8 地形利用で危機脱出
サタンとゾイルは息を切らし、森の中を駆けていた。
かれこれ三十分走り続けているが、アントスパイダーたちの追跡は執拗に続いており、さらに悪いことに、その数がどんどん増えていっている気配がする。
「やばいですね。アントスパイダーは、尻からフェロモンを出しながら獲物を追跡する習性があって、それはさながら道しるべ。そのフェロモンは広範囲にいる仲間を集めます」
ゾイルは虫が苦手ながらも詳しい。
さすがは狩人。
……と、感心している場合ではなく、そろそろ体力的にやばい。
息も上がり、呼吸するのもしんどい。
追いかけっこもいい加減にしてほしいものだ。
(だんだん数が増え続けている。いま、だいたい三十匹くらいだ)
ルシファーが頭の中でサタンに教えてくれる。
なかなか便利なやつだと思いながらも、この危機的状況をどう打開すればいいのか考える。
(魔力弾はどうだろうか?)
するとルシファーが答える。
(有効打になる魔力弾を一匹一匹に撃ち込むのは、そなたの魔力では無理がある。魔力切れを起こし、動けなくなるのは避けねばならぬ)
(だよな。でも、このまま逃げ続けても振り切れる自信はないんだが……というか、そろそろ体力の限界です)
(われに一つ、この状況を打開する案がある。まあ、成功するかは五分五分といったところだ。どうする?)
(半分もあれば十分!!)
(そなたなら、そう言うと思っておった。両脇が高い崖になっている、狭い道がないか、ゾイルとやらに聞いてくれ)
(何をする気だ?)
(まあ、任せておれ)
ルシファーはそう言うと、サタンの内にある魔力を体内で練り上げていった。
何かやらかす気らしい。
若干の不安はあった。
だが、それでもサタンはルシファーを信じるしかなかった。
この状況を打開できると言う以上、賭ける価値はある。
どのみち、体力の限界が近い自分と、虫嫌いのゾイルに、この追走劇を覆す手立てなど思いつかない。
迷っている余裕はなかった。
サタンはそう割り切ると、ゼイゼイと荒い呼吸を押し込みながら、なんとかゾイルに問うた。
「ゾイル、このあたりに両脇が高い壁みたいになっている細い道はないか?」
「それなら、こっちです」
ゾイルはその問いに疑問を抱くこともなく、サタンを先導した。
その目は、サタンを信じ切っているようだった。
まるで、俺に見事な作戦があるのだと確信しているかのように。
サタンはゾイルの後を追って走る。
しばらく進むと、山が見えてきた。
その山は頂上から、まるで斧で薪を割ったかのように、ぱっくりと二つに裂けていた。
「あそこの双子山の道なら、条件にぴったりです」
「わかった。あの道まで進もう」
サタンは残りの体力を振り絞り、ペースを上げる。
アントスパイダーは疲れを知らないのか、サタンたちとの距離を一定に保ったまま、執拗に追いかけてくる。
焦らず、急がず、ただ確実に。
まるで、獲物が疲れ果てて足を止める、その瞬間を待っているかのようだった。
足を止めたが最後、迫りくるアントスパイダーの糸を巻き付けられ、強力な顎によって体をばらばらにされるだろう。
先ほどよりも、さらに数が増えている気がする。
(ルシファー、もうすぐ到着だ。準備はいいか?)
(ああ、任せろ。道に入ったらすぐに止まり、魔虫どもと正面から向き合え)
「頼むぞ……」
迫りくる大型の虫の大群と向き合うなど、虫がそこまで苦手ではないサタンにとっても、十分に悪夢じみた光景だった。
カサカサ、カサカサと、無数の脚が地を打つ音が不気味に迫ってくる。
背筋がわずかに粟立つ。だが、足は止めない。
サタンはルシファーに指定された場所へたどり着くと、そこでぴたりと足を止め、追ってくる虫たちへ向き直った。
左右には、天を衝くような切り立った岸壁。
逃げ場のない細道。
まさに、ルシファーが求めていた条件そのものだった。
「サタン様、何を!?」
唐突に立ち止まったサタンを見て、ゾイルが声を上げる。
その時にはもう、黒光りするアントスパイダーの群れが、数メートル先まで迫っていた。
「まあ、少し離れて見てろって」
アントスパイダーは勢いを緩めることなく突進しながら、同時に糸を吐き出し始めた。
放たれた糸は生き物のように空中を走り、サタンとゾイルへ絡みついてくる。
柔らかく見えた糸は、空気に触れた瞬間、白く硬質化した。
四肢に絡み、衣服に食い込み、じわじわと身の自由を奪っていく。
「さ、サタン様」
(頼むぞルシファー!)
「任せろ。“迫りくる万物を焼き尽くし、わが身を守り給え――熾天の火壁!!”」
ルシファーがサタンの口を借り、低く響く声で呪文を詠唱する。
その瞬間、サタンは体の奥をえぐり取られるような感覚に襲われた。
体内を巡っていた魔力が、ごっそりと、根こそぎ持っていかれる。
膝が笑いそうになる。
息が詰まる。
心臓が一拍、強く脈打った。
次の瞬間。
ゴウッ!! と爆ぜるような轟音とともに、目の前に炎が噴き上がった。
それはただの火ではなかった。
まるで地そのものが裂け、その奥から灼熱の奔流が噴き出したかのような、暴力的な炎の壁だった。
爆発的に吹き上がった橙色の業火が、夜の魔界を一瞬で塗り替える。
暗く沈んでいた岩肌は赤く照り返し、岸壁の輪郭はぎらつく熱に揺らぎ、空気そのものが歪んで見えた。
狭い山道は完全に塞がれた。
逃げ道ではない。
追撃を断ち切る、灼熱の断絶だった。
高熱の炎が唸りを上げ、高々と燃え盛る。
迫っていたアントスパイダーたちは、急に現れた灼熱の壁に止まることもできず、そのまま突っ込んだ。
黒光りする甲殻が一瞬で赤く焼け、次いで弾ける。
足が縮れ、顎が焼け、糸を吐こうと開いた口から煙が噴き出した。
耳障りな甲高い鳴き声すら最後まで上がらない。
数匹は炎に呑まれたままのたうち、次の瞬間には炭の塊となって崩れ落ちた。
鼻を突くのは、焼けた殻と肉の焦げる臭い。
さらにアリ特有のギ酸のツンとする臭いが周囲に漂う。
濃い死の臭いだった。
サタンたちに絡みついていた糸もまた、熱に耐えきれなかった。
白く硬化していた糸は、じゅうじゅうと音を立てて縮れ、溶け、黒く焦げてちぎれていく。
腕に、足に、衣服に食い込んでいた拘束がほどけ、ようやく体が自由になる。
「はあ……これで……大丈夫だ……」
そう言った途端、張りつめていたものが一気に抜けた。
急激な魔力の低下と、追撃を断ち切った安堵が同時に押し寄せ、サタンはその場にへたり込む。
肺は焼けるように苦しく、指先にはうまく力が入らない。
視界の端がわずかに揺れる。
自分の中が、ひどく空っぽになったような感覚だった。
「あちち……これはすごい。さすがサタン様」
ゾイルは顔に叩きつけてくる熱気を手で遮りながら、燃え盛る炎壁を見上げた。
熱風が絶えず吹きつけ、髪を揺らし、頬を刺す。
数十メートルはある巨大な炎の壁。
その熱量は尋常ではない。
近づくだけで皮膚が焼けそうなほどの灼熱。
岩が溶けている。おそらく千度を超えるのだろう。
それほどの高熱を、一瞬で、しかもこの狭い地形にぴたりと合わせて生み出したのだ。
ゾイルは息をのむ。
こんな術は、ただ魔力が多いだけでは成立しない。
魔力を無駄なく炎へ変換する精度。
狙った場所に過不足なく展開する術式の完成度。
そのどちらが欠けても、これほどの火壁にはならない。
横目でサタンを見る。
座り込んだその姿は、今にも倒れそうなほど消耗していた。
だが、その直前までこの男は、追い詰められた極限の状況から、一手で形勢をひっくり返してみせたのだ。
恐ろしいお方だ、とゾイルは思った。
これほどの術を持ち、治療薬すら扱える。
それほどの力がありながら、どの勢力にも属していない。
自らの勢力すら持たず、ただ一人でこの魔界を渡っている。
しかも本人の言うことが本当なら、この魔界に生まれてまだ間もないという。
常識では考えられない。
力の伸びも、判断の鋭さも、何もかもが異様だった。
この方は、きっと大成する。
炎の照り返しに目を細めながら、ゾイルは胸の内で静かに決める。
少なくともこの先、サタンにだけは逆らうまい、と。
(やべー!)
ちょうどその時、サタンもまた、ルシファーには逆らわないようにしよう、と固く心に誓っていた。
「まさか、ルシファーがこんな術を使えるとは驚いた」
(魔法自体は、天界にいたころに一通り学んでおったからな。だが、そなたの魔力と術への適性がなければ再現は不可能だった。あとは、そなたの肉体と魔力の水準もあるがな)
ルシファーによれば、術を使うには、必要な魔力量を満たしていることはもちろん、その術に対する資質――すなわち体質や適性が不可欠らしい。
つまり、ある術の適性を持たぬ者は、いくら魔力を蓄え、正しく詠唱を行ったとしても、術を再現することはできないのだという。
(ただ、やはり出たとこ勝負はよくないな。本来の威力も規模も、十分の一も出せておらぬ。失敗する危険もあった)
ルシファーは低くそう言って、反省をにじませた。
正直、助かったのだからそこまで反省しなくてもいいのでは……と、サタンは思う。
どうやらルシファーは、かなりの完璧主義者らしい。
(とりあえず、奴らは去っていったようだな)
ルシファーが告げる。
どうやって感知しているのかはわからないが、ルシファーには生き物の気配がわかるらしい。
「今のうちに、焼け死んだアントスパイダーの魂を回収しておくか」
(では、火壁を解くぞ)
ルシファーが術を解除する。
それと同時に、轟々と燃え盛っていた炎は、熱の残滓を散らしながら霧のようにほどけていった。
その先に、先ほどまで大群をなしていたアントスパイダーの姿は、もうなかった。
地面に転がっているのは、黒く焼け焦げ、脚を縮れさせた死骸ばかりだ。
鼻を刺すような強烈な焦げ臭さが、あたり一帯に立ちこめている。
サタンは比較的原形をとどめている死骸へ近づくと、素早く魂を抜き取った。
そして、それをゾイルに見られぬよう、そっと口に含む。
おそらくゾイルには魂そのものは見えていない。
だが、念のためだった。
「お前たち、何をしている!!!?」
不意に、どこかから鋭い声が飛んだ。




