第九話
エリザ様から返事がきたのは、年も明け、この冬最後だろう雪の降った日だった。
踊り出さんばかりに喜ぶ坊っちゃまを前に、私の胸も久しぶりに暖かいものに包まれた。
やっとエリザ様に会う勇気を持って手紙と花束の配達を再開したのに、会いたいという手紙の返事はいつも体調不良による断りばかり。それどころか、いつの間にか学院も休学しているという。
理由は家庭の事情だそうだが、それについて尋ねる手紙に明確な答えはない。
しつこい自分を避けているのだろうと自嘲しながら、後で激しく落ち込む坊っちゃまを励ます言葉もそろそろ尽きようとしていたのだ。
しかし、ホッとしながらも不安は消えない。
ヒロインの体調不良など原作にはなかった。
何かまた、強制力による私の知らない出来事が起きたのだろうか?
◆◆◆◆◆
どうしても付き添ってくれという坊っちゃまに説得されて、久方ぶりに訪れた伯爵邸。
いつもならすぐに図書室に案内されるのに、今日は応接室に通され、やがてやってきたサラさんは真っ直ぐ二階へ上る階段へ向かった。
思わず振り返る坊ちゃまと目を合わせて、私も首を傾げる。
貴族のお屋敷の作りは何処も殆ど似たようなもの。スタスタ進むサラさんの足は、どう考えても家人のプライベートルームがある方向へ向いていた。
いくら坊っちゃまが跡継ぎの婚約者で、未来の家族でも、こんな奥まった場所にまで踏み込んだことはないだろう。
やがて辿り着いた扉をノックしたサラさんが入室の許可を得て、扉を開き私たちを招き入れる。
そこが何処なのか、否、誰の部屋なのか確信に近いものを抱きながら、扉をくぐる。
日当たりの良い広い部屋。
一番最初に目に入ったのは寝台と、そこに横たわる人の姿だった。
覚えている姿より一回り細くなったような儚い姿で、こちらを見ている寝間着姿のエリザ様と枕元の伯爵夫人。
驚いて足を止めたのは坊っちゃまも同じだった。
驚愕に目を見開く私たちをクスリと笑って、エリザ様は寝台のそばに置かれた椅子を私たちに勧め、夫人に退室を促す。
「こんな姿でごめんなさい、どうぞ掛けて。お母様、後はサラとゴードンがいてくれるから、お仕事に戻ってください」
「でも……」
「ウィルとも久しぶりに会うのだもの、たくさん話したいことがあるの。ね、お願い」
弱々しい声で強請るように言うエリザ様。
娘のおねだりに一瞬辛そうに顔を顰めた夫人は、しかし黙って立ち上がり、挨拶も忘れて呆けている坊っちゃまの前で足を止めると、深く頭を下げてから侍女を伴って部屋を出て行った。
残されたのは、エリザ様と坊っちゃまと、私とサラさん。いつものメンバーになって、エリザ様がもっと近くにと私たちを手招きする。
その手が細くて……あまりに細くて、また驚く。
淑女の細さではない、病的なそれが何かとんでもないことが起きているのだと判らせる。青白い手に導かれ、呆然としていた坊っちゃまを用意されていた椅子に座らせた。
坊っちゃまの後ろから覗き込んだエリザ様の顔色は、白いを通り越して青く、生気の乏しいもので……。
同じものを見て息を飲んだ坊っちゃまは、唇を戦慄かせながら聞いた。
「一体、どういうことなんだ?」
詰問するような口調なのに声が震えている。
「原因不明なの」
「いつから……」
「秋口だったかしら? なんとなく怠い日が続いて、お医者様にも見て頂いたんだけど、季節の変わり目だし、少し疲れているのかもとしか言われなくて。薬も飲んでいるのだけど、一向に良くならなくて」
「こんなの……、聞いていない」
「ええ、言ってないもの」
「エリザ!」
「だって心配を掛けるでしょう? 本当は今日も来て欲しくなかったけど、何度も手紙が来るから…………我慢出来なくなっちゃった」
それまで何でもないように話していたエリザ様の視線が坊っちゃまに固定されたのが判った。そして、病の所為か潤いをなくしてカサカサになった唇から零れたのは、涙混じりの声。
「……本当は、ずっと……会いたかった、ウィル」
そう言ったエリザ様の水色の瞳は見る見る濡れて、やがて透明な雫が目尻から滑り落ちる。サラさんが押し当てたハンカチを受け取ったエリザ様は、その陰に隠れるようにしてしゃくり上げ始めた。
「薬を飲んでも、ちっと良くならなくて。何人も、お医者様にみて、貰ったのに、原因っ、判らないのっ。そのうち、どんどん身体が不自由になって、もう一人じゃ、何も、出来ない」
「そんな……」
しゃくり上げながら零すエリザ様を見つめ、言葉を失う。
こんな展開、私は知らない!!
どうしてヒロインであるエリザ様がこんな目に?
「ごめん、なさい、ごめんなさい! ウィル……」
泣いて謝るエリザ様を前に、坊っちゃまが腰を浮かして何かを言いかけて、慌てて両手で唇を覆い、彼女から目を逸らす。
こんな時までっ……。
最愛の女性が病を得て泣いていても、エリザ様に向けて慰めの言葉を掛けることも、労りを態度で示すことも、坊っちゃまには出来ない。
なんという惨い呪いか!!
見開いた青い目を涙に濡らしながら飛び出そうとする暴言を堪えている顔を見ていられなくて、思わずその肩を掴み、視線を私へ向かせた。
「じい……」
「私が聞きます。ですから、お心のままに話して大丈夫です」
私の意図を察したのだろう、一度私と視線を合わせてから、呼吸を落ち着けた坊っちゃまは瞼を閉じてエリザ様を見ないまま呟く。
「私もずっと、会いたかった。でも、返事が来なくて、避けられているものだとばかり思っていて、……遅くなってすまない。こんなことになってるなんて」
「ううんっ、隠して、断って、たのは、私だもの。すぐ、治ると思ってたの。なのに、全然良くならなくて、学院も通えなくなって……手紙も書けなくて、ウィルに話すこと、たくさんあるのに」
ごめんなさい、もう一度謝ったエリザ様は、しゃくり上げながらゲホゲホと咳き込む。すかさずその背を擦るサラさんと目が合い、彼女に問いかけた。
「どういう状態なのですか?」
「お嬢様の言ったとおり、何人ものお医者様に見て頂いたのですが、原因がさっぱり判らないのです。その間にすっかり弱ってしまわれて」
「痛みや熱などは?」
「何もないそうです。原因が判らないことには薬もなく、出来るのは食事代わりの栄養剤を出すことだけだそうで……」
「……毒などは?」
「我が家にそのような不心得者はおりません! ……が、そういったことも考えて、お嬢様が口にするものはすべて私や奥様が毒味しています」
なのに、同じものを飲んで食べても、夫人やサラさんに変化はなく、ただエリザ様だけが弱っていく。
最初は微熱を伴う軽い倦怠感だけだったのに、いつの間にか起き上がることも億劫な程身体が重くなっていて、食事も満足にとれなくなったそうだ。医者もただ緩やかに衰えていくような症状に心当たりはなく、手の施しようがない。
だから、一縷の望みを賭けて、転地療養を考えているとエリザ様が言ったのは、全員の涙が一旦収まり、サラさんが紅茶を入れてくれた後だった。
「体調が良くなるまで、家族で領地へ戻るつもり」
決意の籠もった言葉の意味に気付いて、坊っちゃまがカップから視線をあげる。
「だからウィル、貴方との婚約も解消するわ」
ガチャンと音を立ててソーサーごとカップを落とした坊っちゃまを慌てて立たせる。幸い、中身はもうなく、カップも柔らかい絨毯に受け止められて割れていなかった。
拾い上げたそれをサラさんに渡す間も、会話は続く。
「……それは、一体どういうことだ」
「……そんな酷いこと、私の口から言わせないで」
目を逸らしたまま何処か遠くを見て言うエリザ様に纏い付くのは、どうにも拭いようのない陰鬱な影。
あんなに溌剌と輝いていた少女に差す<死>という陰りと、それに対する覚悟が明確に見えた。
そんなはずはないと頭の奥で誰かが叫ぶ。
彼女はこの物語のヒロインなんだ。
その彼女にこんな不幸が起きるわけない。
彼女の幸せは最初から約束されている。
彼女に幸せが訪れないはずがない。
彼女には<幸せ>が……。
考えたとき、何かが胸を刺し貫いた。
嫌な予感に息が上がって、胸が苦しい。
まさか……。
思い至って愕然とする私のそばで、二人の会話が進んでいく。
「ウィル、貴方とはお別れよ」
「ふざけるなっ、何勝手なことを!!」
「……ふふ、久しぶりに会話が噛み合ってる」
「エリザ!」
「戻る約束は出来ない。私を待たないで、ウィル。学生の今なら新しい婚約者を探すのも難しくないでしょう? だからここでお別れ」
「何故私がお前の思い通りになどっ、そんな勝手は許さない!!」
「………………お願い、……これ以上、言わせ、ないで……」
頑なな坊っちゃまから目を逸らしたまま、肩を震わせ俯いたエリザ様は両手で顔を覆う。
その指の、手首のなんと細いことだろう。触れたらポキンと音を立ててしまいそうな細い指の隙間からポタポタと落ちる涙。
同じものを見た坊っちゃまが、思わずエリザ様に手を伸ばしたのが判った。しかし、その手は凍り付いたように止まる。
優しい言葉を掛けることも……。
抱きしめて慰めることも……。
涙を拭うことすら、坊っちゃまには許されないのだ……。
悔しそうに顔を歪めた坊っちゃまは、何かを振り切るように唸り声を上げると、踵を返して部屋を飛び出していった。
「坊っちゃまっ!!」
「待って、ゴードン」
追いかけようとした私を、エリザ様の声が止める。
振り返ると涙目でこちらを見つめる水色の瞳と目が合った。こちらへ、と手招きされてベッドに近寄る。
「これ、何か判る?」
枕元から取り出されたのは手のひらに収まる小さな巾着袋、匂い袋だろうか?
何が入っているのか、パンパンに膨らんだそれは、シルクだろう艶やかな光沢の水色の布に繊細なレースの飾りと青糸で細かな刺繍が施されている。
エリザ様がそっと口を縛ったリボンを解くと、カサカサの茶色い何かの破片が零れた。
「ウィルが私にくれるバラの、花びら。毎回乾かして、一輪づつ継ぎ足してきた、私の宝物。…………これがあれば、私は頑張れる。だから……ウィリアルドに希望を待たせないで、励まさないで。幸せに、なって欲しいの。私の、最後のお願い、ウィリアルドをよろしくね、ゴードン」
零れてしまった花びらを震える指先で巾着に戻しながら呟くのは、私の性質を理解しての懇願だった。
確かに私は坊っちゃまを追って、追いついたら、今彼女が言ったとおりのことをしただろう。坊っちゃまを叱咤激励し、エリザ様を諦めないよう説得し、共に未来につながる道を探した。
それをするなと彼女は言う。
坊っちゃまの<幸せ>のために。
坊っちゃまの幸せを、私以外にもこんなに願ってくれる人がいる。
その人は坊っちゃまの最愛の女性で。
なのに!!
坊っちゃまが<幸せ>になるために、最愛の人を諦めるよう説得することが、彼女の願い。
熱くなった目頭を隠すために深く腰を折り、震える声を絞り出した。
「申し訳ございません。エリザ様のお願いでも、私には、お約束出来ません」
「貴方の坊っちゃまの幸せのためよ」
「坊っちゃまの幸せは……、私ではなく、坊っちゃまが自身で選び取るものです……」
「では、そうなるよう導いて。貴方になら出来るでしょう?」
放たれた言葉に震えはなく。エリザ様の声に宿るのは、貴族として、次期当主として培った、揺るぎない威厳だった。
お願いではなく、命令。
怖々顔を上げると、見開かれた水色の目が私を射貫く。
涙に濡れて、でも雫は絶対に落とすまいと堪え、瞬きしない強い目が、行け、と私に命令の遂行を命じていた。