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2025恋愛年表

リオ=ティグレッタの空中逃走日誌――幼馴染の狼獣人に歳上彼女ができたらしいので勘違いして調子乗ってた邪魔者は退散しますってなんで追いかけてくるのぉ!?

作者: 本宮愁

 バルコニーの窓ガラスを、コンコンコン、と3回ノック。ウェストポーチから取り出した封筒の宛名を、レースカーテンの向こうの貴婦人(マダム)に掲げて見せる。


「こんにちはー、息子さんからお手紙でぇーす!」

「あらあら、リオちゃん。またそんなところから来て」

「下の守衛さん、うるさくて苦手なんだもん。どうぞ、受取サインは不要です」


 おっとりと微笑みながら窓を開けた貴婦人に、郵便ギルドから預かった手紙を手渡ししたら、リオ=ティグレッタの本日のお仕事は完了だ。


「はいたしかに。あのバカ息子、やっとアカデミーの卒業決まったのね……。リオちゃん、今日は風が強いから危ないわよ。帰りくらい普通に戸口から――」

「大丈夫! あたし、このために配達員してるんで!」


 尻尾を一振りしてバランスを取りながら、バルコニーの手すりに飛び乗り、くるりと回って貴婦人に一礼。ちょっとお行儀が悪くても、いつも貴婦人はニコニコ見守ってくれるから問題ない。



 制服の上着の裾が、勢いよく吹き上げる風を受けて、ばたばたとはためく。今日の風は本当に気持ちがいい。

 たっぷりと太陽の光を浴びて、首元に下げた身分証のタグもキラキラと輝いている。

 晴れ渡った青空の近くで、風と光を堪能するように大きく伸びをしたら、さあいこう。


 思いっきり背中から宙空ダイブ。

 耳から尾まで、全身が総毛立つスリル。


 ぐんぐん落下していく身体をひねり、ぐるぐる回りながら、猛スピードで流れていく万華鏡のような景色を堪能する。


 お腹の中がぎゅっと持ち上げられて、頭の中は風の音でいっぱいになって。

 重力から解き放たれる、この感覚がたまらない。


「あっはは! 最っ高……!」


 二階建て以上の建物なんてひとつもない猫族の村から人間の街に出てきてよかったと思う瞬間だ。



 もう何年になるんだっけ。あたしが高所を見つけて飛び降りるたび、ギョッと目を見張っていた街の人たちも、今ではすっかり慣れたもの。目が合えば笑顔で手を振ってくれる。


「また猫のおねーちゃんが空飛んでるー!」

「こら、危ないから乗り出さないの」


 おっと向かいのお宅の子供に見つかっちゃった。ふふんと得意げにポーズをとってみたりして、すれ違いざまにファンサービス。


 どうよ可愛いでしょ、この艶やかな毛並み。ふわふわの柔毛に覆われた耳も、縞模様がチャーミングな尾も、狼族にだって負けてない極上の触り心地なんだから! ……まあ、トーマのあの見るからにボリュームたっぷりなふっさふさ感は、ちょっとズルいと思うけど。


 せっかく窮屈な村から連れ出したのに、人付き合いが下手くそな幼馴染のまわりには、ぜんぜん人が寄りつかないまま。もったいなくて、やきもきする。ほんと、昔から世話が焼けるんだから。



 なんて考えてるうちに、もう地上が迫っていた。

 そろそろ着地、って。あれ?


 ものすごい美人がいる。


 真っ白な振袖に、赤い袴。

 腰までまっすぐ垂れた白銀の髪が、風にゆられて、きらきらと。

 人間にみえるけど、あの服装、もしかして、狐族の――?

 

 思わず見惚れていたら、上を向いた美女と目が合った。

 わあ、瞳も綺麗な赤玉だ。って、うそ。待って!?


 彼女がいる場所は、まさにこれから降りようとしていた路地の一角で。


「ごめんなさいそこよけてぇぇええ!」



 あわてて手足をバタつかせながら、空中で身をよじってみる。

 やばいやばいやばい無理かも。落ちてく軌道がぜんぜん変わんないんだけど。


 風! 風もっと吹いてよ! あたしを宙に放り上げるくらい!


 白銀の髪の毛がふわりと舞い上がる。驚いたように目を見開く美女は、あたしをじっと見つめたまま、その場から動かない。


 ああもう、しょうがない!


 ――ドスン。


 今まで経験したこともないような情けない音を立てて、あたしは地面に落下した。



「ぃ、ったたた……」


 避けた? 避けたよね? 真横にギリギリかわしたはず。勢い余って派手に転がり、尻もちをついた姿勢のまま、きょろきょろと辺りを見回して美女の姿を探してみたけど、どこにも見つからなくて。


「ティグレッタさん」


 代わりに目の前には、騒ぎを聞きつけた貴婦人のマンションの守衛の怖い顔があった。

 お、終わった……。



 §



 散々な目に遭った。

 あのまま郵便ギルドに連行されて厳重注意。

 しかも、しばらく来なくていいから休めなんて!


 せっかく早く仕事を終わらせて、気分よく跳んでたのに。最悪だ。


 耳なし(人間)の基準で話されてもなー。

 通行人の安全も考えろだとか子供が真似したらどうするとかうるさいったらもう。


 結局ぶつからなかったし。ちょこっと擦りむいたくらいで、あたし以外に怪我人いなかったんだし。

 あんなに口うるさく言わなくたっていいじゃん。


 猫族の誇りをかけて、どんな高さからだって、どんな体勢からだって、あたしは華麗に着地してみせる。

 ……今度こそは。



 ようやく自宅に帰り着いたころには、すっかり謝りつかれてヘロヘロになっていた。

 

「ただいまー……あれ、誰かいる……?」

「遅かったな」

「トーマ? 卒研忙しいんじゃなかったの」

「他の奴がいたら問題だろ」


 呆れたように金色の瞳を細め、黒々とした長毛に覆われた尾を一振りして不満を表す、仏頂面の青年。

 狼族の幼馴染、トーマ=ランドルフだ。


 同居人、ではないのかな。もう。

 村を出てきてすぐの頃は一緒に住んでたんだけど、アカデミーの寮に入ってからは滅多に帰ってこなくなっちゃって。

 最近はとくに忙しいみたいで、顔を合わせるのも久しぶりだった。



「耳、隠してないの、めずらしいね」


 世間では、狼獣人――とくにトーマみたいな黒狼は、不吉の象徴として嫌われているらしい。

 光を吸い込む闇のような黒い毛並み。夜に浮かぶ月のような黄金の瞳。

 どっちも綺麗なのに、トーマは目立たないように隠したがる。


 

 猫族の村ほど偏見は強くないと思うんだけど、やっぱり嫌な思い出なのかな。


 一緒に育った彼の毛並みが、あたしはずっとうらやましかった。

 子供の頃は、拾い子のトーマと種族がちがうってことも知らずにライバル心を燃やしていたくらい。

 自分の方が偉いんだって見せつけたくて、どこに行くにも彼を連れまわしていた。


 いじめっ子たちが石を投げてきても、大人たちに心無い言葉を囁かれても、悪目立ちしないようにトーマは黙って大人しく耐えていたのに。

 ……あたしがすぐに喧嘩売るせいで、余計に嫌な目に遭わせてしまったことを、ちょっと反省している。



 トーマは、ほんの少しだけ口の端を上げて、ピンと立った耳をぴくりと動かした。


「リオはこの方が好き、だろ?」


 見透かされている。トーマが嫌じゃないなら、まあいいや。

 背伸びをしながら彼の耳に手を伸ばすと、あたしの意図を察したトーマは身をかがめて触らせてくれる。


「うぅ……ズルい……気持ちいい……癒される……」


 あいかわらず、極上の触り心地。

 黒髪もサラッサラで、本当にズルい。あたしの茶色い猫っ毛と交換してほしい。



 昔からストレスが溜まるたびに撫でまわしてきたせいか、トーマはされるがまま、すっかり慣れた様子であたしの手を受け入れている。


「また嫌なことでもあったの?」

「ちょっとね……」


 郵便ギルドの配達で、朝からいろんな家をまわったこと。

 お気に入りの高層階の貴婦人にも手紙を届けたこと。

 太陽の光と風がすっごく気持ちよかったこと。

 飛び降りた先で、銀髪の美人にぶつかりかけたこと。

 そのせいで、着地に失敗して擦り傷を作ったこと。

 管理人に見つかって、こっぴどく怒られたこと――。


 夢中になって今日の出来事を話していたあたしは、もともと無表情なトーマの顔が一層こわばり、機嫌がみるみる下降していくことに気づかなかった。



「リオ」


 低い声であたしの名前を呼びながら、薄く開かれたトーマの唇の奥に、鋭く尖った歯が見え隠れする。そういえば牙もあるんだっけ。他の狼族を見たことないけど、たぶんトーマは、他の種族と混ざって数が減ってしまった狼獣人の中でも、かなり血が濃い。


「――仕事、辞めて」

「は?」


 とつぜん何を言われたのか、理解が追いつかなかった。

 冗談かと思えば、トーマの眼は真剣そのものだ。


「……え、なんでそうなるの?」

「俺はリオに仕事辞めてほしい」

「やだよ。あたしが街にきた理由、トーマだって知ってるくせに」

「もう十分だろ。なにも危ない仕事しなくても――」

「やだ! ぜったいに辞めない!」


 トーマの眉間にしわが寄る。

 幼馴染が頑固なのは知ってるけど、あたしだって引けない。


 耳と尾をピンと立てて、睨み上げるように精一杯の威嚇をする。

 不満げにされたって怖くないんだからな。口喧嘩であたしに勝てると思うなよ。



「なんであたしに仕事辞めさせたいわけ?」

「……嫌だから」

「なにが?」

「……知らない人間の家いくのは危ない」

「ギルド通してるんだから、ちゃんとした身分証ある人のとこしか行かないよ」

「……怪我してるし」

「こんなの怪我に入んないし、二度と着地失敗したりしないもん!」


 トーマの機嫌は下降する一方。どんどん口数は減っていく。都合が悪くなるとすぐに黙るんだから。

 理由もはっきりしないまま辞めろと繰り返されたって、納得できるわけがない。


「だいたいトーマに関係ないじゃん! そんなこと言うなら出てって!」

「リオ、まだ話が――」


 口喧嘩の末、何か言いたそうなトーマを強引に追い出した。

 バタンと玄関ドアを閉めて、普段は使っていない補助鍵をかける。ついでに認証番号も変えちゃえ。

 家の中にはトーマの私物もたくさんあるけど、どうせ必要なものは寮に持って行ってるでしょ。



 せっかく久しぶりに会えたのに……しょんぼりしながら部屋に戻ると、リビングのソファの上に見覚えのない手のひらサイズのアクセサリーケースが転がっているのを見つけた。


 机の上には、飲みかけの冷めたコーヒーが入った、トーマがよく使うマグカップ。

 たぶん、あたしを待つ間、そこにトーマが座っていたんだろう。


 ……トーマの忘れ物?


 黒いベルベット生地に、金の口金。箱だけでも高級感が伝わってくる。

 トーマっぽい色ではあるけど、いかにも貴金属が入ってますって雰囲気で、見慣れない感じ。

 こんなしっかりしたアクセサリーつけるタイプだっけ?



 アカデミーに入ってからのトーマのこと、そういえばよく知らない。トーマが奨学生になるのと同じ時期に、あたしは郵便ギルドに入って、憧れていた仕事をちょっとずつ任せてもらえるようになった。夢中で街を駆け回っているうちに、彼と話す機会は減っていった。


 二人で村を飛び出した頃は、大人になってもずっと一緒にいると思ってたのにな。

 あたしがトーマの学業を知らないように、トーマもあたしの仕事をよく知らないのかも。


 もう一度、ちゃんと話したい。

 どうせ仕事は休みだし、これ、届けに行ってあげよう。



 §



 えっと、トーマが通うアカデミーは……。


「ここ、だよね?」


 古めかしい石造りの門を見上げる。


 この街の中心。なんとかアカデミーって名前がつかない、ただの『アカデミー』。それだけで通じてしまう、唯一の学校。人間にも、獣人にも、平等に学びの機会を提供してくれる。一番古くて、一番大きい、特別な学び舎。


 勉強が大っ嫌いなあたしにはよくわからないけど、入学するのもかなり難しいらしい。

 学費も結構高くて、貴婦人の息子さん、何年も通ってるのになかなか卒業しないって困ってたっけ。

 あれ。ってことは、奨学生してるトーマって、じつは結構すごかったりする?



 アカデミーって勝手に入っちゃダメかな。

 トーマが入学してすぐの頃、一度だけついて来たときも場違いな気がしてすぐ帰っちゃったんだよね……。


 ちょっと尻込みしていると、門の向こうから若い女の子の集団が歩いてきた。学生かな? 色とりどりの洋服に、複雑そうなヘアアレンジ。人間の流行はよくわからないけど、村にいた頃のまま、動きやすければ何でもいいやって支給品の制服ばかり着ているあたしとは、全然違う。


 へえ。今は、ああいうのが可愛いの? あたしも耳と尻尾の毛艶にだけは自信あるんだけど。

 あの子たち、トーマの研究室まで行く近道とか知ってるかな――。



「見た? トーマ=ランドルフ」


 聞き覚えのある名前に、思わず立ち止まって、耳をそばだててしまう。


「見た見た。めちゃくちゃ不機嫌でやばい」

「いつにもまして近寄りがたいよねー」


 ほーら、言わんこっちゃない!

 すっかり身長も伸びて強面になったのに、ニコリともしないから誤解されるんだよ。


 この街で、獣人は少数派だから、最初はちょっと物珍しい目で見られたりする。でも、あたしによくしてくれる優しい人はいっぱいいた。黒狼のことだって、気にしない人間もきっと――。


「そこがいいんだけど!」

「わっかるー!」


 って、あれ?



「なにあのオーラ。スタイルお化け。黙って立ってるだけでカッコイイ。獣人ってみんなああなの?」

「いやあれは特別。一緒にするなって犬族の子がたそがれてた」

「狼だっけ? うわあ見てみたい。耳と尻尾、何かの間違いで解禁してくれないかな」

「無理でしょー。ガード固すぎて万年発情期の兎女ですら近づかないじゃん」


 あ、あれ?

 思っていたのとちがう方向に、話が流れていって。

 あたしは声をかけそびれたまま、その場で立ち尽くす。



「その兎族の子から聞いたんだけど、とんでもなく溺愛してる彼女がいるらしいよ」


 彼女? トーマに? まっさかあ。

 もしかして、あたしのこと誤解してるのかな?

 トーマはただの幼馴染で、そういう関係じゃないんだけど。他人から言われると照れる――なんて。


「あー私、知ってるかも。ものすっごい美女といるの見たことある!」


 ものすごい、美女?

 頭の上で、ピクッと耳が揺れる。


「色気たっぷりの年上の女って噂じゃなかった?」


 色気たっぷりの、年上の女?

 しょっちゅう未成年と間違えられる、すとんとした胸元を見下ろす。

 わ、わかってるよ。わかってる。それは、あたしじゃない。


「私も見たかも。なんかもう張り合う気にもなれないくらいお似合いだよね」

「ねえ、それってもしかして白狐の――」


 彼女たちの話を聞いていられなくなって、あたしは尻尾を丸めて逃げ出した。



 走って、走って、走って。

 どこか、誰もいないところ。人間に見つからないところ。

 真っ赤に火照った顔を見られないところに、行きたくて。


 誰もいない中庭を見つけて、うずくまる。


 のこのこ話しかけに行かなくてよかった。

 恥ずかしくて、みっともなくて、……締め付けられるように、胸が痛かった。


 なんでこんなにショック受けてるんだろ。

 恥ずかしいのはわかる。一瞬でも馬鹿な勘違いしちゃってさ。


 色気たっぷりの年上の美女? あはは。そんなわけがない。

 あたしは、洒落っ気も可愛げもない、身軽さだけが取り柄の、はねっかえり娘だ。


 昔から散々言われてきたのに、なんで、トーマの一番は自分だって疑わなかったんだろう。

 あたしたちはただの幼馴染なのに、なんで、トーマのことは何でも知ってるって思ってたんだろう。



 どれだけ、そうしていたのか。

 後ろから、草を踏みしめる足音が聞こえて、あわてて目元を拭う。


「おい、トーマ。せっかく僕が誤魔化してやってるのに、サボりはどうかと……。あれ?」


 声をかけられて振り向いた先に、すごく綺麗な人がいた。


「リオ=ティグレッタ?」


 シルバーフレームの眼鏡を片手で押し上げて、パチパチと瞬きする、線の細い儚げな美人。

 首の後ろで括られた白銀の髪に、赤い瞳。マダムのマンションの前で見た美女と同じ色。

 ――でも、その声は明らかに男性のものだった。



「ごめん、君がここにいるとは思わなくって」

「……? あたしと会ったこと、あります?」


 そういえばさっき、トーマの名前を呼んでた。


 ……トーマって、友達いるんだ。

 そりゃあ、いるか。いるよね。彼女いるくらいだもんね。

 ぐうぅ。自分で考えてダメージを受ける。


「トーマから聞いてない? やっぱりなあ、あいつめ」


 眼鏡の美人さんは、呆れ声で毒づいた。


「前から頼んでたんだけど、会わせてもらえなくて――リオちゃん。モデルに興味ない?」

「モデル!?」



 思いもよらない言葉に立ち上がった耳が、数秒後、しおしおと垂れ下がる。

 モデルって、あれでしょ。よくわからないけど、綺麗な人がやることだ。

 さっきすれ違った女の子たちも。目の前にいるこの人も。あたしよりずっと綺麗なのに。


「無理ですよ……あたしなんて」

「リオちゃんは綺麗だよ。とくにその毛並み」


 毛並み! ぴん、と今度は尻尾も立ち上がった。

 なるほど、そこを褒められるのは、悪い気がしない。人間にしてはいい目の付け所じゃないか。

 橙色の縞模様。狼族ほどめずらしくはないけど、猫族の中では、とびっきりの自信がある。


「そうですかね……えへへ……」


 嬉しい気持ちをまったく隠し切れずに、口元をほころばせる。

 同世代の男の人に褒められることなんて全然ないから、なんだかくすぐったい。



 綺麗だなんて、……トーマにも、言われたことないな。

 暗い気持ちを思い出してしまって、またしょぼんとうなだれる。

 そんなあたしの様子を、眼鏡美人は微笑んで見守っていた。


「今週末、知り合いの撮影があるんだ。見学だけでもどう?」

「あ……えっと、それより、あたし、トーマに」


 忘れ物を届けなくちゃいけないんだった。

 もう、この人に預けて帰ってしまおう、と思った次の瞬間、頭上から怒声が飛んできた。


「こら、ルナール! また部外者を連れ込んで、遊んでるんじゃないだろうな!?」

「あちゃー面倒な教授に見つかった。はいはい、すぐ戻りますから! リオちゃん。これ、スタジオの住所。後悔はさせないから絶対来て。あと――」


 ルナールと呼ばれた眼鏡美人は、慌ただしくメモ書きを手渡しながら、去り際、あたしの耳元に囁いていった。


「――君は元気に飛び回っているのが一番似合うよ」



 §



 結局、トーマには会えずじまいだった。

 自宅の玄関のドアを開けて、靴を脱ぎながら、習慣のように口に出す。


「ただいまー……」


 帰ってくる言葉は、ない。


 何年も前から、そうだったじゃん。

 今さら寂しいなんて思うのはおかしいのに。


 昔はここにトーマがいた。当たり前みたいに横にいた。


 家の中を歩いていると、トーマが残していった小物がいくつも目に入る。

 何かを買うときはいつもセットで2つ。

 全部あたしの好みで選んで、トーマはリオが選んだなら何でもいいよとそれを使った。


 トーマ、本当はどんなものが好きだったのかな。

 アカデミーの寮で、どんな生活をしてきたのかな。

 なんだ、あたし、なにも知らないんじゃん。



 彼女、かあ……。


 気づいてた。前みたいに気軽には、トーマが家に来なくなったこと。

 寮に入ってすぐの頃は、毎週末のように帰ってきてたのに。


 勉強が忙しいんだろうって思ってたけど、本当は彼女ができたからだったのかな。

 あたしには会いに来なくても、彼女とはしょっちゅうデートしてたのかな。してるよね。恋人だもん。



 アカデミー卒業したらどうするつもりなんだろう。

 この家には戻ってこないのかな。


 トーマがしたかった話って、もしかして、それ?

 私はずっと邪魔だった?

 ただの幼馴染のくせに、理解者ぶって、うろちょろして。

 昔から、うっとうしいと思ってた?

 仕事やめろって、もう故郷に帰れってこと?


 嫌だなあ。ひとりでいると、ネガティブな想像ばっかり浮かんでくる。



 そっか。あたし今まで、すごい勘違いをしてたんだ。


 トーマには、あたしが必要なんだと。

 トーマのよさは、あたしにしかわからないんだと。


 ずっと思い込んでた。


 猫族の村で孤立していた少年のままじゃなかったこと。

 あたしなんかに釣り合わないような、みんなの人気者になってたこと。


 全然、気づいてなかった。



 返しそびれてしまったアクセサリーケースの蓋を開けてみる。

 クッションに包まれた白い台座の上には、女性物の指輪が収まっていた。

 やっぱり。どう見てもプレゼント、だよねえ。


 シンプルな白銀の輪の中央には、小ぶりだけどすごく綺麗な黄金の石がひとつ。

 トーマの瞳に、よく似た色。


 輪の内側には、何か文字が刻まれていた。

 

 『R.R.』?

 ――これ、彼女さんのイニシャルなのかな。


 トーマ=ランドルフでも、リオ=ティグレッタでもない、誰かの名前。


 こんなこと、思っちゃいけないって、わかってるけど。

 ……渡したく、ないな。



 §



 週末。暗い気持ちを引きずったまま、あたしはメモに書かれたスタジオの前にいた。


 ルナールさんの名前を出したら、本当に入れてもらえた。

 中では、雑誌の撮影をしている、らしい。


 雑誌モデルかあ。表紙だけは、配達先の家に置いてあるのを見たことがある。

 よくわからないけど、すごいんだろうな。

 でも、あたしには郵便ギルドの仕事もあるし。やってみたいとはあんまり思わない。

 ……復帰させてもらえるかどうか、まだわかんないけど。


 今日ここに来たのは、撮影を見学するためじゃなくて、指輪の入ったアクセサリーケースをルナールさんからトーマに返してもらうためだ。これ以上、手元に持っていたら、返せなくなってしまいそうな気がしたから。


 今は直接トーマに会いたくなくて、だからルナールさんに会いに来た。

 そのはず、だったのに。


 おそるおそる開いたドアの隙間から、スタジオ内を覗き込んで、あたしは固まった。


 うそ――。

 なんで、トーマがいるの!?



 たくさんのスタッフに囲まれた、眩いばかりの照明の中心には、一組の男女。

 

 後ろ姿でも、あの極上のふっさふさな尾を、見間違えるわけがない。黒一色の礼装を着たトーマが、椅子に座った美女の足元に跪いていた。


 外に出るときはいつも隠しているのに。耳も尻尾も、惜しげもなく晒して。金色の瞳さえハッキリ見えるように、前髪を上げて。


 誰があの格好をさせたのか知らないけど、正しい。


 光を吸い込む闇のような黒い毛並み。

 夜に浮かぶ月のような黄金の瞳。

 

 黒狼の象徴を色濃く引き継いだ、トーマは綺麗だった。

 ずっと昔から、綺麗だった。



 トーマの向かいに座っているのは、見覚えのある、真っ白な女性。

 

 雪のように白い肌。

 腰まで垂れる白銀の髪。

 宝玉のような赤い瞳。


 息を呑むほど美しい女性の頭には、髪の色と同じ、白銀の毛並みに覆われた、狐の耳。

 

 あのひと――白狐、だ。


 黒狼と同じくらいめずらしい、狐族の隠れ里で大切に受け継がれてきたって噂の、お姫さまの血族。なんでこんなところにいるの。



 寄り添う二人が、すこしずつポーズを変えるたびに、シャッター音が響く。カメラマンの指示が飛んで、また動く。二人で話してもいるみたいだけど、ぜんぜん聞こえない。


 無意識のうちに、すこしずつ扉の隙間を開いて、ふらふらと吸い寄せられるように身を乗り出していってしまう。


 トーマが、女性の白銀の髪の毛を一房手にとって、口づけるフリをする。女性の指先が、トーマの頬を撫でる。


 やだ。


 女性の髪をたぐり寄せるように、トーマが身を起こす。撮影の角度が変わって、すごく鋭くて冷たい目をした、私の知らないトーマの横顔が見えた。


 やだ。


 片膝を椅子に乗せたトーマが、女性を閉じ込めるように背もたれに両手をつく。薄く開いた唇の奥に、見え隠れする牙が、なんだかすごくいやらしかった。


 やだ。


 女性はくすりと笑って受け入れて、顎を上げた。無防備にさらされた女性の喉元に、ゆっくりとトーマの牙が迫って――。


 やだ!



 見たくない、と目を逸らした先に、まだ写真のところだけが空欄になっている作りかけの雑誌の紙面が落ちていた。


 Thomas Randolph × Riley Renard


 見慣れたトーマの名前の綴りと、もう一人。

 ライリー?


 それが、あの女性の、名前。


 『R.R.』の正体は――『Riley Renard』。


 誰もが振り返るような、美しい人。

 色気たっぷりの、年上の、ものすごい、美女。


 張り合う気にもなれないくらいお似合い、って。言いたくなる気持ちもわかる。


 あたしだって彼女に見惚れた。

 あの日、貴婦人のマンションの前で、思わず着地にしくじるくらい。

 すごく綺麗だって思った。


 ルナールさんの姿は見えないけど。

 こんな偶然、嘘みたい。

 知り合いって、彼女のことだったの?



 力の抜けた手の中から、アクセサリーケースが滑り落ちていった。

 あ、だめ。そっちにいっちゃ。


 コツ、コツ、コツ、と二人がいる方向に転がっていくケースを、思わず追いかけて。

 指先が届きかけた瞬間。


 ――トーマと、目が、合った。


「ッお邪魔しましたぁぁぁぁああああ!」


 無理。

 無理無理無理!


 ケースを放り出して、全力疾走。

 一番近いスタジオの窓にとびついて、開け放つ。


「リオ!?」


 いつになく慌てたトーマの声が聞こえた気がするけど、無理。今は無理。



 ごめんなさい。部外者が撮影の邪魔して、勝手なことして、ごめんなさい。

 でも、あたしは一秒でも早くこの場を離れたい。


 前向きに一回転するように外に飛び出して、隣の建物の軒先に着地。そのまま屋根の上を猛ダッシュ。


「だめだよ、トーマ」

 

 遠ざかるあたしの背中を追いかけるように、涼やかな鈴のような声が聞こえてきた。


「大人しく座って。まだ仕事は終わってないんだから、ね?」



 §



 昨日、家に帰ってからのことは、よく覚えてない。

 ご飯も食べずに布団に飛び込んで、いつのまにか朝になっていた。


 アクセサリーケース、落としてきちゃったけど、もういいよね。トーマがあの場にいたんだから。


 そうだ。ギルドから、なにか、連絡きてないかな……寝ぼけ眼で端末を開くと、大量の着信履歴が届いていてギョッとした。これ全部、トーマから?


 めったに連絡なんてしてこなくて、いつも突然、当たり前のように上がり込んでたのに。いや、一応トーマの家でもあるから、帰ってきてただけなんだけど。


 この感じだと、あたしが寝てた間に家にも来てそうだ。

 認証番号、変えといてよかった。

 トーマには悪いけど、しばらく顔を合わせたくなかった。


 

 ああもう、なんでこんな時に限って、仕事がないんだろう!


 こっそり貴婦人のところに行って、飛ばせてもらっちゃおうかな。守衛さんに見つかったら、またギルドに言いつけられて、今度こそクビになるかもしれないけど。


 ……それも、いいかもしれない。


 ちょうどいい機会だし、あたしもう故郷に帰ろうかな。


 高い建物に憧れて、勢いで飛び出してきたけど、帰る家がないわけじゃない。年に数回、手紙はやりとりしてるとはいえ、親の様子も気になるし?


 田舎生まれの猫族らしく、そろそろ身の丈にあった暮らしをしてもいいんじゃないかな。


 仕事を辞めて。

 この街を離れて。


 それで。

 トーマとは、もう一緒にいられなくなっても。

 


 うつむきながら、ふらふらと。

 行く宛てもなく街を歩いてたら、誰かにぶつかりそうになってしまった。


「リオちゃん?」

「貴婦、――……ルナール、さん?」


 男性の声なのに、なんでだろう。

 一瞬、貴婦人に声をかけられたかと思った。

 

 あたしが何も言わずにボーッとしていると、アカデミーで会ったときみたいに、シルバーフレームの眼鏡の奥でルナールさんの赤い瞳がパチパチと瞬いた。


 こうして見ると、色合いだけじゃなくて、線が細くて儚げな雰囲気も、昨日の美女によく似ている。

 同じ苗字、ってことは、この人も狐族なのかな。

 

 っていうか、ここ、貴婦人のマンションの近くじゃん!?


 そんなに宙空ダイブが恋しかったのか、あたし。

 ……うん、恋しい。あの日が。あの空が。

 また自由に飛べたらいいのに。何も考えずに思いっきり。


 

「撮影現場、どうだった?」

「あ、……」


 そうだった。この人に誘われて行ったのに、ルナールさんはいなかった。

 代わりになぜかトーマと美女――ライリーさんがいて。


 完全に、二人の世界だった。

 あたしなんか場違いだって思い知らされるくらい。


「モデルの話なんですけど、やっぱり、あたしには」

「自信なくなっちゃった?」

「トーマがいるって、なんで教えてくれなかったんですか」

「ごめんね、喜ぶかと思って」


 ルナールさんは困ったように眉を下げる。



 トーマもトーマだ。あたしに一言くらい教えてくれたっていいのに。そりゃあ、アカデミーでも大人気だよね。狼族への偏見なんて、人間には全然ないんだし。黒狼と白狐なんて、そんなの、似合わないわけがない。


 じわじわと涙が滲んでくる。まだ引きずってるくらいショックだったけど、いつまでも知らずにいるよりは、よかったのかもしれない。


「……いつも泣かせてる気がするな」


 ぽつりと呟いたルナールさんが、小刻みに震えているあたしの耳にそっと手を伸ばす。


「僕はただ、君に笑っていて欲しいだけなんだけど」


 

 しかし、雪のように白い彼の手は、バシンと痛々しい音を立てて払いのけられた。

 すぐ後ろに立つ犯人の顔を確認するまでもなく、彼のことは、足音だけで区別できる。

 

 トーマだ。…….トーマ、だよ、ね。

 慣れ親しんだ相手のはずなのに、なんだかピリピリする空気を感じて、尻尾の毛がブワッと逆立った。


「リオに何してる」

「うわ……早くない?」


 ちょっと引いたような声を出して、ルナールさんが赤く染まった手を振る。


「その殺気どうにかしてよ、トーマ。リオちゃんも怖がってんじゃん」

「馴れ馴れしくリオを呼ぶな」


 不機嫌を通り越して、ほとんど唸り声と紙一重の、重低音にも程がある威嚇じみた声だった。


 トーマ、そんな声、出せたんだ。幼馴染として遠慮なく言い合ってきたつもりだけど、これに比べたら、あたしと話すときの口調は驚くほど柔らかかったんだな。男友達といるところなんて見たことなかったから、予想外の迫力に身が竦む。



 ぞわりと全身が総毛立つような、なんだろう、この感覚。

 怖い? まさか。このあたしがトーマを怖がるなんて、そんなの絶対にありえない。


 ルナールさん、友達じゃなかったの。挨拶もなしに失礼なことやめなよって。

 ……いつもなら、言えたのに。


 声が出ない。振り向けない。

 身体が固まったまま、一歩も動けない。

 

 でも、ここでトーマに捕まったら、ダメな気がする。



「大丈夫」


 意外なほど力強く、ルナールさんに手を引かれる。よろけるように彼の後ろに庇われて、トーマとの距離が空いた。


「おい――」

「飛んだり跳ねたり、得意でしょ? リオちゃん」


 あ……身体、動きそう。

 全身が、この場から逃げ出したくて、ウズウズしている。


 ルナールさんの手があたしの背中に触れる。

 振り向いちゃだめだよと彼はクスリと笑って、力強く背中を押しながら、言った。


「――走って!」


 その言葉を合図に、あたしは全速力で駆け出した。

 

()()()てめぇ……!」


 これまた聞いたこともないくらいわかりやすく荒れた、トーマの怒り声が微かに聞こえてきた。

 


 §



 トーマの身体能力の高さはよく知っている。

 なんといっても、村一番の脚力自慢のあたしの後をぴったりついてきたライバルなのだから。

 まさか大人になって本気の追いかけっこをする羽目になるとは思わなかったけど。


「リオ! 待って!」

「やだぁああああ!」


 障害物のない直線じゃ、すぐに追いつかれてしまう。


 隠れる場所と、足場が欲しい。

 狭い裏通りから、店が立ち並ぶ大通りに飛び出した。



 パン屋の壁から突き出したフラッグのポールに飛びついて、しならせながら一回転。

 顔なじみの店主が、ガラス戸の奥から驚いたように声を上げる。


「あれま、リオちゃん!? 郵便ギルドの制服じゃないのめずらしいね」

「あたし今日は、オフなんで!」


 ファンサービスはお休みだ。ぐるっと回った勢いのまま、二階のベランダにジャンプする。


「ちょっと、お布団!」

「ごめんなさいぃぃぃ!」


 家の主に怒られても、立ち止まって謝罪している時間はない。

 手すりに干された布団の上を、両手両足を使った四足歩行で駆け抜けて、つぎの建物へ。



「リオ!」


 後方から、トーマの声が聞こえてくる。もっと距離をとらなきゃ。


 走れ。走れ。走れ。

 振り向かずに、まっすぐ前だけを見て。

 

 もっと高く。

 もっと速く。



 §



 日が陰るまで、あたしたちは街中を巻き込みながら駆け回った。

 最後の仕上げは狼族には真似できない超高所からの飛び降りで、完璧に振り切った。

 ……はずなのに。


 工事現場の物陰で身を休め、すっかり安心して息を整えていたあたしを、トーマは簡単に見つけ出した。


「リオ」


 とっさに駆け出してはみたけど、さすがに体力の限界が近くて。

 あっという間に、フェンス際まで追い詰められていた。


 トーマの両腕が、あたしの顔のすぐ横の網を掴んで、左右の逃げ道をふさいだ。ならば、と膝の力を抜いて身体を下に落としてすり抜けようとしてみたけど、両脚の間に右膝をねじ込まれて、彼の脚の上に座るような体勢に落ち着かされる。


 これは、もう逃げられない。


 

「……やっと捕まえた」


 金色の瞳が、まだ荒く肩で息をしているあたしを、じっと見下ろしている。


 あんなに振りまわしてやったのに、全身汗だくのあたしに対して、トーマは息も切らさずに涼しい顔。

 狼族の体力馬鹿め。これだから種族差ってやつは。ズルいにも程がある。


「なんで……? なんで、そこまで追いかけてくるの!? 大好きな彼女がいるくせに!」

「彼女? リオのこと?」


 本気で何の話だかわからない、という様子で、トーマは首をかしげる。


 はあ? あたしの目の前で、あんな綺麗な人とイチャイチャしておいて!?

 っていうか、なんで、そこであたしが出てくるの。付き合ってないでしょ、あたしたち。

 第三者が噂するならまだしも、本人がその認識っておかしいよ。


 それとも、あたしに本当のことを言う気はないってこと? イライラと尻尾の毛を逆立てる。


「このあいだの……撮影……なに……?」

「ああ、あれ。なんでリオがいたの? しかも逃げたし」

「うるさい、あたしの質問に答えて!」


 頭の中がぐちゃぐちゃで、この状況もわけがわからなくて、あたしの感情はとっくにキャパオーバー。

 無理やりにでも気を張っていなければ、怒りか悲しみかよくわからない涙がこぼれてきそうだった。


 

「……これを用意するのに必要だったから、ライルに頼んでしかたなくやったんだよ」


 トーマが懐から取り出したのは、見覚えのあるアクセサリーケースだった。


「ライリーさん、って、あの綺麗な人だよね」

「は?」


 トーマの眉間にしわが寄る。彼女の話はしたくないらしい。

 でも知らない。トーマに邪魔に思われたって、追い返されたっていい。

 どうせ最後なんだから、気になることぜんぶ聞いてから、故郷に帰ってやる。


「指輪のイニシャル『R.R.』って書いてあったけど」

「それ見て逃げたのか? 『Rio Randolph』になるの、そんなに嫌だった?」


 ちょっと、待って。

 今、なんて言った?


「リオ……ランドルフ……?」

「この街で俺と結婚したらそうなるだろ」


 待って待って待って待って。

 トーマがおかしい。なんだか急に、すごくおかしいことを言い出した。

 それとも、あたしの耳がおかしくなった?


 

 目の前で開かれるアクセサリーケースの中には、トーマの瞳と同じ色をした貴石がはまった、シンプルな銀の指輪がある。知ってる。見たことある。あたしの手元にある間、何度も眺めてはため息をついた。学生が買うには高級そうな、明らかに特別な女性に渡すためのプレゼント。


「は? え、これ、……あたしの?」

「他に誰がいるんだよ」

「ら、ライリーさんは!?」

「あいつに興味あるの」


 トーマの瞳に剣呑な光が宿り、ばさり、と打ち付けるように彼の尾が大きく揺れる。


「まあ、リオが嫌なら結婚はしなくてもいいけど、――」


 嫌ならしなくてもいい、と口では言いながら。

 トーマは勝手にあたしの左手をとって、有無を言わさずに薬指へと指輪をはめていく。

 測られた覚えもないのにサイズはピッタリだった。なんで?


()()()()()()()()()()()()()


 理解が追いつかず、萎縮して縮こまるあたしの耳の先に口づけて、トーマはぞっとするほど甘く重たい囁きを落としてくる。


 な、なに? 何が起こってるの? これ。


 

「なんで、あたし……?」

「なんでも何も、俺は猫族の村に拾われた日からずっと、リオのものだったのに」


 そんな、どうして当たり前のことを聞くんだとばかりの言い方をされても、心当たりがなさすぎる。


 まさか、いじめられっ子だったトーマを、あたしが強引に連れまわしてたことを言ってる?

 うそでしょ。これ、そのやり返しってこと?


 復讐、というには、あまりにもまどろっこしくて、熱っぽい。


 不意に、トーマが向けてくる、泥のようなその感情に、名前を付けてしまうことが恐ろしいような気がしてきた。知らずにいられるなら、その方がいいような。


 たしかに、あの頃のトーマは、あたしの言うことを素直に聞いて、依存していたかもしれない。

 でも昔と今とでは周りの環境が全然違う。


「だ、だってトーマ、大人気じゃん。あたし見たもん。アカデミーにも、街中にも、トーマを好きな可愛い子いっぱいいるのに!」

「リオ以外の女の顔なんて覚えてない」

「私のこと、ずっと邪魔だったんでしょ? 全然帰ってこないし、仕事辞めろとか言うし、追い返そうとしてたんじゃないの!?」


 多分そういうことじゃないって、もう薄々わかりながら、気づかないふりをしてあたしは言い募った。

 


「は? なに馬鹿なこと言ってんの? 俺はずっとリオのために我慢してたのに」

「あ、たしの、ため……?」

「リオがふらふらしていなきゃ、もっとバレないようにうまくやるつもりだったのに。リオがどこにも行かないように独占して閉じ込めたかったけど――でも、リオに嫌われたくはないし、自由なリオが好きだから、できるだけ尊重してやるつもりだったんだよ。()()()()()()()()()()


 なぜだろう。あたしの意思を尊重する、と言われているはずなのに。

 トーマの意に沿わない選択は許さない、と言外に思い知らされていくような気分がした。


 もしかして。

 もしかしてだけど。


 あたしが想像していたよりもはるかに、トーマは、あたしのことが――。


「リオが俺を置いて故郷に帰るなんて、許すわけがないだろ。どこまでも追いかけて連れ戻すよ」


 トーマの両手が、あたしの頬を包む。

 優しい手つき。優しい声。

 あたしに対して、トーマはいつでも優しい。


 優しい、のに。


 なんだろう、この感覚。

 まるで微笑みながら、真綿で首を絞められているような錯覚がする、ような。

 なにも強制されていないのに、すべてを掌握されている、ような。


 顔の角度は完全に固定されてしまって、目を逸らすことさえ許されない。

 衝撃でどっかに引っ込んだはずの涙が、油断すると戻ってきそうだ。



「連れ戻すって、そんなの……あたしが黙って街の外まで出ていっちゃったら無理でしょ……」

「関係ない。匂いで追える」

「に、匂い……!?」

「そう。覚えておいて。リオがどこにいても、どれだけ離れても、俺は三日以内にリオを見つける」


 トーマはそう断言して、あたしの首元に鼻をうずめてきた。くすぐったい。こんなに図体が大きくなったのに、すぐに甘えたがる癖は昔のままなんだよなあ。

 

「いくらトーマの嗅覚が鋭くても、あたし、そんな濃い体臭しないよ」

「リオにはわからないだろうな。物心ついた頃からずっと俺にマーキングされっぱなしだったから」


 もう自分の匂いと区別できなくなってるはずだ、と、トーマはとんでもないことをさらりと口にする。


「は!?」

「気づいてなかった? ずっと俺のものだって名札ぶら下げて歩いてたようなものなのに」


 

 クラクラする視界の端で、滅多に表情を崩さないトーマが、ゆるりと満足げに笑っていた。

 待ちわびた獲物を前にして、舌なめずりする猛獣のように。


 彼が笑うたびに、吐息がかかって、いたたまれずに身じろぎする。


「でも人間は鈍いから、目に見えた証を立てないと虫除けにならない。……やっぱり指輪より、鈴つきの首輪とかのがよかったか」

「ゆ、指輪! 指輪でいいからぁ!」


 まずい。トーマは本気だ。この指輪を受け取っておかなければ、強制的に首輪をかけられる未来が見えた。


「そう? でもやっぱり、跡くらいは付けといた方が――」


 首元に顔を埋めたトーマの牙が、そっと肌を撫でる。

 ちょちょちょ、ちょっと待ってここで噛む気? ここでっていうかどこででも痛いのは嫌だけど!


 無理やり抜け出そうともがいたあたしの身体を、トーマが抑え直そうとしたとき――。

 

「はいカット!」

 

 聞き覚えのある声が、高らかに割り込んできた。



 §



「いやーおかげで良い映像が撮れたよ。二人ともありがとう」

「ルナールさん……!?」


 満面の笑みを浮かべながら姿を現した眼鏡の青年に、トーマが舌打ちする。

 その隙に、あたしはようやくトーマの腕の中から脱出できた。何あれ何あれ何あれ死ぬかと思った。

 

「空気読めよ……ライル。お前のせいでリオに逃げられただろ」

「ぜんぶ僕のおかげ、の間違いだろ? 仕事紹介して、講義の代返して、リオちゃんのケアまでしてやったのに。生意気な後輩だな」


 そういえばさっき、トーマ、ルナールさんのこと『ライル』って呼んだよね?


 全然それどころじゃなくて聞き流してたけど、追いかけっこが始まった瞬間にも、そう呼んでた気がする。ライル。ライリー。ルナール。いや待って、いくらなんでも。


 白銀の髪と赤玉の瞳。まるで眼鏡を外した彼を、そのまま女性にしたかのような、儚げな色気に満ちた白狐の美女の名前は、たしか。


「ごめんねリオちゃん。僕が『Riley Renard』なんだ」


 

 その言葉と同時に、ルナールさんの頭の上に、白銀の毛に覆われた一対の狐耳が生えた。鈍いあたしでも、さすがに気づく。


「狐族の、変化――!」


 それがあったかぁぁぁあああ!

 

 あたしがぶつかりかけたとき、狐族の装束を着た美人には、耳も尻尾も生えていなかった。だからトーマとの撮影のときまで彼女が白狐だと確信できなかったのに。すっかり忘れていた。


 自分自身の見た目をごまかす変化は、狐族の十八番。


 まして彼女は、いや彼は? 古い血が濃く現れた白狐なのだから、当然のように声も姿も変えて別人になりすませる。男女の姿を使い分けるなんて、朝飯前だろう。


「いやあ、まさかこんなに気づかないとは思わなくて……白狐ってバレると目立つし『お姫様の血族』っていうイメージが強いから……モデルの仕事は女性(あっち)の姿で依頼されることが多いんだよね、僕」


 優しげな微笑を浮かべて、騙すつもりはなかったんだよ、とライリー=ルナールは言うけれど、もう素直に信用できるわけがない。


「な、な、な、なんで……え? あたしをモデルに誘ったのは……?」

「卒業制作のために、どうしてもトーマと一緒に飛んでる君が撮りたくて。それから、いつも母を楽しませてくれてる御礼、かな」


 待って。情報が。ぜんぜん頭に入ってこない。


「お、母、さま……とは?」

「あのひと、本当は娘が欲しくて、僕に女装を教え込んだくらいだからね。リオちゃんに貴婦人(マダム)って呼んでもらえるの喜んでたよ」

「ま、……貴婦人の不良息子ぉおお!?」

 


 ライリー=ルナールに、あの高層マンションの前で2回も会ったのは、そこが実家だからか。なんで気づかなかったんだ。たしかに貴婦人はおっとりとしたシルバーヘアの美人で、アカデミーに息子がいるって言っていた。


「いやいや不良じゃないよ。ちょっと反抗期なだけだって」


 モデルの仕事をしながら映像制作を学んでいた彼は、アカデミーを卒業するまでは自由にしていいという約束を逆手にとって、満足のできる作品が撮れるまで、わざと留年を繰り返していたのだという。


 なるほど教授に問題児あつかいされていたわけだ。


 トーマという最高の被写体を見つけて以来、男女の姿を使い分けながら口説きつづけた結果が、アカデミー内で目撃されて広まった、あの噂だった。


 今年、自分の卒業を控えたトーマは、婚約指輪を買う資金を貯めるために、ようやく雑誌と個人撮影のモデルを引き受けたらしい。


「ライル。リオは契約に入っていない」

「わかってるよ。だから別口でコンタクトとったじゃないか」

「お前が変に驚かすせいでリオが怪我しただろ」

「元はと言えばトーマが渋るのが悪いのに」


 

 っていうことは、つまり。

 あたしが勘違いで嫉妬してた美女の正体は、ライリー=ルナールという男性で。

 トーマと取引した彼の手のひらの上で、踊らされてた?

 しかも、その様子を、撮られてた?


「じゃあ、トーマが溺愛してる彼女って、いうのは」

「獣人が流した噂でしょ。リオちゃんと一度でもすれ違えば、そりゃあわかるよ」

「トーマがあたしにつけてる匂いってそんなに目立つの!?」


 衝撃の新事実。第三者に匂いを指摘されると、一応うら若き乙女としては、結構ダメージが大きいっていうか。子供のときから無断で積み重ねてくのは、さすがにどうかと思う。


 ムスッと頬を膨らませてトーマを睨みあげてみても、犯人は意に介した様子もなく、涼しい顔をしていた。


「本当に、リオちゃん純粋で鈍くて可愛いよね。こいつ相当タチ悪いよ。執着心のかたまり。まともな獣人なら純血の黒狼のつがいだって一瞬でわかる。もしも君が他の誰かを選ぼうとしたって絶対にうまくいかない。まあ――白狐(ぼく)なら誤魔化してあげられるけど」


 ライリー=ルナールは、悪戯っぽく口の端を上げて、あたしの手を取る。


 「ッライル……!」


 苛立ったように声を上げたトーマが、その手を払いのけて、あたしの身体を引き寄せる。

 

「ほら見ろ本気だ。これが僕を近づけさせたくない理由ってわけ。どうしてもトーマから逃げたくなったら言ってよ――かっさらってあげる」


 どうみても完全に面白がっている、白狐ライリー=ルナールと、ムキになって彼を威嚇する、黒狼トーマ=ランドルフ。二人の間に挟まれて、半ば魂が抜けたような気分でグラグラ揺らされていたあたしは、彼らが目立ちまくる有名人だということをすっかり忘れていた。


 気づけば、周りにはたくさんのギャラリー。

 中には、見知った顔も、ちらほら。

 ここまでのやりとり、ぜんぶ、見られ、て……?


 無数の視線を自覚した瞬間、とうとうあたしは爆発した。


「ぅに゛ゃぁぁぁぁああああ!」

 

 顔から火が出るどころか全身が燃え上がりそうなくらい、真っ赤にそまって、再び逃走。どうせ捕まるってわかってたって、無理なものは無理!


 こうなったら全力で逃げつづけてやるんだから。

 ――子供の頃みたいに、この街の宙を、ずっと一緒に駆け回って。

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面白かったです! 月末ギリギリで投稿したとは思えません! リオが可愛くて、トーマの執着具合も良かったです! エンディングも幸せな気持ちになりました!
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