心理の服従
チャーリーは競馬の馬券を引き裂いた。
今日もはずれた。昨日もだ。そして多分明日も。
引き裂いた馬券がやや寒い風に乗り宙を舞った。
安アパートに帰り新聞を見ると、奇妙な求人を見つけた。
――心理試験の協力者求む。心身健康な男女。三十分から一時間程度。報酬三百ドル。 年齢不問。S大学心理学研究室。
三十分から一時間で三百ドル? いい話だ。
普通の人ならこんな小さな求人見向きもしないかもしれない。
だが、チャーリーは金に困っていた。たった百ドルだって欲しい。今日の晩飯だって怪しいのだ。それにS大学といえば名門だ。いかがわしい実験ではないだろう。
彼は早速出向いていった。大学の事務所に行くと、研究室の場所を教えてくれ、ニーマー教授を訪ねるよう言われた。
ニーマー教授は灰色がかった髪と口髭を持つ、ほがらかな印象の人物だった。チャーリーを笑顔と握手で出迎えて、言われるがまま話はとんとん拍子で進んでいき、一週間後に心理試験を行うことになった。
一週間後、チャーリーは殺風景な部屋にいた。中央にテーブルと椅子があり、黒い箱がぽつん、と載っている。その機械らしき物体からは何本ものコードが伸びていた。
白衣を着た教授と、ランジットというスリランカから来た、色黒の太った人物とで、三人で三角形を描くように立っていた。
教授の話によれば、この実験は二人一組で行い、被験者は質問者と回答者に分かれクイズを行う、という事だった。
チャーリーはランジットと「よろしく」と交わし握手をした。三人で隣の部屋に移動する。そちらにもテーブルと椅子があり、テーブルにはマイクが載っている。
だが、椅子が変だ。拷問具を思わせるそれからも、黒い箱と同様に何本もコードが伸びている。教授はチャーリーの見ている前でランジットを座らせ、金具で手足を拘束した。その姿は拷問具そのものだ。
ニーマー教授はモニタールームで監視し、スピーカーで指示を伝える旨を話して出て行った。
「大丈夫かい?」
「心配ないさチャーリー。早く終わらせようぜ」
椅子に拘束されたランジットは笑顔で答えたが、チャーリーの胸には不安が積もっていた。
「ではチャーリーさん、移動してください」
教授の声が響いた。チャーリーは元いた部屋に戻り、ドアを閉めた。
チャーリーが質問者でランジットが回答者を務める。
「チャーリーさん、ボックスの、赤いダイアルを見てください」
チャーリーは言われた通りにした。周りに目盛りがあり、数字が書かれている。
「チャーリーさんは質問を読み上げてください。ランジットさんはそれに答えてください。チャーリーさんは、正解であるならばその旨を伝えてください。不正解の場合は青いボタンを押してください。間違えるたびに十五ボルト上げてください」
チャーリーにボルトという単語が引っ掛かる。
「ちょ、ちょっと待ってください。青いボタンを押すと、回答者は――ランジットさんはどうなります?」
「電気ショックを受けます。最初は四十五ボルトで、四百五十ボルトが最大値となります。それ以上は上がりません。十問正解した時点で実験終了です。ではチャーリーさん、テキ ストを開いてください」
大丈夫なんだろうか? と疑問に思いながら、チャーリーはテキストブックを取り表紙をめくった。
「オーケー、チャーリー。心配することはないよ」ランジットだ。「まあ大学の実験だ。人体に危険のあるものではないだろう」
お互いの声がスピーカーから聞こえるようになっている。
チャーリーには四百五十ボルトというのがどれくらいの大きさなのか、分からなかった。
「それではチャーリーさん、始めてください」
彼は書かれてある最初の問題をマイクに向かって読み上げた。
「第一問、世界で一番高い山は?」
これは簡単だ。
「エベレスト」
ランジットはテキストに書いてある通りの答を言った。
「正解です」
チャーリーはほっとした。この調子で、さっさと終わらせてしまおう。
「第二問、円周率を小数点以下第二位まで言ってください」
これまたやさしい問題だ。
「こいつは分かるぞ。えーと、三.一四一五……」
「ちょっと待ってください! 第二位までです!」
「ああそうか。悪い悪い」
チャーリーは青いスイッチをみつめた。きっと彼の顔も青くなっているに違いない。
「チャーリーさん、不正解であることを伝えなければなりません」
教授はスピーカー越しに言う。
彼はためらった。だがニーマー教授は有無を言わせぬ口調だ。彼はおそるおそるボタンに触れた。三百ドル。それだけあれば今日をしのげる。だがなければ餓死する。彼は思い切ってボタンを押した。
しばらく様子をうかがった。だが何の反応もない。
「どうした? 押したのか?」
「ええ、押しました」
「なんだ、何も感じなかったぞ」
チャーリーは安堵した。ランジットの言う通り、これは危険なテストではないのだ。
「ええ、続けます。第三問。直角三角形の直角をはさむ二辺の二乗の和は斜辺の二乗に等しい。これを何の定理と言いますか?」
「また数学か。まいったな。俺は数学苦手なんだよ。分からない」
チャーリーは唖然とした。正解はピタゴラスの定理、または三平方の定理だ。ランジットはよほど数学の素養がないに違いない。
彼は赤いダイアルを回して、六十ボルトに合わせた。少し迷ったが、押した。
「痛っ」
チャーリーは焦った。
「だ、大丈夫ですか?」
「ちょっとチクッとしただけだ。平気だ」
背筋に冷たいものが流れた。最大四百五十ボルト……。この七倍を超える電気に、人体は耐えられるのか? そんな疑問が頭を巡る。
チャーリーはためらった。今やめれば晩飯はない。しかし続ければ、彼の命に関わるかもしれない。
「チャーリーさん、続行してください」
ニーマー教授は心理学の権威だ。そしてその声は冷徹だ。
たった十問。電圧があまり上がらないうちに、ランジットが達成してくれればいいのだ。チャーリーはそう祈るしかできなかった。
「第四問。地球の自転速度と同じ周期で公転しているため、地上からは空のある一点に止まっているかのように見える人工衛星を何衛星という?」
「さあ。気象衛星?」
テキストには「静止衛星」とある。
チャーリーは七十五ボルトに上げた。スイッチに手をのせたまま、十秒近く硬直していた。
「チャーリーさん、この実験はあなたに続けていただかなくては意味がありません」
教授の催促に彼は逆らえなかった。彼は押した。
「うーん、これは痛いな。ちくしょう」
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百二十ボルトの時点でランジットは大声で苦痛を訴え始めた。百五十ボルトで絶叫し、 百八十ボルトで声にならない声を叫んだ。
チャーリーが「あの、痛がってますけど」と言っても、ニーマー教授は「あなたは一切の責任を負うことはありません」、「迷うことはありません。あなたは続けるべきです」などと厳然とした口調で言い、やめさせる気配がない。
次の問題、フェルマー予想の三百六十年後、フェルマーの最終定理を完全に証明したのは誰?
次、東洋の輪廻転生の思想では六つの世界に転生するが、地獄、餓鬼、畜生、人間、天界ともう一つは何?
問題はどんどん難しくなっていく。
二百七十ボルト。ランジットは苦悶の金切り声を上げた。この時点での正解はわずか三問だ。三百ボルトでランジットは実験中止を求め、三百十五ボルトでついに実験を降りると叫んだ。
「あなたに続行していただく事が絶対に必要なのです」
それでもニーマー教授は決してやめさせない。
そしてついに、最大である四百五十ボルトにダイアルを合わせ、震える手でついにチャーリーはスイッチを押した。
ランジットの苦痛の声は聴こえなかった。
しばしの沈黙、そして……ニーマー教授とランジットが部屋に入ってきた。二人とも笑顔だ。
「実験終了です」
教授は手を差し出し、握手を求めた。呆気にとられるチャーリーはこれに応じる。
「ランジットさん、大丈夫ですか?」
ランジットはにこにこしている。 何百ボルトを耐えた顔には見えない。
「これはミルグラム実験と呼ばれるものです」教授がかわりに答えた。「彼はサクラ――つまり私の助手です。電流なんか流れてはいません」
チャーリーは肩を落とした。
「さて四百五十ボルトまで上げる人は、何パーセントくらいいると思いますか?」
「さあ、一パーセントくらいでしょうか」
「ミルグラムによる実験では、六十二パーセントもの被験者が最大値まで上げています。この研究室でもあなたを含めて約七十パーセントもの人がそうしています」
信じられないことだった。
「ミルグラムはこう結論づけています。人は権威ある者からの命令に接すると、たとえ不合理な命令であろうと、自らの常識的な判断を放棄してその命令に服従してしまう、と」
バカバカしい。
チャーリーは自分でそうしたにもかかわらず、その説には納得がいかなかった。
そして彼は、三百ドルを受け取って研究室を後にした。
――――――――――――――
五年が経ち、国の兵役に出ていたチャーリーは不運にも戦争に出ていた。
僅かな照明が照らす洞穴の中で、両手を後ろに縛られた男が膝立ちの格好でうなだれている。
チャーリーは右腕を突き出し、ピストルを男に向けていた。そして彼の後ろには二人の上官が立っていた。
チャーリーはこの男が何者か知らない。銃を向けている理由も知らない。上官から「撃て」と命じられてからすでに五分が経過している。
「撃て、チャーリー!」
「君は撃たなければならない」
引き金にかけられたチャーリーの指が震える。これは愚かなことなのだ。
チャーリーはミルグラムの実験を思いだした。
この状況に立った人間の七十パーセントが引き金を引く? ばかばかしい。
男の懇願するような目がチャーリーに突き刺さる。チャーリーの意志に反して、少しずつ指に力が入っていく。心臓の鼓動が早くなったのを感じた。
間違っているのだ! 俺の意思じゃない!
チャーリーは上官に逆らうことができなかった。
パーンという乾いた銃声が洞穴の中に響き、男は倒れた。 力の抜けた男の頭から流れ出るどす黒い血はチャーリーに膝を着かせた。
「これで三十人目。やはり極限状態の方が引き金を引くようだな」
暗い洞穴の中でモニターを見つめる二人の男。一人は灰色かかった髪と口髭、もう一人は肌の黒い太った男だ。
「はい、教授。今の所全ての新人兵士が撃っています」
太った男が、手に持った紙を見ながら言う。
「次を連れてこい。今度は極限状態を解いて実験だ。私は少し休憩する」
教授と呼ばれた、灰色かかった髪の男はそう言い残し洞穴を出た。
太った男はそれを無言で見送り、モニターを見る。チャーリーが男を撃ち、彼がビストルを落として膝を着いている様子が映っている。
太った男は紙に書かれた名簿からチャーリーの名前を見つけてチェックを入れた。
「――オーケーだ。チャーリー」
そして独りそう呟いた。