1 弱小魔人のサタンへの受肉
目を開けると、空の色彩が違って見えた。
呆然と宙を眺める。
……どうやら気を失っていたみたいだ。
しばらく理解できず、魔人は仰向けのまま空を見続けた。
視界の端が揺れる。焦点が合わない。
耳の奥で、金属を擦るような甲高い音が鳴り続けている。
何が起きたのだろう?
ぼんやりとした頭では思い出せそうになかった。
地面に倒れこんでいた身を起こし、土を振り払う。
体のところどころに違和感があるが、それよりも不思議な現象が起きていた。
「なんだこれ……目がおかしくなったのか?」
泥まみれの手で、瞼をこする。
暗黒の魔界の色彩はほとんど無い。
しかし、いま自分が見えている景色には、物質によって異なる色彩が主張するかのように光を放っている。
また、それは周りの物質だけではなく、自分の体の色彩もいつもと明らかに違う。
ほんのり皮膚が光って見える。
「色もそうだけど……俺は、いったい……」
突然の変化に恐怖を感じる。
自分の身に一体なにが起こったのかと思い、混乱しかける気持ちを押し殺し、目を開ける前のことを必死になって思い出す。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
必死に思い出そうとした瞬間、頭の奥に白い閃光が走った。
光。
そう、たしかいつもと変わらない日だった。
食事を求め、その日も魔界の森の中を徘徊していた。
森には豊かな木の恵みや、魔界の動物がたくさんいる。
自分はその日に地面に落ちている物を食事として生きてきた。
いつも同じ食べ物ばかりの生活だったが、特に不満もなかった。
大型の魔獣を狩ることができれば、新鮮で上質な肉を食べることもできただろう。
しかし、それでけがをしてもつまらない。
痛いのはいやだし。
安全第一。
楽しい生活ではなかったが、リスクを犯してまでの欲望はないのだ。
それならば、平穏に安全に食料を探す方が身の丈に合っている。
一日歩いていれば、必ず何か落ちているはずだ。
特に風の強い日や落雷があった次の日は、食べ物が地面に落ちている。
昨日は久しぶりに大規模な落雷や暴風、巨大な雹が降り、魔界は荒れに荒れていた。
火炎や岩石も降っていたような気もするが……これはきっと夢だろう。
生まれてから初めての災害級の現象におののきながらも、翌日を楽しみにしていたのを覚えている。
夜が明け、食料を探しに森に入ったのだが……。
周囲を見渡せる丘に登り、果実が実ってそうな木を探す。
その木の下を探せば、お目当ての果実が大量に落ちているはずだ。
しかし、お目当ての品物にたどり着くことは無かった。
突如として空に現れた光球に、視線がくぎ付けになったからだ。
魔界の空には星などない。
常に曇天に覆われ、太陽も昇らなければ、月も見えない。
当然、流れ星など見えるはずもなかった。
「なんだあれ?」
うす暗い魔界に落ちてくるまばゆい光を、驚きと好奇心の入り混じった面持ちで見つめる。
距離で言えば、約五百メートル。
身の危険を感じるほどの距離ではないので、野次馬気分でワクワクしながら観察していた。
光は強烈な輝きを伴って、高度を下げている。
このまま地面に落ちていくのだろうと思いながら、落ちる場所を推測して眺めていた。
落ちた後、あの光の正体を見に行こうと考えていたからだ。
しかし予想に反して、その光は突如、落ちる向きを変えたかのように見えた。
どんどん近づいている気がする。
「う、うそォ!?」
なんと自分のいる方向に向かってくるではないか。
こうなってくると、楽しかった気分は霧散し、全力で警戒し始める。
全身の毛が逆立ち、心は恐怖に染まる。
身をひるがえして逃げようと走り出したが、時すでに遅し。
丘から転げ落ちるように下るも、あっという間に追いつかれてしまった。
「あ、俺終わった……」
次の瞬間、世界が白に塗りつぶされた。
その謎の光が自分の身を包み込み、気を失っていた。
しばらくたった後。
二つの足音が、森の下草を踏み分けながら近づいてきた。
湿った土。
踏みしめられた落ち葉。
枝の先で、夜風に揺れた葉がかすかに擦れ合う。
二つの影が倒れている魔人を見下ろす。
仰向けのまま、ぴくりとも動かない。
服に土はついているが、目立った傷はない。
血の匂いもしなければ、争った跡も見当たらない。
その姿を見た途端、片方の盗賊が足を止めた。
「……おい」
低い声に、もう片方が眉をひそめる。
「なんだよ」
「あいつ、前にボコしたやつじゃねえか?」
そう言われて、もう一人も倒れた姿をまじまじと見た。
ぼさついた髪。
安っぽい服。
気絶して地面に転がっていても、どこか締まりのない間抜け面。
「ああ……いたな、こんなやつ」
思い出したように、口元がにやつく。
「森の外れで絡んだら、ろくに反撃もできずに転がった雑魚だ」
「そうそう。しけた持ち物しか持ってなかったくせに、妙にしぶとかったやつだ」
二人は喉の奥でくつくつと笑った。
「また倒れてやがるのかよ」
「しかも今度は森の真ん中だぜ。何してたんだ、こいつ」
片方がしゃがみ込み、サタンの顔を覗き込む。
呼吸はある。
傷もない。
殴られた痕も、切られた痕も見当たらない。
「……無傷だな」
「だな。魔獣にやられた感じでもねえ」
「じゃあなんで気ぃ失ってんだ?」
「知らねえよ。腹でも減ってぶっ倒れたんじゃねえのか」
「そこまで弱ぇのかよ」
また笑いが漏れる。
片方が靴先で、サタンの脇腹を軽く小突いた。
身体が少し揺れただけで、反応はない。
「起きねえな。本当に伸びてるだけか」
「都合いいじゃねえか。前は碌なもん持ってなかったが、今回は何か拾えるかもしれねえ」
「ありえるな。無傷で森の中に寝てるってのが、逆に気味悪いけどな」
「気味悪かろうが、寝てる雑魚は雑魚だ」
そう言うと、片方の盗賊が慣れた手つきで腰の帯に触れ、衣服の内側を探り始めた。
もう一人は立ったまま周囲を見張りつつ、鼻で笑う。
「前は殴られて終わりだったが、今回は少しはマシなもん持ってるといいな」
「何もなかったら、今度こそ本当に身ぐるみ全部剥ぐか」
「それでも足りなきゃ、体内の魔晶石でも取ればいい」
短い沈黙。
下位の魔人盗賊。
二人は顔を寄せ、ひそめた声で何か言い合う。
言葉は断片しか届かない。
「……金目の物は無いな」
「食料も?」
「無し」
刃物の柄を握る気配がした。
空気が、少しだけ張る。
「こいつの体内の魔晶石でもいただいておくか」
森の空気が、わずかに張った。
盗賊の一人が、腰の剣に手をかける。
「悪く思うなよ」
刃が、鞘の中で鈍く鳴った。
「前にボコられた時点で、お前は運がなかったんだ」
剣がゆっくりと引き抜かれる。
切っ先は、無防備に倒れたサタンへ向けられていた。
ガキンッ。
盗賊の目に信じられない光景が広がる。
「やれやれ、せっかく手に入れた体を台無しにされてはかなわんな。今はわずかでも力を使いたくないが、致し方ない」
瞬き一つする間に、先ほどまで倒れていたはずの人影が立っていた。
振り下ろされた剣が、止まっている。
刃は、握られていた。
素手で。
肉が裂ける音はしない。
骨の砕ける感触もない。
それどころか……血が、出ていない。
白い刃をつかむ手のひらに、傷一つなかった。
神力で覆われた手。
「なっ……」
声を出せない。
空気が、沈んだ。




