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はぐれ者の僕は、「本当の笑顔」の彼女を信じる  作者: ShizukuNotePt


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2/5

第1.2話 彼女の反射は先に笑った

北西高校は、実際に目が覚める前から目が覚めているような音を立てていた。

下駄箱の扉がカチカチ鳴る。上履きが床を擦る。

朝八時にしては大きすぎる笑い声がひとつ。眠気の代わりに声量で誤魔化せると思っているかのように。

霧島アラタは流れに乗った。逆らうより楽だからだ。

溶け込めないことに努力はいらない。勝手にそうなる。

昇降口近くの廊下で、教師が一人の女子に書類の束を差し出していた。

「三枝、これ――」

「私がやります」

落ち着いている。即答だ。大人が安心する種類の返事。

彼女は両手で束を受け取り、一度だけ頷き、迷いなく向きを変えた。

ため息もない。不満もない。「私だって疲れてる」という小さなヒビもない。

周囲は自覚もないまま道を空ける。

誰かが、近道みたいに彼女の名前を呼ぶ。

「三枝!」

「ごめん、ちょっとだけ!」

ポニーテールの女子――ナナミが、集団の後ろから声を張った。

「れいな――じゃなくて、三枝!」

三枝は、誰にでも止まる。秒を無限に配れるかのように。

質問、頷き、短い返事。いつも適量で、いつも適温。

アラタは彼女を目で追いながら、廊下脇のトロフィーケースへ視線を流した。

ガラス。磨かれた金属。アクリル板で封じられた集合写真。

朝の光が表面をなぞり、すべてを整って見せる。

だから、ほんの小さなズレも目立つ。

アラタは教室に着き、引き戸を開けた。

部屋はチョークの粉と、先週の空気の匂いがした。

何人かがこちらを見て、すぐに目を逸らす。

見えないわけじゃない。ただ、選択肢じゃない。

窓際の席に座る。外の空は明るくて、何でも正直に見せそうだった。

そこへ、三枝が入ってきた。

派手じゃない。遅刻でもない。

ただ定刻。時間割の一部みたいに。

彼女は書類を教卓に置き、軽く頭を下げ、自分の席へ向かった。

同じクラス。同じ学年。同じ空間。

それで普通になるかのように。

男子が机から身を乗り出す。

「三枝、委員会の件さ……ごめん」

「大丈夫です」

彼女はもうペンを取っていた。「整理します」

その「大丈夫」は、承認のハンコみたいにきっちり落ちた。

教師が一度だけ手を叩く。鋭い音で教室が静まる。

「よし、ホームルーム。あと、文化祭の実行委員の募集は今日だ。迷ってるなら決めろ」

うめき声が少し。笑いが少し。誰かが「地獄だ」と小さく言い、教室は冗談として流した。

前方で、クリップボードを持った女子が立ち上がる。

整った笑顔。きちんと結んだ髪。背筋。いかにも生徒会っぽい。

「用紙を後ろに回してください。文化祭のお手伝いをしたい人は、名前をはっきり書いてください」

手が伸び、紙が動き、用紙は波みたいに流れていく。

三枝のところで、その波が形を変えた。

みんな、彼女から紙を取るだけじゃない。一拍待つ。

彼女から受け取るには許可がいるかのように。

三枝は静かに配る。無駄がない。

何年も前からその役を割り当てられていたかのように。

アラタは用紙を受け取った。見もしない。

紙は普通だった。ほかは普通じゃない。

ホームルームが終わると、教室は小さな音にばらけた。椅子が鳴る。早すぎる菓子袋が開く。

三枝が余った用紙を前へ戻そうと立つ。

彼女はアラタの机の横を通った。近い。

前髪の位置まで、あるべき場所にある。一本も乱れていない。

それから、止まった。

ほんの半歩。ほとんど気づかれない程度の間。

彼女がアラタを見る。

最初は真正面じゃない。偶然見つけてしまって、そこに留まるような目。

「さっき」

声は廊下より低い。それでも落ち着いていて、正しい。

アラタは返事が遅れた。

だから彼女は続けた。

「門のところ……紙、ありがとうございました」

アラタは一度だけ瞬きをする。

「ああ」

一音以上は在庫の無駄みたいで、「どういたしまして」と言う代わりにそれだけ出した。

彼女はすぐには笑わなかった。

それ自体は、何でもない。

けれどアラタの視線が窓へ滑る。

ガラスに教室が映る。机、光、背後を行き交う生徒のぼやけた影。

そして彼女の横顔。整っていて、鋭い。

反射は安定していた。

――そして、唇が上がった。

窓の中で笑みが始まる。

ほんの一拍遅れて、本物の顔が追いついた。

微細で、静かで、正確。

秒の間に挟まった針みたいに、違う。

アラタの胸が締まった。恐怖じゃない。パニックでもない。

わかった、という感覚。

言うつもりじゃなかった言葉が、先に出る。

「遅かった」

三枝の笑みが、途中で凍った。ほんの一瞬だけ。

「……え?」

アラタは窓から目を逸らさない。

「笑顔」

彼は言った。「遅れてた」

三枝はアラタを見つめた。

侮辱か、冗談か、それとも別物か。判定している目。

「笑いました」

「うん」

アラタはようやく彼女を見る。窓じゃなくて。「でも、すぐじゃなかった」

一拍。

彼女は何も触らない。怯まない。大げさにもしない。

目がわずかに細くなる。怒りじゃない。焦点。

「……見てたんですか?」

朝八時には直球すぎる質問。

アラタは正直に答えた。嘘は手間だ。

「窓を見てた」

これで終わるはずだった。

普通なら笑って流す。三枝なら丁寧に引いて終わらせる。彼女の役割はそう要求する。

でも彼女は、もう一度窓を見る。

噂をその場で確認するように。

何も起きない。もちろん起きない。

彼女はアラタに向き直る。

「一応言っておきますけど」

慎重に言う。「授業には遅れてません」

「授業じゃない」

彼女の表情が、ほんの一ミリだけ柔らかくなる。温度じゃない。苛立ちでもない。

興味。

「変なことを言いますね」

小さく呟く。

アラタは否定しない。

「変なものを見た」

それだけ言う。

三枝は視線を一秒だけ長く保った。

それから、頷く。小さく、制御された動き。

嫌なファイルを机に置かれたときみたいに。

「……覚えておきます」

そう言って、彼女は去った。

彼女の普通も一緒に連れていくように。

アラタは背もたれに預けた。

安堵を期待していたわけじゃない。それでも何も変わらない。教室も、光も。

ただ、ガラスだけが重くなった。

後ろから声が飛ぶ。

「おい!集合写真!」

もうスマホを構えている。

思い出は、送られて初めて本物だと言わんばかりに。

「三枝!こっち!」

別の声が言う。「真ん中来て!」

「え、私――」

「来い来い」

笑いながら遮られる。「そのほうが映えるし!」

三枝は迷った。

断るほど長くない。けれど、無かったことにできるほど短くもない。

そして前へ出た。

当然のように。

クラスが寄る。みんな自分の位置や顔を直す。大事なことみたいに。

三枝は真ん中に立った。反論はしない。

真ん中は、代表させたいものを置く場所だ。

「笑ってー!」

三枝の唇が上がる。

その場では、普通に見えた。

丁寧で、小さくて、正しい。

アラタの目には不可能は映らない。劇的な遅れも、露骨な異常もない。

ただ、期待された通りに笑う彼女がいるだけ。

シャッター音。

一秒後、通知音。もうクラスのグループに投げられた。

画面が一斉に光る。蛍みたいに。

アラタのスマホも震えた。まだ開いていないのに、社会の重力に引っ張られるのがわかる。

見る。

写真は綺麗だった。明るくて、みんな「そこにいる」顔をしている。

真ん中の三枝は――笑っている。

笑顔が、良すぎた。

作り物じゃない。誇張でもない。

ただ、その瞬間より少しだけ完成している。

ポスターに乗るべき笑顔。

アラタは画面から三枝へ目を移した。

彼女もスマホを見ていた。

最初は何も変わらない。姿勢は整ったまま。表情も崩れない。

それから、親指が止まる。

彼女は画像を、誰より一秒長く見た。

周りは笑う。コメントする。撮り直そうと騒ぐ。

自分の顔に文句を言う。もう一枚、とねだる。

三枝は混ざらない。

瞬きもしない。

ゆっくりスマホを下げる。アラタに表情が見える程度まで。

怖がってはいない。

怒ってもいない。

もっと静かな何か。

自分の字を読んでいるのに、それが自分の字だとわからないみたいな顔。

唇が少し開く。

「……私」

声が自分のものか確かめるみたいに、短く出して。

そして、息より小さい声で言った。

「こんなふうに笑った覚え、ないんです」


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