第1.1話 彼女の反射は先に笑った
彼女は笑う前に、ガラスの中の彼女が笑った。
ほんの一秒だ。けれど霧島アラタには、「見間違いだった」と自分に言い聞かせるには充分すぎた。
それが起きたのは、その日の朝の少し後のことだ。
今この瞬間だけは、世界はまだ平然と「普通」を装っていた。
松江しんじ湖温泉駅の外。足湯から、薄い湯気がすっと立ちのぼる。
肩を並べて座る人たちは、互いを見ない。靴だけがきれいに揃っている。
必要なこと以外、誰も口を開かない。
アラタは、いつものように立ち止まった。
熱い湯が好きだからじゃない。
一分の静けさのほうが、考えるより安いからだ。
スーツ姿の男がつま先を沈め、びくっとして小さく呟く。
「熱っ」
水はまだ正直だ。熱いなら熱い。冷たいなら冷たい。そう言って終わる。
人間もそうなら、朝はもっと楽なのに。
駅の自動ドアが、同じ柔らかい音で開いて閉じる。
背後で一年生っぽい声が、ちょっと言い合っている。
「委員会入る?」
「無理。だるい」
「じゃあ実行委員長、誰になるんだよ」
「知らね。どうせ『信頼できる人』ってやつ」
入口横のポールに貼られたポスターが、風に煽られてぱたぱたと鳴る。
――北西文化祭。
紙の色はすでに少し褪せていた。
アラタは足を拭いて立ち上がる。備え付けのざらついたタオルで水気を取ると、湯気が袖に一瞬だけまとわりつき、すぐにほどけた。
十月の初めの空気が、ほんの少しだけ噛みつく。眠気を追い払うのに丁度いい。
秋。
歩き出す。
松江では、水がいつも近い。片側に広い湖があり、運河や堀が街を静かな線で切っている。
普通の道ですら、何かしらが光を返していた。
縁石のそばに、昨夜の雨が薄く残っている。
水面に映る街灯の線が、波紋に一拍遅れてついてくる。
違う。
けれどアラタは歩みを止めなかった。始業前から誰かの噂になる気分じゃない。
学校に近づくほど、街の音量が上がる。足音が増え、制服が増え、会話が薄い層になって重なる。
どれも重要じゃないのに、声だけは妙に自信がある。
アラタは溶け込まない。目立ちもしない。
同じ学年の女子が、挨拶するつもりでこちらを見かけて――その視線はアラタを通り過ぎ、背後の誰かに吸い寄せられた。
彼女は笑って手を振る。最初からアラタに手を振る選択肢なんてなかったかのように。
アラタは反応しない。痛くもない。
ただ、今日という一日の形が確認されただけだ。
前を横切った集団が、昼には忘れるようなことで笑っている。
誰かが「急げ!」と叫ぶ。時間に命令できると思ってる声だ。
アラタは先に行かせた。流れに逆らう意味はない。
そのとき、彼女が視界に入った。
小説みたいな登場ではない。スローモーションも、音楽もない。
彼女はただ、流れの中にいて、やるべきことをやっていた。
校門の近くで男子が鞄をもたつかせ、書類がばらばらと滑り落ちる。
慌ててしゃがむが、手だけが速くて何も掴めない。
一枚だけ、他より遠くまで滑って、アラタの靴のそばで止まった。
アラタはそれを拾い、考えるより先に差し出した。
男子が驚いた顔で見上げた――その瞬間、もう一つの手が散らばった紙のほうへ伸びる。
彼女が、滑らかに割って入った。最初から見ていたように。
「私がやります」
声は落ち着いている。冷たくも、温かくもない。ただ――正しい。
彼女は散った紙を手際よく集め、揃え、束にして返した。
男子は両手で受け取り、何度も頭を下げる。
「ありがとうございます、すみません、ありがとうございます!」
「大丈夫です」
その「大丈夫」は、書類の隅に押される承認のハンコみたいにきっちりしていた。
姿勢は崩れない。制服はきれいで、人前で自分を直す必要なんて一度もなさそうだ。
彼女は誰かに褒められようとしているわけじゃない。
みんなが期待する彼女で、ただそこにいるだけだ。
アラタの手に残った一枚に気づき、彼女は小さく頷いた。感謝というより、確認に近い。
アラタはそれを渡す。言葉はない。
彼女はもう一度、顔を上げた。
そして笑った。
小さな笑み。丁寧で、集合写真にちょうどいい笑み。
普通――
ただし、普通じゃない。
道の向こうの大きなショーウィンドウが朝の光を受け、無関心に跳ね返す。
ガラスは制服のボタンまで見えるほど澄んでいた。
その窓の中で、彼女の唇が――本物より先に上がった。
一秒。たぶん、それ以下。
それでもアラタの胸が、踏むはずの段を踏み外したときみたいにきゅっと縮むには充分だった。
瞬きをする。
彼女の顔の笑みはそのまま残っている。アラタの視線は、また窓へ戻った。
反射はもう、何事もなかったように平らへ戻りかけている。
角度。光。寝不足。
アラタは目を逸らす。
そして、もう一度見る。
同じ窓。同じ彼女。同じ整った表情。
彼女は別の生徒に何かを言い、軽く頷き、手を動かす。
「心配しないで、私が処理する」――そんな所作だ。顔は崩れない。
それなのに、また。
ガラスの中で、笑みがほんの少し早く来た。
彼女が選ぶ前に、動きだけが先に始まった。
彼女がわずかに向きを変え、ほんの一瞬だけ視線がアラタに触れる。
真正面ではない。挑発でもない。
ただ、知らない人間がそこにいると気づいたときの、通りすがりの目。
表情は変わらないのに、視線だけが一拍長く止まった。意識の端を、何かがかすめたように。
そして彼女は目を外し、また役割の中へ戻っていった。
アラタは、目立ち始めた自分を感じて、それが嫌で歩き出した。
群れの流れに乗って校門へ向かう。
それでも感覚は残る。釘に引っかかった糸みたいに、無視しても引っ張られる。
遅れは起きる。人はためらう。
反射は、ためらわない。
パニックはうるさい。これは違う。静かで、正確だ。
遅れは普通だ。
反射では、普通じゃない。
校門が朝のざわめきを飲み込み、ショーウィンドウが背後へ遠ざかっても、街は何事もなかった顔で動き続けた。
まるで、さっきの一秒が最初から存在しなかったかのように。
彼女の反射は先に笑った。
そしてアラタは、まだ彼女の名前を知らなかった。




