夫が私に捧げたもの
嫌悪というものが、どれほど恐ろしく、人を追い詰めるものなのか。そして、愛情と嫌悪が表裏一体であるということを私は強く理解していた。
私のことを愛し、狂ってしまった男。愛する女に拒まれ、憎悪へと変わったその果てに愛した女を殺してしまった惨めな男。
それが私、ルシル・フォン・ハルトレイルの魂に刻まれた前世の記憶だった。
ストーカーに酷く悩まされ、挙句の果てにストーカーの手で殺されてしまった記憶。生まれ変わりを果たしても尚、その記憶だけは確かに私の中に残っていた。
前世での自分の名だって、もうとっくの昔に忘れてしまったというのに。まるで男の呪いがいつまでも私を蝕んでいるように、毎晩のように出来事が夢に出てきては私を酷く苦しめた。
「初めまして、ルシル嬢。アレクシス・フォン・シルヴィアです」
だから驚いた。私の夫になるという男が、あんまりにも私に興味のない目をしていたから。
私は前世同様、容姿にだけは恵まれていた。祖国では令息たちから何をすることもなく好意を向けられ、溢れんばかりの贈り物を受け取った。
まあ、その対価なのかは分からないが令嬢たちからは強い憎悪を向けられてしまったけれど……。
令嬢たちからはいつだって鋭い視線で睨みつけられ、嫌がらせは後を絶たなかった。
恐らく、私が誰にも告げ口しないマヌケな女だと認知されていたことも大きいのだろう。侯爵家の娘である私が声を大きくして、その嫌がらせの事実を公にしていれば惨めに枕を涙で濡らすこともなかったかもしれない。
だけど私は敵意を隠そうともしない令嬢たちにいつだって笑顔を向けてきた。へらへらと何も気にしていないと笑って見せたのだ。
そのうえ、自分に嫌がらせをしてきた令嬢たちに豪華な贈り物をしたり、時には家の名を使って庇ってやったことだってある。私がどれだけ周囲の人間からの好意を得るために苦労したかは言葉では言い表せられないほどだ。
しかし、私はけして善人なわけではない。美しい容姿を神から授かったとて、私の心は人並み以上に荒んでいるのだから。
そう、私の行った全てが自分のため。この息苦しい貴族社会で、少しでも生きやすくするための術。
そうして必死に築いた平穏の上で、私はそれなりに満足のいく生活を送っていた。……私に恐怖の宣告が下されるまでは。
『ルシル、お前に結婚の話が来たよ。隣国、セイロンド王国の公爵だ』
……満面の笑みでそう言い放った父の言葉が、どれだけ私を苦しめたことか。
全てがやり直し、初めからのリスタート。ああ、なんてこと! ここまで生きてきて、私は本当に沢山苦労したの。それなのに、今度は祖国のために隣国の公爵に媚びを売って生き続けなければならないだなんて……。
しかし、思っていたよりこの結婚生活は悪いものではなかった。
私の夫となった男、大国セイロンド王国の公爵家、アレクシス・フォン・シルヴィア公爵。
私が結婚前にこの男について知っていたのは、王妃の甥にあたる公爵様は、実の息子である王子達よりも王妃に溺愛されているという噂と、十七歳の時に両親を事故で亡くしているということ。
彼は、私の嫌がることをしない人だった。結婚してから早くも一年。夫は、指一本たりとも私に触れていない。ただ、私が望んでいないという理由だけで。
まだ公爵様が若いこともあってか、跡継ぎ問題や、私たちの関係に対して何か言ってくる者は居なかった。
もちろん、不満を持つ者は少なからず居ただろうが、アレクシス公爵の両親は既に他界しており、新たに公爵夫人となった私に文句を言えるものなど誰一人としていなかったのだ。
ろくでなしの父から言い渡された命は、たったひとつ。
『お前は容姿だけが取り柄だ。分かっているね? お前は、父さんのために生まれてきたんだ。しっかりと公爵を魅入らせて、取り込むんだよ』
女好きのくせに、男尊女卑思考でDV気質だったお父様。口癖のように、私の顔を見る度に「お前の取り柄はその顔だけだ」と言い放ったお父様。
私は父のことなんて大嫌いだったけど、父に見捨てられて弱り果てた母のためにも父の命令は私にとって絶対的なものだった。
だから、嫁ぐ前には必死に公爵様に媚びを売ることばかり考えていたが、驚く程に夫は私に興味がないようだった。
そして、もちろん私も夫に対して特別な感情を抱くことは当然ない。貴族にとって愛は贅沢品。これは、高貴な侯爵家に生まれたものの悪名高い男爵家の三男の父と駆け落ちして、結局は全てを乗っ取られた惨めな母が言っていたことだが……私からしてみれば、貴族であろうが平民だろうが同じことだ。
愛や恋など、くだらない。一時的に燃え上がった熱で頭が煮えて、気でも触れてしまうのだろうか。恋の病とは、よく言ったもの。恋心などいう異質な感情は惨めで愚かで残酷なもの。そんな感情を抱いてしまったからには、悲しい結末しか待っていない。
だから私は、このまま夫となるべく顔を合わせないように過ごしていきたかった。死んだネズミのように息を殺して、公爵夫人としてやるべき仕事だけを淡々とこなして静かに暮らす……それだけが私の願いだったのに。
「夫人、申し訳ございません! うちの愚息がご無礼を!」
それは、シルヴィア邸で開かれたパーティーでのことだった。
「…………」
「夫人? 大丈夫でしょうか、夫人?」
本来なら、まだ成人も迎えていない令息に突然ぶつかられても笑って受け流すのが淑女の嗜みであり、公爵夫人として正しい在り方だ。
たとえ、胸元にかけられた赤黒いワインが、過去の嫌な記憶を呼び覚ます引き金になったとしても。
『どうして僕のモノにならないんだよ……僕は、こんなにもお前を愛してやったってのに!!』
しっかりして……しっかりしなさいよ、私のバカ!
私の名前は、ルシル。ルシル・フォン・ハルトレイル。いつまでも意味の分からない記憶に苦しんでる場合じゃないのよ。私はもう、シルヴィア公爵家の公爵夫人なんだから。いくら他の人が自分を蔑んで来ようとも、自分だけはしっかりと役目を果たさなくちゃいけないのに。
私は自分にそう言い聞かせて、必死に口角をつり上げた。
「令息、夫人、あまりお気になさらないでください。ドレスは着替えればすぐに済むことですわ」
「公爵夫人、本当に申し訳ございません!」
「私は大丈夫です。怪我もしていませんし、何より令息にお怪我がなくて安心致しましたわ」
「で、ですが、公爵夫人……」
黒の燕尾服と黒のパーカーは全く別物でしょ? よく考えれば分かること。大丈夫、この屋敷の女主人である私に危害を加えられる人間なんて、ただの一人もいないんだから。
「ですが公爵夫人、お顔が真っ青ですわよ……!」
「……はい?」
まさか、そんなはずないでしょ。私の唯一の取柄はこの整った容姿で、唯一の特技が作り笑顔なのよ。
けれど、思考とは別に身体は限界に達していたようで一気に視界が揺れると、足元がふらつき、全身から血の気が引いていくのがわかった。
ああ、これは、もうダメかも……。
自分の身体のことは自分が一番よく知っているとは言うけど、あんまりにも突然すぎるわよ!
そんなことを考えながら私は床に崩れ落ちた。慌てふためく夫人の悲鳴が遠くでこだまし、隣でただ呆然と立ち尽くす幼い令息の唖然とした顔が滲むようにぼやけて見えた。どこか遠くでざわめきのような声や悲鳴も聞こえる。
揺れる視界の中でゆっくりと目を閉じようとすると、誰かが私の身体を抱きとめた。
「大丈夫ですか?!」
声を聞いて、すぐに誰なのか分かった。私を見下ろしている男の正体。
あなたが感情を顔に出すところなんて初めて見たわ。おかしいわよね、私はあなたの妻なのに。
青みを帯びた黒髪と、透きとおるような蒼の瞳。倒れかけた私の身体を抱きとめたのは、アレクシス・フォン・シルヴィア公爵……私の夫だった。
夫とは言っても、単なる政略結婚で私たちは丸々一年間まともに目を合わせていないほどの関係なのに。
神よ、私が一体何をしたというのです。私は、一度だってこんな運命的な再開は求めていないのに!
しかし、悲しいことに私を助けてくれる存在は今、この男しかいないのだ。
「……外に、連れて行ってください……」
今にもガタガタと震えあがってしまいそうな身体を押さえるしかない私が出来ることといえば、形式上の夫に助けを乞うことだけだった。
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「ふうう……」
手を胸に当てて、そっと息を整える。
「落ち着きましたか?」
「ええ、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません、公爵様」
庭園の片隅、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。私はアレクシス公爵と並んで腰を下ろし、ようやく胸の奥で暴れていた鼓動が静まっていくのを感じた。
まあ、隣にはこの男がいるし、私が落ち着ける場所なんて世界中探してもどこにもないんだけど……。
「…………」
「…………」
ただただ沈黙が流れる。互いに何を言うでもなく、会場から漏れる賑やかな音だけが私の耳に響いていた。
うーん、気まずい。公爵様、早く会場に戻らないかしら。
ここまでの道中、私は公爵様の腕の中でお姫様抱っこ状態で運ばれてきた。しかも、何を考えたのか彼が使用人たちに出した「誰も来るな」という命令のせいで、庭園には私たち二人しかいない。どう考えても地獄の空間だった。
「あの令息を、二度とあなたの前に現れないようにしましょう」
この沈黙を先に破ったのは彼の方だった。唐突に告げられたその言葉に、私は思わず顔を上げる。
「待ってください、彼が悪いわけではありません私が悪いのです。昔の嫌な記憶を突然思い出してしまって、気分が悪くなってしまって……ですから、どうか大事にしないでください」
「それでも嫌な思いをさせられたということに変わりないでしょう。あなたはシルヴィア公爵家の夫人です。たかが令息一人に対して謙遜されることはない」
シルヴィア公爵家の、公爵夫人として。
まあ、そうよね。当主である彼からすれば、私はきまり悪い存在でしかないんだわ。
この人は普段何を考えているのだろう。怒りも、喜びも、哀しみさえも表に出さない。十七歳という若さでこの大きな屋敷を背負うには、そうした心の鎧が必要だったのかもしれない。……けれど、だからこそ私はどう動けばいいのかサッパリ分からなかった。
「……以後気を付けますわ、公爵様」
私はアレクシス公爵から視線を逸らしたまま、そう言い放った。それに対して彼が何か返事をすることはなかった。視線は合わない。いつも通りの私たちだ。
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あの日の出来事は、私の中でひそかに黒歴史となりつつあった。
約一年ぶりの夫とのまともな会話だったのだから、もう少し気が利くことを言うべきだったのに。
きっと、今私に与えられているものは、私のような妻を迎えてしまった公爵様を憐れんだ神からの罰に違いない。
「どういうつもりなのでしょうか、夫人?」
透き通るような金髪を揺らしながら、私を睨みつけるシャーロット・ロゼリア公女。
「弱小国の侯爵家の出のくせに、わたくしの婚約者となられるお方に手を出すだなんて全くいい度胸をされていますわね?」
「ロゼリア公女……私には、公女が何言っているのかさっぱり分かりませんわ」
「あら、この期に及んでまだ白を切るつもりなのかしら?」
ロザリア公女の扇を軽く打ち鳴らす音が、やけに鋭く響いた。
ああ、本当に面倒なことになってしまった……。
今日は、剣術大会前夜祭を祝う宴に参加するために遥々王宮まで来ていた。
そこで酒に酔った若き王子が言い放った言葉を引き金に、ロザリア公女は怒り狂ってしまったようだった。
『必ず僕が剣術大会で優勝するさ。そして、宝石花をレディー・ルシルに捧げるのさ!』
セイロンド王国では四年に一度、国を挙げての剣術大会が開催される。若き騎士や貴族の子息たちが名誉と賞金。そして、優勝の証である”宝石花”を手に入れるために競い合うのだ。
問題はその大会ではない。厄介なのは、王子がその宝石花を私に捧げると人前で宣言してしまったということ。
全ては、“愛するレディーに宝石花を捧げた者は、そのレディーと永遠に結ばれる”という、何とも古臭いロマンティックな言い伝えのせいだった。
王子が私に向ける熱い視線には、とうの昔に気づいていたが、王子の私に対する想いは燃え上がる焔などではないからと油断してしまっていた。それは誰しもが若き頃に抱く淡い憧れ、年上の者への理想化が混じった一時の幻想にすぎない。
そのため私には、全てを持っているロゼリア公女が何をそこまで焦っているのか理解できなかった。
まあ、私の人生は同性から疎まれ憎まれる運命なのだと思えば、簡単に片付くことかもしれないけど……。はあ、自分で言っていて虚しいったらないわね。
「いくら夫人が社交界に顔を見せることが少ないとはいえ、わたくしと王子の間に婚約の話が出ていることくらいご存じでしょう?」
「王子様の婚約者候補のご令嬢たちの名は、確かに何度か耳にしましたね」
「では、その最有力候補であるわたくしを差し置いて、王子殿下が夫人に宝石花を贈ると宣言なさるなんて一体どういうことなのでしょうか?」
どういうことかって? そんなの、こっちが聞きたいわよ!
たった数回会話を交わしただけの王子様が私に好意を持つことも有り得ないし、たかが迷信を信じているこの国の人々も信じられない。第一、私は既婚者なのよ。
ぐるぐると回る思考を止めるために、心の中でため息を吐いて、心を落ち着かせることに意識を向けた。
大丈夫、大丈夫。いつものようにヘラヘラ笑って誤魔化してしまえばいいのよ。そう、自分に言い聞かせて。
「どういうも何も、ロゼリア公女もご存じの通り、私には夫がおりますわ。そして王子様の私に向ける好意など、ただの一過性の感情に過ぎません」
ある程度の人生経験を積んだ貴婦人であれば、王子の好意が一時のものだと理解しているはずだ。だからこそ国王も王妃も、大切な跡継ぎである王子を傷つけぬよう何も口を出さない。私と夫の仲が円満ではないことがとうの昔に社交界中に知れ渡っていることも大きいのだろう。
「確かに夫人にはとても素敵な夫君がおりますね。王国中の令嬢たちが放っておかないほど素敵な公爵様。その人気は結婚後も衰えていないとか。あのような方が旦那様だなんて、本当に羨ましい限りですわ」
「……ロザリア公女」
「あら、どうなさいましたの? まさか、ご存じなかったのですか? わたくし、てっきり夫人はお気づきなのだとばかり……。公爵様は、ただ美しい顔立ちに惑わされるような浅薄なお方ではございませんもの。当然、ご自分が本当に愛すべき方を既に理解されているでしょうね」
茨のように棘のある姫。ロゼリアの家紋でもある薔薇の姫ではなく、茨と呼ばれた理由が今はっきり分かった。
その声音は甘く柔らかいのに、ひとつひとつの言葉が鋭く胸を刺す。
シャーロット・ロザリア公女。この国で最も王家に愛され、民に慕われる少女。そして、私にとって最も厄介な敵。シャーロット・ロザリア公女……まったく、本当に生意気な子だ。
愛されて育った者特有の、全てが自分の味方で、思い通りなのだと信じて疑わない、その圧倒的な自信。
わざわざ人前で声を荒げるのではなく、人気の少ない場所に私を呼びだす、その慎重さと計算高さは、ずる賢いと呼ぶべきか、あるいは聡明と称えるべきか。
「どうか、ご自分の立場を今一度お考えになった方がよろしいかと存じますわ。夫人のためにも、夫人の愛する祖国のためにも……」
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いずれ、この結婚生活の終止符を彼から突然打たれたとしても、私はきっと表情ひとつ変えずに頷くだろう。驚くことなど何もない。夫婦の務めを果たしたわけでもなければ、私たちは愛し合っていたわけでもない。
けれど私は愛という愚かな存在がないからこそ、この政略結婚という名の契約は成立するのだと信じていた。……しかし、公爵様に愛する人ができたのなら話は別だ。愛や恋がくだらないという考えは今でも変わらない。けれど、人の感情や行動に口を出す権利など私にはない。
だから、公爵様が私に離婚を申し込んで来た時はすぐに同意するつもりだ。多額の賠償金を貰って、祖国に帰ろう。あの国なら、これまで築いてきた愛想笑いの努力の甲斐あって私に後ろ指をさしてくる者はいないはずだから。
なによ、これで全てが自分の望み通りになるじゃない。何も焦ることはなかったんだわ。公爵様だって私に興味がないし、私だってこんな面倒事に巻き込まれるのは御免だわ。
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そして、あっという間に剣術大会の日がやって来た。この日まで、どれだけ頭を悩ませたことだろう。それでも今日で全てが落ち着くと思えば、高鳴る胸をどうにか抑えることができた。
王宮の広場には、色とりどりの華やかなドレス纏い、剣術大会に参加するそれぞれの夫や婚約者に頬を染めながらハンカチを差し出すご令嬢や夫人に、ハンカチを照れくさそうに受け取る紳士たちの光景は何とも微笑ましいものだった。
私はというと、一応は用意してきたハンカチを手に、少し離れた場所から夫を見つめていた。
銀色の甲冑に包まれたその姿は、太陽の光を反射して眩しく、青がかった黒髪が風に揺れている。その周りには、まるで光に群がる蝶のように華やかな令嬢たちが集まっていた。
光に照らされる彼とは正反対に、私は大きな木が作り出した影で一人佇んでいた。
夫婦なのに、私たちはまるで違う場所にいるのね。
建前上として作ってきたものではあったが、この日まで毎日必死になって慣れない刺繍に苦労したことを思い返すと、ついため息が零れそうになる。ああ、私って本当に滑稽ね……。
頬を染めてアレクシス公爵にハンカチを差し出すレディーたち。
なんだか、虚しくなってきた。この日まで悩んでいた自分が酷く愚かに思えてしまう。
令嬢たちから沢山のハンカチを受け取っている夫なら、私が王子から宝石花を捧げられようがどうってことないでしょ? お互い様じゃない。
「……バカみたい」
私は手に持っていたハンカチをぎゅっと握りしめると、踵を返す。私専用の控え室に戻って、紅茶でも飲んで心を落ち着かせよう。そうすれば、少しは気分も良くなるはずだから。これから訪れる、より大きな嵐を受け入れるために備えておかなくちゃ……。
「どこへ行かれるのですか」
そう思った矢先、背後から聞こえたのはよく通る低い声だった。
「……アレクシス公爵様」
振り返ると、そこにはアレクシス公爵が立っていた。手には沢山のハンカチを握られている。彼の背後では不満そうにこちらを睨みつける令嬢たちの姿が。
「何か、俺に用があったのでは?」
なんなのよ……どうして私を呼び止めたりしたの? 私に恥でもかかせたかったわけ?
「その、公爵様のご無事を祈って私が刺繍を施したハンカチをご用致したのですが、あなたには既に沢山の……」
私が言葉を終えるより早く、アレクシスは手にしていたハンカチの束を静かに放した。柔らかな風に乗って、いくつもの布がひらひらと宙を舞い、地面に散らばっていく。
その一枚一枚に、どれだけの想いが込められているのだろう。
彼は一片の迷いもなく私の方へ歩み寄ると、私の手に握られたハンカチを取った。
「あの……?」
「受け取れないと言ったのですが、無理やり握らされてしまったのです。不快にさせてしまったのなら謝ります」
「そ、そうではなくて……私からのハンカチを、受け取ってくださるのですか?」
ほんの一瞬、彼は不思議そうに瞬きをした。
そして次の瞬間には当たり前のように言い放ったのだった。
「もちろんです、妻からのプレゼントを受け取らない夫がどこにいますか」
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試合開始を告げるラッパの音が高らかに響き渡ると、ドーム型の競技場が割れるような歓声に包まれた。まるで王国中の熱狂がこの一瞬に凝縮されたかのようだった。けれど私の心は、そんな高揚とはまるで無縁だった。胸の前で両手を合わせ、ただ祈る。
どうか、これ以上、面倒なことが起きませんように……。
こちらに向かってパチンとキザなウィンクを飛ばしてきたのは、レオニス・フォン・リジアン・セイロンド王子殿下。
そのあまりに自信に満ちた仕草に、私は条件反射のように愛想笑いを返した。
おかげで、先程からこちらを睨みつけているロザリア公女の怒りが強まってしまったのだが……はあ、本当に疲れる。
観客席では令嬢たちがキャッキャとはしゃぎ、貴婦人たちは自分の息子の無事を願って神へ祈りを捧げている。
華やかな笑い声が遠くで響くほど、孤独と倦怠が鮮明になった。
試合も最終局面に差し掛かった頃。
最後の二人、どちらかが今大会の優勝者となる決定的瞬間だった。
剣を構えるレオニス王子の正面に立つのは、私の夫であるアレクシス公爵。
そう、最終試合はレオニス王子とアレクシス公爵の二人だったのだ。
王妃の甥である公爵様にとって、王子は従兄弟にあたる存在。特別仲が良いと聞いたことはないが、それでも近しい関係であることに変わりはない。
二人が向かい合った瞬間、観客の空気がぴんと張り詰める。
しかし、観客席に座る全員がこの試合の優勝者が誰なのか知っていた。
これまでの対戦者たちは皆、幼い王子の顔を立てるため、わざと剣を落としてきた。剣など一度も握ったことのない私にさえ、その芝居じみた戦いぶりを見抜けるほど。
初めから、この剣術大会の優勝者は決まっていたも同然。大会に優勝し、"宝石花"を手に入れた王子は果たして本当にレディーにとって最高の栄光の象徴である"宝石花"を私に捧げるのだろうか……。
夫を打ち破った勝者から、愛の象徴を受け取る妻。
その光景は、周囲からどう見えるだろう? 公爵様は、そんな私を見て、少しは表情を崩すかしら? それはそれで、少し見てみたいかもしれないわね。
銀色に輝く剣が重なり合い鋭い剣先が閃光を描いた。公爵様の剣が王子の防御を弾き、鋭い切っ先が王子の喉元をかすめた。
神よ……これは一体、どういうことなのでしょうか?
本当にありえない光景だった。会場が一瞬にして困惑に包まれる。
「まあ、なんてこと!」
「まさかこんなことが……」
困惑の声を上げ始めた令嬢や貴婦人たちに、それはこっちのセリフだと叫びたくなった。
ああ、なんてことなの? まさか、公爵様が王子に勝ってしまうだなんて!
ちらりと王族席を見上げると、楽しげに髭を撫でながら愉快そうに笑っている国王陛下と、その隣で罰が悪そうに扇子で口元を隠している王妃殿下の姿が目に入った。
「王子、申し訳ございません。我ながら大人気がないことは重々承知なのですが、どうかお許しください」
「くそぉっ、公爵! 貴様……!」
「王子も、いつか自分の妻に渡せばいいでしょう。ですので今回は俺が、俺の妻に捧げることとさせてください。次回は必ず勝利を譲って差し上げますので」
神様、信頼できる者がこの世界で誰一人居ない私にとって、頼れるのはあなただけです。だから教えてください、一体どうすればこんなことになるのでしょうか。
胸が高鳴って仕方ない。それは鼓動というよりも、心臓をそのまま殴りつけられているかのような煩さだった。
「この世で最も愛する妻に捧げます」
私がこの世で最も恐れている言葉を言って、アレクシス公爵が私に差し出したのは優勝トロフィーと共に優勝者に与えられる宝石花だった。
悔しさから涙と鼻水で顔をグチャグチャにしているあのマヌケな王子が私に贈ると息巻いたせいで、ここ数週間私を悩ませ続けた愚かしくも美しい宝石でできた花。
彼が私に宝石花を差し出した瞬間、さっきまでうるさくて仕方なかった胸の高鳴りが、まるで死人になったかのようにピタリと止まった。
私は一体、何に緊張していたのだろう。そして今、何に胸を高鳴らせていたのだろう?
夫が、他のレディーに宝石花を渡すことを怖がっていたのだろうか。ロザリア公女の言っていたように、私以外の本来の愛する者へ。
分からない。まるで自分の考えに理解が追い付かない。こんなことは、生まれて初めてのことだった。
「…………」
私は無言のまま、この国のレディーたちが最も憧れる瞬間を過ごした。いつもの得意な笑みも何もなく、ただ心のままに。
「夫としてあなたに何ができるのか、俺にはさっぱりわからないのです。ですが俺は、あなたのことを大切に想っています。これが俺の気持ちです」
剣術大会の優勝商品である、宝石花。花びらの一枚一枚が宝石で出来た、レディたちが喉から手が出るほど欲しがる品。
経験も歳もかけ離れている貴婦人たちとも、若く可憐な幼い令嬢たちとも話の合わない私は、この国で浮いた存在だった。それは、私と公爵様の関係が上手く行っていないという噂が浮きだっていたということも大きいだろう。彼は私に興味がない、皆そう分かっていたから……。
まっすぐにこちらを見つめて、ムカつく奴らの目の前で私に跪き宝石花を捧げる夫の姿を見ていると、不思議とスッキリとした気分になる。私って、やっぱり相当性格が悪いみたい。
彼から大切にされているという事実は、ずっと昔から気づいていた。今までに受けたことのない優しさ、それが私は怖かった。他の人と違う、それだけで怯えて避けてしまうような、私はとても弱い人間だから。
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「幼くして両親を亡くされたにも関わらず、あんな上っ面だけの嫁を貰って公爵様も哀れだと思っていたけれど、まさかあんなことをされるなんてねぇ」
「公爵様は伯母である王妃様が母代わりのようなものでしたから、遅めの反抗期のようなものでしょうか? あんなにも動揺された王妃様を見るのは初めてでしたわ」
「もしや、公爵夫人が自分を愛してくれなきゃ死んでやるとでも言って公爵様を脅されたのではないでしょうか?」
ヒソヒソと噂話に花を咲かせる貴婦人たちは、どうやら張本人である私に聞こえないよう気遣うつもりはないらしい。
しかし不思議と心は波立たなかった。いつもなら息苦しいほどに気にしていた視線も嘲るような声も、剣術大会後の宴に参加するために使用人達が一生懸命に私の髪へとあしらった宝石花の輝きが全てを浄化してくれているように感じた。
そんな私の歩を止めたのは、魅惑的なアメジストの瞳を持つ一人のご令嬢。
「私に何かごようでしょうか、公女?」
私のことが大嫌いで仕方のないこの国の公女シャーロット・ロザリアだ。
「しらばっくれても無駄よ、公爵様に何を言ったの? あなたの実家が公爵様に圧をかけることなんてできるはずないし、どうせあなたが何か仕出かしたんでしょ! それとも、その見掛けだけ優れた容姿で誘惑でもしたわけ?!」
また言いがかりを付けられると思ってはいたが、予想していない反応だ。性根が悪いとは思っていてもそれは年頃のご令嬢ならありがちな嫉妬心のようだと思っていたのに……彼女の場合は、王子への想いよりも私に対しての怒りの方が強かったようだ。
公爵家の娘らしく品のあるオーラは見事に消え去り、そこに居たのは怒りを露わにしている惨めな少女が毒蛇のようにこちらに威嚇している。
「何を仰りたいのか、私にはまるで理解ができませんわ」
「それじゃあもっと分かりやすく言ってあげるわ。あなたのやっていることは、汚らわしい娼婦と何ら変わりないってことよ!」
この子は一体何を目指しているんだろう? 私の何がそこまでこの子の気を損ねてしまうのだろう。
私なりに考えてみたこともあった。人から言われたことを全て真に受けて、自分のために行ってくれるのだと改善しようと奮闘したことだってある。でも、その全てが無駄だったお言うことも私は十分知っていた。
理由などない。問題なのは相手ではなく、彼女は全てが自分の思い通りにならないという事実に腹立っているのだから。
でも、なぜかしら?酷い言葉をかけられて、こんなにも侮辱されているというのに、不思議と怒りが込み上げてはこないの。
「不思議なんです、公女。前までの私なら、きっとあなたに腹が立って今にも頬を引っ張ったきたくなっていたのに、今は何も感じないのです」
「何を言って……」
「貴女の言う通りだということです。先日貴女が言っていたように、私は姿かたちとは反対に、醜い性格をしてしまっているようですわ。公女とは真逆で」
「……は?」
「貴女ごときがわたくしを侮辱してるの?!」
「そう捉えられてしまったのなら、仕方ありませんわね!」
そう言ってへらりと笑って見せると、ロゼリア公女の眉がぴくりと動き、頬が見る見るうちに紅潮していく。
ギャーギャーと喚くロゼリア公女を無視して、私は王宮の庭園へと向かった。美しく薔薇が咲き誇る庭園へ。
「公爵様、アレクシス公爵様」
「ああ、どこへ行かれていたのですか? 随分と探しまし……何かいいことでもあったのですか?」
「え?」
「いえ、いつもよりも明るく笑っていらしたので何かいいことでもあったのかと」
「そうですか? ふふっ、それはきっと公爵様のせいですね」
「俺のせい……ですか?」
「ええ、その通りです」
私は、初めて夫の目をまっすぐに見つめた。
これまで、真正面から向き合うことを避けていた目。私が傷つくようなことは、けしてしないと誓う、その優しげな眼差しを。
「……ルシル?」
そう、私はルシルルシル・フォン・ハルトレイル。シルヴィア公爵家の公爵夫人。
前世の私の死因が、ストーカー男に刺されて迎えた悲しいものだとしても。それは今の私と、なんの関係もない。ただ少し境遇が似ているというだけで、私はあの不可解な記憶にいつまでも縛り付けられてしまっていた。
優しい私の夫君。私を傷つけることをしない、優しい人。どうして私はもっと早く彼の目を見れなかったのだろう。一年という月日が経って、ようやくこうして彼を見ることが出来た。
愛に生きて男と駆け落ちした母が生きるために夜の世界で働いていたことは私に何の関係もないのに、それだけで後ろ指をさされたこと。
死を迎える前に頼るべき場所に頼っても、自業自得だと突き放された私の気持ちはだれにも分からない。
……私はそんなことをしていないのだと言っても、誰も信じてはくれなかったから。
上辺だけでは私の味方になってくれたフリをするだけで、その目に宿された野望はいつだって醜悪なものだったから。
「宝石花、心から嬉しかったです。私、人から手渡しでプレゼントを受け取ったのは生まれて初めてなんです。だから、本当に嬉しくて……」
過去のことが全て無くなるわけではない。私の魂に刻まれた呪いはいつまでも解かされることはない。それでも、私とあなたは夫婦なのだから。
「ありがとうございます、あなた」
男性に触れることが怖くて、触れられることが何よりも怖かった私は自分の意思で手を伸ばすと、彼の腕を引いた。
少しでも面白いと思っていただけましたら下にある☆マークから評価をお願いいたします。感想、レビューもお持ちしております。とても励みになります⋈*.。
久しぶりの投稿です!大学受験終わったので、またどんどん更新していきます♡⃛ ̖́-




