第1話 孤独死そして異世界へ
和空世奈は、深夜のオフィスで一人、震える指先で受話器を握っていた。耳に突き刺さる怒鳴り声。受話器の向こうの男は、言葉のナイフを次々と突きつけてくる。
「そっちの対応が悪いんだろう! 謝って済むと思ってるのか! 金を払ってるのはこっちなんだぞ!」
何時間たったのだろう。時計の針はすでに日付をまたいでいた。世奈の役目は「総合クレーム窓口」。誰もやりたがらないその部署に、入社三年目で配属された。
──どうして私ばかり。
胸の奥に、黒い塊のような言葉が浮かぶ。上司は「世奈さんは気が長いし、相手の言葉を最後まで聞けるタイプだから」と笑ったが、助けてくれるわけではない。隣の席の同僚は定時に帰り、上司は「お客様第一」と繰り返すばかり。世奈はただ、毎日、毎晩、怒鳴り声を浴び続けた。
そんな日々の中、世奈には小さな心の支えがあった。それは母親から譲り受けたネックレスだ。細い銀の鎖に、青く光る宝石がはめられている。入社したばかりの頃、母は優しく微笑んで言った。
「これはね、亡くなったお母さんから継いだものなのよ。いつかきっと、世奈を守ってくれる」
母は宝石を指でなぞり、温もりを手に残した。青く透き通った石は、まだあどけない世奈の心に、漠然とした安心感をもたらした。
そして今、オフィスで理不尽な怒鳴り声を受けるたびに、世奈はその宝石を握りしめる。微かに揺れ、まるで心の感情に反応しているかのようだった。
ある日、限界は突然やってきた。
また理不尽なクレームを受けていたとき、視界がふっと暗くなり、意識が遠のいた。
病院に運ばれたあと、世奈は退職を選んだ。
――しばらく休んで、また働き口を探そう
と思ったものの、現実は冷たい。履歴書を書いても面接は通らず、誰にも会わない日々が続くと、孤独が心を蝕んだ。
やがて季節が巡り、世奈は家の中で一人、布団に横たわる生活になっていた。連絡を取る相手もなく、電話も鳴らない。冷蔵庫の中には半端に残った総菜がひとつ。
ある晩、強烈な胸の痛みで目を覚ます。息が吸えない。手足が冷え、助からないことを直感する。視界が揺れ、薄暗い天井を見つめながら、世奈は心の底から絞り出した。
「……次の人生があるなら……」
血の味が口に広がる。途切れそうな意識の中で、言葉ははっきりと形になった。
「今度は……カスハラ共に……絶対に……わからせてやりたい……」
その瞬間、首にかかっているネックレスの宝石が、光輝いた。視界が揺れ、世界の輪郭が歪む。
──誰かが囁く声が聞こえたような気がした。
「その願い、確かに受け取った」
次の瞬間、視界は深い闇に沈んだ。
目を覚ますと、そこは見知らぬ森の中だった。
湿った空気に包まれ、遠くで鳥の声と小川のせせらぎが聞こえる。視界が徐々に安定すると、自分の体に目をやった。
──あれ、どこ……?
着ているのは、動けなくなった時の服装である。灰色のパーカーに黒いTシャツ、スウェットのズボン。荷物は何もない。財布も、スマホも、カバンもない。首には、母から譲り受けたネックレス。青く光る宝石が揺れ、森の光を受けて柔らかく輝く。
足元を見ると、靴は履いている。
――おまけしてくれたのかな?
頭の中でつぶやく。状況がよく飲み込めない。とあたりを見渡すと地面に一枚の紙が置かれていた。
不遇の死を遂げた若者へ
これはあなたの願いをかなえるための異世界転生です。この世界にもカスハラが横行しています。二度目の人生であなたが何をなすのかを見届けたい。頑張ってください。
紙は読み終わると、ふっと消えた。
──なるほど、これはチャンスなのだ。
世奈は拳を握りしめる。
胸に、前世での絶望と怒りがよみがえり、再び固い決意となった。
森を抜け、街道に出ると、馬車が止まっていた。御者と客が激しく揉めている。
「早くしろ、遅れるじゃないか! 料金を返せ!」
「いや、道が塞がれていたのです、魔獣も出ましたし!」
客は怒鳴り、御者は必死に説明する。どちらも譲らない。
世奈は眉をひそめ、胸の奥に前世の苛立ちと怒りが湧き上がる。深く息を吸い、無意識に足を踏み出す。
──どうせ、一度死んだ身なんだから、何が起きてもいい。
「ちょっと待ちなさい!」
振り向く二人。世奈の声は、前世で鍛えられた冷静さを帯びていた。急に割って入られて、驚く2人。
世奈はまず御者に状況を聞くと、移動中に魔獣の親子が道を塞いでいて、敵意がないことを示すために、しばらく様子を見ていたら移動していったのだが、その待っていた時間がもったいと言っているらしい。
「あなた、今、何を言っているのかわかってますか? 魔獣に遭遇したのは不可抗力です。御者さんは命を守ろうとした。それなのに『料金を返せ』ですか?理不尽な事を言って、他のお客さんにも迷惑かけて恥ずかしくないんですか!?」
客の顔がみるみる赤くなる。
「うるさい!こっちは金を払っているんだっ、俺が何を言っても自由だろうが。そもそも女のくせに口を出すな!」
大きな声で威嚇する。前世でも散々聞いたお客様は神様理論を振りかざす、自分で自分の事を神というやつは、古今東西、頭がおかしいと相場が決まっている。世奈の胸の中で、何かが黒くざわめくような感覚がした。
その感情に呼応するかのように、首飾りの宝石が青から黄色に光り始めた。
突如、世奈の目に文字が浮かび上がる。
スキル「強制共感」の発動条件を満たしました。使用しますか?
世奈は何が起きたかわからなかったが、心の中で「はい」と選択する。
瞬間、世奈の胸から黒いもやが出現しカスハラ客の中に入っていった。するとカスハラ客は突然、ひや汗をかきはじめる。
「うわあああ!魔獣が来るっ御者!なんで急いだんだ!?ぎゃああ、来るなぁああ」
御者には見えていないようだが、世奈には客がどうなっているのか見えていた。もし御者が客の言う通りに急いだらどうなったのか?魔獣に襲われ、食べられそうになっている光景。客は、どうすることも出来ず、ただ怯え続けるしかなかった。なんとなく察したのは、先ほどのスキル強制共感は、自分が受けた理不尽な状況に相当する幻覚を相手に見せる効果があるようだ。
客は足を踏み外し、膝をついて呻く。汗と涙で顔はぐしゃぐしゃになった。幻覚が消えて突然正気に戻ったかと思えば、周囲を見渡し始める。
「な、何が……!」
どうやら幻覚から目覚めたと判断した世奈は冷静に声をかける。
「理不尽に怒鳴るだけでは、何も解決しません。まずは相手の話を聞いて、疑問点を1つずつ解決していきましょう。人間なのだから」
宝石の黄色が落ち着き、青に戻る。客はなおも震えながら、膝をついたまま黙り込む。御者も小さく頭を下げた。
しばらく沈黙が続いたあと、御者が柔らかく声をかける。
「お嬢さん、助けていただいたお礼に、次の村まで行くので、乗っていきますか?」
世奈は一瞬考えた。森を抜けてここまで来たが、日暮れは近い。野宿は避けたい。
「はい、お願いします」
素直に答え、世奈は御者のご厚意に甘えることにした。
馬車に乗り込むと、柔らかな揺れと馬の蹄のリズムが、前世では味わえなかった安心感を与えた。
カスハラに耐え忍ぶしか出来なかった前世。
今世では、理不尽を理不尽のままにしない。そんな人生にしたい。
世奈はネックレスの宝石を握り、そう誓った。