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転生医師の穏やか診療日誌 〜聖女さま、今日は薬草茶で治ります〜  作者: 桃神かぐら


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3/3

祈りの前で、命は揺れる

読んでくださりありがとうございます。


第3話は、村の祈りと、ひとつの命の行方。

光と医療が、はじめて真正面から同じ場所に立つ回です。


主人公の一真は「祈りを否定しない医者」です。

ですが、この世界では“祈り”にもまた、救いとしての力や意味がある。

聖女ミレイアはまだ“まっすぐに信じきっている”少女。

その純粋さが、今回の出来事をきっかけに少し揺れます。


静かに始まり、静かに揺れて、静かに変わる回。

よければ、ゆっくり読んでいってください。



 朝の空気が、いつもより薄い。

 村じゅうが息を浅くしているせいだと、結城一真は思った。

 教会の鐘楼には白布が張られ、広場の中央には簡易の祭壇。白い布、燭台、聖紋旗。

 道端の子どもまで髪を梳かされ、井戸端では女たちが囁きを短く交わす。


「光は本当に出るのよ」「この目で見たって人が」「神さまの……」「でもあの人、手も洗わせたんだって」


 手を洗う。

 祈りの朝に、その言葉が混ざっているのが、少しだけ可笑しかった。

 一真は診療所の前に据えた洗浄台の革袋を押し、竹筒の先から落ちる水の速さを確かめる。

 ぽとり。ぽとり。

 定間隔の水音が、今日の自分の呼吸の基準になる。


「先生」

 袖を引く小さな手。リナだ。

 「トム、起きられたよ。でも、人が多いのは怖いって」


 診療所の寝台。トムは上体を少し起こし、こちらを見上げた。頬は薄い色が戻っているが、うなじの汗は細かく滲んでいる。


「おはよう、トム。無理はしない。広場に行くなら、端のほうで、いつでも座れる場所にいること」

 「……うん」


 脈拍はやや速い。皮膚は温かいが乾きすぎてはいない。飲水は進んでいる。

 回復曲線の途中。揺り返しは起こり得る。


(今日は“祈りの場”で、医療をするかもしれない)


 そう予想して、往診袋の中身を詰め直す。

 煮沸して干した布、蜂蜜と塩、アロエの軟膏、清潔な水筒、小さな木椀。

 それから、自分の両手をいちど濡らし、灰で指の股をこすって、陽に当てて乾かした。


     *


 広場は、人の入らない部分がはっきりとできていた。

 祭壇から一定の距離で、空気が固い。

 緊張は、音より先に触覚でわかる。肌が薄くなる感覚だ。


 助祭ミカが人波を縫ってこちらに来る。

 「ああ、来てくださってよかった。端に控えていてください。……本日は、村のための祈りが先です」

 言葉は柔らかい。だが、順序は動かさない、という意志が見える。


 鐘が短く三度鳴り、歌が始まった。

 聖歌は、よく通るが高すぎない高さで、呼吸の上に載るように調律されている。

 そして――その中心に、彼女が現れた。


 聖女ミレイア・アルセリア。


 朝の光を細かく砕いたような薄金の髪。紺碧の瞳は静かで、まっすぐ。

 威圧感はない。

 あるのは、「信じられている者」が背に受ける圧だった。

 彼女が手を広げると、人の視線が同時に吸い寄せられる。

 そのまま祈りの言葉が降りてくる。

 空気の微細な波が整う。

 (上手い、と一瞬思って、医者らしからぬ感想に苦笑する)


 ミレイアは祈る合間に、群衆を見渡した。

 一真のいる端にも視線が届く。

 そして、納得しながら、理由を探すように、ほんの少し首を傾げる。


 助祭が耳打ちしたのだろう。

 彼女はゆるやかに歩み、適切な距離を保ったまま、一真に言葉を投げた。


「あなたが、“癒しの光”をお使いになった方ですね」


「そう呼ばれているらしい。俺は、治療の一環として使っただけだ」


「治療と……呼ばれるのですね」

 ミレイアの声は、川面のように平らかだが、そこで小さな石が跳ねた音がした。

 言葉の選び方を、確かめている。


「祈りは、いつでもあなたの行いを支えます。ですが、もし“光”が女神からの賜りものなら、御前でこそ完全に働くでしょう」


 御前。

 彼女は信じている。だから、順序に意味がある。


 反論ではない。だが、それは、生理学が順序を決める現場の感覚とは噛み合わない。


「命は、場所で助かるわけじゃない」

 一真は静かに言った。

 「呼吸が止まれば死ぬ。血が出れば死ぬ。体が自分で治る、その助けをする。そこに祈りがあっても、なくても」


 ミレイアは首肯した。受け止めた。

 だが、彼女の中の正しさは揺らがない。


「私は、祈りが届くと、信じています」

 自信は澄んでいる。濁りがない。

 その自信が、――今日、仇になる。


     *


 祭壇の祈りが最高潮に達するころ。

 歌がひとつ抜け、空気の膜が薄くなる。

 その薄さの向こうで、小さな異音がした。


 「……っ……っ、……っ」


 速い。浅い。

 息音の方角を、一真の体が先に向く。

 リナが群衆の端で、トムを抱いている。トムの胸郭が十分に広がらない。肩で息をしている。

 顔色は蒼白、唇はわずかに紫がかる。前額に細かい汗。手指は冷たい。脈は速くて弱い。


(代償性過呼吸。酸素不足。――呼吸が入っていない)


 「リナ、ここはだめだ。地面は低すぎる。背中を支えて、半坐位。そう、胸を開いて」

 「こ、こう?」

 「肘を枕に。お腹は押さえない。呼吸が入る場所を作る」


 祈りの輪がほどけ、視線がこちらへ雪崩れる。

 人の眼差しが、助けたい気持ちと好奇心と畏れでざらざらする。

 医者は、そのざらつきを一度背中で受け止めてから、目の前の一人だけを見る。


 喉を見たい。だが人目の前で口腔を開かせるのは難しい。

 とにかく呼吸の通り道を確保する。

 「トム、息を吸って。そう、鼻から。吐くのは長く。ゆっくりでいい」

 空気が肺に入るリズムを、一真は自分の呼吸を誇張して見せることで“貸す”。

 子どもは、それを真似るのがうまい。

 胸の上下がわずかに深くなった。足りない。まだ底が浅い。


 肩に触れ、体温を確かめる。高い。

 発熱反応。創は塞がっても、体はまだ戦いの最中。

 光をもう一度――いや、その前に。


「ミレイア様」

 一真は振り返らずに呼んだ。

 「祈りを、続けてください。誰も近づかせないで。空気を動かしたくない」


 ミレイアは一瞬だけ迷い、指をひとつ上げる。

 助祭が合図を拡げ、人の輪が下がった。

 風が途切れ、空気の密度がわずかに安定する。


(いける)


 一真は両掌を見た。皮膚の下に、微細な脈動が灯る。

 癒光の手。

 あれは、“治す”のではなく――治ろうとする力を押し上げる。


 掌をトムの胸へ。

 「吸って、吐いて。――いま、少し、楽になる」


 光が走る。

 金の薄膜が波紋のように胸から広がり、皮膚の上で消える。

 体温が、急ではなく、生理的な速度で下がっていく。

 呼吸の上下が、浅速から規則的な中等深に切り替わる。

 脈拍はなお速いが、拍出が強くなる。

 体が自力で回復モードへ移行した。


 群衆のざわめきが、祈りの旋律の下に沈む。

 トムが、細い声で言った。

 「……り、な……のど、かわいた」


 その言葉は、医者にとって祝福だ。

 欲求が返ってくるのは、回復の兆候だからだ。


 リナが涙目で頷く。

 「先生、蜂蜜水……!」

 「少しずつ。喉の奥に落とすように」


 木椀の黄金色が、光を受けて小さく揺れた。


     *


 祈りは、止まっていなかった。

 ミレイアは、祭壇を背に、一真とトムに向けて祈りの言葉を乗せる。

 声が揺れない。

 それでも――彼女の目だけは揺れていた。


 祈りの終章が静かに下り、鐘が短く二度。

 広場には安堵の吐息が重なった。

 リナはトムを抱きしめ、一真はゆっくり掌を下ろす。

 さて、と顔を上げたときだった。


 ミレイアが、一歩、こちらへ踏み出した。

 彼女は、信者に向ける微笑みではなく――ひとりの人間に向けるまなざしで、言った。


「……さきほど、わたくしは御前でこそ完全と申しました」

 いつもの澄んだ声だ。だが、芯が低く震える。

 「あれは、正しさでした。ですが――今の救いは、御前の外で起きました」

 群衆が息を呑むのが、音になってわかった。

 ミレイアは続ける。

 「わたくしは、祈りで救えると信じています。

  それでも、息が吸えなければ人は死ぬ――あなたの言葉は、真です。

  今の救いは、あなたの“理”と、子の身体の“力”がしたこと」


 助祭が眉をひそめるのが見えた。

 ミレイアは振り向かない。

 彼女は、自分の信じてきた順序を、自分で並べ替えている。

 自信にひびが入っているのではない。

 ひびを見て、そこに光を通す場所を探しているのだ。


「……お願いがあります」

 ミレイアは掌を胸に当てた。

 「わたくしに、手を洗うやり方を教えてください」


 広場が、ざわ、と震える。

 祈りの中心が、医者に学ぼうとしている。

 それは多くの村人にとって、見たことのない光景だった。


 一真は頷いた。

 「井戸のそばへ。灰と水で十分だ。歌でリズムを刻めば、子どもでも覚える」


 「歌……」

 ミレイアはほほえみ、横顔に年相応の幼さを一瞬だけ覗かせた。

 「それなら、祈りの節に合わせられます」


     *


 井戸端。

 革袋から落ちる水に手を差し出し、ミレイアは指先から手首へと擦る。

 所作は祈りにも似ている。

 周囲の女たちが息を詰めて見守る。

 助祭は黙っていた。

 子どもたちが、最初に笑った。

 「きよめて、あらって、ゆびのあいだ!」

 新しい遊び歌が、祈りの旋律と重なっていく。


「先生」

 肩の後ろから、低い声。

 振り向くと、ガレット老人が、背を少し伸ばして立っていた。

 「さっきは見事だった。……だが、あんたのやり方が気に入らんという奴も、いる」

 老人は路地の向こうを顎で示す。

 黒と灰の外套を着た男たち。旅の役人か、教会の書記か。

 視線は冷たくはない。測っている。


(来たな)


 医療は、目の前の一人を助ける。

 だが、そのやり方が許されるかどうかを決めるのは、しばしば群れだ。

 群れは、正しさよりも順序で動く。


「先生!」

 リナが駆け寄る。

 「トム、さっきより元気! でも、ちょっと頭が痛いって」

 「水を少しずつ続けて、日陰で休ませる。祭りは見なくていい」


 頷いたリナの向こうで、ミレイアがこちらに歩み寄る。

 濡れた指先から水滴が落ち、陽の光で瞬く。


「あなたの“理”を、わたしは学びたい」

 ミレイアは言った。

 「ですが、わたしの“信”も、否定しないでください。

  人は、理由だけで、最後まで立っていられるわけではないから」


 一真は少しだけ笑った。

 「否定はしない。俺にも、祈った夜がある」


 救えなかった患者の顔が、胸の奥の古い暗闇からふっと浮かぶ。

 白い蛍光灯の下、最後に動いた唇。

 ありがとう、と形だけを残したそれ。

 祈りを否定しなかった夜。

 否定、できなかった夜。


「……明日は、共同で往診をしよう」

 一真は言った。

 「あなたは祈り、俺は手を洗う。どちらが先でも、どちらが後でもいい。目の前の人にとって、助かる順番で」

 ミレイアは、まっすぐ頷いた。


     *


 そのとき、広場の反対側で、叫び声が上がった。

 群衆が割れ、女が子を抱えて走ってくる。

 子の顔は赤く、呼吸を浅く切り刻み、喉がぜいぜい鳴る。

 気道の音。喘鳴。

 アレルギーか、粉塵か、冷気か。

 考えるより早く、体が走っていた。


 ――見せ物にしない。

 でも、隠しもしない。

 命は、舞台でも秘儀でもない。

 村の真ん中で、今日も人は息を吸い、吐き、そして途切れそうになる。


 「助祭、スペースを!」

 「村の人、子の母以外近づかない!」

 「ミレイア様、水。――祈りの節は短く、呼吸に合わせて」


 祈りと手洗いが、同じ場所で、同じ命に向かう。

 群衆が作る輪が、今日は狭くない。

 空気が、息を通すために開く。


 次の瞬間、白い外套の男が二人、教会側から足早に近づき、助祭に耳打ちした。

 助祭の目が一瞬鋭くなり、こちらへ滑った。

 計る視線。

 測りにかける者の目だ。


 ――いい。量れ。

 測れるものは、いつか比べられる。

 そのとき、必要なのは、言葉ではない。

 救われた呼吸の数だ。


 「はじめる」

 一真は自分の手を見る。

 掌の下で、また微細な光が脈を打つ。

 ミレイアが横に並ぶ。

 彼女の指先は、先ほど洗ったばかりの、清潔な光沢をしていた。


 祈りと理。

 信と手技。

 二つの正しさが、今、同じ命の上に重なる。


 広場は、黙って見ていた。

 次の瞬間のために、息を揃えて。



ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


● 第3話のポイント

・聖女ミレイアは「純粋に信じている善意の人」

・その自信は強いけれど、今回の出来事で初めて揺れ始める

・「信仰」と「医療」は敵ではなく、救いの順番の違い


一真は、ただ「助かる順番」を選んだだけ。

ミレイアは、その選び方を初めて見た。


この二人は対立関係ではなく、

同じ方向を見るために、言葉を探す人たちです。


次回、第4話では――

祈りと手技が同じ命に向かい、二人が「並んで立つ」瞬間が描かれます。


よければ、次もお付き合いください。


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