day.28
俺に声を掛けてきたのは、まだ若そうな男性だった。
きちっとした身なりで、タキシードを身に纏い、片手にはシャンパングラスが握られている。
「こ、こんにちは、ムッシュー。」
テンパりながらも、ニコッと笑い、軽く会釈をする。
その男性はそんな俺を上から下まで見た後、優雅に微笑んだ。
「君、見たことのない顔だね。新人さんかな?」
「はい、諏訪様のところでお世話になっております。」
笑顔を忘れないように、姿勢も正して、といろいろ意識をしていく内に、緊張から段々と気分が悪くなってきた。
「あぁ、諏訪さんのところの。なるほど、そうなのか。だったら、君、可愛いから食べられないように気を付けないとね。」
「えっと…どういう意味でしょうか?」
俺が理解していないことの何がそんなに可笑しいのかわからないが、ハハハッと笑われた。
「おや、ご存知ないのかい?ここだけの話だが、彼は、ほら、今時珍しく許婚がいるだろう?だけど、まだその方と正式にご結婚されていないようなんだ。その理由は、まだまだ遊び足りないんじゃないかって言われている。まぁ、あの年齢で、あの顔立ちだからな。ちょっと甘い言葉を囁けば、たいていの相手は落ちるだろうし、少し触れるだけで、もう虜になるだろう。だから、お相手には事欠かないそうだ。要するに、気に入った相手には、誰彼構わず手を出すことがあるって囁かれているのさ。」
アイツはそんな奴じゃない!
そう食ってかかりそうになるのを、何とかグッと堪える。
「は、はぁ。」
「だから、君も用心しなよ。もし、何かされそうになったら、僕のところにでもおいで。」
はぁ!?
誰が行くかよこのクソヤr…
はっ!
駄目だ駄目だ。
上品に、上品にしなきゃ。
「…ご忠告ありがとうございます。」
ニコッと笑い、何とかやり過ごしたが、気持ち悪さがもう限界だ。
その男が去ってすぐ、周さんは戻ってきてくれた。
「すみません、遅くなりましタ。実は…、って大丈夫ですカ!?顔色が優れないようですが、一旦お休みになられますカ?」
「大丈夫です…。」
何とか堪えて歩こうとしたが、やっぱり無理だった。
「すみません、ちょっとトイ、お手洗いに行ってきます。」
それだけ言い残して、周さんがついて来てくれていようがいまいが構わずに、足早にトイレに向かった。
誰もいないトイレで軽く戻した後、洗面台で口元を洗っていると、まさかの冬悟が入ってきた。
ヤバいと思ってすぐに出ようと、咄嗟に顔を伏せて脇を通り抜けようとする。
しかし、今にでも別の人が入ってくる気配がした。
このままでは、出口を塞がれてしまう。
マズい。
そう思った次の瞬間、グイッと腕を引っ張られ、個室に連れ込まれてしまった。
えっ!?
何で俺、こんな狭いところに連れ込まれてんだ!?
今、冬悟には俺だとわからないはず。
一体何が目的なんだ?
まさか、本当に―?
「ちょっ、離し」
パニックになって、抵抗しようと暴れると、腕を掴まれてグッと引き寄せられ、そのまま抱き締められてしまった。
「すまないが、少しだけ我慢してくれ。」
耳元で囁かれた低い声に、絶望する。
この腕の温もりが、今は痛い程に苦しい。
俺じゃない奴に、何でこんなことするんだ?
さっきの人が言ってたことは、本当なのか?
俺のいないところで、こんな風に誰か連れ込んだりして、遊んでるのか?
…そっか、そういうことか。
俺を知り合いに紹介しないのは、そういうことだったんだ。
確かに、こんなこと、俺が知っても損するだけだわな。
俺のことなんて、本当はどうでもよかったんだ。
そう思った瞬間に、全部どうでもよくなって、抵抗するのを止めた。
泣きそうになったが、今俺は純也じゃない。
泣くわけにはいかない。
必死に堪えていると、別の人が出て行った音が聞こえた。
すると、スッと離される。
そっと冬悟の顔を見ると、心配そうにこちらを見つめている。その瞳には、いつも俺を映している時と同じで、まるですべてを包み込んでくれるような温かさと、優しさが滲んでいた。
それがすごくショックだった。
その瞳は、思いが通じ合ってから、漸く見せてくれたものだった。
俺だけが見ることのできるものだと思っていたのに。
大好きな瞳だったのに―。
流石に耐えきれなくて、一筋の涙が頰を伝って落ちていく。
すると、そっと手を伸ばされ、思わず固く目を瞑った。
心にピシッとひびが入り、世界がモノクロになっていく―。




