第八話
あのまま部屋に閉じこもっていた坊っちゃまから呼び出しを受けたのは、次の日の昼だった。
その頃には私の気持ちも随分落ち着いていて、どんな質問を受けても包み隠さずすべて答えようと決めていた。
入室を許可されて中に入ると、昨日と全く同じ姿でソファーに座る坊っちゃまがいた。たった一日でこけたように見える頬と目の下の隈が、彼が晒された苦悩を伝えてきて、思わずまた目頭が熱くなる。
それをぐっと堪えて、努めていつも通りに声をかけた。
「お食事を召し上がっていらっしゃらないので、軽食と紅茶をお持ちしました。どうか召し上がって下さい」
「ああ……忘れていた。ありがとう、じい」
サンドイッチやスコーンをテーブルに並べ、最後に湯気の上がるカップを差し出す。一口紅茶を飲んだ坊っちゃまは、ほう……と随分長い溜息を吐いて、やがて青い目をやっと私に向けて、少し笑って言った。
「ああ美味い。餓死なんて、私には到底出来ないな」
「坊っ、ちゃま」
冗談でも死ぬなんて、そんなこと言わないで欲しい。
ただ唇を戦慄かせるしかない私をどう思ったのか、緩く首を横に振った坊っちゃまは掛けてくれ、と昨日レオナルド様が座っていた席へ私を促す。
覚悟を決めて、真正面から向かい合った。
「じいは、私の本当の母を知っているのか?」
「はい、私が最初にお屋敷を辞する前、最後に採用したメイドでした」
「メイドか……父上も無体なことをなさる」
坊っちゃまの生みの母は平民に近い男爵家の娘で、貴族学院に通っている最中に実家が傾いて、卒業を待たずに奉公に出ることになった少女だった。
少し気の毒な気もするが、貴族とは名ばかりの家にはよくあること。そういうときは、せめて将来箔が付くよう、なるべく高位の貴族の家に働きに出て、足りない教養を実践で学ぶのだ。
メイドとはいえ王家の次に高貴な公爵家に採用されたのだから、彼女は優秀な女性だった。……否、優秀すぎたのかもしれない。だから、公爵様の目にとまってしまったのだろう。
「母は私を産んだ後、どうしたんだ?」
「奥様の指示で裕福な商人に嫁いだそうです。……お会いになりたいですか?」
「……いや、いい。もう十年以上経っているのだ、今更会いに来られてもあちらも困るだろう」
苦笑して緩く首を横に振る坊っちゃまの目に想像していたほどの憂いはない。無理をしている風でもなかった。
「そんな顔をするな、じい。昨日は取り乱してしまったが、長年の疑問がやっと解けて、思った以上にすっきりしているんだ」
「……申し訳ありませんでした」
「謝るな、子供に簡単に言えるわけないのは判る。それに、私は充分幸せに生きてきた。じいや、エリザのおかげでな」
ありがとう、と穏やかに言う坊っちゃまはもう、かつてアニメで見たウィリアルドとは別人だった。
造形は同じでも、日焼けもして逞しくなって、精悍な風貌は貴公子というより騎士のようで……。
ああ、坊っちゃまはもう大丈夫だ、と唐突に思う。
この方はもう、私が先回りして露払いをしなくても、ご自身の力で運命を切り拓いていける。あの破滅の未来の、その先を、己の足で生きていけるそういう男に成長したのだ。
ずっと記憶にあった、閉じた鉄扉の向こう側に去って行く後ろ姿。薄汚れた格好で、力なくとぼとぼと去って行く背中には絶望しかなく。
でも、今の坊っちゃまなら同じ状況でもきっと胸を張って、力強く一歩を踏み出す。伸し掛かる絶望に潰されたりなど、しない。
きっと、大丈夫。
私の坊っちゃまの未来は変わった。
ストンと納得した瞬間、ぼろっと音を立てて涙が落ちた。
最初の一粒、それから次々と。熱い滴りが頬を伝わり、止まらない。
「じいっ、どうした!?」
私の涙に驚いて、乱暴にカップをテーブルに戻した坊っちゃまが駆け寄ってくる。
「じいどうした! 何処か痛むのか? ……いや、私の所為か? 本当にじいが謝る必要はないんだ。確かに昔は、どうして父上や母上が私に会ってくれないのか、どうして私だけここに住んでいるのか疑問だった。
でも、ここにはじいがいた。他の使用人も、昔は意地悪をするやつもいたけど、じいがちゃんと判ってくれるものだけにしてくれただろう? だから私は、誰恨むことなく過ごせたんだ。
それに、エリザとの仲を取り持ってくれたのもじいだ。じいがいなかったら、エリザと仲良くなるなんて無理だった。きっとエリザの一度目の人生のまま酷いことばかりする婚約者になっていて、彼女に嫌われていた。
じいが私に仕えてくれたことは、私の人生で最上の幸運だ。じいに私を預けてくれたことと、エリザを婚約者に選んでくれたことだけは父上に感謝してるんだ」
他にも……と、私を励まそうとして次々紡がれる言葉のすべてが胸を打って、涙は止まるどころかどんどん酷くなる。最終的に私は、昨日の坊っちゃまのように俯き顔を両手で覆って嗚咽した。
隣の坊っちゃまが混乱しているのが判っても、声を出すことが出来ない。こんなじじいが泣きじゃくるなんて、なんて無様で、みっともない。こんな姿、先代執事だった養父に見られたら、きっと酷く叱られる。
判っているのに、涙が止まらない。
前世の記憶を思い出した日からずっと、私はあの映像を回避することだけを考えて、それが坊っちゃまの<幸せ>につながると信じて生きてきた。
このままエリザ様とヒーローの邪魔をせずに婚約を解消して、原作を騙しきってエンディングを迎えれば、きっと坊っちゃまは破滅しない。何も失うことなく、穏やかに公爵令息として生を全う出来るはずだ。
……だが、それで本当に坊っちゃまは<幸せ>になれるか?
ずっと問うていた答えを、私はやっと見つけた。
否!! 最早今生、エリザ様なしに坊っちゃまの<幸せ>はあり得ない!!
たとえ原作通り二人が結ばれないのだとしても、エリザ様との関係にけじめをつけないまま終わりを迎えたら、絶対に後悔する。
幸せなエリザ様を見つめ、切ない顔をする坊ちゃまの姿がありありと想像出来た。
それでは破滅せずに生き延びたとしても、<幸せ>にはなっていない。
なら、どうする?
どうすれば坊っちゃまは幸せになれる?
私の願いはただそれだけ。
それ以外は望まない。
考えろ。
坊っちゃまのために。
この方のより良い未来のために。
……否。
もう考えるな、私。
未来とか、破滅とか、そんなことではなく。
私が信じるべきなのは、過去の記憶ではなく。
今日ここに至るまで積み重ねてきたものだ。
例えば、この先何が起きてもそれは、坊っちゃまが好きな女にアタックして振られるだけの、ただそれだけのことではないだろうか?
エリザ様を諦めきれなくてみっともなく縋って、真実のヒーローに撃退され、公爵家から放逐されることになるなら、破滅も坊っちゃま自身の選択の結果だ。
必死で足掻いて、でも手に入らなかった恋情の悔しさに悶えることは、よくある青春の一ページではないか。その結果、どうしようもない強制力も相まって破滅したとしても、今の坊っちゃまなら乗り越えて、ちゃんとその先を生きていける。
坊っちゃまは私が用意しなくても、自分の手で<幸せ>を手に入れられる。
その強さを、持っている。
私はそれを信じる!!
強く思い、涙を拭って、跪く坊っちゃまの手を取る。
私も床に跪き、同じ目線で聞いた。
「昨日レオナルド様におっしゃったことは本気ですか?」
昨日? と首を傾げられ、慌てて言い直した。
「エリザ様との婚約のことです」
「……ああ。もちろん本気だ。こんな歪な婚約、ここまで破綻せずにきただけで奇跡だ。エリザにも随分無理をさせただろう。だから、もう彼女を解放する」
心底愛する人を手放すと決めた坊っちゃまの目は少し濡れていて、でも痛みを抱えながらもその顔は穏やかだ。
多分、レオナルド様から聞かされた噂話が結論を急がせたのだろう。
これ以上婚約を引き延ばせば、もっとエリザ様の評判に傷が付く。だから坊っちゃまは黙って身を引くことを選んだのだ。
判っている。その気持ちは過ぎるほどに判る。
だから、訴える声が止まない。
「坊っちゃまはそれでよろしいのですか?」
「よろしいも何も、じいも聞いただろう。噂になるほど……エリザは彼に夢中なんだ。私の入る隙などない」
「本当に?」
「ああ」
「あのエリザ様が?」
「……じい?」
「あのエリザ様が不義理を働くなど、私にはとても信じられません」
私は十年近く、坊っちゃまと共に、彼女のことも見てきた。
だから、坊っちゃまと同じくらい、エリザ様のことも信じている。
何故なら、坊っちゃまの幸せのために原作改変に挑んだ私の、最初の味方がエリザ様と言っても過言ではないからだ。
坊っちゃまからの謝罪の手紙を携えていったあの日。一番辛い目に遭ったはずの彼女が、私の言葉を信じて、もう一度坊っちゃまに会う勇気を持ってくれたから、ここまで未来は変わった。
すべてはあの日私を信じてくれた彼女のおかげ。
ならば、今度は私がエリザ様を信じる番だ。
私の知るエリザ様は恋に浮かされ、婚約者を蔑ろにするような女性では絶対にない。
ましてや彼女は人生二回目。
一度目の人生でウィリアルドに酷い目に遭わされた彼女は、二度目でテオバルトに淡い想いを抱いても、ウィリアルドと同じ穴の狢にはなるものかと。婚約がなくなるまでは決してその気持ちを認めはしなかった。
原作でもそうだったのだ。
今の、坊っちゃまと良好な関係を築いているエリザ様が、坊っちゃまに黙って他の男への恋を育てるとは思えない。ましてやそれを他人に悟られ噂になるなど……絶対にあり得ない。
「もし本当にその方に夢中になっているのなら尚更、エリザ様は必ず坊っちゃまにもはっきりおっしゃって、筋を通そうとなさるはずです」
「それは……だが、言いにくいことだろうし」
「いいえ、エリザ様は筋の通らないことが大嫌いです。特に不貞など、あの方から最も遠い言葉。疑われただけで烈火の如くお怒りになられるでしょう」
そもそも、一度目の人生でウィリアルドに裏切られ傷つけられた経験から、エリザ様が略奪や浮気などの裏切りを最も嫌うのは坊っちゃまもご存じのはず。
私の揺さぶりに、坊っちゃまは眉間に皺を寄せて考え込む。
「ああ……だが、しかし、エリザのあの顔は、恋する女にしか、見えなかった。エリザのあんな表情、私は知らない」
どんな顔を思い出しているのか、坊っちゃまは苦しそうに眉根を寄せて、視線を下方に落とす。それを、握った手を引いて上げさせた。
「坊っちゃま、目にした事実だけが真実ではないはずです」
「どういう」
「坊っちゃまは身をもって経験なさっているでしょう」
「……え? は? まさかじいは、エリザも私のような状態だとでも……」
「そうではないと言えますか? エリザ様には何も確かめていないのでしょう?」
「そうだが……私だけでなく、エリザにまで呪いなんて」
「ない、と誰に言い切れます。現にエリザ様は生き直しまで経験なさっているのです。これ以上どんな不思議が起きても私は驚きません」
まさか……と呟きながらも、青い目に戸惑いと疑念が過ぎる。
いけると確信して畳みかけた。
「私の知っているエリザ様は坊っちゃまと婚約を結んでいるのに、堂々と他の男と噂になるような行動をとる方ではありません。坊っちゃまも、本心ではそう思っているのでしょう? けれど、ご自身に自信がないから確かめられない。確かめて事実が真実であったときに傷つくのが怖い。
それは判ります。しかし、もし違ったら? 誰にも本心を理解してもらえず、誤解されるのがどれほど辛いかは、坊っちゃまが一番ご存じでしょう? エリザ様にも同じ思いをさせるのですか」
ハッと瞳を瞬かせる坊っちゃまをただ見つめる。
エリザ様が機転を利かせて執り成してくれなかったら……坊っちゃまは、学院入学後原作通りの目に遭っていたはずだ。
原作では、起こるイベントは同じなのにヒロインの立ち回り方が違うだけで周囲の見方が変わり、一度目は分不相応な婚約にしがみ付いている愚か者とヒロインが責められたのに、二度目ではウィリアルドが、なんの瑕疵もない婚約者を虐げ蔑ろにする愚か者と、後ろ指を差され嘲笑された。
人生二度目のエリザ様にはそう立ち回ることも出来たのに……輝く笑顔で、坊っちゃまのどうしようもない暴言や粗野な態度を素直になれない男子の愛情表現にしてしまおうと提案してくれたこと、私は忘れない。
ウィリアルドに酷い目に遭わされたのに、彼女は今生の坊っちゃまを見て信じて、坊っちゃまの名誉を守るための行動を選んでくれた。
そんな彼女が意味もなく坊っちゃまを裏切るはずがない。必ず理由がある。
原作を知っている私だから言えることだが、私の提案は、ない……とは言い切れない疑念だと思う。
何故ならこれはヒロイン<エリザ>のための物語で、彼女には幸せになるための確かな道が最初から用意されている。
それが、嫌な婚約者であるウィリアルドを撃退して婚約を解消し、ヒーローであるテオバルトと結ばれること。
その道から外れることがエリザ様自身にも許されないのなら、彼女にも強制力が働いても不思議じゃない。
坊っちゃまと同じように、エリザ様もテオバルト相手には原作通りにしか振る舞えないとしたら?
心と体がチグハグな動きをする違和感にずっと苦しみ続けた坊っちゃまなら、その苦痛が誰より判るはずだ。
「まさか、エリザにも呪いが……」
私の指摘に戸惑いながらも、もしも……を考える青い目にやがて決意の炎が灯るのが見えた。
「判った、エリザに確かめよう。じいの考えすぎで、エリザが本当にあの男を好きになっていただけだとしても、それなら私が傷つくだけだ。身勝手な婚約破棄よりずっといい」
そうだろう? と笑う坊っちゃまの、なんと男らしいことだろう。
格好良いと、私ですら思わず照れてしまう晴れやかで爽やかなこの笑顔が、かつてエリザ様が零したように、たくさんの女性の心を掴んでいるのだろう。
この笑顔を、エリザ様に向けられるようになってほしいと思った。
彼女を前にしてもこうやって笑っていられる坊っちゃまを見たい。
二人が笑い合える未来を、共に歩みたい。
無意識に願う自分に少し驚いた。
お二人が結ばれないことは決まっていると知っているのに……それでも願ってしまった。
坊っちゃまの幸せと同じくらい、今生きているエリザ様の幸せを。
澄んだ色を取り戻した坊っちゃまの青い目を見つめながら手を引き、改めてソファーに掛けさせた。
「先のことなど、エリザ様の本心を聞いてから考えればいいのです」
「ああ、そうだな。それにしても、じいはいつも本当に凄いな。私はもう、私がエリザのために出来ることは婚約を解消することだけだと思っていたのに……ありがとう、じい。じいがいてくれて良かった」
「当たり前です、私は坊っちゃまの執事。私が願うのはいつでも、私がお育てした坊っちゃまの幸せです」
潤んだ目で笑う坊っちゃまにハンカチを差し出し、食事を促してから退室した。
そして坊っちゃまの身支度を近くにいたメイドに指示し、ほう……と長い溜息を吐く。
多分、私という異分子を孕みながらも、物語は原作通り進もうとしているのだ。
だから、もしかしたら私もまた、強制力によって破滅の道へ坊っちゃまを引き戻してしまっただけなのかもしれない。
だとしても。
坊っちゃまの<幸せ>が何か判った今なら、私はそこに向かって進んでいく物語を否定しない。たとえ、この行動によって坊っちゃまがエリザ様に振られて、原作通りに破滅するのだとしても……。
それはもう彼を<不幸>にする出来事ではない。寧ろ考えるべきは、その後の人生をどう生きるかなのだ。
坊っちゃまの<幸せ>は坊っちゃまが決める。
思ったのと同時に、蘇ったのはエリザ様の声。
『私、今のウィルのことが好きよ。出来れば、今度こそ彼とずっとずっと一緒にいたい』
ふふっと恥ずかしそうに笑った彼女を知っている。
ヒロインの<幸せ>もまた、今を生きる彼女自身が決めれば良いと、私は思う。