day.37
川崎先輩のおかげで、ここ暫くは、皿を割ることもなく、音を立てることも減り、大林さんに怒鳴られることもなく、平和に働いていた。
ある日のディナータイムでのことだった。
この日は予約がいっぱいだったため、目眩がする程忙しかった。
目まぐるしく、あくせくと料理を運んでいると、とあるテーブルから、すいませんと声をかけられた。
「お待たせいたしました。いかがなさいましたか?」
そのテーブルには、男性が1人だけで座っており、その向かいの席には、食べかけのお皿が置いてあった。どうやら、お連れの人は、トイレにでも行ったのだろう。
その男性が、こそっと何かを差し出してきた。
「店員さん、これを注文したケーキの中に入れて欲しいんです。彼女を驚かせたくて。よろしくお願いします。」
はにかんだような笑顔を見せ、緊張からか、少し震える手で渡してきたものは、なんと婚約指輪だった。
キラッと輝くシルバーの光が、眩しい。
指輪か………。
何も付けていない、自分のまっさらな指がふと視界に入り、そっと目を伏せる。
そういえば、俺達を繋ぐ“物”ってないよな。
婚姻届は出しているから、事実上結婚しているって頭ではわかってるけど、それ以外は何もない。
羨ましいな―。
「わかりました。お預かりしますね。」
きっと俺の指には縁がないであろう品物を受け取った瞬間、別のテーブルから、注文お願いしますと声をかけられ、焦ってしまった。
………すぐ厨房に戻るし、ちょっとだけなら、大丈夫だよな。
その指輪を何か入っている側のポケットに、ずぼっと雑に入れ、そのまま呼ばれた方へと向かった。
そして、そのまま渡すのをすっかり忘れてしまっていた。
思えば、あの時、そのまま持ち歩かないで、すぐに厨房に戻って渡すべきだった。
まさか、こんなことになるなんて思いもしなかったんだ―。
あまりの忙しさで、バタバタとしているところに、突然、川崎先輩に呼び止められた。
「ちょっと純也、忙しいとこ悪いんだけど、こっちに来てもらえる?」
「はい!」
バタバタと駆け寄ると、川崎先輩は力強く卵をボウルでかき混ぜながら、ちらっとこっちに視線を向けた。
「純也、さっきお客様から指輪か何か預からなかった?そろそろケーキに入れるから、渡してちょうだい。」
「わかりました!」
確か、ここに入れたはず…………………………ない。
あれ?
こっちだったっけ?
………ない。
ここは?
…ない。
ない、ない、どこにもない!!
えっ!?嘘だろ!?
もしかして、失くした!!??
「純也?早くしてちょうだい!」
完全に頭が真っ白になってしまった。
顔面からみるみる血の気が引いていく。
「か、川崎先輩、お、俺…………失くしたみたい……です。」
「な、なんですって〜〜〜!!??」
川崎先輩の目が驚きで見開かれ、カラーンと撹拌機がその手から消えていった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!?な、な、な、失くしたですって!!??」
驚愕の表情を浮かべたまま、数秒間フリーズした後、厨房内を行ったり来たりし始めた。
「このままだとヤバいわね…。時間も充分にあるわけじゃないし。くっ、最悪、アタシが運んだケーキに突っ込めば…じゃないわ。」
こんなに落ち着きのない川崎先輩は初めてだ。
それだけヤバいことをしたのだという自覚が、今更になってどんどんと押し寄せてくる。
「お、俺、探してきます!」
「待ちなさい!!」
居ても立ってもいられなくなって、ヨロッと走り出そうとした時、鋭い声で呼び止められて、ビクッと体が震える。
ぎこちなく振り向くと、川崎先輩は胸に手を当てて、大きく深呼吸をした後、スッと真剣な眼差しをこちらに向けた。
「純也、アナタは大林にこのことを報告して。アタシは前田マネージャーに報告するわ。いいわね?」
「わかりました…!」
どうしよう。
とんでもないことをやらかしてしまった。
唇をギリッと噛み締めて、大林さんの元へと走っていった。
バタバタと大きな足音を立てながら、接客をしている大林さんのところに駆け寄ると、一瞬の鋭い視線で制される。
だけど、俺の焦り方が尋常じゃなかったのか、僅かに眉をひそめ、お客さんの対応が終わるとすぐにこちらに来てくれた。
「おい、瀧本。お客様の前では慌ただしくするなってあれ程言っただろうが。で?どうしたんだ?」
大林さんには絶対に怒られる。
そう確信していたからか、喉がカラカラに乾いてしまい、上手く言葉が発せられない。
「お、大林さん、俺っ、俺、その、お客様の大事な婚約指輪を失くしちゃったんです…!」
「………は?」
何とか声を振り絞って、事の次第を説明した。
すると、大林さんの目が、みるみる見開かれていく。
「はぁっ!!??瀧本、お前っ、何して!?それは、今日プロポーズするから、ケーキに仕込んで欲しいって連絡があったエンゲージリングじゃねーか!!そんな大事な物を失くしたなんて、お客様にどう説明すればいいんだゴル゙ア゙ッ!?下手したら、その人の思い出だけじゃなく、人生もパーにするぞ!?」
思い出だけじゃなく、人生も………。
そうだ、もし、指輪がないからってフラれたりでもしたら、本当は結婚する筈だった2人の仲を、俺が引き裂いてしまったことになる…………?
そ、そんなの嫌だ!!!!
とんでもないことをしてしまったプレッシャーに押し潰されそうになり、体がカタカタと小刻みに震え始める。
そんな俺の背中を、大林さんがバンッと力強く叩いた。
「震えてる場合じゃねぇ!それを持ったままお前が行った場所を教えろ!」
「えっと…」
思い出せ。
思い出せ、俺!!
パニックで真っ白になっている頭を落ち着かせるために、一度大きく深呼吸をした。
すると、少しだけだが、頭が回るようになってきた。
「確か……指輪を預かった後、あそこのテーブルに向かって、そして、厨房に戻って、今度はあっちのテーブルに向かって、一度トイレに行きました。それから、厨房に戻った時に、川崎先輩に指輪のことを聞かれて、失くしたことに気が付きました……。」
必死に記憶の糸を手繰り寄せながら話すと、大林さんは盛大に頭を抱えた。
「結構な広範囲じゃねぇか……!とりあえず、オレは客席の方を見てくるから、お前は厨房とトイレを隅々まで探せ!いいな!?」
「っ…はい!」
お願い、見つかってくれ―!
そう何度も願いながら、バタバタと走って、言われた場所を探しに向かった。




