目覚めたら診療所だった
はじめまして。
少し疲れたあなたへ――癒しと優しさの物語をお届けします。
今日も穏やかに、転生医師の診療が始まります。
外科医として働き続け、疲労の果てに倒れた俺は、
目が覚めたら小さな診療所のある異世界にいた。
道具は少ない。習慣は違う。
でも、救える命はここにもある。
だからまずは——手を洗うところから始めよう。
白い蛍光灯が、目の奥をじかに刺した。
空調の吐き出す冷たい風が、汗で湿った手袋の内側をさらに冷やす。
ガウンの袖が肘に貼りつき、消毒液の匂いが喉の奥で金属の味に変わった。
「……もう少しで閉腹だ。持ってくれよ」
マスクの裏で唇が乾く。声は布に吸い込まれ、機械音にかき消された。
結城一真
結城一真は、指先の震えを意志で押さえ込み、メスを置いて針持ちに替える。
午前三時。執刀から八時間目。腰は鉛のように重く、膝は立っているだけで悲鳴を上げる。
それでも――眼前の切開線は待ってはくれない。
モニターの緑の波が、ひゅ、と浅くなった。
ピッチの高いアラーム音。胸の内側で、別の鼓動が二拍ほど遅れた気がする。
心拍が戻る。数値が安定。チームの息が揃う。
緊張と集中の境目で、視界の端が黒く揺らめいた。
(倒れるな。最後まで――)
縫合糸を引いた瞬間、蛍光灯が爆ぜるようにひときわ強く光った。
耳鳴り。音が水に沈む。
緑の波線が遠のいて、白が視界一面に溢れ――。
*
頬に触れるのは、冷房の風ではなかった。
草いきれを含んだ、やわらかな風だ。
土と乾いた木の匂い。遠くで鳥が鳴き、牛の低い声が尾を引く。
目を開けると、見知らぬ天井。節の多い梁。白い漆喰。
蛍光灯の直線的な白ではなく、窓から射す自然光の柔らかい白だった。
上体を起こす。麻布のシーツがすべる音。寝台は金属ではなく、しっかりした木の軋みを鳴らす。
呼吸は安定。脈は規則的。喉の渇きは軽度。室内の温湿度は二十数度、湿度は低め――。
思考は瞬時に、医師の観察へと滑り出した。
視線を巡らす。壁際の棚には陶器の瓶と束ねた薬草。
手書きのラベルは「セージ」「カモミール」「アロエ」。
(読める。表意じゃない。筆記は癖が強いが、ラテン系……いや、この世界の共通語?)
窓の外に、茅葺きと赤茶の屋根が交ざる村の景色。
人の話し声。井戸の釣瓶の軋み。牛の鈴。
どこを見ても、さっきまでの手術室とは繋がらない。
口の中に、わずかな金属味――不安が唾液の化学を変える。
(ここは病院じゃない。診療所……?)
ベッド脇の水瓶に近づき、反射的に匂いを嗅ぐ。
藻の匂いは薄い。透明度良好。ただし煮沸歴はない。
手を洗いたい衝動が、手首から先を熱くした。
そのとき、外から人の走る音。
次の瞬間、扉が弾けた。
「お医者さまっ! お願いです、弟が――!」
土埃の匂いが薬草の香りを押しのけて流れ込む。
十歳くらいの少女。焦げ茶の三つ編み。汗で張りついた前髪。
腕の中に、ぐったりした小さな少年。額は血で濡れ、呼吸は浅く、色が悪い。
身体が先に動いた。
「ここに寝かせて」
声が自分のものかを確かめる前に、勤務医が目を覚ましていた。
木の診察台は剛性がある。十分。
額の創は二・五センチ程度、裂創。出血中等量。頭部外傷疑い。
意識レベルは――「トム、聞こえるか?」
反応なし。痛み刺激でわずかに眉が動く。呼吸数はやや速い。脈は細いが触れる。
「君の名前は?」
「リナ……リナ・フェルナです。弟はトム。森で転んで、石に……!」
不安と罪悪感が混ざった匂い。声は震え、語尾が潰れる。
安心させる言葉が必要だ。
「大丈夫。落ち着いて。君はよく連れてきた。トムは助かる」
布を取り、圧迫止血。
水瓶に手を伸ばし、思いとどまる。煮沸なしの水は使えない。
代替は――棚の薬草。セージ、カモミール。
(消炎・抗菌作用。煎出に時間は要る。今は圧迫継続だ)
手袋はない。手洗いができない。
その瞬間、自分の両手が淡く光っていることに気づいた。
掌の皮膚の下で、微小な鼓動の粒が灯る。
患者の心拍にシンクロするように、光が明滅する。
(何だ……これは)
問いは途中でちぎれた。トムの胸郭がふっと小さく停止。
「トムっ!」
リナの叫びが診療所の空気を切り裂く。
思考を飛び越え、胸骨の中央に手を当てる。
圧迫の角度――ではない。触れるだけでいい、という直観に近い命令が身体から立ち上がった。
――光が弾けた。
金色の薄膜が波紋のように広がり、傷口の血流が静まる。
縫合していないのに、裂けた皮膚がゆっくり閉じ、凝固が進む。
呼吸が戻る。胸郭の上下が規則正しくなり、頬に淡い赤みが差した。
音もなく、頭の内側で声がした。
――【スキル癒光の手が発動しました】。
機械でも天啓でもない、事務連絡のような無機質さ。
こんな非現実に、日常の紙片が混じる可笑しさに、思わず息が漏れる。
リナが、両手で口を押さえ、目を見開いた。
「……お兄ちゃん、生きてる……」
声が涙で濡れ、次いで堰を切ったように嗚咽へ変わる。
床に落ちた涙の円が、光を吸い込んで震えた。
一真は手を離し、息を吐く。
胸の奥で、安堵と遅れて来た恐れがぶつかり、骨を軋ませた。
(いまのは奇跡か? それとも――医療の延長として、理解できる現象なのか)
現実確認。
トムの呼吸数は正常化。脈は充分。顔色の回復良好。
頭部打撲後の観察が必要。嘔気・頭痛・眠気の有無。
「トムは大丈夫。今日は安静。水を少しずつ。頭を高くして休ませよう。吐き気や痛みが出たら、すぐに呼んで」
リナは泣きはらした目で必死に頷く。
その顔に、少しだけ余裕が戻った。
誰かが助かったという事実が、室内の匂いを変える。
薬草と土の匂いのあいだに、温かい麦の香りのような安堵が混じった。
「礼は要らない。君はよくやった。ここまで抱えてきて、偉かった」
言葉が口を出る前に、胸の奥で形になっていた。
過去の夜勤明け。救えた命。救えなかった命。
笑顔と沈黙。
最後に見た患者の口が「ありがとう」と動いた光景が、一瞬だけ重なる。
(俺は、まだ――医者でいていいのか)
掌の光は、次第に淡くなり、やがて皮膚の温もりだけを残して消えた。
さっきまでの白い蛍光灯とは違う、生の体温だけがそこにある。
外で、風鈴のような鐘の音が鳴った。
村の昼を告げる合図だろう。
窓から入った風が薬草の束を揺らし、葉が擦れあう小さな音が、心拍と同じ速度で胸に触れた。
「……さて」
一真は深く息を吸い、空になった水瓶を見る。
煮沸用の釜が必要だ。手洗いのための清潔区域。
包帯の再使用は危険。洗剤と日光での乾燥。
最低限の救急セット。器具の整備。薬草の保管温度――。
今日やるべきToDoが整然と積み上がっていく。
「今日から俺の診療が始まる。ここを“安全な診療所”にしよう」
独り言に、声の芯が戻る。
医師としての現実と、この世界の光を、両方使えばいい。
「……あの、また来てもいいですか?」
扉の前で、リナが小さくお辞儀をしていた。
「もちろん。トムの具合も見せて。あと、清潔な布があればいくつか持ってきてくれると助かる」
「わかりましたっ!」
少女は走り去り、土と草の匂いがふたたび風に溶けた。
静けさが戻る。
机に手を置く。木目のささくれが指の腹に引っかかった。
ここが現実だと、遅れて触覚が教えてくれる。
今日も、誰かの命を預かる。
その意味がある限り、俺はきっと――医者であり続ける。
*
夕刻。
太陽が傾くころ、一真は診療所の裏庭に出ていた。
瓦礫の山だった場所を片づけ、小石で囲った浅い穴を作る。
そこに薪を並べ、鉄鍋を据えると、即席の煮沸釜ができあがった。
「……これで、最低限の衛生は保てるな」
指先にこびりついた灰を払い、汗を袖でぬぐう。
異世界に来て最初に作ったものが“神殿”ではなく“手洗い場”というのが、いかにも自分らしい。
そう思うと、自然に笑みがこぼれた。
診療所の前には、井戸と桶を組み合わせた簡易洗浄台も設置した。
竹筒をくり抜いて蛇口代わりにし、上から吊るした革袋に水を入れる。
袋の底に開けた小さな穴は、押さえを外すと一定量ずつ水を落とす。
手指全体が濡れるまで二回――石鹸代わりの灰を少量。指先から手首へ。
それから清水で流す。最後に日光で乾かす。
「これで……手を洗える。文明、第一歩だ」
陽の光にきらめく水滴が、灰と血の匂いを洗い流していく。
新しい空気が胸に入り、肺が少し膨らんだ。
道の向こうから二、三人の影が近づいてきた。
農夫らしい男たち。肩には鍬。
診療所の前で立ち止まり、興味と警戒の混ざった目でこちらを見た。
「お、お前さんが……リナの弟を助けた医者か?」
「そうだ。医者というより、村の“手当屋”ぐらいで考えておいてくれ」
「光が出たって聞いたぞ。神の奇跡かと思った」
「いや、あれは奇跡じゃない。治療の一種だよ」
そう言うと、男たちは顔を見合わせ、どこか安堵したように笑った。
「ありがてぇ話だ。うちの爺様も腰をやっててな。明日、見てもらえるか?」
「もちろん。診察料はいらない。ただ、煮沸した水と清潔な布を持ってきてほしい」
「煮……? にふつ?」
「湯を沸かして、その中で布を茹でるんだ。汚れを取る。病がうつりにくくなる」
「なるほどなぁ」
男は感心したようにうなずくと、家に走って戻っていった。
それを皮切りに、次々と村人が顔を出す。
「トムの傷が一晩で治った」――そんな噂は、夕暮れまでに村じゅうを駆け巡った。
夜。
診療所の灯りを見て、数人の子どもたちがこっそり覗きに来ていた。
窓の隙間から、淡い光が漏れているのが見えるらしい。
「神さまが住んでるのかな」
「いや、お医者さまだよ」
囁く声に、一真は笑いをこらえた。
煮沸釜の湯気が、夜気に白く立ち上る。
薬草を吊るした梁の下で、木机に布を並べ、明日の往診の準備をする。
包帯、草の軟膏、木の匙、革製の水筒。
ひとつずつ点検しながら、訪問先を思い描いた。
リナが言っていた。
「明日、教会に“聖女さま”が来るんです。トムのことをお祈りしたいって」
(……聖女、か)
祈りで病を癒すという、その存在。
医療と奇跡が交わる場所に、何が生まれるのか。
それは対立か、協力か。
彼女が“祈り”を持って来るなら、こちらは“手洗い”を持っていこう。
大切なのは、どちらが正しいかではなく、目の前の命が助かるかどうかだ。
釜の湯が音を立てて沸き始めた。
湯気の向こうで、月が白くにじむ。
「奇跡でも魔法でもいい。
でも、“手を洗う”ことから始めよう。
命を救うのは、たぶん、その小さな積み重ねだ」
水滴が掌を伝い落ちる。
手のひらの光は消えても、温もりだけは確かに残っていた。
明日は往診の日。
村に広がる噂が、やがて聖女の耳に届く。
それが、彼と彼女の最初の出会いになる――。
日が傾きはじめるころ、診療所の前を小さな影がいくつも走り抜けた。
その向こう、広場からは笑い声と楽器の練習のような音。
壁の薬草は夕陽を吸い、緑から金へと濃さを変える。
新しい世界の、一日目が、穏やかに暮れていく。
俺は奇跡を起こすためにここへ来たんじゃない。
誰かが明日を迎えられるように、ただ手を伸ばすために来たんだ。
ここは戦場じゃない。
誰かを救って、誰かが笑える場所だ。
今日から俺は——この村の医者になる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます
「五感」「医師の観察」「感情の波」を意識して書きました。
続きが気になっていただけたら、ブクマ・評価・感想で応援をいただけると励みになります。
次回――“聖女さま、初めての往診”。信仰と医療が、最初に交わります。




