを制限しながら、素早くスポンジを滑らせていく。
「子供たちだとくすぐったいと暴れるので、セシルさんだと楽でいいですね」
「むぅ。正直に言えばちょっとくすぐったいがな……」
セシルの体が時折ビクンと揺れるのは、くすぐったいところを必死に我慢しているからだろう。子供たちだとそうはいかない。本当に暴れる、動く、叫ぶ、逃げる。思わずいい子いい子と言いたくなる言葉を、レティスは飲み込んだ。
「セシルさん少し立ってもらっていいですか?」
「うう」
肩から胸、背中、腰、下がって太ももから指足の先までレティスの自動洗浄フルセットメニューを受けたセシルは、どこか気恥ずかしさが芽生えてきていたようで、少しだけ返事がすぐれない。だが、全自動洗浄マシンと化したレティスからすれば些細な問題である。
若干内股気味に立ち上がるセシル腰に、レティスの手がそっと添えられた。
「暴れないでくださいねー」
「あっ!」
思わずセシルが前かがみに倒れそうになったのも仕方がない
下腹より更に下、自分でさえも滅多に触ることがない場所に、感電じみたしびれが上下左右と駆け巡り、優しくも力強く動いていったのだ。
「あっ、ちょっとそんなところまで」
というところまでレティスは遠慮なく洗浄をしてさし上げた。出来るだけ見ないようにスポンジで満遍なく撫でた程度である。そもそも本来は指で洗うところだ。
セシルの体を洗っているうちに、レティスは村のことを強くおもいだしていた。相手を如何に気持よく洗ってあげられるか、試行錯誤していたのが懐かしい。もちろん子供たち限定の話だが。
ペタンとイスに座り込んだセシルを、今度は温かなお湯で綺麗に流していく。
「同じ年の女の子は初めてでしたけど、気持よかったですか?」
「へっ、ええ。うん。……気持ち良かった。ありがとう」
少し惚けたセシルの表情に、レティスを安堵の笑みをこぼす。
レティスの男としての欲望が、相手への滅私奉公という形で発散されたのだが、本人は理解していなかった。
肝心のセシルといえば、初めての背中洗いというものを体験し、激しく勘違いをしていた。
「これが……背中を流す……」
本来、背中を流すとは、文字通り他の人の背中を洗うことを示すものだ。全身洗浄は背中を流すとは言わない。だが、自分の兄がまさかここまでレティスにやらせようとしていたのではないか?と思うと羞恥よりも恐ろしいほどの悪寒とショックで呆然としていた。
「これはリーナ姉様に報告しなくては」
などとブツブツ考え込み始めたセシルを置いて、レティスは自分の体を素早く洗った。まさかセシルに自分の体を……、あんな風には洗われたくはない。
「セシルさーんお風呂行きますよー」
「あ……はっ。そうだった」
「これはすごいですねー」
ゆっくりと湯船に体を沈めたレティスが喜ぶのは無理もない。お風呂にはられたお湯は白濁湯で、ほのかな硫黄臭はレティスの村に沸く温泉によく似ていた。
「とある技術ギルドが開発した、森の温泉シリーズという入浴剤だ。気に入ってもらえたなら嬉しい」
湯船に向かい合って座ってみたが、足が当たることもなく十分な広さがある。レティスの座高ではやや湯面が高いものの、なんとか顔は出るくらいの高さだった。頭にタオルを載せてプカプカ浮いていると、なにやら幸せな気持ちになってくる。
「レティスは本当に可愛いな」
はっ、とレティスは顔を引き締める。ものすごくリラックスをして、きっとだらしない顔をしていたような気がする。
微笑ましそうにこちらを眺めていたセシルの表情は、温泉の効果か、どこか優しげに見えた。
「セシルさんだって綺麗です。憧れます。その……みんな好きになってしまうくらいに」
それには自分も含まれるのだと、レティスは陰ながらアピールしてみる。
先程までこの女性の肌を洗っていたのだと思うと、少しだけモヤモヤとした気持ちが芽生えるのだが、彼女の瞳にはただの子供にしか見えていなさそうだと考えると、邪な気持ちもすぐに消えてしまった。
レティスのそんな視線に、セシルはイジワルそうに微笑んでいった。
「なあ、レティス。私は君のことをレティスって呼んでいる。背中まで流してもらった仲だ。そろそろ呼び捨てにはしてくれないだろうか?」
擦り寄ってくるセシルの姿は大きな猫のようだった。
その時の表情は兄であるジートが、よいイタズラを思いついた時によく似ていた。
「セシルさ……セシルがいいなら。ぜひに」
最初に抱きしめられたあたりから、セシルが自分のことをレティスと呼んでくれるようになったことに気がついていた。それが何故かは分からないが、彼女なりに一緒に暮らす家族として、レティスを認めてくれたのだと思うと嬉しかった。
だが、今度は自分がセシルと呼んで良いかどうか迷っていた。男がいきなり馴れ馴れしくしては、嫌われるのではないかと考えていたからである。
だがどうだろうか。呼んでみると、随分しっくりと来る。
「ふふ。レティス」
「なに。セシル」
お風呂の熱気か温泉シリーズの効果か、頬がぽぅと桜色に染まった気がした。
名前を呼び合っただけだが、互いの距離が近くなったように感じる。
村の子供たちと、名前で呼び合う距離とは、また少し違うように感じる。
今思うと、同じくらいのとして名前で呼び合う相手というのはいなかった。
「同じ歳だと、セシルが初めての友達かも」
「私もレティスが初めてだ」
浴槽の縁に頭をのせて、湯船に体を浮かべ始めたセシル。始めはクールで、少し武人とした女の子のように思えていたが、親しい相手には子供っぽいところを見せてくれるらしい。
まぁ、あまりにリラックスしているので、ぷっかりと浮かべた彼女の膨らみが見事にせり上がり、白濁の湯の中から浮かび上がってしまっているのだが、わざわざ水を指すのも悪いものである。
気恥ずかしさから逃れるように目を細めていたレティスは、湯船に出来るだけ沈みこみ、ぷくぷくと泡を立てながら言った。
「ここに住んでるなら、セシルなら友達とかいっぱいいそうだけどなぁ」
王都であれば人がいっぱいいる。小さなレティスの村でさえ、歳は離れていたが5人の子供たちの面倒と見ていた。彼らは子供たちであると同時に友達だ。だから、セシルの初めての友達というのが、社交辞令のようなものだとレティスは考えていた。
「いや、本当に初めての友達なんだ」
嬉しそうに微笑むセシルに、そんなわけはないと首をひねるレティス。
これほど可憐で美しい女の子であれば、まず間違いなく男なら声をかけるはずだろう。
「レティスは小さな村で育ってきたと聞いた」
「そうですね。ギマ村というところです。全員で15,6人くらいの小さな村でした」
「だから……知らないのも無理は無いかもしれない」
するすると湯船を近寄ってきたセシルがレティスの横に座り、こてんと頭をレティスに乗っけてくる。
「レティスは私の兄をどう思っただろうか?」
「ちょっとイタズラ好きで困った人ですけど、本当は優しくて、強くて、頼りになる。あこがれの人ですよ」
「うむ。そうだな……」
なんだかんだとセシルはジートのことが好きなのだと思った。
レティスもジートの事が好きである。心の師匠として、二人で過ごした日々は目まぐるしくも面白かった。たまたま二人の波長が咬み合っていたというのが、あるのかもしれない。
あの人は戦闘はそれなりだが、それ意外ではだらしないところもある。世話焼きなレティスと波長があったのは、ある意味必然であったと言えた。
「……きっと魔法学校へ行けば知ると思う。ここ王都ではジート兄様は変人扱いされて久しい人なんだ。変人ジート。それが兄様のもう一つの呼ばれ方だ」
「……」
見上げようとした顔をやんわりと阻止されて、レティスはただ前を見つめてそれを聞いた。
「変人ジートというのは、ジート兄様をよく思わない者たちが流す噂だ。昔からずっとある話なんだ。魔法学校でリーナ姫様と一緒にチームを組んでいた話は聞いただろうか?」
「ああ、それは聞きました。退学になろうとしたところで拾ってもらったと……」
「うむ。なら話が早い。要はそのやっかみだな。ジート兄様は殺しても死なないような人だから大丈夫だった。だが、それは私にも降って来た……というだけの話だ」
「……そんな」
レティスにとって、ショックを受ける事実だった。
ジートはレティスの憧れの騎士であり、信頼出来る優しい男だった。少しイタズラ癖があり困ることもあるが、人が本当に困っている時や弱っている時には、必ず助けてくれて頼りになる人であることを知っている。ほんの少しでも共にいれば、それを知ることは容易いだろう……。いや、リーナ姫の風呂のぞき云々の前科を考えると変態とは呼んでいいかもしれないが……。
「そんな訳で、同世代に友達を作るのも大変でな。私もこのような性格だから、根も葉もない噂を信じてケンカを吹っかけてくる連中と慣れ合う気はなかった。小さな頃から武術の心得も学んできたから、それが原因だったかもしれないが……全て返り討ちにしてきた」
「綺麗な回し蹴りは……それで納得しました」
「だから友達がいないんだ」
「そんなこと――」
あるわけ無いと言おうとすると、セシルが頭をレティスにぐりぐりと押し付けてきた。
「イジメられている私を助ければ、その者もイジメの対象になる。だから今までは友達を作らなかった。だから……私の友達第一号はレティスだけなのだ」
そのセシルの言葉は、レティスの心に深く響いた。
「レティスはイジメが怖いと思わないのか?」
「……少なくとも村にはありませんでしたから」
みんないい人ばかりだった。子供たちも素直で、良い性格だった。出来ないから、出来るから、優れているから、劣っているから、うるさかったり、静かだったり、そう言ったものを全て含めて、みんなで手を取り合って生活していた。
レティスとて純粋なおバカさんではない。町にでも出れば、悪い人間もいるものである。商売で騙そうとしたり、人を傷つけることに快楽を覚える人間がいたり、人の物を盗ったり盗んだりするという人が、心の底から当たり前と勘違いしている人がいるのも知っている。皆が皆、平等に手を取り合って生活することは、実は一番難しいことなのだ。
結局は誰かの裁量により区別や差別をしなければならず、そして、その果てにイジメは必ず生まれてしまう。
だが、知ったからにはセシルがイジメられているのは黙って見過ごすことは出来ない。
「ジートさんは師匠です。優しくて心から頼れる人です。セシルも、少し見た目はクールでツンツンしてますけど、本当は見ず知らずの人に声をかけて助けようとするほどお人好しの、可愛い人でひゅ……」
「そう、怖い顔をするな。可愛いのは君だ」
自慢の柔らかほっぺをを横に伸ばされた。
照れ隠しをするセシルの様子はジートのようだった。そしてあっけらかんと言う。
「ともあれ、妹のように思っているレティスがイジメられるのも、私は偲びなく思う。外では出来るだけ他人で通すようにして、二人の時は……こうやって、友達になってくれると嬉しい」
「……へっ?いもうと?」
思わずポカンとした表情で、レティスはセシルの顔を凝視した。
それをどう勘違いしたかわからないが、セシルは優しく微笑んだ。
「ああ。妹だ。レティスには申し訳ないが、どうも姉妹というものに私は憧れていたらしい。背中を流す行為があれほど恥ずかしいと知らなかったが、妹とのスキンシップと思えば悪くないものだ。さすがに弟ではこうはいかない」
互いに寄り添うように湯船に座っている。
何やら満足そうに笑う彼女に、レティスは顔半分が少し引きつっていくのを感じた。
「……」
そして出会いからこれまでの流れを必死に思い返していく……。
「そ、そういえばセシル。ジートさんは自分のことどう説明したのでしょうか?気になるなぁ……なんてちょっと思ってみたり」
まずは責任の所在の確認である。
「っむ?兄様からは、料理が上手な可愛い子をしばらく面倒見ると聞いた。まだまだ未熟だが見どころがある、と。だから、セシルと逆だなぁ……と言って笑っていたが、それがなにか?」
「あっ。……ああ、そうなんだ。可愛い……ね、なるほど。セシルも可愛いと思った?」
「何を今更、可愛い女の子で羨ましいとずっと言っているだろう」
レティスはその言葉を聞いて、俯くように必死に考えた。
きっかけは説明不足のジート、勘違いはセシル、黙っていたレティス。妙な誤解の連鎖で現在の状況が作られてしまったらしい。
「それに引き替え、私は小さき頃より武術ばかり得意だった。先ほどのイジメをするような不貞なやつらを、はねのけるだけの強さが必要だったから身につけたものだが、今となっては少し惜しい時間であったのかもしれない……」
「強い人に憧れてる自分からすれば、羨ましいですけど?」
「そうか……、ありがとう。実は私も同じなんだ。レティスが兄様に憧れたように、私にも憧れた人がいる」
「……もしかしてリーナ姫ですか?」
ピクンと驚いた顔をされたが、どうやら正解だったみたいだ。
「リーナ姫は……いつも兄様と一緒にいたように思う。私もそのおかげで、リーナ姫によく妹のように接してもらっていたんだ。彼女のようなおしとやかで、可愛らしい。大人の女性に……。子供ながらになりたいと思ってしまった。だからこうして髪も伸ばしている」
セシルの長い髪の秘密はここにあったらしい。言われてみれば、どことなくリーナ姫の姿に似ているようにも思える。
「魔法学校では三年生から学科が別れる。だから私は、そこで生活科と呼ばれる場所へ入るつもりだ。そこへ入って、女性らしい所作を修め、料理や家事や、他にも役に立つ魔法を基礎から学ぶつもりだ。レティスも良ければ一緒に料理でもしよう。きっと楽しいぞ」
「そ、そうだね」
横から抱きつくように体をすり寄せてくるセシルからは、眩いほどのお姉ちゃんオーラが発せられている。今、レティスは湯の温度とかセシルと触れた肩の感触などが感じられないほど、パニックを起こしていた。
何か重要な情報の齟齬による事故で、回避パターンが偶然にも噛み合わなかった。だがいまこの瞬間に、自ら死地の手前でフラフラしていたのだと、レティスは気づいてしまった。
い・も・う・と。
という単語を入れると、これまでの流れが実に自然でスムーズであることがよく分かる。セシルの中に男とか弟とかが介在する余地はなく、レティスの頭をよぎるのはセシルの華麗な回し蹴りとジートのニヤニヤとした顔である………………はっ倒す。
とにかく、今のタイミングで真実を告げることは、高い確立で死を意味すると告げていた。今最善の手はこの場をなんとか乗り切り、ジートに庇護を求めるよりほかにない。という考えに至ったのは3秒間での出来事である。
すでに、彼はレティスが死地に向かうのを分かっていた上で姿を消している。顎から滴り落ちたしずくが、自らの冷や汗のように感じられた。今思えば、あの時のジートのニヤリとした顔は、すべて……この苦難に集約していたのだろう。
「どうした?レティス」
「えっ?」
「私が……生活科に行くのはおかしいだろうか?」
走馬灯のようにフル回転していた頭が、現実に引き戻された。
セシルに不意打ちで覗きこまれて動揺したが、レティスは勢いで乗り切ることに決めた。
「そ、そんなことない。おかしくないよ!うん。すごくいい夢だ。セシルなら絶対に可愛くて、素敵な大人の女性になれる!今でもすごい素敵な女性だと思うけど、それが更に努力するとなればなおさらだし、憧れてるリーナ姫も綺麗な人で、セシルもきっとドレスとか似合うと思う!!!」
本心であればスラスラと出てくるものである。「出来れば将来、自分のお嫁さんになってほしい」という言葉を考える程度には、まだ余裕があった。
「ふむ。そうか。夢を理解してもらえると言うのは嬉しいものだな」
恥ずかしそうに笑うセシルは、思わず見とれるほど可愛かった。だが、ときめくほど貴重であるその光景は、薄氷の上に立っているに過ぎないという現実をレティスに突きつけてくる。
「ごめんセシル。ちょ、ちょっとのぼせてきたから先にでるね」
上手く足を上げれば隠すことが出来る。セシルの性格を考えれば、相手の体をジロジロと見るようなことはしないだろう。後は振り向かず素早く服を着ればミッションコンプリートだ。
言うが早いか浴槽を脱出しようとしたレティス肩を、無情にもセシルが後ろから抱きしめてきた。
「もう少し話がしたいなぁ。なんて」
声にならない悲鳴をレティスは上げた。
甘えてくるセシルの顔は上気しており、すごく色っぽい。
レティスの幼い容姿と可愛さが、悪く作用した結果だが、それを本人が自覚することはなかった。
「……仕方がないですね」
今は裸のセシルに後ろから抱きしめられている状態である。湯船から少し立ち上がったところなので、このまま湯船に戻れば、まだ安全である可能性は高い。
なんとか、甘えてきたセシルに逆らえないといった風を演技しつつ、レティスは再び白い湯船に戻った。だが、甘かった。
「こうして妹を抱いて湯船に入るのが夢だった。レティスってすごいいい匂いがする」
ナニコレヤバイ。
レティスは今、一目惚れした美少女に後ろから抱かれ、頭の匂いをかがれるという幸せな時間を堪能していた。例え、その後が地獄であろうとも。この時間を大切にしなければならないような気がする。
だが、あとほんの少し、本当に少しだけ、お腹に回されたセシルの美しい手が下にずれるだけで、……何が起こるか分からない状況である。
「レティスって14歳なのよね。ごめんね。妹とか言って。でも今日だけ!」
「妹みたいってよく言われますから大丈夫ですよ」
「レティスって華奢かとおもったけど。ちょっと筋肉もあるね。弟でもいいかも」
「弟みたいってジートさんからは言われました」
「私がいるからかな……きっと本当の弟がいたらワンパク小僧になってそう。こうやって一緒にお風呂なんて入れないかなぁ」
「……小さい頃は性別も曖昧で、あまり差はないかと」
温かなお湯。柔らかいセシルの体。それに包まれ、逃れられない多幸感と恐怖の綱渡りという時間は……やはりそう長くは続かなかった。
「あっ……れ?」
「あぁぁぁ」
白濁のお湯の中で、遭遇することがなかったセシルの手が、触ってはいけないモノに触れてしまった。
「なにこれ?」
「ああああ」
ガッチリと掴まれればさすがのレティスも平静ではいられなかった。
ビクンと体が跳ね、窮鼠猫を噛むネズミが如く、一瞬たじろいたセシルを振りほどき、湯船を突っ切り、自由な空間へ駆け出し……たかった。現実は甘くない。
「ごめんなさい。ごめんなさい。離して下さい。許してくださいぃぃぃ」
悲鳴とも慟哭とも取れる声を上げながら、レティスは貧弱と言われる筋肉を最大限に動かして逃亡をはかった。だが、さすがのセシルである。逃亡しようとしたレティスの背にピッタリと張り付きつつ、一方でレティスの急所を確実に掴んで離さなかった。
逃亡距離は約1メートルだろうか、息も絶え絶え、浴槽から這い上がった床面の上で、なんとも情けない体勢で両者は膠着状態に陥った。
「ぐっうぅ」
「……なにこれ」
万力で締めあげられるような圧迫感が、下腹部に徐々に増していき、独特の痛み以外のあらゆる感覚が徐々に薄れていく。
四つん這いで逃げるような体勢のレティス上にセシルが覆いかぶさり、首とナニをホールドされている状況で、倒され潰れかけたレティスは最期の力と必死に上半身を起こす。
互いに膝立ちのようになり、振りほどくわけでもなく、レティスは何より対話を望んだ。
「も、もうっ……ぜんぶ話します。だから……ゆるして……」
「……レティス」
はうぅと体を強張らせたのは、掴まれたナニという残された時間が少ないことを示していた。
「ああぁぃ、ああーっ」
脳髄まで響く恐怖に、レティスは泣き出して逃げようと懸命に宙をもがいた。
「レティス。一度だけ聞く」
「はひぃ」
レティスの心拍数が早鐘のように上がっていく。
背に感じるセシルの柔らかな体、回された腕の温もり、掴まれたナニ……。
「……君は……男の子……か?」
「そう、です」
「そうか」
耳元で囁くような声だった。……今までのセシルのような甘いではなく、冷徹で地の底から響くような低い声だった。
「なぜ……、最初に言わなかったこの馬鹿者がああああああああ」
「ぴぎゃああああああああああああああああああああああああああああ」
世界は丸い円だ。円から白い光が中央に集まり、それが一点へ収縮し反転した。白から黒に生まれ変わり、身も逆立つような想像を絶する苦痛は、ニルヴァーナと共に有から無へと変換されていく。誰もが味わう安息の地へ、レティスは優しく誘われていった……。-完-