第2.3話 みんなが好きな言葉
昼休みになるころには、学校の音が変わっていた。
朝のざわめきは、とにかく動きばかりだった。下駄箱、上履き、扉、そして一日が向こうから形を決めてくる前に、自分のほうからその一日になろうとする人の気配。昼休みはもっと緩い。鞄のファスナーが開き、ボトルの蓋が鳴り、笑い声は行き場を見つけたぶんだけ長く続く。
アラタは自販機の前を好んだ。
飲み物が好きだからじゃない。
コインとひとつの選択以上のものを求めてこないからだ。その選択でさえ、ちゃんと写真がついている。
自販機は中庭寄りの開けた共用スペースの脇に並んでいた。半分だけコンクリートの庇の下に入っていて、そのせいで声は教室の中よりも少し平たく聞こえる。金属と缶コーヒー、それから誰かが外から持ち込んだ揚げ物の匂いが、いつも少しだけ混じっていた。
レンはコーヒーの自販機の前で、国家方針でも決めるみたいな顔をして立っていた。
「思うんだけどさ」と彼は言った。「ここの缶コーヒーって、全部“後悔”にラベルだけ貼り替えた味してないか?」
アラタはその隣で足を止めた。 「じゃあ水を買え」
「それは降伏だろ」
「水分補給だ」
レンは横目でアラタを見る。 「今日、妙に喋るな」
「一言しか言ってない」
「だからだよ。不穏なんだって」
レンの入れた硬貨を、自販機が鈍い音で飲み込む。缶が取り出し口に落ちた。彼はそれを取り上げ、手の中で一瞬だけ冷たい金属を光らせてから、自販機脇の壁にもたれた。
アラタも、興味というより習慣で硬貨を入れた。親指がふたつのボタンの上で止まり、そのままどちらでもいいみたいにひとつを押す。落ちてきたのはお茶のペットボトルだった。
中庭の向こうでは、生徒たちが小さな塊になってベンチを使っていた。座って食べると休み時間に自分を預けすぎるみたいに、立ったまま食べている者もいる。話しながらも止まらずに動いている者もいて、教室と日陰のあいだを低く絶えず流れていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
レンが缶を開ける。小さく息を抜くような音がした。 「で」と彼は言った。「単語を数えてみて、人生は好転したか?」
「別に何かを直してたわけじゃない」
「よかった。見込みなさそうだったし」
アラタはお茶の蓋をひねって開けた。
必要以上に冷たい。彼は中庭のほうを見ているようで、実際にはその向こうを見ながらひと口飲んだ。向かいの校舎の窓が、平たい白い帯みたいに光を返している。変なものはない。目立つものもない。
それが、かえって悪かった。
レンもその視線の先を追って、何も面白いものがないことを確かめる。 「なあ」と彼は言った。「普通の人間は昼休みに休むんだぞ」
「休んでる」
「違う。お前は自販機の隣に立って、こいつが嘘をつくのを待ってる顔してる」
「機械だぞ」
「だからだよ。期待値が低い」
アラタが返す前に、聞き慣れた声が割り込んだ。
「いた」
ナナミがジュースの紙パックを片手に日陰へ入ってきた。長く喋り続けていて、まだ終わっていない人間の顔をしている。ポニーテールはもうところどころ小さく崩れ始めていた。
レンが指を二本だけ上げる。 「迷子か?」
「まさか」ナナミは彼とアラタを見た。「なんであんたたち、いつも責任から逃げてる途中みたいな顔してるの?」
「自販機の近くだからな」とレンは言う。「責任ってのはここで死ぬ」
ナナミは鼻で笑ったが、すぐにその気配は薄れた。ストローを紙パックに刺し、それを飲みながらも中庭から目を離さない。
アラタが最初に気づいたのは、それだった。
「何だ」
ナナミが瞬く。 「何が?」
「何か言いに来たんだろ」
レンが二人を見比べる。 「俺が何か言いに来たときは気づかないのに、それはちょっと傷つくな」
「気づいてる」とアラタは言った。「お前は滅多にそうしないだけだ」
ナナミは、笑いそうになって、そこまでは届かなかった。
それから向かいの校舎のほうを見る。 「三枝、ちょっと変だった」
その一文は、軽くて、妙で、彼女の口には少しだけ似合わなかった。
レンが少しだけ背を起こす。 「どう変だった?」
ナナミは紙パックを見下ろした。答えがそこに印刷でもされているみたいに。 「変っていうか、変すぎる感じじゃなくて」
「便利な区別だな」とレン。
「その……」今度は自分に苛立っている顔になる。「さっき、一瞬だけ。委員会の子と話してたときに、止まったの。長くじゃなくて、ただ――」
ナナミは手を小さく動かした。空気の中の間を掴もうとするみたいに。
「ずれた感じ」
アラタは何も言わなかった。
ナナミはそのことにも気づく。 「それやめて」
「何を」
「何か大事なことを聞いた顔して、こっちに喋ったのを後悔させるやつ」
レンが缶を飲む。 「そういう顔だけは得意だよな」
ナナミは彼を無視したまま、中庭を見ている。 「たぶん何でもないと思うけど」と彼女は言った。「朝からずっと忙しかったし」
「三枝が?」とレン。「忙しい? そんなはずないな」
ナナミは平たい目を向ける。 「意味はわかるでしょ」
アラタにはわかった。
たぶん何でもない。 それはこの学校の好きな言い回しのひとつだった。ひびに気づいても、壁のほうを優先したいときに使う言葉だ。
彼はナナミの視線を追った。
三枝は共用スペースの向こう側、ベンチの脇に立っていた。小さいほうの温かい飲み物の自販機で買ったらしい紙コップを手にしている。飲んではいない。何かをしているわけでもない。ただ、細い日陰の中に立って、視線を少しだけ落としていた。流れから一歩外れたまま、戻るかどうかをまだ決めていないみたいに。
その姿は、目を引くには十分なくらいにおかしかった。
劇的ではない。
ただ、見慣れていなかった。
三枝はふだん、他人に見られる場所ではたいてい動いている。運ぶ、答える、仕分ける、整える。止まっているように見えるときでさえ、そこには割り当てられた感じがあった。今のは違う。
レンもそれに気づいた。 「……あれ」と彼は言った。
ナナミがすぐに振り向く。 「でしょ?」
レンは肩を軽く回した。 「疲れてるだけかもな」
「疲れてるようには見えない」
「三枝には見えるけどな」
「それ、同じじゃないから」
今のが、ナナミが言いたいことにいちばん近かった。
誰かが答える前に、新しい人影が速さを持って中庭へ入ってきた。走っているわけでも、慌てているわけでもない。ただ、効率のいい直線的な切迫さで、悪い可能性を三つ整理して四つ目に向かう人間の動きだった。
月城真希。
片腕にクリップボード。もう片手にホチキス留めした紙の束。学校案内に載っていそうなくらい整った表情をしているのに、その奥には焦点の強さがあった。
彼女が最初に見たのは三枝だった。
当然みたいに。
真希はそのまま三枝の前まで行き、礼儀正しくも実用的な距離で足を止めた。
「ごめん」と真希は言った。ほんとうにそう思っている声だった。「ステージの進行、また少しずれた」
三枝が顔を上げる。
驚いたわけでもない。遅いわけでもない。
ただ、即座ではなかった。
ナナミの指先が紙パックを強く握る。
真希は書類を差し出した。 「放送部が準備に十分追加で欲しいって言ってて、それと、一年の展示ブースが停電で場所をずらしたの。今のうちに廊下の流れを調整しないと、体育館前で詰まる」
レンが小さく呟く。 「その一文だけで宿題出された気分なんだけど」
どちらの女子にも聞こえていない。
真希は落ち着いたまま、手際よく続ける。 「時間割のほうはもう調整した。でも、五時間目が終わる前に各クラスの責任者に伝えて回れる人が欲しいの。三枝なら頼めるよね」
それが来た。
言葉そのものだけじゃない。
はまり方が。
その一文が、そこに用意されていた空間へぴたりと収まる、その感じ。
三枝の手の中で、紙コップがほんの少しだけ強く握られた。
アラタが見始めてから初めて、彼女は間違ったことを言いかけているように見えた。
最初にそれが出たのは顔じゃなかった。呼吸だった。
小さく息を吸う。
ひとつの彼女と次の彼女のあいだに、ほんのわずかな断絶が入る。
唇が開く。
「わたし――」
ナナミが、自分でもそうすると気づく前に、一歩踏み出した。
真希は待った。
急かすでもない。押すでもない。ただ、手に書類を持ったまま、来るはずの答えを信じている待ち方だった。
そのあいだにも、中庭の入口近くでは委員会の別の生徒が二人、歩調を落としていた。ひとりはポスター用の筒を抱えていて、もうひとりの手首にはガムテープの輪がぶら下がっている。どちらも口は挟まない。ただ、まだ誰かの問題のままでいてくれるかもしれない問題を見るときの、あの独特の注意で見ていた。
三枝の視線が動く。特定の誰かに向いたわけじゃない。書類、待機、目の前にすでに役割として形を持ってしまっている空間、その全部をひとわたりなぞるみたいに。
それから、正しい台詞が届いた。
「大丈夫」と彼女は言った。「わたしがやります」
速すぎた。
速すぎて、その言葉が口を離れてから、残りの彼女がそれを聞いたみたいだった。
アラタには見えた。
文の中じゃない。そのあとに来た沈黙のほうが。
一秒にも満たない。あるかないかくらいの長さ。
でも、三枝はそれを感じていた。
言葉は出た。形は完成した。別のことを言いかけていたほうの彼女には、もう行き場がなかった。
最初に息を抜いたのは真希だった。
大げさではない。ただ、肩の力が少し落ちて、声から張りがひとつ消える程度に。
「ありがとう」と彼女はすぐに言った。素直で、まっすぐな声だった。「やっぱり三枝なら、ちゃんと収めてくれると思った」
入口近くの二人も、その言葉が終わる前にまた動き出していた。片方は目に見えてほっとした顔で笑い、もう片方はポスターの筒を持ち直す。午後全体から重さが抜けたみたいに。
ナナミは動かない。
レンは三枝を見て、それからアラタを見て、また三枝を見た。
三枝は書類を受け取った。
片手に紙コップ。もう片方に進行表。責任がきれいに配り直されて、それが秩序に見えてしまうくらいには整っていた。
でも、背を向ける前に、彼女はもう一度だけ止まった。
真希に対してではなく。
自分に対して。
視線が一瞬だけ、まだ手に持ったままの紙コップへ落ちる。さっきまでそれを飲もうとしていたことを、そこでようやく思い出したみたいに。そのつもりが、もう誰か別の人の昼休みに属してしまったみたいに。
それから頷く。
小さく、正確に。
「廊下の振り分けはわたしがやります」と彼女は言った。
真希は感謝のこもった会釈をしながら、もう次の仕事へ半分向き直っていた。 「助かる」
当たり前みたいに。
そこが問題だった。
アラタは、安堵が外側へ広がっていくのを見ていた。
比喩じゃなく。詩でもなく。
身体で。
肩が下がる。歩調が戻る。会話が再開する。入口の近くにいた生徒たちもまた話し始める。さっきより少し静かに、もう心配しなくていいと許された人間の声で。真希の姿勢でさえ変わった。張りつめたものが、緊急性ではなく実用へと整理し直されていく。
三枝が正しく答えたから、中庭が弛んだ。
本当のことを言ったからじゃない。
正しく答えたから。
ナナミが、ほとんど呟くみたいに言った。 「まただ」
レンがそちらを見る。 「何が?」
ナナミは三枝を見たままだった。 「別に」と彼女は言った。今度は自分が速すぎた。「いや――」苛立ったように言葉を探す。「あの子、違うこと言いかけてた」
「そんなのわからないだろ」とレン。
「うん」ナナミの視線は前に固定されたままだった。「でも、そういう感じだった」
アラタは思った。 中庭も、そう感じていた。
三枝はもう歩き出していた。書類を胸に抱え、紙コップはまだ手つかずのまま。流れは彼女を違和感なく受け入れて、疑いもしない。ちょうどいい距離で人が道を空ける。少し先から誰かが彼女の名前を呼ぶ。その声に含まれた期待は、ここからでもわかった。
真希は逆方向へ歩きながら、すでに別の委員と話している。悪意なんてない。操作でもない。ただ、一日を破綻させないための、落ち着いた論理だけがある。
ナナミが鼻先で息を吐いた。 「ほんとに疲れてるだけかも」
レンがアラタを見る。 「それ、俺の台詞なんだけど」
三枝はもう書類を抱えたまま廊下へ消えかけていた。彼女の背中の向こうで、ほかの人間の午後がきれいに落ち着いていく。
また、楽なほうが勝った。
誰かが彼女を傷つけたかったからじゃない。
それが現れた瞬間、みんなが安心するからだ。
そして彼女が動き出す前の、あの半拍に、アラタはそれを名前にできるほどはっきり見てしまっていた。
三枝は、決まっていたことみたいに答える。




