第七話
最近坊っちゃまに溜息が増えた。
そう感じたのは、秋も深まり、朝夕に冷たい空気が流れ始めた頃。
どうしたのか聞きたい気持ちはあった。だが、原因に予想もついていたから、話す気になるまで放っておくことにした。
……多分、とうとう現れたのだろう。
エリザ様の、真実のヒーローが。
その前に登場した女狐については、既にお二人が対処済みで、終わった話になっているらしい。私も内容は詳しく聞いていないが、二人で対処できたならそれはそれでいいと思っている。
しかし、ヒーローについては私にはどうしようもない。
どうやっても、これはエリザ様のための<物語>なのだ。
彼女が幸せになるための布石として用意されているイベントを回避する方法を、私は知らない。
多分、相手の名前を伝えて出会うな構うなと牽制してもそれは意味がない。
強制力とはそういうもの。
物語の構成上、彼女たちは必ず出会う、そして……。
今日も学院から戻って憂い顔で窓辺に佇む坊っちゃまが痛ましいと思っても、私にはこれ以上どうすることも出来ない。
私の最初の望みは、坊っちゃまの幸せだった。
即ち、破滅の未来を回避すること。
ただそれだけ。
だから、生き直しているエリザ様と坊っちゃまを結びつけるつもりは端からなかった。
そんなことを頼める立場でもないのも判っていたし、彼女の邪魔はしない代わりに、坊っちゃまも人並みに生かしてくれ……そう願った。
内面的なものではあるけど、既に私の望む原作改変はされている。
これ以上を望むべきではない。
これ以上何かしたら、表に出る齟齬や歪みが大きくなりすぎて、もっと強力な強制力が働くようになるかもしれない。そしたら、私の想像もつかないことが起きて、強引に元の流れに戻されるかもしれない。
そして坊っちゃまは……。
今のまま、エリザ様と友好的な関係を続けてエンディングへ進めば、坊っちゃまの破滅は回避されると思う。
……だが、果たしてそれが坊っちゃまの<幸せ>なのか、それが問題だ。
レオナルド様から坊っちゃま宛てに面会の先触れがあったのは、そんな葛藤に胃を痛めていた頃だった。
レオナルド様は坊っちゃまの兄上で、正真正銘公爵家の嫡子。彼は両親と本館に住んでいて、別館の坊ちゃまを訪ねてくることなど今までなかった。
……多分彼は、母親から兄弟の真実を知らされているのではないだろうか。
だから、たった一人の弟にも構わないのだろう。そこにある情がどんなものかまでは判らないが、レオナルド様は自分の行動が及ぼす影響を知っているのだと思う。
なのに、彼がやってくる。
何事だろう。
物語の外の登場人物の行動にハラハラしながら彼を迎えた。
半年違いの兄弟の面差しはよく似ていた。
……ということは、坊っちゃまもレオナルド様も互いの母親より公爵様に似ているらしい。よく似た二人が、実は異母兄弟なんて誰も思わないだろう。
もし、二人が一緒に育っていたなら……。
束の間の妄想を、レオナルド様の声が遮った。
「単刀直入に聞く、お前はエリザ嬢とテオバルトの噂は知っているのか?」
ああ……やはり。
誰もいなければ天を仰いで大きな溜息をついていただろう。
そうすることも出来ずに坊っちゃまを見れば、美貌の顔面を歪めて異母兄を睨んでいた。
男爵家の次男、テオバルト。
それが、物語のヒーローの名前。
下位貴族でありながら同級生の王子殿下にその能力を認められた側近候補で、文武両道。しかも坊っちゃまに勝るとも劣らないイケメン。
彼は坊っちゃまより一つ上で、レオナルド様の同級生だ。
原作では、一度目二度目問わず、学院でウィリアルドがエリザを虐げる場面によく出くわし、彼女を気遣い助けようとするそぶりがあった。
しかし一度目のエリザは彼の助けの手に気付きながらも、様々なしがらみにとらわれてそれを拒む。彼と目が合うたび、何故か痛む胸を抱えながら、エリザは彼から目を逸らし続けた。
そして二度目。
エリザは、かつてと同じ場面でテオバルトと出会い。自身の胸で燻る想いに気付いて、今度は躊躇わずに彼の手を取る。そして彼に、そうとは知らず愛され守られながら学生生活を謳歌し、最終的に二人は結ばれる。
二人の出会いは必然。
避けられるものではない。
レオナルド様のいう噂というのもその類いのものだろう。
「……知っています」
「では、どうする気なのだ」
チラリと坊っちゃまがこちらを窺うように見た。
私の存在を気にすると言うことは……あまりいい話をするつもりはない。判りながら素知らぬ顔で壁際に控え続けた。
「婚約を……解消しようと思っています」
やはり………今度こそ私は天を仰いだ。
こうなるのもまた強制力なのだろう。
坊っちゃまとエリザ様は決して結ばれない。
それは変わらないのだ。
「お前はそれでいいのか?」
「結婚前から不貞を働くような女、妻には相応しくありませんので」
「お前は………」
呆れたような溜息をついて、レオナルド様が額に手を当てた。
「お前とエリザ嬢の話は私でも聞いている。彼女が今学院でなんと噂されているか知っているか?」
坊っちゃまは小首を傾げ、首を横に振る。
「男を手玉にとる悪女だ」
「なっ、何故エリザがそんな」
「当たり前だろう。彼女はお前の婚約者。その上お前たちは、表面上はどうであっても、互いを想い合う似合いの二人だと学院でも評判だったのだ。
なのに彼女は別の男になびいている。素直になれないお前の態度を差し引いたとしても、婚約者がいながら他の男に乗り換えた女が悪いとなるに決まっているだろう」
「そんなエリザが悪女なんて……」
「違うのか?」
「違います! 彼女は本当に優しい素晴らしい女性なんです。優しい言葉一つかけられない私にずっと、付き合ってくれた、本当に優しい女性なんです」
「優しい女性が不貞を働くのか」
「出会ってしまったんです、彼女の本当の運命に……」
何を思い出しているのか、苦悩を浮かべた坊っちゃまは胸を押さえ、唇を噛んで俯く。
私の胸も鋭く痛んで……予感していたこととはいえ、坊っちゃまが辛いと私も辛い。慰めることも出来ない我が身が呪わしい。
そんな私たちの前で、思いっきり溜息を吐いたレオナルド様は、坊っちゃまと同じ青い目に怒りを滲ませて言い放った。
「馬鹿か、お前は。とにかく我が家からあちらに正式に抗議するからな」
「やめてください! 私はそんなこと望まない!!」
「お前が望まなくても、こんな仕打ちを許せるわけないだろう。これは我が公爵家に対する明確な侮辱だ」
「どうせ私のことなどどうでもいいのに、こんな時だけ……」
「お前のためではない、我が家のためだ。誰がどう思っていようと、お前は私の弟で、私に何かあったときにはこの家を背負っていくもの。弟を侮辱されたままで黙っていられるか!」
「……兄、上?」
「母上はお前を泥棒猫の子だという。だが、お前が猫の子に生まれたいと願ったわけではないだろう。ましてや、その猫に手を出したのは父上だ。未だ許していない母のおかげで、私にはお前以外兄弟もいない。……誰がなんと言おうと、お前は私のたった一人の弟なのだ」
苦い顔で言うレオナルド様があまりに真剣だったから、私も気付くのが遅れた。
ただ、見つめる先で坊っちゃまが目を見開いていく。
「……私が、泥棒猫の子?」
聞き返す声で、ハッとした。
取り返せない事態に陥ったと気付いたのはその直後。
同じように目を見開いたレオナルド様も呆然としていた。
「お前、まさか……、何も知らないのか?」
レオナルド様が信じられないという顔をしてこちらを見る。私にはその目を真っ直ぐ見ることが出来ず……黙って目線を下げた。
「だから、ここで、一人で……、母上も、父上も」
目を見開いたまま呟く坊ちゃまの声が遠い。
「だから、か……」
声に宿ったのは確信。
瞬きの間に正気に戻った坊っちゃまは、レオナルド様と私を見て言う。
「じい、兄上、今は、一人に」
「坊っちゃま……」
「頼む……」
俯いて両手で顔を覆った坊っちゃまの逞しい肩がか細く震え始めても、私には何も言えなかった。
どう言葉を繕ったところで、積み重ねてきた事実は変えようがない。
すぐそこの本館に家族がいるのに、一人別館で使用人に育てられた事実。
答えはいつでもそこにあって、坊っちゃまが必死に見ないようにしていた現実がこうして向こうからやってきた。
遠ざけておけなかった自分の不甲斐なさに、私の目からも勝手に涙が溢れて……深く頭を下げ、レオナルド様を促して部屋を出た。
◆◆◆◆◆
「どういうことだ!! 何故あいつは何も知らないんだ!?」
彼も動揺しているのだろう、廊下に出てすぐ、レオナルド様に襟を締め上げられ壁に押しつけられた。
「何も知らせずにお育てするよう旦那様に命じられました」
「だとしてもっ……」
「幼い頃は疑問に思っていらっしゃったようですが、何処かでウィリアルド様なりに折り合いをつけられたのでしょう。ご自分のお立場についてはっきり問われたことは、今まで一度もありませんでした」
言いながら思い出した。
そうだ、坊っちゃまにも、父母を求めて泣いた頃があった。
それを妻と二人、嘘を吐いて宥めたのはいつまでだった?
祝い事の度に渡される予算で妻と頭を悩ませて贈り物を選んでも、贈り物より父上と母上に会いたいと泣いていたのはいくつの時までだった?
いつのまに坊っちゃまは、あんなに聞き分けのいい子になった?
『ばあやとじいがいてくれて私は幸せ者だな』
輝く笑顔で言ってくれたのは、妻を失うほんの少し前。
あの頃にはもう違和感に気付いていたのだろう。だから、必死にそちらから目を逸らし、真実に触れないよう背を向けて、自分を守っていたのかもしれない。
そして、エリザ様に出会い。
エリザ様と伯爵家の皆様が坊っちゃまを未来の家族として受け入れてくれたことで、坊っちゃまは、目の前にあっても自分は入り込めない公爵家という家族よりも、自らの努力で得られる未来の家族のために生きることを選んだ。
それでも心の何処かに凝っていた<真実>。
自分は正式な公爵家の一員ではないと今日確信してしまった。
そう告げれば、レオナルド様は坊っちゃまとよく似たお顔を苦悩に歪め、それもまた坊っちゃまと同じ金色の髪を片手で乱す。
「ならば……ならば尚のこと、今度のことは手酷い裏切りではないか!!」
幼い日から家族となることを夢見ていた相手。
手に入るはずだった<家族>が、ここまできて手のひらからすり抜けようとしている。それはどれほどの絶望だろう。
それに追い打ちをかけるように、残酷な真実を告げてしまった自分の迂闊さに取り乱して、レオナルド様は拳を壁に叩き付ける。
その手を慌てて掴んで止めると、レオナルド様も泣いていた。
「……ゴードン、信じてもらえるか判らないが、私はウィリアルドも当然真実を知っているものだと思って、だから、私とも距離を置くのだと。
だが、たとえ母親が違っていたとしても、ウィリアルドも公爵家の一員で、誰がなんと言おうと私の弟だと……弟を蔑ろにされて黙ってはいられないと、そう、伝えたかったんだ。なのに………すまない、こんなことになって、本当に、すまない」
「判っております。レオナルド様が坊っちゃまのために怒って下さったのは」
「すまない、すまない、ゴードン。すまない、ウィリアルド……」
そのまま力を失って蹲ってしまうレオナルド様を支えきれずに二人で廊下に座り込む。俯いて謝罪を繰り返すレオナルド様の背中をさすりながら、ならば……と願ってみた。
「ならばどうか、最後まで坊っちゃまの自由にさせてあげて下さい。そしてどんな結果になろうとも、レオナルド様はウィリアルド様の味方でいて差し上げて下さい」
「ああ、約束する。絶対、何があろうと私は弟の味方をする。私は絶対に、ウィリアルドを裏切ったりしない」
「ありがとうございます」
何があろうと、誰に非難されようと、坊っちゃまはエリザ様の意思を尊重しようとする。
それが坊ちゃまの想い。
もし仮に拒んでも……二人の婚約破棄は<物語>で決まっているのだ。
それは誰にも変えられない。
私事ですが、お盆前に長年愛用していたワープロ様(笑)が壊れまして、ポメラに移行することになりました。
プロットも書き溜めも全部消えてしまいまして、益々更新遅くなりますが、頑張っていきますのでよろしくお願いします。
評価、ブックマークありがとうございます。
連載中にランキングに入ったのは初めてで、大変嬉しいです。今後も期待を裏切らないよう頑張っていきます。