第2.2話 みんなが好きな言葉
二限の終わりを告げるベルは、合図というより許可みたいな音だった。
椅子が鳴る。机が触れ合う。会話がむらのある層になって立ち上がる。最初は静かで、それから急に、あたりじゅうへ広がっていく。アラタは、大半の流れがもう動き終えるまで席を立たなかった。
疲れていたからじゃない。
早く立てば質問される。質問は返事を呼ぶ。返事はたいてい、何かしらの義務に化ける。その日を自分のままにしておきたければ、教室がもう他のみんなに何を求めるか決め終えたあとで動くのがいちばん楽だった。
周りでは、手慣れた効率でグループができていく。後ろの方では男子たちが部活の話をしながら寄り集まり、小さな女子の輪はスマホをのぞき込んで、全員が見ていたわけでもない何かに笑っている。今日もまた誰かが早すぎる菓子袋を開け、その音まで空気の一部みたいに混ざった。
アラタを見て、自分たちの輪に入る人間かどうか見極めるほど長く見る者はいなかった。
避けられているわけじゃない。それには意志が要る。ただ、選ばれないだけだ。
次の授業の教師は、少し遅れていた。
ほんの少しだけ。教室が緩むには十分なくらいに。
前の方の席にいた男子が、ブレザーのポケットを探り、鞄を探り、机の中まで勢いを増しながら探り始めた。失くした物があるなら、焦りの強さで出てきてくれるとでも思っているみたいに。
「どこだよ……」
ぼそっと漏れた声に、隣の女子が顔を上げる。
「何?」
「プロジェクターのリモコン。一限のあとまでは持ってた」
いくつかの視線がそちらに向いた。問題が、みんなで見ていい程度には共有された瞬間に生まれる、あの種類の教室の注目だった。
「失くしたの?」
「失くしてない」
「そう言うやつって、このあとみんなの十分を無駄にするんだよね」
男子はまた机の上を見て、その下の棚を見て、もう二回は確かめたはずの鞄を開けた。動きは見るたび速くなっていく。速くなるだけ、空気にも移る。
教室のあちこちから、断片的な提案が飛び始めた。
「教卓に戻したんじゃない?」 「先生が先に持ってったとか」 「いや、休み時間のあともあったよ」 「ロッカー見た?」 「ロッカーにはないって」
音量が少しずつ上がっていく。パニックじゃない。ただ、ちいさな不便が一枚目の膜として教室に広がっただけだ。
そのとき、三枝が顔を上げた。
「最後に使ったの、いつですか?」
男子は、まるでその質問が“正しい人”から来るのを待っていたみたいに、すぐ三枝の方を向いた。
「文法のスライドのあと。授業終わってからケーブル抜いた」
三枝は立ち上がった。
急ぎはない。見せる感じもない。ただ通路に出て、窓側の後ろの棚へ一度だけ視線をやった。そこには、薄い日差しがカーテン越しに淡く差していた。
「ケーブルを抜くとき、教科書をいったん置いてますよね」 三枝は言った。 「カーテンの後ろの棚、見てください」
男子は半秒だけ三枝を見て、それから動いた。
カーテンの奥へ手を伸ばした瞬間、教室は勝手に解決した。
「あった」
男子はリモコンを持ち上げた。なくなっていた小さな手間が、ようやく元の場所に戻ったみたいに。
何人かが笑う。
「マジで?」 「なんでそこに入るんだよ」
ちょうどそのとき、教師が教室の入口に現れた。男子がリモコンを掲げているところだった。
「よし」 教師はそれだけで、事情も聞かずに安心した。 「じゃあ始めるぞ」
教室は、もうその小さな問題を気にしなくてよくなった人たちの素直さで落ち着いた。
アラタは、三枝が席に座り直すのを見ていた。
顔じゃない。表情でもない。
教室が抵抗をやめたこと。答えが、みんなの答えになるのにちょうどいい強さで落ちたこと。どうしてわかったのか、誰も聞かなかったこと。
レンが椅子を二本足で傾け、鉛筆の端でアラタの机をつつく。
「宿題してるのに苦しそうじゃない顔してるな」
「何もしてない」
「それも才能だろ」
レンの視線が三枝へ向く。彼女はもうノートを開き直していて、さっきの中断が、解決されるために必要なだけ存在したものみたいに見えた。
レンは少し声を落とした。
「まだ昨日のこと考えてんのか」
アラタは答えない。
それを答えだとでも思ったのか、レンは口の端を上げた。
「よし。人をカメラみたいに見てるなら、せめて実況くらいしろよ」
「してない」
レンはそれでも鉛筆を三枝の方へ向ける。
「ほら。言ってみろよ。あいつを説明するなら?」
アラタは三枝を見た。
顔じゃない。笑顔でもない。彼女がいるだけで、教室の空気が少しやわらぐこと。彼女が喋った瞬間に、人の肩から力が抜けること。誰も二度言わせなくて済むこと。
言えることはいくらでもあった。
その中で、一番小さいのを選んだ。
「一文で」
レンが瞬きをする。
「は?」
アラタは顔を向けた。
「三枝を一文で説明して」
レンは、冗談なのか罠なのか、それともただアラタがアラタなだけなのか、判別しようとするみたいにこちらを見た。
「なんでだよ」
「一文で」
レンは、今は従うが後で文句は言う、そういう種類のため息をついた。
「頼りになる」
そう言ってから、言わずにいられなかったように付け足す。
「予備電源みたいなもんだな。停電するまでそこにあるの忘れてるやつ」
アラタは一度だけ頷いた。
レンが目を細める。
「お前、マジかよ」
アラタは鞄から小さなノートを取り出した。紙は安っぽくて、背表紙は少し力を入れるだけで割れそうだった。
彼は一語だけ書く。
頼りになる
レンが身を乗り出してのぞき込もうとする。
「書いてんの、それ?」
アラタは顔を上げない。
レンは喉の奥で笑った。
「やっぱお前おかしい」
それでもアラタは書くのをやめなかった。
次の授業も、いつものように来て、いつものように過ぎた。黒板に触れるチョークの音。何層かに分かれて静かになっていく教室。三枝のペン先はノートの上を一定の速さで動く。止まらない。迷わない。
またベルが鳴ると、教室は息をついた。
すぐに立つ者がいる。まだ座っている者もいる。誰かが、伸びをすること自体が演技みたいに大きく背を反らした。
アラタは最後に立った。
レンはもう教室の戸口にいて、指の間で鉛筆を回している。
「どこ行くんだ」
「どこでもない」
「それ場所じゃないだろ」
アラタはそのままレンの脇を通り過ぎた。
廊下は教室よりうるさい。いつだってそうだ。廊下の持つ空気は別の種類で、もっと制御がゆるく、もっと交渉的だった。
窓際では、ポニーテールの女子が友達に向かって、文化祭の模擬店の締切がみんな疲れてる週に重なるのは理不尽だと文句を言っていた。
ナナミ。
アラタは彼女のことをよく知らない。けれど、壁越しに何度も聞いた曲みたいに、その存在の輪郭だけは知っていた。軽くて、明るくて、無視しづらい。
ナナミが文句の途中でこちらに気づく。
「あれ」と、観客を見つけたみたいに言った。
「霧島、だっけ?」
アラタは短く頷いた。
隣でレンが、最初から自分もこの輪の一員だったみたいな顔で二本指を上げる。
ナナミの目が二人の間を行き来した。
「なに? 迷子?」
レンが口を開きかけたが、その前にアラタが言う。
「三枝を一文で説明して」
ナナミが瞬いた。
レンは笑いを飲み込もうとして失敗したみたいな変な音を立てる。
ナナミはアラタを見つめた。
「……アンケート?」
「違う」
「じゃあなんで――」
「一文で」
ナナミの口元が少し固くなる。怒ったわけじゃない。考えている。
彼女は廊下の先に目をやった。
三枝はトロフィーケースの近くに立っていて、別の生徒に教室の飾りつけのことで何か聞かれていた。話を遮らずに聞いて、それから答える。相手は、まだ完全に背を向け切る前にもう安心していた。
ナナミの表情が、少しだけやわらいだ。口にはしなかった何かを思い出したみたいに。
「いつも……平気そう」
そう言ってから、言い直すようにもう一度口を開く。
「ううん。いつも平気。……そうじゃないときでも、そう見える」
アラタはそれを書き留めた。
いつも平気
ナナミが身を寄せ、ノートをのぞき込もうとする。
「ちょっと、ほんとに書いてるの?」
アラタは止めない。
ナナミの友達が袖を引いた。
「ほら、遅れるって」
ナナミはまだアラタから目を離さない。
「なにそれ。あんた変」
レンが満足そうな音を立てる。
「自覚あるぞ、こいつ」
アラタはノートを閉じた。
「ありがとう」
ナナミはまだ何か言いたそうだったが、友達に引っ張られて、そのまま廊下の向こうへ連れていかれた。途中で一度だけ振り返る。まだ言葉が残っていたみたいに。
レンがまた横に並ぶ。
「これで俺とナナミに三枝の説明させたわけだ」
「次は署名でも集めるのか?」
アラタは答えない。
レンは気にせず続けた。
「また出てるぞ、その感じ」
「どれ」
「今日に限って、自分が普通じゃなくてもいいって決めてる感じ」
アラタは足を止めた。
レンも止まり、振り向く。
アラタの視線は、レンの肩越しに流れていく。
廊下の奥。クリップボードを持った生徒会の女子が、掲示板に何かを留めていた。動きは整っていて、無駄がなく、手慣れている。鞄の端から下がった名札が光を拾い、一瞬だけ文字を見せた。
月城。
アラタは彼女のことを個人的には知らない。けれど、保健室の消毒液の匂いみたいに、「こういう種類」を判別することはできた。
秩序。
アラタは掲示板の方へ歩いた。
レンもついてくる。重要なときはついてくるくせに、そういう顔はしない。
月城は二人が近づく前にこちらに気づいた。驚いたのではない。すでに開いていた一覧表に、二人の名前が加わったみたいな気づき方だった。
「何か?」
礼儀はある。だからといって柔らかくはない。そんな声音。
アラタは適切な距離で止まる。話すには十分近い。何かを求めているように見えるほど近くはない。
彼はノートを少し持ち上げた。意図の証明みたいに。
「三枝を一文で説明して」
背後でレンが、笑いなのか警告なのかわからない音を立てた。
月城は一度だけ瞬きをする。
「……は?」
アラタは同じ言葉をそのまま繰り返した。
月城の目がほんのわずかに細くなる。怒りではない。査定だ。
「どうしてそんなことを人に聞いてるの?」
アラタは答えない。
それで十分だった。
月城の視線が廊下の先へ流れる。三枝は今度は別の生徒の方へ体を向けていて、誰に対してもそうするみたいに、落ち着いた注意を向けていた。まるで、注意を払うことそのものに何の代償もないみたいに。
月城はアラタを見直した。
「三枝なら任せられる」
一文。それで完結していた。
アラタは反応も見せず、それを書き留める。
三枝なら任せられる
月城がペン先の動きを見る。
レンが、アラタより先に口を開いた。
「こいつ、数えてるんだよ」
月城の目がレンへ向く。
「何を?」
レンは壁に肩を預けた。最初からそこにいたみたいに。
「言葉」
それが面白い答えだとでもいうように、少し笑ってみせる。
月城は笑わなかった。
彼女はもう一度ノートに視線を落とす。三行。三人。三つの言い方。なのに、着地は同じ場所だ。
それから、書類を処理するみたいな落ち着きで言う。
「面倒は起こさないで」
脅しじゃない。
指示だった。
アラタはノートを閉じた。
「起こしてない」
月城は一拍だけ彼を見て、それからもう掲示板へ意識を戻した。彼女の中では、会話はそこで終わっている。
歩き出してから、レンが息を吐く。
「今週で一番気まずかったぞ、今の」
アラタは何も言わない。
角を曲がったところで、三枝とぶつかりそうになった。
彼女が前を見ていなかったからじゃない。
抱えているのは紙じゃなかった。丸めたポスターが二本、片方の肩に立てかけられていて、マーカーとテープの入った透明な箱が腰のあたりにうまく収まっている。重さのほうが先に協力を決めたみたいな持ち方だった。
三枝はよろけもせず止まった。何ひとつずれない。
その視線が、アラタのノートに落ちる。
わざとじゃない。
視線がノートに落ちて、そこでほんの一拍だけ止まった。
レンが反射的に半歩ずれる。廊下もそうする。
三枝の目がアラタに上がる。
表情は整っている。
姿勢も整っている。
沈黙まで、整っているように見えた。
「何か用ですか?」
アラタは、同じくらい小さい言葉で返そうとした。
「いや」
三枝はすぐには動かなかった。
半秒。
問題になるほど長くはない。
でも、見ていれば気づける長さ。
彼女の目が一度だけレンへ流れ、それからまたアラタへ戻る。状況の解釈が合っているかを確認するみたいに。
それから、小さく頷く。
「そうですか」
そこでやっと、廊下がまた動き出した。
彼女はポスターを肩に預けたまま、そのままの歩調で通り過ぎていく。
レンがその背中を見送る。
「ちょっと怖いな、あれ」
軽く言っただけだ。
アラタは笑わない。
廊下の先で、教師の声が飛ぶ。
「三枝ー、悪いけどそれ、美術室まで持っていってくれるか」
三枝は体ごと振り向きもしない。
「私がやります」
返事は速かった。
速すぎるくらいに。
アラタは、必要以上に長く彼女を見た。ほんの一瞬だけ。自分の声の音が、意志より少し先に届いたような、そんな間があった気がした。
それから三枝はまた歩き出す。廊下は最初からそうだったみたいに、彼女のために道を空けた。
アラタはもう一度ノートを見下ろした。
三人。
三つの文。
口は違う。
なのに、安心だけが同じ場所に落ちる。
まだ意味はわからない。
ただ、何でもないわけじゃないことだけはわかった。
アラタはノートを鞄に戻し、レンと一緒に次の教室へ向かった。人の流れが二人の周りを閉じていく。
歩きながら、窓ガラスに自分の反射が一瞬だけ映る。通り過ぎるぼやけた影。
それが癖になる前に、アラタは目を逸らした。
今、必要なのは鏡じゃない。
人だ。
考える前に使われる言葉だ。
三枝のことを話すとき、みんな同じ言葉を使っていた。




