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転生医師の穏やか診療日誌 〜聖女さま、今日は薬草茶で治ります〜  作者: 桃神かぐら


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1/3

目覚めたら診療所だった

はじめまして。

少し疲れたあなたへ――癒しと優しさの物語をお届けします。

今日も穏やかに、転生医師の診療が始まります。


外科医として働き続け、疲労の果てに倒れた俺は、

目が覚めたら小さな診療所のある異世界にいた。


道具は少ない。習慣は違う。

でも、救える命はここにもある。


だからまずは——手を洗うところから始めよう。



白い蛍光灯が、目の奥をじかに刺した。


空調の吐き出す冷たい風が、汗で湿った手袋の内側をさらに冷やす。

ガウンの袖が肘に貼りつき、消毒液の匂いが喉の奥で金属の味に変わった。


「……もう少しで閉腹だ。持ってくれよ」


マスクの裏で唇が乾く。声は布に吸い込まれ、機械音にかき消された。

結城一真(ゆうきかずま)

結城一真は、指先の震えを意志で押さえ込み、メスを置いて針持ちに替える。

午前三時。執刀から八時間目。腰は鉛のように重く、膝は立っているだけで悲鳴を上げる。

それでも――眼前の切開線は待ってはくれない。


モニターの緑の波が、ひゅ、と浅くなった。

ピッチの高いアラーム音。胸の内側で、別の鼓動が二拍ほど遅れた気がする。

心拍が戻る。数値が安定。チームの息が揃う。

緊張と集中の境目で、視界の端が黒く揺らめいた。


(倒れるな。最後まで――)


縫合糸を引いた瞬間、蛍光灯が爆ぜるようにひときわ強く光った。

耳鳴り。音が水に沈む。

緑の波線が遠のいて、白が視界一面に溢れ――。



頬に触れるのは、冷房の風ではなかった。

草いきれを含んだ、やわらかな風だ。


土と乾いた木の匂い。遠くで鳥が鳴き、牛の低い声が尾を引く。

目を開けると、見知らぬ天井。節の多い梁。白い漆喰。

蛍光灯の直線的な白ではなく、窓から射す自然光の柔らかい白だった。


上体を起こす。麻布のシーツがすべる音。寝台は金属ではなく、しっかりした木の軋みを鳴らす。

呼吸は安定。脈は規則的。喉の渇きは軽度。室内の温湿度は二十数度、湿度は低め――。

思考は瞬時に、医師の観察へと滑り出した。


視線を巡らす。壁際の棚には陶器の瓶と束ねた薬草。

手書きのラベルは「セージ」「カモミール」「アロエ」。

(読める。表意じゃない。筆記は癖が強いが、ラテン系……いや、この世界の共通語?)


窓の外に、茅葺きと赤茶の屋根が交ざる村の景色。

人の話し声。井戸の釣瓶の軋み。牛の鈴。

どこを見ても、さっきまでの手術室とは繋がらない。

口の中に、わずかな金属味――不安が唾液の化学を変える。


(ここは病院じゃない。診療所……?)


ベッド脇の水瓶に近づき、反射的に匂いを嗅ぐ。

藻の匂いは薄い。透明度良好。ただし煮沸歴はない。

手を洗いたい衝動が、手首から先を熱くした。


そのとき、外から人の走る音。

次の瞬間、扉が弾けた。


「お医者さまっ! お願いです、弟が――!」


土埃の匂いが薬草の香りを押しのけて流れ込む。

十歳くらいの少女。焦げ茶の三つ編み。汗で張りついた前髪。

腕の中に、ぐったりした小さな少年。額は血で濡れ、呼吸は浅く、色が悪い。


身体が先に動いた。


「ここに寝かせて」


声が自分のものかを確かめる前に、勤務医が目を覚ましていた。


木の診察台は剛性がある。十分。

額の創は二・五センチ程度、裂創。出血中等量。頭部外傷疑い。

意識レベルは――「トム、聞こえるか?」

反応なし。痛み刺激でわずかに眉が動く。呼吸数はやや速い。脈は細いが触れる。


「君の名前は?」


「リナ……リナ・フェルナです。弟はトム。森で転んで、石に……!」


不安と罪悪感が混ざった匂い。声は震え、語尾が潰れる。

安心させる言葉が必要だ。


「大丈夫。落ち着いて。君はよく連れてきた。トムは助かる」


布を取り、圧迫止血。

水瓶に手を伸ばし、思いとどまる。煮沸なしの水は使えない。

代替は――棚の薬草。セージ、カモミール。

(消炎・抗菌作用。煎出に時間は要る。今は圧迫継続だ)


手袋はない。手洗いができない。

その瞬間、自分の両手が淡く光っていることに気づいた。


掌の皮膚の下で、微小な鼓動の粒が灯る。

患者の心拍にシンクロするように、光が明滅する。


(何だ……これは)


問いは途中でちぎれた。トムの胸郭がふっと小さく停止。


「トムっ!」


リナの叫びが診療所の空気を切り裂く。


思考を飛び越え、胸骨の中央に手を当てる。

圧迫の角度――ではない。触れるだけでいい、という直観に近い命令が身体から立ち上がった。


――光が弾けた。


金色の薄膜が波紋のように広がり、傷口の血流が静まる。

縫合していないのに、裂けた皮膚がゆっくり閉じ、凝固が進む。

呼吸が戻る。胸郭の上下が規則正しくなり、頬に淡い赤みが差した。


音もなく、頭の内側で声がした。

――【スキル癒光の手(ヒーリング・ハンド)が発動しました】。


機械でも天啓でもない、事務連絡のような無機質さ。

こんな非現実に、日常の紙片が混じる可笑しさに、思わず息が漏れる。


リナが、両手で口を押さえ、目を見開いた。


「……お兄ちゃん、生きてる……」


声が涙で濡れ、次いで堰を切ったように嗚咽へ変わる。

床に落ちた涙の円が、光を吸い込んで震えた。


一真は手を離し、息を吐く。

胸の奥で、安堵と遅れて来た恐れがぶつかり、骨を軋ませた。


(いまのは奇跡か? それとも――医療の延長として、理解できる現象なのか)


現実確認。

トムの呼吸数は正常化。脈は充分。顔色の回復良好。

頭部打撲後の観察が必要。嘔気・頭痛・眠気の有無。


「トムは大丈夫。今日は安静。水を少しずつ。頭を高くして休ませよう。吐き気や痛みが出たら、すぐに呼んで」


リナは泣きはらした目で必死に頷く。

その顔に、少しだけ余裕が戻った。

誰かが助かったという事実が、室内の匂いを変える。

薬草と土の匂いのあいだに、温かい麦の香りのような安堵が混じった。


「礼は要らない。君はよくやった。ここまで抱えてきて、偉かった」


言葉が口を出る前に、胸の奥で形になっていた。

過去の夜勤明け。救えた命。救えなかった命。

笑顔と沈黙。

最後に見た患者の口が「ありがとう」と動いた光景が、一瞬だけ重なる。


(俺は、まだ――医者でいていいのか)


掌の光は、次第に淡くなり、やがて皮膚の温もりだけを残して消えた。

さっきまでの白い蛍光灯とは違う、生の体温だけがそこにある。


外で、風鈴のような鐘の音が鳴った。

村の昼を告げる合図だろう。

窓から入った風が薬草の束を揺らし、葉が擦れあう小さな音が、心拍と同じ速度で胸に触れた。


「……さて」


一真は深く息を吸い、空になった水瓶を見る。

煮沸用の釜が必要だ。手洗いのための清潔区域。

包帯の再使用は危険。洗剤と日光での乾燥。

最低限の救急セット。器具の整備。薬草の保管温度――。

今日やるべきToDoが整然と積み上がっていく。


「今日から俺の診療が始まる。ここを“安全な診療所”にしよう」


独り言に、声の芯が戻る。

医師としての現実と、この世界の光を、両方使えばいい。


「……あの、また来てもいいですか?」


扉の前で、リナが小さくお辞儀をしていた。


「もちろん。トムの具合も見せて。あと、清潔な布があればいくつか持ってきてくれると助かる」


「わかりましたっ!」


少女は走り去り、土と草の匂いがふたたび風に溶けた。

静けさが戻る。

机に手を置く。木目のささくれが指の腹に引っかかった。

ここが現実だと、遅れて触覚が教えてくれる。


今日も、誰かの命を預かる。

その意味がある限り、俺はきっと――医者であり続ける。



夕刻。

太陽が傾くころ、一真は診療所の裏庭に出ていた。

瓦礫の山だった場所を片づけ、小石で囲った浅い穴を作る。

そこに薪を並べ、鉄鍋を据えると、即席の煮沸釜ができあがった。


「……これで、最低限の衛生は保てるな」


指先にこびりついた灰を払い、汗を袖でぬぐう。

異世界に来て最初に作ったものが“神殿”ではなく“手洗い場”というのが、いかにも自分らしい。

そう思うと、自然に笑みがこぼれた。


診療所の前には、井戸と桶を組み合わせた簡易洗浄台も設置した。

竹筒をくり抜いて蛇口代わりにし、上から吊るした革袋に水を入れる。

袋の底に開けた小さな穴は、押さえを外すと一定量ずつ水を落とす。

手指全体が濡れるまで二回――石鹸代わりの灰を少量。指先から手首へ。

それから清水で流す。最後に日光で乾かす。


「これで……手を洗える。文明、第一歩だ」


陽の光にきらめく水滴が、灰と血の匂いを洗い流していく。

新しい空気が胸に入り、肺が少し膨らんだ。


道の向こうから二、三人の影が近づいてきた。

農夫らしい男たち。肩には鍬。

診療所の前で立ち止まり、興味と警戒の混ざった目でこちらを見た。


「お、お前さんが……リナの弟を助けた医者か?」


「そうだ。医者というより、村の“手当屋”ぐらいで考えておいてくれ」


「光が出たって聞いたぞ。神の奇跡かと思った」


「いや、あれは奇跡じゃない。治療の一種だよ」


そう言うと、男たちは顔を見合わせ、どこか安堵したように笑った。


「ありがてぇ話だ。うちの爺様も腰をやっててな。明日、見てもらえるか?」


「もちろん。診察料はいらない。ただ、煮沸した水と清潔な布を持ってきてほしい」


「煮……? にふつ?」


「湯を沸かして、その中で布を茹でるんだ。汚れを取る。病がうつりにくくなる」


「なるほどなぁ」


男は感心したようにうなずくと、家に走って戻っていった。

それを皮切りに、次々と村人が顔を出す。

「トムの傷が一晩で治った」――そんな噂は、夕暮れまでに村じゅうを駆け巡った。


夜。

診療所の灯りを見て、数人の子どもたちがこっそり覗きに来ていた。

窓の隙間から、淡い光が漏れているのが見えるらしい。


「神さまが住んでるのかな」

「いや、お医者さまだよ」


囁く声に、一真は笑いをこらえた。

煮沸釜の湯気が、夜気に白く立ち上る。

薬草を吊るした梁の下で、木机に布を並べ、明日の往診の準備をする。

包帯、草の軟膏、木の匙、革製の水筒。

ひとつずつ点検しながら、訪問先を思い描いた。


リナが言っていた。

「明日、教会に“聖女さま”が来るんです。トムのことをお祈りしたいって」


(……聖女、か)


祈りで病を癒すという、その存在。

医療と奇跡が交わる場所に、何が生まれるのか。

それは対立か、協力か。

彼女が“祈り”を持って来るなら、こちらは“手洗い”を持っていこう。

大切なのは、どちらが正しいかではなく、目の前の命が助かるかどうかだ。


釜の湯が音を立てて沸き始めた。

湯気の向こうで、月が白くにじむ。


「奇跡でも魔法でもいい。

でも、“手を洗う”ことから始めよう。

命を救うのは、たぶん、その小さな積み重ねだ」


水滴が掌を伝い落ちる。

手のひらの光は消えても、温もりだけは確かに残っていた。


明日は往診の日。

村に広がる噂が、やがて聖女の耳に届く。

それが、彼と彼女の最初の出会いになる――。


日が傾きはじめるころ、診療所の前を小さな影がいくつも走り抜けた。

その向こう、広場からは笑い声と楽器の練習のような音。

壁の薬草は夕陽を吸い、緑から金へと濃さを変える。


新しい世界の、一日目が、穏やかに暮れていく。


俺は奇跡を起こすためにここへ来たんじゃない。

誰かが明日を迎えられるように、ただ手を伸ばすために来たんだ。


ここは戦場じゃない。

誰かを救って、誰かが笑える場所だ。


今日から俺は——この村の医者になる。

最後までお読みいただき、ありがとうございます

「五感」「医師の観察」「感情の波」を意識して書きました。

続きが気になっていただけたら、ブクマ・評価・感想で応援をいただけると励みになります。

次回――“聖女さま、初めての往診”。信仰と医療が、最初に交わります。


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