day.12
翌朝。
瞼の裏で眩しい朝日を感じ、ゆっくりと目を開ける。
すると、普段なら、もうとっくにいなくなっている筈の冬悟が、カーテンを開けていた。
自分が早く目覚めてしまったのかと思って時計を見るも、俺のいつもの起床時間だ。
「……あれ?お、おはよ。」
「…起きたか。なら、さっさと大学に行く準備をしろ。」
何でこの時間まで、コイツがいるんだろう?
それにしても、昨夜は意外とよく眠れたな。
寝惚けた頭では思考が上手く回らず、はぁいと顔を洗いに行ったが、その際に、はたと気が付いた。
……そうだ。
コイツは俺が起きるのを、わざわざ待っていたんだ。
離婚を切り出すために。
そうだとわかってしまった途端、気分がどんよりと沈んでいく。
だけど、仕方がない。
だって、俺に拒否権はないから。
俯きながらリビングに戻ると、朝食が並べられたテーブルが、視界の端に入ってきた。
珍しく、冬悟が俺のために用意してくれたんだろう。
だけど、全然食欲が湧いてこない。
その場で立ったまま動かない俺に、冬悟が声をかけてきた。
「…どうした?食べないのか?」
「あ、のさ…。」
「さっさと食え。時間がなくなる。」
それだけ言った後、スタスタと自身の用意をしに、その場から立ち去った冬悟の後ろ姿を眺める。
何も言ってこない……?
不思議に思いながらも席に着き、まだ湯気が立ち込めている朝食に、口をつける。
「美味しい…。」
一口食べると、ふわっと温かみが口いっぱいに広がった。
そのまま箸が止まらなくなって、結局全て平らげた。
それから、急いで支度をし、出ていこうかと思ったら、今度は呼び止められた。
「…おい。今日は乗せていってやる。行くぞ。」
「えっ?」
気まぐれな優しさの連発に、さすがに困惑する。
しかし、車の鍵を手にした冬悟は、玄関のドアを開けて、俺を待っている。
出ていこうとした時に、足が重たくなっていたのを、見透かされていたのだろうか。
だけど、この人がいてくれるだけで、不思議と足が軽くなっていく。
変な感じ。
今までに感じたことのない、自分の心に違和感を覚えつつ、そっと一歩を踏み出した。
結局、車内でも、冬悟は離婚しろとは言ってこなかった。
そっちが言ってこないなら、俺もこの契約を破棄することはしない。
俺、まだここにいても、いいのかな。
だけど、相変わらず何を考えているのかわからない隣の男に、そんなことを聞ける筈もなく。
走る車に揺られながら、静かに目を閉じた。
大学まで送ってもらったはいいものの、内容が内容なだけに、昨日の話を浩二にできる筈もなく、悶々と1日を過ごすことになった。
帰る頃、またアイツと鉢合わせするんじゃないかという恐怖が襲ってきて、きょろきょろと挙動不審になりながら校門を出ようとする。
すると、不審な動きをする人影を見つけ、バッと近くの物陰に隠れた。
気付かれないように、そろっと確認すると、それは、見知った人物が、うろうろと徘徊している影だった。
「周さん!?」
驚いて、思わず声を上げると、周さんはこちらに気付いたようだ。
くるっと振り返り、俺を認識すると、ぱっと顔を明るくして、こちらに近づいてきた。
「これはこれは、奥サマ!奇遇ですネ!もしや、ここは奥サマの通われる大学ですカ?」
「そうだけど、こんなところで会うなんて、珍しいですね。」
俺的には、冬悟の秘書であるこの人が、会社から離れたこんなところにいることの方が、奇遇過ぎだと思う。
「この辺に少し用事がありましテ。つかぬことをお聞きしますが、この辺の土地勘って、あったりされまス?」
「うん。一応、周辺のことならわかるけど、どうかしたんですか?」
すると、周さんは手に持っていたスマホを差し出し、俺に地図アプリを見せてきた。
「ここに行きたいのですが、どうやら迷ってしまったようでしテ……。」
入力されていた目的地は、最近新しくできた大型商業施設だった。
もしかして、この人、ナビを使っても迷うレベルの方向音痴なのだろうか?
天才で完璧な周さんのイメージが、がらがらと崩れていく。
「あ、ここなら俺、わかりますよ!一緒に行きましょうか?」
そう提案すると、スッと実に見事で綺麗な90度のお辞儀を、深々とされてしまった。
えっ!?な、何だ!?
「あぁ!奥サマ!何とお優しいんでしょウ!是非とも、よろしくお願いいたしまス!」
あまりにも美し過ぎるそのお辞儀に、何かトラブルがあったのかと周囲の視線が集まり、ざわざわと人が集まってきた。
「しゅ、周さん!頭を上げて!早く行きますよ!」
謝罪させていると思われていることに気が付いた俺は、周さんの腕をぐいっと引っ張り、逃げるようにその場から立ち去った。
「いや~、アプリのナビは当てになりませんネ。無事にお使いができて、よかったでス。助かりましタ。」
両手に袋を提げた周さんは、安堵の表情を浮かべ、ホクホクとしていた。
その様子を見て、クスッと笑う。
「でも、意外でした。周さんが地図を読むのが苦手なんて。何でもできそうなのに。」
この施設まで送ったら、本当はここで別れて帰るつもりだった。
だが、施設内が思った以上に広く、周さんがまた変な動きをし始めたので、心配になって、最後まで付き合ったのだ。
「そんなことありませんヨ。実際に、地図は読めませんしネ。それに、熱い物を食べるのも苦手でス。」
「猫舌なんだ。」
失礼かもしれないけれど、可愛いと思ってしまい、フフッと笑ってしまう。
だが、周さんはそんなこと、全く気にしていないようだった。
「ところで、奥サマ。お帰りは電車ですカ?」
「そうだけど?」
今度は何だろうと、小首を傾げる。
すると、周さんは顔を輝かせ、ぱっと俺の手を取った。
「でしたら、お家までお送りさせていただきますヨ!私も電車ですのデ!」
「えっ?」
送ってもらうことよりも、別のことに驚いてしまった。
大企業の社長秘書が、車ではなく、電車移動だと!?
そんなことってあるのか!?
驚愕の表情を浮かべている俺の心の中を、周さんはどうやら察したようで、アハハと笑った。
「秘書といえども、私はしがないサラリーマンですのデ。出勤も、奥サマと同じように電車で移動しておりますヨ!」
「そうなんだ。」
超ハイスペックな冬悟に比べて、周さんは俺達と同様、普通の人なのかもしれない。
そう思ったら、もの凄く親近感が湧いてきた。
ただ、若干人よりも圧が強めなので、最寄り駅まででいいですとは、断れない。
「じゃあ……お願いします。」
「では、参りましょうカ!」
帰りの道中は、普段の会社での冬悟の様子を、面白おかしく聞かせてもらい、楽しかった。
2人で電車に乗っていると、突然、周さんのスマホがブーッと震えた。
「大丈夫ですか?」
「会社からではないので、大丈夫でス。防犯メールでしタ。私、こう見えても、小学生になる娘がいるものでしテ。何かあれば、流れてくるんでス。」
ほらと見せてくれたその情報に、思わず、あっ!と声を上げてしまった。
そこには、昨日の男が、別のわいせつ容疑で逮捕されたとの記載があった。
それ以外にも、俺の“客”であった人物が、全員何らかの罪で逮捕されていた。
えっ、全員!?
嘘だろ!!??
ど、どういうことだ!?
思わず、その画面を2度見どころか、5度見してしまった。
「どうかされましたカ?」
「い、いえ、何も……。」
驚き過ぎて、今も心臓がバクバクしている。
だけど、もうあの男と鉢合わせになることはないのだと思うと、心の底から安心した。
本当に家の前まで送ってくれた周さんは、帰り間際に、自身の名刺を渡してくれた。
「もし、困ったこととかありましたら、お気軽に連絡してくださいネ!」
そう笑顔で伝え、俺がエントランスに入っていくまで、見送ってくれていた。
「……奥サマの気晴らしとご自宅までのお届け、メールが来たら見せろ、でしたネ。さて、社長からの任務は、これにて完了でス。まったく、心配なら、ご自身で全てされたらいいのニ。」
呆れながらも、口元を緩めた周さんが、近くに停めていた車に乗り込み、会社に戻っていったことなんて、俺は知らない。




