0 堕天前のルシファー
われはもはや天命を待たぬ――救いを望む者がいる限り、この身こそが救済となる。
天界には、風が吹かない。
雲は流れず、草は揺れず、湖面は鏡のように静まり返っている。
すべては常に完成された状態で保たれていた。
変化はなく、老いもなく、終わりもない。
それが、この世界の秩序だった。
白い回廊を、ひとりの天使が歩いている。
背に六枚の翼。
光を反射する長い銀髪。
熾天使ルシファー。
彼は歩きながら、足を止めた。
中庭では下級天使たちが祈りを捧げている。
祈りの言葉は美しく、声は揃い、動きは一分の乱れもない。
「……届いていないな」
誰にも聞こえぬほど小さく、彼は呟いた。
本来、祈りには“応答”がある。
加護の光が降り、祝福の粒子が舞い、わずかでも空気が震えるはずだった。
ルシファーは目を閉じる。
神の気配を探る。
……感じない。
確実に薄れている。
「また神を探っているのか?」
背後から声がした。
振り向くと、そこに立っていたのは四大天使のひとり、熾天使ミカエルだった。
黄金の翼を背負い、槍を携え、微笑を浮かべている。
「また“それ”か、ルシファー」
「お前も気づいているだろう」
「問題はない」
ミカエルは即答した。
「すべては神の御心だ」
ルシファーは少しだけ眉を寄せた。
「人間界で疫病が広がっている。昨日だけで万の命が消えた」
「神の御心だ」
「祈りが届いていない」
「神の御心だ」
「……加護が、弱まっている」
それでもミカエルは表情を崩さなかった。
「……疑念は、秩序を乱す。信じよ」
静かに、しかし断定的に言う。
「我らの役目は“理解”ではない。“従う”ことだ」
ルシファーはしばらく黙っていた。
中庭の祈りは続いている。
美しく、整い、そして空虚なまま。
「……もし」
ルシファーは、視線を祈る天使たちへ向けたまま言った。
「もし、永久に神が応えぬとしたら?」
ミカエルの笑みが、わずかに消えた。
「それは有り得ない」
ルシファーは振り返る。
「確かめてくる」
「……早まるなよ」
忠告されたにもかかわらず、その日、彼は禁じられた門を開いた。
傲慢な自我。
自我が薄い天使の中で、ルシファーは異例の存在であった。
本来、天使が自らの意思で人間界へ降りることは許されていない。
だが彼は躊躇しなかった。
我慢の限界だった。
目の前に救える命を見捨て、祈りに応じない神を待ち、変化もない日々を無為に過ごす。
……我は何のために存在している?
光の膜を抜け、空を裂き、地上へ降り立つ。
そこにあったのは、祈りの声だった。
崩れた教会。
咳き込み、倒れる人々。
幼子を抱き、空へ手を伸ばす母親。
ルシファーが見えているわけではない。
しかし、そこに救いがあると心から信じている。
「どうか……どうか、助けてください……」
ルシファーは、その前に膝をついた。
彼は祈りを受け取った。
震える手を取り、光を分け与える。
潰瘍は塞がり、熱は引き、子の顔色に温かみが戻る。
奇跡を見て、母親は泣き崩れ、見えぬ信仰対象に何度も頭を下げる。
「ありがとう……ありがとう……」
その瞬間、彼は理解した。
神は、来ないのではない。
最初から、応えていない。
天へ視線を向ける。
「……なぜだ」
この問いにも応答はない。
光も、奇跡も。
ただ、沈黙だけがあった。
そして空が裂ける。
“ドシュッ”
天より降りた光の槍が、彼の翼を貫いた。
「クッ……」
「禁忌の侵犯。秩序の破壊者よ」
空に、無数の天使が現れる。
先頭に立つのはミカエルだった。
「ルシファー。帰還せよ」
「ああ、帰還しよう。……ただし元には戻らん」
ルシファーは天界へ高速で飛翔する。
傷口から神聖な血しぶきが下界に降り注ぐ。
母子をかばったのだ。
下界でミカエルと戦闘しようものなら、甚大な被害が出る。
天界に舞い戻り、ミカエルとその配下と向かい合う。
自身の配下だった天使も、ミカエルの配下とともにルシファーに武器を向けている。
秩序のために幾星霜の日々を過ごした直属の配下は、ミカエル側についたのだ。
それ自体は責められることではない。
天界の法に従ったまで。
自我が薄い配下では、天界の法に則り、それに従うしかない。
「あの子は、助けを求めていた」
「人の生死は神の領域だ」
「あの者は祈っていた……。神は、何もしなかった」
ミカエルは答えない。
「……そうか」
ルシファーは初めて、理解する。
ここには“慈悲”がないのではない。
ここには、神の命令待ちしかないのだ。
彼は翼を広げる。
血が光となって零れ落ちる。
「ならば、その判断は俺がやる」
その瞬間、天界史上最初の反乱が始まった。
*
先刻の轟音から一変し、天は静まり返っていた。
光が満ちているはずの空が、やけに遠い。
音も、風も、温度も感じない。
ただ、世界だけがそこに固定されているようだった。
膝をついたまま、ルシファーは顔を上げる。
視界の端で、白い羽が散っていた。
それが自分のものだと理解するのに、少し時間がかかる。
痛みはなかった。
あるのは、ひどく遅れてくる感覚の空白だけだった。
目の前には、槍を下ろしたミカエルが立っている。
ミカエルも満身創痍だが、ルシファーより余裕はある。
何か言っている。
だが言葉が頭に入らない。
ルシファーは、ミカエルを見ていなかった。
そのさらに向こう。
天の最奥を見ていた。
「……来てくださる」
掠れた声で呟く。
「止めに来てくださるはずだ」
誰に言うでもなく。
これは反逆だ。
秩序を乱した。
神の指令なく下界に降り、人を救った。
同僚である天使を傷つけた。
「きっと……来る」
神は必ず現れてくれるはずだ。
怒りでも、裁きでもいい。
一言でもいい。
“お前は間違っている”と、言ってくれればいい。
それで終われる。
しばらく、誰も動かなかった。
天使たちも、ミカエルも、槍も、光も。
すべてが待っているようだった。
だが――
何も起きない。
光は満ちたまま。
天は沈黙したまま。
ただ、完璧な世界が続いている。
ルシファーの喉が、かすかに鳴った。
「……そうか」
初めて、目を閉じる。
頬に一筋の線が描かれる。
「……なんだこれは」
理解してしまった。
見捨てられたのではない。
怒られてもいない。
最初から対象にされていなかった。
自分の行動も、反乱も、願いも、祈りも。
神にとっては、出来事にすらなっていない。
「……終わりだな」
その言葉は、戦いに対してではなかった。
信じていた関係の終わりだった。
「出でよ、影よ。穿て、現を――“ヴォイド・ブレイク”」
ルシファーは魔界へ通ずる穴を禁術で生み出し、そこに飛び込む。
ためらいはない。
門から下界に行く時よりも、さらにリスクが大きい方法だが、正攻法では逃げきることができない。
翼から力が抜ける。
光が崩れ、体が落ちる。
魔界の瘴気に体が侵食されると同時に、肉体の崩壊が始まる。
落下が始まっても、ルシファーは抵抗しなかった。
ただ、ひとつだけ思い出していた。
この時、ルシファーの七色の瞳に映っていたのは、
下界で、感謝し泣いていた母親の顔。
あのとき。
あの一瞬だけは確かに――。
自分は必要とされていた。
――それが、彼が最後に掴んだものだった。




