17 静寂の森、斬音鳥の鍋
森は静かだった。
虫の羽音ひとつ、風のざわめきすらない。
まるで時間が止まったかのように、すべての音が失われていた。
だが――唐突に、空気が裂けるような音が落ちてきた。
ギィン――ッ!
何かが上空を横切った。
視界の端に、漆黒の影が閃く。
次の瞬間、傍らの古木の幹が、斜めに滑り落ちるように裂けた。
断面は、まるで刃物で一閃したかのように滑らかだった。
「……斬音鳥か」
ゾイルがつぶやく。
ひとつ息を呑む間もなく、第二波が来た。
空を裂く羽ばたき。
そのたびに風がうねり、地面の草が無造作に刈り取られていく。
斬撃ではない。
“風圧が斬る”のだ。
姿を現したそれは、夜の闇を映したかのような漆黒の鳥だった。
翼は刀のように細く長く、羽ばたくたびに空間そのものが引き裂かれていく。
「ゾイル、あの鳥を知っているか?」
サタンはゾイルに詳しい話を聞こうと、何気なく声をかけた。
その話し声に反応したのか、斬音鳥がこちらを振り向く。
「あ……あの鳥は音に反応します」
「どうやら手遅れのようね」
空気が鳴り、斬撃が飛ぶ。
「任せて――!」
いち早く弓を構えたのは、ヨルカだった。
鋭く目を細め、黒い鳥の残像を正確に捉えると、息を詰めて一矢を放つ。
スパァン!
音を切り裂くように矢が飛ぶ。
だが――
パァン!
斬音鳥がひとたび羽ばたいた。
矢が空中で弾け飛ぶ。
まるで紙片のように、羽根の風圧によって真っ二つに切り裂かれていた。
「……矢が、届かない……!」
ヨルカの声が震える。
斬音鳥の羽ばたきが、自然界の風ではないことを悟るには十分だった。
風ではない。
“刃”なのだ。
「ならば――力で黙らせるまで!」
ゾイルが太腿のホルダーから、何節にも分解して収納していた部品を引き抜き、長く重い投擲槍へと組み上げた。
助走をつける。
肩の筋肉が膨れ、体が弓のようにしなる。
ゴオッ!
矢以上の速さと質量で、槍が大気を切り裂く。
だが斬音鳥は、あたかもその軌道を読んでいたかのように、わずかに体を逸らして風を起こす。
槍は軌道を狂わされ、虚しく森の奥へと突き刺さった。
「チッ……風の斬撃で軌道を逸らしやがったな……!」
どうやら、遠距離武器の技量だけでは通じないらしい。
「終わらせる」
サタンが、静かに右手を掲げた。
周囲の魔素が、空気の密度そのものを変えるように集まってくる。
肌が逆立つような圧。
「魔力連弾――展開」
彼の指先から放たれたのは、ひとつひとつが小さな星のように輝く魔力弾の群れだった。
それは風を切るというより、“空間を埋める”勢いで広がっていく。
斬音鳥が羽ばたいた。
風が鳴り、数十発の小さな魔力弾が斬り裂かれる。
だが、足りなかった。
あまりにも多い。
あまりにも広い。
四方八方から降り注ぐ魔力の絨毯は、逃げ道すら奪っていた。
一発が、鳥の胴体を貫いた瞬間――
ドガン――ッ!
衝撃とともに黒い羽が舞い、斬音鳥は木々の間へと墜ちた。
「ふぅ……」
サタンは指を下ろし、煙のように消えていく魔力の残滓を見つめながら息を吐いた。
やがて、ゾイルが仕留めた斬音鳥の死骸を拾って戻ってくる。
「ちょっと見せてくれ」
俺はそれを受け取り、さりげなく死骸から魂を抜き取った。
「はぁ、はぁ……も、もう無理です……。サタン様、この辺で少し休みませんか……?」
戦闘が終わった途端、大荷物を背負ったヨルカがついに音を上げた。
まあ、荷物を減らしたとはいえ、あれだけ背負ってここまでついてきたんだ。
むしろ今までよくもったほうだろう。
「だから減らせって言ったんだ」
ゾイルが呆れたようにぼそっと言う。
「サタン様の胃袋を支えるのも私の大事な仕事です! 食材は置いていけません! それにこれは、おばあさまの命令でもあるんです!」
ヨルカはむっとして言い返した。
……やっぱり始まった。
どうもこの二人、顔を合わせるたびに張り合うんだよな。
真面目できっちりしたゾイルと、勢いで突っ走るヨルカ。
水と油とまでは言わないが、気軽に仲良くできる組み合わせでもなさそうだ。
「おいおい、やめろやめろ。これから長旅する仲間なんだから、いちいちそこで火花を散らすなって」
俺は面倒くさくなって、適当に手をひらひら振った。
「……まあ、でもちょうど腹も減ったしな。斬音鳥で何か作ってくれ。食材もそこで少し減らせばいいだろ」
我ながらいい案だと思う。
食えて、荷物も減る。
ついでに二人の口も食い物でふさがる。
俺も魔力が上がる。
みんな幸せ。
完璧だ。
「わかりました。では、少し休憩にしましょう」
「……それが一番手っ取り早そうですね」
よし、まとまった。
これから先も、こんなふうに毎回言い争いの仲裁をするのは勘弁してほしい。
俺はうまい飯を食って、強くなって、なるべく楽に旅がしたいだけなんだから。
森の中でも少し開けた場所を見つけ、簡単に火を起こす。
ヨルカは慣れた手つきで斬音鳥の羽をむしり、肉を切り分けていった。
斬音鳥は見た目こそ鋭く獰猛だが、羽を落としてしまえば肉付きは意外と締まっている。
赤みの強い胸肉。
ほどよく脂の乗ったもも肉。
包丁が入るたび、繊維のきめ細かさがよくわかった。
「魔キジ鍋みたいに作ってみましょう」
「キジ?」
「鳥のごちそう料理みたいなものです。たぶん斬音鳥にも合います」
ヨルカはそう言って、袋の中から手際よく調味料を取り出した。
邪醤油、香草、刻んだ爆弾ニンニク、乾燥させた邪キノコの粉、そして細く裂いた邪ごぼう。
「……お前、本当に何でも入ってるな、その袋」
「だから言ったじゃないですか。必要なものしか持ってきてません」
必要の基準がおかしいんだよなあ、と言いかけたが、うまい飯が出てくるなら黙っておくに限る。
ヨルカは斬音鳥の肉に軽く塩を振り、表面をあぶって焼き目をつける。
じゅう、と脂がはぜ、火の上に香ばしい匂いが立ちのぼった。
それだけで腹が鳴りそうになる。
焼き色のついた肉を鍋へ移し、水と邪醤油を注ぐ。
そこへ邪ごぼうと香草を加え、最後に薄く切った邪キノコを落としていく。
ことことと煮立つ音が、静かな森に心地よく響いた。
やがて湯気とともに、濃密な香りが立ちのぼり始める。
鳥肉の澄んだうまみ。
ごぼうの土っぽい深い香り。
邪醤油のまろやかで甘辛い匂い。
さらにキノコと香草が重なって、鼻の奥をくすぐるたびに食欲を刺激してくる。
「……うまそうだな」
「まだです。こういうのは、ちゃんと煮えたほうがおいしいんです」
ヨルカは真剣な顔で鍋を見つめていた。
さっきまでゾイルと張り合っていたのが嘘みたいだ。
料理をしている時だけは、空気が変わる。
「ほう。なかなかいい手つきだな」
ゾイルが少し感心したようにつぶやく。
「当然です。おばあさまに叩き込まれましたから」
ちょっと得意げに胸を張るヨルカ。
さっきまでへばっていたくせに、こういう時だけ元気だ。
しばらくして、ヨルカは鍋の蓋を開けた。
湯気がふわりとあふれ出す。
その中には、飴色に煮えた斬音鳥の肉と、出汁をたっぷり吸った野菜たちが沈んでいた。
肉は引き締まっているのに硬そうではなく、表面にはつややかな照りがある。
上品で、それでいて野趣も残した仕上がりだった。
「できました」
木の椀によそわれたそれを受け取り、俺はまず汁を一口すする。
「あっ……これ、いいな」
思わず、そんな声が漏れた。
まず来るのは、鳥の出汁の強さだ。
斬音鳥のうまみは濃いのにくどくなく、舌の上でじんわり広がっていく。
そこへ邪ごぼうの深いコクが重なり、邪醤油のやわらかな甘みが全体をまとめていた。
山の鳥を丁寧に煮込んだような、しみじみとうまい味だ。
次に肉を口へ運ぶ。
噛んだ瞬間、ぷつりと心地よく繊維がほどけた。
締まった肉質なのに、決して硬くない。
弾力の奥から、鳥特有の濃いうまみがじわっとあふれてくる。
森に住み、空気を裂いて飛ぶ魔獣らしい、野性の濃さがある。
それでいて臭みはなく、後味は驚くほどきれいだ。
「……うまい。斬音鳥って、こんなにうまかったのか」
「でしょう?」
ヨルカが少し誇らしげに笑う。
「これは見事ですね」
ゾイルも一口食べて、素直にうなずいた。
「焼いてもよさそうだが、煮ると出汁が活きるな」
「そうなんです。硬そうに見える鳥ほど、こうして煮たほうが味が出るんですよ」
へえ、と感心しながら、俺はもう一口、もう一口と箸を進める。
うまい。
素朴なのに、妙に箸が止まらない。
疲れた体にしみるというのもあるが、それ以上に、この森の中で食うには出来すぎた味だ。
火のそばで湯気の立つ椀を抱えながら、俺は思う。
こうしてうまいものを食って、力をつけて、面倒ごとはなるべく避けながら旅をする。
やっぱりそれが一番だ。




