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転生医師の穏やか診療日誌 〜聖女さま、今日は薬草茶で治ります〜  作者: 桃神かぐら


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2/3

遠くで鐘が鳴る日

今日は“静かな緊張”の回。

まだ対立はしない。ただ、村の空気に波紋が広がる――そんな一日です。


 朝いちばんの風は、井戸の水面を薄く震わせていた。

 診療所の前に作った簡易洗浄台――革袋と竹筒の“蛇口”――から、一定の間隔で水が落ちる。

 ぽとり、ぽとり。水音が、目を覚ました村の鼓動みたいに規則正しく続いた。


 「手を濡らして、指の間も。灰を少し、爪のきわも忘れずに」

 結城一真は、子どもたちの小さな手を一人ずつ見て、親指の付け根のあたりを示した。

 「ここ、汚れが残りやすい。はい、流す。日向で乾かして、おしまい」


 昨日の“光の噂”はもう広場まで広がっていて、集まってくる顔はみんな少し期待と不安で熱を帯びている。

 光を見に来たのか、それとも痛みを見てもらいに来たのか――それを確かめる前に、彼らの手は水を求めた。

 最初に覚えるべき奇跡は、たぶん“手を洗うこと”だ。そう思うと、胸の奥が少し温かくなる。


 「先生、背中を……」

 背を曲げた老人が、腰を押さえながらやってきた。

 「ガレット・ハンネスです。畑でしゃがんだら、立てなくなって」

 脊柱の稼働域、圧痛、脚のしびれ。触れて確かめ、息のリズムに合わせてゆっくり伸ばす。

 「強く動かすと逆効果。今日は温めて、寝る前にこの体操を三つ」

 「薬は要るかね」

 「要らない。熱い湯布と休み。それから、畑は手伝いを頼むこと。意地を張らない」


 老人は何度もうなずき、帰り際に洗浄台の前でぎこちなく手を洗った。

 彼の背中が、少しだけ伸びて見えた。


 「先生、これ……蜂蜜です」

 リナが小瓶を差し出した。

 「トム、朝に少し吐いちゃって。お水は飲めるけど、ふらふらしてて」

 「よし、蜂蜜は助かる。塩と水で混ぜて、少しずつ飲ませよう」


 診療所の机に木匙と椀を置き、蜂蜜をひとさじ、塩をひとつまみ。

 清潔な水を加えて、淡く黄金色に濁った液体ができる。

 「甘じょっぱいのは嫌がらない味だ。すこしずつだよ。喉が乾いてなくても、しばらくは飲む」


 「はい……先生。あの、ね、今日のお昼に鐘が三つ鳴ったら、教会の馬車が着くって」

 「聖女さま?」

 「うん。お祈りに来るって。トムのことも、村のみんなのことも」


 リナはうれしそうで、どこか落ち着かない。

 その揺れは、村の空気の揺れそのものだった。

 光の噂は望みを運び、同時に、静かな緊張も運んでくる。


     *


 午前の間に、三組を診た。

 指を切った青年の縫合は、今回は“光”なしで圧迫と清潔で済ませた。

 水あたりの旅売りには、蜂蜜と塩の水を教え、煮沸のやり方を井戸端で実演した。

 「湯が小さく踊るくらいまで、ぐつぐつ――そこから数える。数はゆっくり百まで。十分が無理なら、七分は欲しい」

 旅売りは何度も頷いて、通りの向こうへ歩いていった。

 彼の背中が土ぼこりの中に小さくなるまで、一真は手を振った。


 最後は、羊飼いの少女の擦過傷。

 灰と水で手を洗い、アロエを薄く塗る。

 「このままで治るけど、羊の世話をするときは布を巻いて」

 少女は真剣な顔で頷いてから、ふっと笑った。

 「先生、手の光は、いつでも出るの?」

 「出せるけれど、いつもは要らない。身体に備わってる“なおる力”を邪魔しないのが、いちばんいい」

 「……そうなんだ」

 自分で考えて、体の言うことを聞く。

 それを教える時間は、診療そのものと同じくらい大切だ。


 昼近く、道の向こうから二頭立ての馬が走り抜けた。

 車輪が石畳を打つ音は軽い。しかし砂煙は、やけに落ち着かず胸にざらりと触れる。

 馬の鞍には、金の刺繍の紋。輪の中に光の筋。聖光教の紋章だった。


 「先触れだな」

 一真がつぶやくと、洗浄台の列が少しざわめいた。

 誰かが「聖女さま」と呟き、誰かが「検めに来た」と低く言った。


 検め。

 言葉の角ばった手触りに、一真はわずかに眉を寄せた。

 命の前に、検めより先に来るものがある。そういう考えは、この村ではまだ新しいのかもしれない。


     *


 鐘が一度、二度、と高く鳴って、三度目は間を置いて余韻を長く残した。

 昼の合図。

 村の人々は手を止め、目を細めて日空を見上げた。

 雲は薄く、光は強い。

 遠い街道の方角から、うたがかすかに流れてくる。


 午後、教会の若い助祭が診療所に現れた。

 黒い法衣の裾を土で汚すまいと、足元に少し気を遣いながら。

 「お医者さま、ですね。わたしはミカ・マリウス。聖堂の助祭です」

 「結城一真。村では“手当屋”で通してます」

 「……手当屋、ですか。面白い呼び名ですね」

 助祭の目は笑っていたが、その笑みに薄い膜のように観察の色が重なる。

 彼は洗浄台に目を留め、革袋の口と竹筒をまじまじ眺めた。

 「祈りの水を落とす仕掛けですか」

 「祈りは入ってない。けど、手を清めるには十分だ」

 「清める……なるほど。聖句にも“清めて近づけ”とありますからね」

 言葉の意味は似ているのに、響きは少し違う。

 “清める”は神前の作法。“洗う”は生きるための準備。

 その差は、きっと小さくて大きい。


 「聖女様は、今日の夕刻、村にお入りになります」

 助祭は、つとめて明るい声で告げた。

「道すがら数か所でお祈りをされるので、到着は日暮れ前。明日は広場で祈祷と施し。……それから、あなたにお願いが」

 「何を?」

 「癒光のヒーリング・ハンドを、一度だけ、聖堂でお見せいただけますか。人々の前で。

  聖なる光であれば、女神の御前でこそ、いっそうの力を得るはずです」

 それは、丁寧に包んだ“確かめ”だった。

 疑いではない。だけど、信任でもない。

 彼らは、この村にある光を、どこに並べるかを決めに来るのだ。


 「……患者がいれば、必要なら。場所は選ばない」

 一真は静かに答えた。

 助祭はわずかに目を細め、礼をして去っていった。

 法衣が風に揺れて、黒い翼のようだった。


     *


 午後の最後の往診は、ガレット老人の家だった。

 土壁の家。入口の床には、干した草と土の匂い。

 「昼寝したらだいぶ楽でね。先生の言った通り、湯布が効いた」

 背中をもう一度確かめ、呼吸に合わせて小さく回す。

 「その動き、寝る前に十回だけ。畑は明後日から」

 「欲張るな、だな」

 老人は笑い、棚から古い木箱を取り出した。

 「これは、若いときに鍛冶屋で使った布。清潔じゃないが、日向で干した。煮沸して使ってくれ」

 布は固く、ところどころ焼け色がついている。

 でも洗えば、立派な包帯になる。

 「ありがとう。助かるよ」

 「こちらこそ。……先生、気をつけなされ。

  教会の御方は、悪い人らじゃない。だが、村のことを“外から決める”癖がついとる」

 老人の目は、遠い季節のことを見ていた。

 「外からの善意は、ありがたいが、ときどき身体に合わん。

  先生のやり方は、身体に合う。わしの腰が言っとる」

 「なら、腰の言葉を信じよう」


 帰り道、野道の端で子どもたちが手洗いのまねをしていた。

 「まず濡らす! 灰をちょっと! 指の間!」

 歌みたいに笑いながら、空の水掻き動作で遊んでいる。

 それは、きれいな冗談で、同時にとても真面目な遊びだった。


     *


 日が傾き、村の影が長く伸びるころ。

 街道のはるか向こうに、白い砂煙が立っていた。

 風に乗って、低い聖歌が耳の形に合う。

 言葉は拾えないが、旋律の上がり方で“祈り”だとわかる。


 診療所の戸口に立って、耳を澄ます。

 風は川の方角から湿りを運び、薬草の束は夕陽を飲んで色を濃くした。

 胸の中で、今日はじめて、わずかに鼓動が速くなる。


 「先生」

 振り向くと、リナが立っていた。息を弾ませ、目は輝いている。

 「トム、もう吐かなくなった。お水も飲める。……それでね、丘の道で見たの。旗がたくさん。光の輪の刺繍」

 「聖紋旗だな」

 「うん。歌も聞こえる。きれい」

 彼女の声は純粋な喜びで、同時に、小さな怯えも混じっている。

 “正しいものが来る”とき、人はどうして怯えるのだろう。

 きっと、正しさはいつも、誰かの何かを塗り替えるからだ。


 「明日、広場で祈りをする。わたし、見に行ってもいい?」

「もちろん。トムの様子を見ながらね。人混みは疲れるから、端っこで」

 「先生は?」


「手を、洗ってから?」

リナが笑う。


「ああ。手を洗ってからだ」


一真も笑った。

その笑いは、昨日より少し、村に馴染んでいた。


 「行くよ。見て、聞いて、必要なら、手を出す」

 「手を、洗ってから?」

 リナが笑って、こちらも笑った。

 「そう、手を洗ってから」


     *


 日暮れ前、馬車の列が村の入口に差し掛かった。

 先導の騎手の槍先に、光の輪の旗。

 その後ろに、天幕の布を張った小さな乗り物。

 窓は薄布で覆われ、内側の人影はぼんやりとしか見えない。

 肩にかかる柔らかな布、首のあたりで結ばれた紐。

 人影が、こちらを向いた気がした。

 顔は見えない。ただ、目が合ったような、錯覚に似たざわめきだけが胸に残る。


 「聖女様だ」

 誰かが小さく言って、誰もが黙った。

 沈黙は、畏れではなく、整えるための間合いだ。

 人は、何かを迎えるとき、息を揃える。


 列はまっすぐ教会へ向かい、鐘が二度、短く鳴った。

 村の路地に、人の影が伸びて、戻る。

 夜が降りて、戸口の灯がひとつ、またひとつ灯る。

 聖歌は止み、代わりに、遠い祈りの囁きが続いている。


 診療所の裏では、煮沸釜が細い湯気を立てていた。

 湯の表面が、薄く息をするみたいにふくらんで、しぼむ。

 一真は手を洗い、指の間をこすり、日向ではなく灯の下で乾かした。

 今日の手は、少しだけ土と灰の匂いが強い。

 それでいい。

 奇跡を待つ手ではなく、動くための手だ。


 「明日、会うだろう。

  祈る人と、診る人が、同じものを見られればいい」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 風が薬草の葉を擦り、乾いた音が鳴った。

 遠くの聖堂から、ほんの短い鐘の合図。

 夜のはじまり。

 そして、出会いの前日。




“静かな緊張”を基調に、

①村の衛生と往診の準備/②助祭による“丁寧な確かめ”/③遠景の行列と聖紋旗

で、次回の接触に向けて地ならしをしました。

次回はいよいよ対面。「祈り」と「手洗い」を、同じ場でどう並べるか。

読んでくれて、ありがとう。ブクマ・評価が励みになります。

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