第五話
そうやって始まった坊っちゃまとエリザ様の交流。
最初は困難だらけだった。
エリザ様は人生二回目でも、坊っちゃまはただの幼児。
二人が齟齬なく筆談を行う壁は余りにも高かった。
最初の頃は私が付きっきりで坊っちゃまの言葉を代筆した。ままならない会話のもどかしさで坊っちゃまが声を荒げてしまうことも何度もあったのに、エリザ様は根気強く付き合ってくださった。
感謝する私に、人生二度目のヒロインは達観したまなざしで、首を横に振った。
『怒鳴る言葉が本心じゃないって判ってるから平気。あれはウィルの所為じゃない、ウィルは何も悪くないんだから謝罪はいらないのよ、ゴードン』
穏やかに見守ってくれるエリザ様の協力もあり、坊っちゃまは信じられないスピードで学習していった。
与えられる課題を次々こなして知識をスポンジのように吸い込み、どんどん賢くなっていく様には家庭教師も舌を巻いていて、やがて公爵様が用意する教師はより専門的な教育者に変わった。
……それに一抹の不安を覚えても、ただの使用人である私にはどうすることも出来ない。
坊っちゃまの学びの目的は、あくまでエリザ様とスムーズに筆談をすること。
それ以上など求めていないのに……嫌な誤解が生まれないことを願う。しかし、私には坊っちゃまにストップをかけることも出来ない。
何故なら……。
『早くエリザと自分で話がしたい。いつまでもじいに代筆して貰うのは恥ずかしいだろう、婚約者との会話なのに……このままじゃ内緒話も、出来ない』
恥ずかしそうに口を尖らせる坊っちゃまは、どうやら本気でエリザ様のことを女性として意識し始めたようだ。
そのせいで、最初に筆談しようとした日。エリザ様に、私が嫌いですか? と聞かれ、ごまかすことも出来ずにく<好き>としか書けなかった自分を恥じているらしい。
本当に、お可愛らしい感情。
好きな子と話をしたい。
他人に抱く特別な感情を知ったばかりの子供が願う、当たり前のこと。
それが困難だから、坊っちゃまは必死に努力しているだけなのだ。
その気持ちを殺ぐようなこと、出来る訳ない。
だからせめて、何処から入るか判らない横槍を私が警戒し、いざと言う時はこの身を賭けてでも二人の関係を守ろうと思っていた。
やがて、涙ぐましい努力の果てにやっとエリザ様と齟齬なく筆談出来るようになった坊っちゃまは、本当に嬉し楽しそうで、私も我が事のように嬉しかった。
お二人の逢瀬はいつも伯爵家の図書室。
最初の頃は公爵家と伯爵家を交互に行き来していたが、いずれ坊っちゃまは婿に入るのだから、早めにあちらの家に慣れた方がいいと進言して、坊っちゃまが通うだけにしてもらった。
お二人はいつも向かい合って座って、紅茶を飲んだり本を読んだり、互いにゆったりしながら、時々ノートに言葉を書き付けては相手に見せるだけ。一緒にいる間、直接言葉を交わすこともなければ、視線を合わせることもない。
……多分それは、普通の婚約者同士のお茶会とは違うだろう。でもこれが二人の見つけた最上の交流方法なのだ。
光景の異様さを知られないよう、その場には私とエリザ様のねえやだった侍女しか立ち会わない。これはエリザ様と坊っちゃまの意思。
そうやって何年もかけて仲を深め、二人は互いを思いやる<友>になった。
だからだろう。エリザ様がご自身の抱える最大の秘密を打ち明けてくれる気になったのは……。
すべては坊っちゃまの努力の成果だ。
お二人が十三歳になる年。
貴族学院の入学が迫った日のお茶会で、エリザ様は私もテーブルに呼んで座らせ、大事な話があると告げた。
そして一息で、言う。
「実は私、一度死んで、同じ人生を生き直してるの」
驚く私たちに、質問は後で聞くからまずは話を聞いてと、エリザ様は一度目の人生を話し始めた。
それはもちろん私の知っているアニメの話に他ならない。しかし内容は判っていても、こうして親しい生身の人間から聞くからだろうか、生々しい体験談は他人事として割り切るには重く。
ましてや相手は、私にとっても大切な人になったエリザ様に起きたこと。
彼女の不幸を聞くのは、強制力によってエリザ様を罵倒する坊っちゃまを初めて見た時と同じ感覚で、胸が痛くて堪らなかった。
すべてを語り終え、ほうっと長い息をつくエリザ様の細い肩が震えているようで、言葉を紡がずにいられなかった。
「お辛い体験をなさったのですね。信じて打ち明けてくださり、ありがとうございます」
「……ゴードン、信じてくれるの?」
「もちろんです」
しっかり目を合わせて頷けば、不安に揺れていた水色の瞳からぽろりと綺麗な雫が落ちる。
信じるも何も、私はこの世界の原作を知っているのだから疑うはずもない。
寧ろ、私が驚いたのは彼女が自分から秘密を打ち明けたことに対してだ。
それだけの信頼を勝ち取った坊っちゃまが誇らしい。
坊っちゃまが変わったから、彼女も私たちを信じようと思ってくれたのだ。
その信頼に応えたい。
そう思って坊っちゃまを見れば、彼は突然腰を浮かせて怒鳴った。
「そんな馬鹿な話信じられるか!!」
久し振りに怒鳴り声を上げた坊っちゃまは、ああ!! 唸り声を上げて、すぐさま手元のノートに走り書きする。
違う、ごめん、全部信じる。私がすまないことをした! 何度でも謝る、だから泣かないでエリザ!!
乱れきった字を見てクスリと笑ったエリザ様は、目尻に溜まった涙をそっとハンカチで拭った。
「ありがとう二人とも、こんな馬鹿げた話を信じてくれて。私も自分のことじゃなかったら信じない。でも本当のことなの、サラにだけはずっと昔に話していたんだけどね」
サラ、と呼ばれたエリザ様の侍女は、壁際で黙ったまま睫を伏せている。彼女が最初からこの話を知っていたとしたら、本心では坊っちゃまとの交流を快く思っていなかっただろう。
けれどそんな素振りはおくびにも出さずに、エリザ様の意思を尊重し私たちを歓待してくれていた。まさに使用人の鑑。
敬服の意味を込めてペコリと頭を下げると、彼女も小さく頭を下げる。
「それでねウィル、ここからが本題よ」
「何がだ」
「今言ったでしょう。私はこれから婚約者に相手にされない可哀想な令嬢として、学院で嘲笑され侮られるのよ」
そうだ。
一度目、彼女はそれで同級生からいじめを受ける。
婚約者のウィリアルドはエリザに対しては愚かであったが、欝陶しいことに小賢しい男で。公爵令息で外面の良い彼がエリザの不出来を嘆くだけで、周囲は実態を知らないままエリザを侮った。
まだ婚約者に期待を抱いていた彼女は、精一杯彼の期待に応える婚約者であろうと学業に邁進していく。しかし、上位の成績を取れば取る程ウィリアルドの心は離れ、態度はもっともっと冷たくなっていった。
当然だろう。
劣等感の塊のウィリアルドが欲しかったのは自尊心を満たす、自分より下位の存在。優秀な婚約者を誇ることなどない。寧ろ、エリザが自分を飛び越して上位成績者になったと知った時は口を歪めて罵り、果てはカンニングの噂を流して、更に貶め、孤立させた。
無実を訴えるエリザの声は誰にも届かない。
ちゃんと状況を把握すれば、エリザの成績は実力の結果だとか、ウィリアルドの言動に問題があるとか、すぐに気付くのに、誰もそれを指摘しない、出来ない。
味方のいない状況に追い詰められ咽び泣くエリザと、それを嫌らしい顔で嘲笑う多数の人間の映像が頭を過ぎった。
「表面上ですら仲良く出来ない私たちはまた不仲だと思われて。私は、不出来で、貴方に相応しくないのに縋りついてる、みっともない令嬢って皆に笑われる」
「エリザ!! 今すぐその不愉快な口を閉じろっ」
「判ってる、貴方のそれが本心じゃないことはちゃんと私は知ってる。でも他人が見るのはこうして私を嫌悪して罵倒する貴方なの」
忌ま忌ましそうにエリザ様を睨んで怒鳴りつける坊っちゃまを冷静に諭すエリザ様の様は、憎み合って言い争っているようにしか見えない。
これが他人の目に映る事実。
<真実>が何処にあっても、<事実>はそれなのだ。
同じことを思い知った坊っちゃまは、エリザ様から目を背け、顔も背け、髪に手を差し込みグシャグシャに乱しながら力を失ったように頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
……しかし、何故かそれを見つめるエリザ様の目は輝いている。
「だからねウィル、私も色々考えたのよ。何も全部を否定しなくてもいいんじゃないかって。昔お父様たちにも良く言われたし……」
「……どういうことでしょう?」
うふふと悪戯を思い付いた子供のように笑ったエリザ様は、出会った頃より随分伸びた巻き毛を科を作って肩の向こうに流しながら、胸を張って宣言した。
「ウィルは、私のことが好きで好きでどうしようもなくて素直になれない、正に男の中男、ってことにしましょう」
「…………は?」
「大好きな私を目の前にしたら本心は言えない、寧ろ反対のことばかり言っちゃう、どうしようもない男子なのよ、貴方は」
顔を上げた坊っちゃまに、どう? と聞くエリザ様の顔はキラキラしていた。
即座に坊っちゃまは唾を飛ばす勢いで怒鳴った。
「馬鹿なっ。何故私が、お前なんか!!」
「そうそう、そんな感じ! 上手よ、ウィル」
パンと手を打って満面の笑みで褒めるエリザ様を見て、苦虫を噛み潰したような顔で黙った坊っちゃまは、俯き小さく唸る。その耳が真っ赤に染まっているのは、思わず見つめ合ってしまったエリザ様の満面の笑みに本気で照れているからだろう。
余りにもそのとおりで……失礼ながら笑ってしまった。
「そのようにしか見えませんな」
「でしょう! だからウィル、学院で私をどんなに酷く罵倒しても気にしないで。代わりに毎日手紙を頂戴」
私の忍び笑いを聞き付けて余計に焦ったのだろう。坊っちゃまはテーブルに手を叩き付けて、本気で怒っている顔でエリザ様に食ってかかる。
「何故私がっ、お前なんかにそんな下らないことを!!」
「……って言ってるウィルが、実際は毎日私に手紙と花束を届けてるのよ。それを知って、誰が事実を信じるの? 貴方はただ照れ屋なだけで、本心で私を嫌ってるんじゃない。私はそれをちゃんと知ってる婚約者ってことにすれば、うまくいくと思わない?」
「貴様、ふざけるのも大概にしろ!!」
怒鳴られても意に介さず、さりげなく花束を追加要求してくるエリザ様のしたたかさに、ホッと胸を撫で下ろす。
きっとこの作戦は上手くいくだろう。
……否、エリザ様がそう取り繕ってくれる。
人生二度目のヒロインの度胸に、深く深く感謝した。
隣の坊っちゃまは怒りで顔を真っ赤にして口をパクパクしている。色々言われ過ぎて思考が追いついていないのだろう。
スッとノートを差し出し、坊っちゃまに早く本心を書くよう促した。すぐさま、怒濤の勢いで何かを書いたり消したりして、エリザ様に差し出す。
エリザ様は、笑ったり眉をしかめたりしながらそれを読み、ノートを坊っちゃまに返した。
チラリと見えたのは、ごめんとか、君の名誉がとか、ありがとうといった単語の数々……なのに、エリザ様と真面に見つめ合って坊っちゃまが現せる感情は、ほとんどが怒気と嫌悪感だ。
今も薄く笑うエリザ様を嫌そうに睨んでいる。
婚約者同士とはとても思えない顔で見つめ合って、背筋を伸ばしたエリザ様はもう一度言葉にした。
「ウィリアルド、外で貴方がどんな言葉で罵倒してきても私は絶対信じない、貴方の手紙を信じるわ」
言って、フワリと笑うエリザ様のなんと美しいことだろう。
出会った頃の可愛らしさに、人生二度目の年不相応な淑女としての矜持があわさり、得も言われぬ雰囲気を醸し出していた。
同じものを見て、多分坊っちゃまは照れた。
嫌、見惚れたのかもしれない。
それを<強制力>が、悪感情に変える。
苦々しく顔を歪め、心底嫌そうに舌打ちして、身体ごとエリザ様を避けた。
不自然な体勢のままでも、坊っちゃまは力強く綴る。
絶対毎日書く。
花束も。
エリザ、ありがとう。
「ありがとう、ウィル」
嬉しそうに笑うエリザ様と憎々しい顔をした坊っちゃま。
ああ、早く、お二人が笑い合える日がくればいいのに……。
たとえそれがどんな形であっても……。