day.36
バイト初日は大失敗に終わってしまった。
皿は割るわ、ワインは零すわ、声がデカくてうるさいってクレームがくるわ、散々だった。
マネージャーは初日だから気にすることはないと言ってくれたが、大林さんには死ぬ程怒られた。
自分の情けなさにがっくしと肩を落としながら、家に辿り着く。
「ただいま………。」
既に家に帰ってきていた冬悟が、珍しく玄関に顔を覗かせた。
「…戻ったか。今日はバイトの初日だったのだろう?どうだったんだ?」
冬悟の顔を見て、気が緩んだのか、泣きそうになってくる。
靴を脱ぎ捨て、そのまま走って冬悟に抱きついた。
「……………ちょっと失敗したけど、大丈夫だった。」
本当はめちゃくちゃ失敗したけど、心配かけたくなかった。
「…そうか。」
それ以上は何も言わず、優しくギュッと抱き締めて、そっと背中をさすってくれる。
その冬悟の優しさと温もりで、段々と気持ちが落ち着いてきた。
「…嫌なら、辞めてもいいんだぞ。」
冬悟はきっと、俺がヘコんでいることに、気付いてる。
だけど、できないまま逃げ出したくなくて、それに、冬悟に近づくチャンスを逃したくなくて、フルフルと首を振った。
「ありがと。でも、大丈夫。もう少しがんばってみる。」
俺は冬悟がいてくれるから、がんばれるんだ。
そう伝えるために、ぎゅうぎゅうと抱きつくと、その大きな手が、しっかりと支えるように抱き締めてくれる。
「…そうか。だが、あまり無理はするなよ。」
その手が、その温もりが、心の支えになって、落ち込んでいた気持ちを立て直してくれる。
「うん…!」
俺は冬悟の隣に立つために、諦めない。
明日からもがんばるため、充電しておこうと冬悟に身を委ねた―。
次の日も、溶けそうな気温と闘いながら、バイト先に向かう。
今日からはランチタイムも、ホールで入ることになった。
ディナーの時間も忙しかったが、ランチも目が回るくらいに忙しい。
そして、忙しければ忙しい程、昨日教えてもらったことが、全て抜け落ちていってしまっていた。
「おまたせしました〜!」
ドンドンッとお皿を机に置いて、次の注文分を取りに厨房に戻ると、大林さんに呼び止められた。
「おい、瀧本。昨日教えたことはどこへいった?雑に皿を置いてんじゃねぇよ。あと、居酒屋挨拶やめろって言ったよな?」
ヤバい、完全に忘れてた………。
「すみません!」
次はちゃんとしようと思ったが、意識すればするほど、机に料理を置く手が震え、余計に音を立ててしまう。
ガチャン!………またやってしまった。
「瀧本、ちょっとこっちに来い。」
厳しい表情をした大林さんに呼ばれ、また怒られるのかとしょんぼりしながら向かう。
「はい……。」
「瀧本、お前昨日も皿を盛大に割って、今日も割ったよな?お前皿割り名人にでもなるつもりか、あぁ?あんま割ると、そのうち弁償させるからな。」
べ、弁償!?
どうしよう。
割ってしまった俺が悪いんだけど、弁償できるかな………。
あのお皿、結構高そうだけど、一体1枚いくらなんだろう。
俺の給料で払いきれるだろうか。
もしかして、払いきれるまで、働かないといけなくなるとか!?
そんなことになったら、冬悟に何て説明すればいいんだ!?
冷や汗が、だらだらと吹き出してきた。
「すみません!次から気をつけます!!」
謝ることしかできない自分が、情けなくなってくる。
「ったく、常に気をつけとけよな。」
チッと舌打ちした後、フイッと背を向けてそのまま仕事に戻っていく大林さんの背中が、段々と遠くなっていく。
いつもなら、こんなにミスすることなく、適当にこなせていたのに。
何で、ここのバイトだけ、ずっと上手くいかないんだろう。
落ち込みながら、俺も仕事に戻ると、次は外国人が、来店してきた。
「Hi,I have a reservation under the name Smith.」
???何て?
スミスがどうかしたのか?
それ以外の単語が聞き取れず、頭が真っ白になる。
さすが、高級ホテルなだけあって、外国人もいっぱい来る。
だけど、英語がさっぱりわからない俺は、オロオロとするしかない。
ちょっと待ってって、何て言ったらいいんだっけ!?
そんな初歩的なことさえド忘れするくらいパニックになっていると、後ろからスッと大林さんが現れた。
「Mr. Smith, we've been expecting you. Right this way, please.」
そのまま、スーッと流れるように案内していった。
ぽかんとそのまま突っ立っていると、案内し終わった大林さんが、ズンズンと大股でこちらに向かってくる。
「おいコラ、瀧本。わからねぇことがあったら、オレか、誰かにヘルプを求めに行けや。言葉がわからねぇなら、ジェスチャーを使うなり、なんなりしろよ。見つめ合ってても、どうしようもないだろうが。困ったことがあったら、すぐにヘルプだ。わかったな!?」
「は、はい!」
今度はギロリと睨まれてしまった。
どうやら俺は、たったの2日間で、大林さんにめちゃくちゃ嫌われてしまったようだ。
その後も速攻で皿を割り、怒鳴られ続けた俺の精神は、疲弊しきってしまった。
「はぁ………。」
休憩時間、完全にヘコんでしまい、賄いも喉が通らない。
「あら?純也も休憩だったのね。お隣失礼するわ。」
そんな俺の隣に、シェフ用の白い制服を着て、賄いを手にした川崎先輩が座った。
「どう?って聞くのも野暮ね。大林にパワハラされたの?」
パ、パワハラ!?……に近いのかもしれないが、悪いのは俺だ。ブンブンと首を横に振る。
「いえ…俺がミスばっかりしちゃったので………。」
「まぁねぇ。でも、お皿5、6枚なんて大したことないわよ?」
あっけらかんと言い放った川崎先輩を、えっ!?と驚いた表情で見ると、フフフッと笑われてしまった。
「あら、ホントよ?もっとえげつないミスしたことのある人だって、いっぱいいるわ。それよりも純也、アナタはマナーに怯えすぎよ。」
「マナーに……怯えすぎ……?」
そんなこと、考えたこともなかった。
言われてみれば、確かに、マナーを守ろう守ろうと意識し過ぎて、逆にミスしてしまっている気がする。
「そうよ。純也はそもそも、マナーを何だと思っているの?」
「えっ?え〜っと???」
マナーって何だ?
冬悟も周さんも、大人はみんな当たり前にしているし、できるものなんだとしか思っていなかった。
改めて聞かれると、それに意味があるものなのかもわからない。
全然答えられない俺に、川崎先輩は優しくニコッと微笑んだ。
「純也、アナタは周りをもっとよく見なさい。そうすれば、今の答えが、きっとわかると思うわ。」
周りを見る。
そのヒントを手に、ディナータイムは挑んでみようと思った―。
今日はディナーも忙しかった。
だけど、さっき川崎先輩に言われたことを思い出し、じーっと大林さんの動きを見てみることにした。
大林さんは、俺への当たりはガサツな感じなのに、お客さんと接している時は、とても丁寧だった。
それに、お皿を並べる時も、ただ置くだけじゃなくって、その人が取りやすいように少し角度を調整していたり、子ども連れの人には、その子どもが飽きないように話しかけたりと、お客さん一人一人に合わせるように、対応を変えているようだ。
そして、店内で困っている人がいたら、例えそれが、自身から遠く離れていたとしても、そっと駆けつけ、声をかけていた。
大林さんって、案外スゴい人なのかも。
ちゃんとお客さんを見ているんだ。
………そういえば、俺も冬悟と一緒に住み始めた時、アイツのことを知りたくて、よく観察していたっけ。
そんなこと、最近はすっかり忘れてしまってた。
アイツは、俺のことをいつも見ててくれているのに。
俺、ずっと自分のことばっかだったんだな。
そう気が付いた瞬間、ほんの僅かに視界が開けた気がした。
すると、視界の端に、注がれていた水がすっかりなくなってしまっているグラスが映った。
「お水おかわりいかがですか?」
ニコッと微笑みながらそう尋ねると、待ってましたというように、お願いしますと返ってきた。
ちょっとだけだけど、川崎先輩が言っていたことの答えがわかったかもー。
その日は、ランチタイム以外は大きなミスをすることなく、無事に終えることができた。




